ポンコツ山田.com

漫画の話です。

『アオアシ』思考の省エネ化と、アシトと北野の俯瞰の目の話

 高校ユース決勝。青森星蘭戦がついに決着を迎えた『アオアシ』27巻。

 最新刊の発売日ですし、激戦の結末をここでは書きませんが、主人公アシトの今までが集約した結果だったとだけ言っておきましょう。

 さて、その上で何を書きたいかというと、27巻にてアディショナルタイムの最中、アシトと青森星蘭の司令塔・北野が、インナーワールドで交わした言葉について。その言葉の中身は、二人が共に持つ俯瞰視点です。

 U-18の合宿中にたまたま見ていたエスペリオンの試合の映像で北野はアシトが俯瞰を持つことに気づき、またアシトも、星蘭vs船橋戦で北野が俯瞰を持つことを悟りました。そんな二人が初めて激突したこの決勝戦でのアディショナルタイム、覚醒したアシトと北野は、上空からすべてを見渡せる鳥の目を持つ者同士の会話を繰り広げました。
 その中で強く印象に残ったのが、北野のこの言葉。

例えば近くの選手は、何も意識しなくたって視える。だって近いんだから。
だから、近くの選手はユニフォームの色とかで、ぼやっと残像だけ残しておいて、
実はその向こうの選手を、透かして見てる・・・・・・・

(27巻 p85)

 これの何が印象に残ったって、前に本作と絡めて書いた、言語化と身体化に通じるものがあったからなのです。
 去年書いた記事(『アオアシ』サッカーとアドリブの、言語化の先の身体化の話 - ポンコツ山田.com)で

考えて、考えて考えて――…
するとな、「いろんなことがいずれ考えなくてもできるようになる。
そうしたら、ようやくそれが自分のものになる」って。

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12巻 p185

 という花の言葉を引用して、ジャズのアドリブは、コード理論やそれに基づいた運指等を何度も繰り返し練習し、身体にしみこませることで、実際に進行していく演奏の中でプレイできる、と述べました。

いわば、すでにまとめてある思考をあらかじめパッケージングしておく、あるいは圧縮しておいて、必要に応じてワンアクションでイメージ全部を解凍し元の形に戻すのです。
その場でいちいち考えない。考えることは既に終わらせておく。そうして、状況に応じて、用意してあったパッケージを呼び覚ます。
これが「頭で考えるより先に、体が、勝手に動き出す」に近いことだと思うのです。

 これは思考の省エネです。
 同時に複数の情報を処理するために、ワンアクションで解凍できる圧縮ファイルを事前にいくつも作っておいて、状況に応じて必要なファイルを解凍する。そうすることで、情報の並行処理の精度を高め、また解凍したファイルの実行も適切に行えるようにするのです。
 アドリブを例に言えば、種々のコードになじむ様々なフレーズをわずかに意識するだけで演奏できるように練習しておいて、実際の演奏中に、コード進行やバッキングの盛り上がり方に応じて適切なフレーズを選んでプレイする。そうすることで、バッキングや自分自身が今まさに演奏している音、演奏した音、これから演奏したら盛り上がりそうな音に意識を配れるのです。

 で、その思考の省エネに通じるのが、まさに北野の言ったこと。
 「意識しなくたって視える」近くの選手は、「ユニフォームの色とかで、ぼやっと残像だけ残してお」く。そうすると、それの認識ために食っている自分の意識の容量を削減できる。それで空いた容量で、「向こうの選手を、透かして見てる」。より多くの情報を並行して処理できるようになります。
 「それができるようになったら、さらに向こう、フィールドの彼方。それこそ敵GKのところまで…透かすようにして見」えるようになるというのが北野の弁ですが、アドリブもそうです。意識しなくたってできるフレーズは、一音一音を意識するのではなく最初の音や音の動きをぼやっとイメージに残しておく。そうすることで、今まさに鳴っている音や、これから鳴るであろう音、さっき鳴った音にまで、より広く意識を延ばせるのです。
 
 練習の目的は極論すれば二つ。
 一つ目は、できないことを意識すればできるようになること。
 二つ目は、意識すればできることを意識しなくてもできるようになること。
 この二つです。
 勉強でもスポーツでも芸術でも、およそあらゆるものに通じる話だと思います。

 言語化とその先の身体化の考え方は、即応的な身体運用の話でとらえていましたが、アシトや北野の持つ俯瞰の目、状況の捉え方にも当てはめられるものなのだと、27巻でのエピソードで気づきました。
 こういう風にものの考えが広がっていくの、楽しいですね。



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『よふかしのうた』人と吸血鬼 夜と昼 別物のようで地続きにある世界の話

 最新刊で吸血鬼vs探偵の話も一区切りの『よふかしのうた』。

 吸血鬼とはどんな存在なのか、その中でもナズナはどんな吸血鬼なのか、というところに踏み込んだエピソードでした。
 吸血鬼を敵と憎む探偵・鶯アンコこと、目代キョウコ。
 ナズナの初めての友達。
 ナズナの初めての眷属候補。
 そんな彼女が激情と冷徹な計算の狭間で襲いくる様に、吸血鬼と人間の深い溝を感じましたが、エピソードがひと段落しての彼女とナズナのコミュニケーションには、そんな溝など本当にあるのだろうかとも思いました。
 
 吸血鬼と人間。捕食者と被捕食者。決して相容れない存在であるように思える両者でありますが、その実そんなことないのではないでしょうか。

 人間と吸血鬼に限りません。本作では、一見まったくの別物に思えるものも、それらは別次元の隔絶したものではなく同次元の地続きにあるもので、それらが現れる地点が互いに遠く離れているからまったくの別物に見えている、というものが多くあります。

大人と子供

 たとえば、大人と子供。
 そもそも10巻で回想されたそのシーンで私はこの考えを思いついたのですが、コウが酔っぱらったキョウコの介抱をしているシーンで、彼女の気を紛らわせようとコウは自分の話をします。

俺、学校ではまあまあ優等生だったんですけど まあ、色々あって嫌んなっちゃって今この有様で

夜、いつもみたいに歩いてたら、学校の先生とばったり会っちゃって

その先生、あんまり好きじゃなかったんです でも、夜に会った先生は、先生じゃないみたいで、お酒も飲んでてすごく話しやすかった

最近、本来なら出会うことなかっただろうなって人と知り合えて 色んな大人がいるんだなって 俺、大人ってもっとはっきり子供とは違う生き物なんだって思ってたんです。

ちゃんと俺達の延長にいるんだなあ。
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(10巻 p139、140)

 このコウの思い出話は4巻第35夜での出来事ですが、このときにコウは、大人も「俺達の延長」にいるんだと気づきました。大人は、子供がある日突然生まれ変わって別の存在になるわけではないのです。

 法律上の成人年齢とか、成人式とか、元服とか、人が社会的に大人とみなされるきっかけはありますが、それはまさに大人と「みなされる」ということ。大人という肩書を与えられることにすぎません。その肩書をつけなければいけない場、たとえば法的な権利の行使や、職業としての立場、まさに教師として生徒の前に立つときなどでは、大人としてふるまいますが、その肩書が必要とされない場では、必ずしも「大人」らしくあるわけではないのです。
 したたか酒を飲んだ夜の帰り道なんて、そこはもう私人の領域。たまさか生徒と会ったからといって、すぐに教師の、大人の肩書を取り戻せるものでもありあせん。むしろ、時には重苦しささえ感じるその肩書を積極的に外したりもします。

先生だってな 夜は先生じゃないんだよ。
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(4巻 p99)

馬鹿言え こんなこと言うの夜だけだよ。
(4巻 p107)

 このように、担任教師とコウは夜の公園で、普段学校でお互いが身に付けている教師と生徒、大人と子供という肩書、あるいは関係性を下ろして、思いもよらない会話を繰り広げました。
 ただ、コウと教師が出会うシチュエーションは多岐に広がりますが、そのすべてで肩書が外れるわけではありません。
 昼間なら。
 夜でもほかの人のいる街中なら。
 教師が酔っぱらっていなかったら。
 状況のグラデーションで、コウと彼の態度はいかように変わったでしょう。
 それゆえの、「一見まったくの別物に思えるものも」「同じ地続きにあるもの」なのです。

吸血鬼/人

 そもそも、この作品の肝の存在である吸血鬼も、人間とは別物のようでありながら、その実近しい存在です。
 たしかに吸血鬼は、歳をとらず、銃で撃たれても死なず、血を吸う、人とはまるで存在の強度が異なる生物ですが、彼や彼女は(真祖とナズナのような例外を除けば)元人間。吸血鬼として活動していくと人間のときの記憶は忘れていくようですが、それは人間としての社会常識や倫理観、あるいは言語を忘れるわけではありません。おそらくエピソード記憶に類するものが消えていくのでしょう。

 吸血鬼は人間よりもはるかに強いですが、人間よりもはるかに少数派。それゆえ、人間を捕食しなければ生きていけなくても、人間全体を支配下に置くことができるわけではなく、むしろ吸血鬼の方が人間社会に紛れ込んで生きています。これができるのも、吸血鬼が人間社会で暮らせるだけの常識や倫理を持ち合わせているから。自分たちは人間とって忌避すべきものであり、それゆえ自分たちの異常な特性を隠さなければいけないと理解しているから。
 生物としての吸血鬼と人間はまるで別物であっても、(互いの同意の上ではなくとも)同じ街で共存できるくらいには、同じ社会的地平に属するものなのです。

 また、人間時代の自分の血を吸うことで記憶を保持しているカブラや、同じ吸血鬼からも異端視されているキクがいるように、吸血鬼の中でも個々の在りように差があります。それは、人間個々人の在りように差があるのと同じことです。
 人間が、人間というカテゴリーの中で広く分布しているように、吸血鬼は吸血鬼というカテゴリーの中で広く分布する。ならば、そのはじっこ同士の差はいかほどのものなのでしょう。

夜/昼

 本作は、学校に行けなくなったコウが夜の世界に足を踏み入れたことから始まりますが、その夜と昼の差も、考えている以上に明確ではありません。
 もちろん日の出日の入りというわかりやすい境目はあります。ですがそれは所詮定義の話。日の出直後の朝はまだ暗く、日の入り直後の夜はほの明るい。朝にもまだ夜は居残り、夜にも昼は浸食しています。

 自然現象の上での明るさだけでなく、人間社会ゆえの明るさや人の流れも、夜と昼で明確に分かれるわけではありません。都会と田舎(これすら地続きの概念んですが)で夜の深さは違いますし、大みそかやお祭り、あるいは大規模なスポーツの大会などの祝祭によっては真夜中にすらその静けさはありません。
 コウが「ここには僕しかいない」と「そんな錯覚」(1巻p12)できるような夜は、いつもそうだとは限らないのです。

 上で、人間と吸血鬼の、カテゴリー同士のはじっこの差と言いましたが、考え方はそれと近しいものです。人間と吸血鬼が生物として明確に違うように、昼と夜も日の出日の入りで明確に線は引けますが、その引いた線のあたりにはぼんやりとしたあいまいな領域が広がっているのです。

恋/友情

 さらに言えば、コウが吸血鬼になるためにナズナに恋をしなければいけないという条件がありますが、この恋とはどのような感情なのでしょう。
 恋愛と友情は同時に成立しないという話は巷間に流布していますし、そうするとその二つは相反的なもののように思えます。現に、コウはナズナに対して強い友情を覚えているようですが、ナズナに血を吸われても吸血鬼になっていない以上、恋をしているわけではないようです。
 しかし、10巻で登場したプルチックの感情の輪。
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感情の一覧 - Wikipedia-Plutchikの感情の輪 作成者:Doomdorm64)
 8種類の基本感情と24種類の応用感情がありますが、この中に「愛」はあっても恋や友情はありません。それはおそらく、恋も友情も、「恋愛」や「友愛」という言葉で表せるように、愛の一形態だからなのではないでしょうか。

 それゆえ、恋愛と友愛で表出した形が別ものであっても、その根源には共に愛があり、それがどこで分かたれたものか、明確に指摘することはできませんし、現に現れているその中にも、恋愛の中に友愛が、あるいはその逆が入っていないとも限らないのです。いえ、共に同じ愛だというのなら、一切入っていないという方がむしろ不自然なのではないでしょうか。
 現に、セリと、彼女の眷属となったメンヘ…あっくんの関係は、元々友達から始まったものでしたが、「友情が恋慕に変わる事は珍しくない」(4巻 p5)というように、感情が変化していきました。

 人が吸血鬼になるためにいかなる恋をしなければいけないのか。なれるものとなれない者がいる以上、そこには明確に違いはあるのでしょう。しかし、その違いがどこにあるのか、外からこれだとはっきり言えるものではないと思うのです。吸血鬼になった後で事後的に、「いろいろなことがあったけど、君はわたしに恋をしたんだね」と、恋愛の情を持ったことが判明するものなのではないでしょうか。

おまとめ

 以上、いろいろと例を挙げてきましたが、普段私たちが別物と認識しているものは、まったく別次元に存在しているというわけではなく、同じ次元の遠い場所に存在しているものだと言えるのでしょう。
 人と吸血鬼は、子供と大人は、恋と友情は、昼と夜は、間の壁を乗り越えるものではなく、知らずの内に変わっていくもの。いつの間にかそうなっているもの。TPOで変わりうるもの。
 世界はソリッドに分かれているように私たちはつい思ってしまいますが、もっとずっとシームレスで、ぼんやりしてて、明確な境界線がありそうでない世界に生きているのです。
 たぶんそれは、敵と味方もそう。普通と異常もそう。
 本作は、夜と昼を、人と吸血鬼を行き来するコウの目で、それを見せられる作品なのかもしれません。



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戦乱渦巻く世界で始めたのは酒場経営!?『異剣戦記ヴェルンディオ』の話

 異剣。
 それは特別な力を秘めた武器。ある剣は巨大な城門を一撃で破壊し、ある剣は持ち主に雷光のごとき速さを与え、またある剣は竜巻を起こして一軍を薙ぎ払う。
 そんな異剣が巷に溢れた、異剣戦争と称される戦乱の時代、傭兵稼業で暮らしていたクレオには夢があった。それは平穏で安定した生活を送ること。マイホームをもち、畑を耕し、家畜を飼い、自給自足の日々を送る、ささやかで、戦乱の世にはあまりにも高望みの夢。
 一度は買ったマイホームも戦乱の中で壊され、途方に暮れていた彼だったが、旅の途中で会った亜人の少女・コハクと共に見つけたのは、荒野にぽつねんと建つ荒れ果てた古城。それを見て閃くクレオ
 ここを拠点に酒場を経営すれば夢がかなうんじゃね?
 こうして戦場の酒場経営が始まった……

 ということで、七尾ナナキ先生の『異剣戦記ヴェルンディオ』です。
 七尾先生の前作『Helck』のアニメ化が先ごろ発表されましたが、現在連載中のこちらも面白いぞというレビューです。

 1巻の帯には「拠点防衛ファンタジー」とありますが、傭兵だった主人公クレオが、たまたま見つけた古城を拠点に、長年の夢だった平穏な暮らしを求めて酒場を経営するのがこの作品。
 クレオには功成り名を遂げようだとか、大金を稼いでぜいたくな暮らしをしようとか、そういう夢はありません。ほしいのは平穏な暮らし。安定した暮らし。
だいそれたものではなくとも、極貧の幼少期を過ごした彼にとってその夢は何よりも欲しているものです。
 傭兵という危険な稼業に身を投じていたのも、学も元手もない彼にはそれが一番手っ取り早かったから。平穏を求めるためにそれと対極にあるような世界に身を投じなければいけないのも皮肉な話ですが、それも戦乱の世の常です。

 戦場から逃げ出した先で古城を見つけたのは全くの偶然ですが、そこの地下に極上のお酒が貯蔵されていたことをヒントに、酒場経営を思いつきました。
 辺鄙なところにある酒場のありがたさは、傭兵時代の経験からクレオ自身が思い知っています。だから、こんなところに酒場があれば、近隣諸国の戦士たちが喜んで寄っていくだろうと。
 畑を耕し、水を引き、酒場を建て、こうしてDIYの酒場経営が始まったのです。

 と、ここまではクレオの物語。この物語にはもう一人、コハクという主人公がいます。
 狐のような大きなケモ耳を持つ亜人の少女・コハク。登場時から一貫して不思議な雰囲気を漂わせて、クレオにつきまといます。出会ったばかりにもかかわらず命さえ救ってくれる彼女にクレオはかえって不信感を抱きますが、コハクは詳しいことは何も言わず、ただ彼を守ろうとするのです。
 いまだに明かされない彼女の目的ですが、ちらほらと垣間見えてはいます。それを一言でいうなら
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(1巻 p72)
 地の果てまで剣が大地に突き刺さった、あまりにも不吉な世界。それをコハクは未来と呼び、クレオにそれを変えてほしいと言うのです。
 この未来はいったいなんなのか。なぜコハクにはそれが見えているのか。クレオがどうすることで未来が変わるのか。それはわかりません。
せいぜい推測できるのは、突き刺さった剣がおそらく異剣なのだろうということくらいです。異剣により猖獗を極めている世界の果てがこのように暗鬱としたなものであるなら、変えたいと思うのは当然でしょう。
 コハクはこのビジョンをクレオには伝えていませんが、彼が生きていれば未来を変えられる可能性があるとして、彼女はクレオを守ろうとするのです。

 こうして、平穏な暮らしを求めるクレオと、未来を変えようとするコハクの、まるですれ違っているようで実は求める先は同じ生活が幕を開けるのでした。

 本作の魅力の一端なんですが、戦乱の世界を描いており、また実際に派手なアクションシーンもありながら、平穏な生活を夢見て地に足をつけて生きているクレオの生きざまが、作品に不思議な安定感を与えて、いい意味でフィクションというか、別世界観というか、安心して読める空気を醸し出しています。感情移入できる面白さとは違うんですが、自分とは関係ない遠い世界を見てる感じなんですよね。それが全然悪くない。
 一緒に酒場をまわす仲間も登場してくるんですが、彼や彼女も確固とした目的があったりなかったりですが、この酒場を盛り立てようという意思があるので、基本的に酒場経営エピソードはまじめで楽しいんです。お酒の場は楽しくてなんぼですからね。
 それでいて派手なアクションシーンや野望に燃える人間模様もあるから、その対比が面白い。3巻時点で物語の重要なところはほとんど明かされていませんが、妙に安心感があるのです。

 第0話(プロローグ)は以下のリンクで読めるのですが、実は以上縷々書いてきたレビュー、この0話のクリティカルなところにはあえて触れていません。ぜひ実際に読んでみて、この続きを気になってみてください。
urasunday.com



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『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』と『チ。』に見る、先人が積み重ねた知への敬意の話

 マガポケで連載している『転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます』。

 長いんで以下『第七王子』と略しますけど、そのタイトルから察されるとおりいかにもなろう小説的な、転生によりチート能力を得た人間が好き勝手する話ではあるんですが、意外、というと失礼でしょうが、『チ。―地球の運動について―』などに見られる、知の積み重ねに対する敬意が作中のそこかしこで表れているのです。 今日はそこらへんを書いていきます。

 まず『第七王子』の内容は、タイトルそのまま。まあ異世界からの転生ではなく、魔術バカの庶民の魔術師が、同じ世界の中のサルーム王国の第七王子・ロイドとして、人間の枠を軽くぶっちぎった魔力をもって転生したものなのですが、その名もない魔術士が前世で息絶える寸前の願いが

あぁ… なんて… なんて…
素晴らしい!!
コレが…全てに恵まれた…貴族の魔術…!! 熱い…痛い…綺麗だ!! 素晴らしい!!
願わくば… もっと… もっと……
学びたかった…極め…たかった…
魔術を…
(1巻 p4,5)

 これ。
 不興を買った貴族の魔術を食らって焼け死にながら思うことが、魔術への称賛であり、学びきれなかったことへの悔恨でした。それくらい魔術バカ。
 そんな彼が、裕福な国の王族、それでいて王位継承には絡まない末席の第七王子として生まれてやることは、ひたすら魔術を学び極めんとすること。

地位も名誉もどうでもいい 前世から俺のスタンスは変わらない…
即ち…この王宮にどれだけ俺をワクワクさせる『魔術』が有るか否か…
俺の興味はそれだけだ…!!
(1巻 p12,13)

 贅をこらした生活に溺れるでなし、酒色に耽るでなし、王位を狙うでなし、ただただ魔術を極めようとする。
 逆に言えば、魔術のためなら、かつて王国を滅ぼしかけたという魔人を封印から解くわ、勝手に王宮を抜け出してマジックアイテムをとりにいくわ、暗殺者ギルドに忍び込むわ、魔人のさらに上位存在である魔族に喧嘩売るわ、次元の壁を突き抜けて天界に行くわと、やりたい放題です。
 
 そんな魔術バカのロイドですが、魔術バカであるだけに、先人の築き上げてきた知や技術の集積としての魔術に、最大限の敬意を払っています。

人は弱い…不自由と共に生きてきた だから何処までも積み上げてきた…魔術もそう…
空が飛びたい 火を出したい ……一つ一つ込められた術式には人の夢が根幹にある
故に無限だ 魔術は無限に面白い……!!
(4巻 p140)

 人は弱く、不自由で、有限の存在である。だから「ああしたい」「こうなりたい」という夢を形にしようと魔術を組み上げ、それをまた次の人間にバトンタッチし、その人間が魔術を洗練したり、改良したり、新たな術式を組み上げたりする。人間が弱く不自由である限り、その歩みが止まることはなく、それゆえに魔術は無限に広がっていくのだと。
 この点は、生まれながらにして強大な力を持つ魔族と対比的に言及されています。

獅子は牙と爪を用いる事に疑問を持たない… 不自由を感じた事がないからだ… だから単調でつまらない
お前の技はどれもそれだ… 大層お強く生まれたようだが…それだけだ
(4巻 p139)

 人間を軽く超える魔力を持つ魔人をはるかに凌駕する魔力を持つ魔族・ギザルムを相手に、ロイドが言い放った言葉です。
 「大層お強く生まれた」魔族や魔人は「不自由を感じた事がない」がゆえに、自らの持つ強さに注意を払わず、同様に他者の強さにも敬意を払いません。
 魔獣の親を殺して子を洗脳して操った魔人や、技術を研鑽した人間の身体を乗っ取りその能力を我が物のように使った魔人がいましたが、そこにはその対象に対する敬意は一片もありませんでした。

 人間の組んだ魔術。人間の磨き上げた剣術。人間の練り上げた気術。
 これらはただ一人の人間によってなしえるものではありません。多くの人間が少しずつ少しずつ、増やしては削りを繰り返しながら一つの体系として完成度を上げていくのです。

 この人間と魔族(魔人)、すなわち、弱いがゆえに積み重ねる者と、強いがゆえにただそのままである者の対比の象徴は、ギザルム戦のロイドの勝因でしょう。
 ギザルムに能力を乗っ取られた暗殺者ギルドのボス・ジェイドが、それまでコントロールできなかった自身の能力を、この後自分の能力を乗っ取るであろうギザルムと戦う誰かのために、術式として「丁寧で読む者に優しく」「綺麗に整頓」しておいたことが、ロイドがギザルムを倒す決定的な要因となったのです。

最後の瞬間……ジェイドは影狼の術式化を完全に終えていたんだ
そして託した いずれ戦う事になるであろう誰かに…… 必ず難所になるであろう影狼の攻略法を
(5巻 p33)

 次の誰かに託す。知をつなげる。
 人間の、人間ゆえの能力で、ロイド(とジェイド)はギザルムに勝利したのです。

 知の集積。他者へ伝えるための体系化。
 これは、拙ブログで『チ。』について書いたときにも登場した考えです。

こうして、社会的に許されないその考えは、背教者一人の妄想に終わらず、石箱の中で時代を越えて生き延びているのです。
ここで大事なのは、正しい考えすなわち地動説が絶やされなかったことではありません。誰かの考えが次の誰かへとバトンタッチされたこと、それ自体なのです。
(中略)
過ちがいけないのではない。不正解がいけないのではない。知の積み重ねを、知の歩みを止めることこそが、いけないことなのだ。
『チ。―地球の運動について―』積み重なる知の価値の話 - ポンコツ山田.com

世界にはあらゆる情報が転がっています。むしろ、情報で構成されていると言ってもいいくらいです。
(中略)
で、その情報同士に関連性を見つける。「無関係な情報と情報の間に関りを見つけ出」すことで、「使える知識に変える」。そこに「知性が宿る」。
つまり「知性」とは、情報を何らかの関係性で結びつけて知識にすること。いいかえれば、個々の情報を一つの体系(=知識)にまとめること。
『チ。ー地球の運動についてー』「情報」と「知識」と「知恵」と「知性」の話 - ポンコツ山田.com

 こんな具合ですね。

 C教が覇権を握り、地球が宇宙の中心であるという考えに異論をはさむことが許されていない時代に、それでも地球が動いていることを証明し続ける人たちの物語である『チ。』は、まさに知の集積と体系化の物語です。それを研究していることを迂闊に漏らせば比喩でなく命を落とす時代に、地動説を証明するだけの証拠や理論を一人で集めることは不可能と言っていいでしょう。過去から細々と、しかし連綿と途切れることなくつながり続けてきた知の集積が、大きなうねりとなって多くの人々の意識を変革する知の体系となるのです。

 もしロイドが中世世界に転生し、地動説というものに触れていたらどうでしょうか。魔術のように世界の見方を一変させるその考えに、過去にそれを考え付いた名もなき人々に敬意を払い、それを証明しようと己の命を賭けていたのではないでしょうか。
 それほど、ロイドの知に対する敬意は、『チ。』に登場する主要人物たちと相性がいいように思います。


 よく言えば求道的、悪く言えばゴーイングマイウェイなロイドを中心に、ある意味ではテンプレ的なキャラ設定ながらも、その設定の上で自身の欲望をちゃんと見せて動く各キャラクター、コミカライズの石沢先生の手による派手できらびやかな戦闘シーン(マガポケではしばしばカラーで掲載されてます)など、かなりの面白さを誇る『第七王子』ですが、まったく別ベクトルにありそうな『チ。』とつながってくると言うのは面白いですね。
pocket.shonenmagazine.com



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香りの表現と、ボキャブラリーと、言葉と感覚の結び付け方の話

 先日の記事で、味覚の言語化についての話をしました。
yamada10-07.hateblo.jp
 その中で

与える言葉は、特殊な語彙である必要はありません。凡百の言葉でいいのです。大事なのは、その言葉が自分の感じたものにフィットしているか、それだけでうまくフィットしなかったら他の言葉も組み合わせてフィットさせられるかです。

 と書きましたけど、味覚にしろ、あるいは他の感覚にしろ、言語化をしようと思っても、そもそもそれを表せる(うまくフィットする)語彙が手持ちにないと、言語化できないんですよね。
 「凡百の言葉でいい」と言っても、「うまくフィットしなかったら他の言葉も組み合わせてフィットさせ」ればいいと言っても、手持ちの語彙ではどうしても感覚にフィットしないことはしばしばあります。曲線のパズルに、直線で構成されたピースだけではどうしてもフィットしないみたいに。

 最近、自分を香水の沼に引きずり込もうとしてくる友人から香水のサンプルを7つ送りつけられまして、それを一通り試したんです。
 トップノートはどれがいいとか、これはラストノートでちょっときつくなるとか、いろいろ感想は浮かぶんですが、困ったことに、香りを表現する私の語彙が非常に貧弱で、いい悪いは言えても、どういう匂いでよくて、どういう匂いでよくない、という具体的な表現、香りへのラベリングができないんです。
 友人も、各香水の熱のこもった説明文を送り付けてくれて、それにはミント、シトラス、ライスパウダー、ブラックティー、高木を焚いている教会、ガイアックウッディ、ノーブルオーキッドすなわち春蘭などなど、知っていれば、あるいは慣れてくればピンとくる香りの表現が縷々並んでいるんですが、あいにくと私にはまだそれがわからない。
 ライスパウダーだの、ノーブルオーキッドいわゆる春蘭だの、そもそもなじみのない表現もあれば、ミントやシトラスといった多少なりともなじみのある表現でさえ「そんな香りだっけ……?」と首をかしげてしまう。言葉に私の感じた感覚がフィットしない。
 
 だもんだから、一通り試してじゃああれはどうだったかこれはどうだったかと思い出そうとしても、ぼんやりした印象で思い出すしかないんです。まさに「自分の感覚や感情に言葉を与えないと、記憶の引き出しに放り込んでいるうちに、他の似たようなものとごっちゃになっちゃう」状態。

 これを解決しようとするには、思うに二つ。
 一つは、自分の感じたこの感覚に、友人の熱い説明文にある表現をとにかく結び付けること。現時点で納得いっていなくても、何度かつけて、何度か自分に言い聞かせるうちに、それがちゃんと結びつくことを期待する。
 ただこれは、いつまでたっても結びつかない危険性はあります。ブラックティーを飲んでブラックティーの香りを認識したり、香木の焚かれた教会に行ってこれがその匂いと認識したりなど、嗅覚以外の味覚や聴覚などといった感覚を同時に働かせることで、記憶の結びつきは強固になりますが、嗅覚だけに抽出された香水だけでもって嗅覚の記憶とするのは、なかなか難易度が高いのです。
 受験勉強で英単語などを覚えるのも、ただひたすら書くのではなく、自分で読みあげたりリスニングで聞いたりなど、複数の経路で記憶に結び付けようとすることで定着しやすくなるというのがあります。
 複数の経路による記憶の定着。あるいは体験としてのパッケージングと言ってもいいかもしれません。思い出が、単一の感覚ではなく、身体の総合的な記憶であるように、視覚聴覚嗅覚触覚味覚、複数の五感が関わっていると、記憶の定着は捗ります。

 二つ目は、その感覚にフィットする言葉を自力で見つけること。過去の記憶からなんとか持ってくるか、新たに体験したときにそれを流用するかです。
 しかしこれも、いつまで経ってもフィットする言葉が見つからないリスクがあります。香木の焚かれた教会、そうそう行きませんからね。もちろん、まったく別の体験から、まったく別種の言葉をフィットするものとして見つける可能性はありますが、それは偶然に頼るもの。確実性は薄いと言わざるを得ません。
 
 改めて考えると、感覚に言葉を与えると言うのは、五感のどれであれ、難易度の高いものです。
 きれいな絵。明るい風景。真っ赤な花。甲高い音。不快な不協和音。ゆったりしたメロディ。
 通り一遍な表現ならまだしも、より具体的な、より感覚に即した言葉にするには、結局のところ、もっと多くの言葉をくっつける必要がありますし、多すぎれば多すぎるで、ごちゃごちゃしすぎてわかりづらい。塩梅が難しいです。

 漫画の感想もそうですよね。ただ面白いと言うだけなら簡単ですが、どこがどう面白かったか、というところを丁寧に言葉にしようと思うと、途端に難しくなる。揺さぶられた自分の感情と、その感情を冷徹に分析する目、それが同居してなきゃいけないんですから。私自身が熱情のままに何か書けるほど文才のある人間ではないので、どうしてもいったん冷静になったうえで、さっきまで昂っていた自分の感情を思い返して見つめなきゃいけない。そのうえで、しっくりくる言葉を見つける。
 かれこれ十何年もそんなことをやってるのに、なかなかうまくなる感じはしませんが、まあぼちぼちと続けていきたいものです。



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クラフトビールと、『琥珀の夢で酔いましょう』と、感覚の言語化による体験の区別の話

 今年の年始の目標に、ダイエットもかねて「雑なカロリーをとらない」を掲げまして、手始めに晩酌の回数を、週に2,3回だったのを1回に減らしました。
 私の晩酌は基本、TAKARAの100円の缶チューハイでつまみもスナック菓子と、いかにも雑なカロリー。その回数を減らして摂取カロリーを削減しつつ、浮いたお金で雑じゃないカロリーをとるべく、クラフトビールを飲んでみることにしました。前々から興味はありつつも、お店で飲むと普通のビールよりお高くなるので敬遠してしまっていたのですが、家で週一回飲むのならささやかな贅沢ってことでいいだろうと。

 今日時点でかれこれ5種類飲んでいるのですが、味わいが普段飲んでいるアサヒやサントリーのビールとだいぶ違います。普段口にするそれらのビールは、ラガーというカテゴリー*1の中のピルスナーという種類(スタイル)。キリっとしてのど越し爽やか、夏場にキンキンに冷やして飲むと最高なやつですが、そうではないスタイルのビールもたくさんあるのです。

 飲んだやつで言うと、「雷電 閂」(エチゴビール(株))と「LUCKY DOG」(黄桜(株))が、ホップが効いて香りの強いIPA(India Pale Ale)。
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 「LUCKY CAT」(黄桜(株))が、苦み少なく華やかな香りのホワイトエール。
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 「SORACHI1984」(サッポロビール(株))が、ラガーにも似た爽快感とエールの華やかさを持つゴールデンエール。
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 「BAEREN BEER/THE DAY」(ベアレン醸造所)が、赤い色が特徴の甘みのあるレッドラガー。
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 もちろん、同じIPAの雷電とLUCKY DOGでも味わいが違うので、いろいろ楽しめます。


 さて、ここからが本題なんですが、クラフトビールを飲み比べてみるのはいいものの、その味わいが多岐に広がっているため、なかなか特徴をつかまえづらいのです。
 いや、なにもわからないんじゃないんですよ。これは飲み口が甘いなとか、香りが華やかだなとか、苦みが強いけどすぐに引くなとか、言えるは言えるんですけど、どうにもふわっとしてしまう。
 そんなことを思っていたところに、クラフトビールに興味が出たこともあって買ったこの本。

 まさにクラフトビールをテーマにした作品なんですが、その2巻でペアリング(お酒と食べ物の組み合わせ)を試しているときに、三人の主人公の一人・七菜がこんなセリフを言っています。

「二人はいつもビールと料理 どうやって合わせゆう?」
「「なんとなく」」
「うーん野性」
「じゃあいつもの状況を再現して それを言語化してみようよ」
(2巻 p10)

 言語化。「なんとなく」でやっていたペアリングに、きちんと言葉を与えてみようというのです。
 普段やらないことに困惑していた主人公の一人、写真家の鉄雄ですが、なにはともあれと「瑠璃」(コエドブルワリー)を飲むと、まず出てきた言葉が「お! うま」。野生の感想ですね。ただ、それじゃあ話が進まないので、七菜から言語化してみろとせっつかれて、

えーと 色はクリアな金色 ホップの香りが瑞々しい
爽やかな苦みと後味の軽やかさ 個性派揃いのクラフトビールの中でも飲みやすいと思う
特に大手ビールに飲みなれた人には
(2巻 p12)

 自分の感じた印象にきちんと言葉を与えています。

 七菜から言われてやった言語化ですが、これってとても意味のあることだと思うんですよ。
 人間て不思議なもので、自分の感覚や感情に言葉を与えないと、記憶の引き出しに放り込んでいるうちに、他の似たようなものとごっちゃになっちゃうものです。ある異なる体験から異なる印象を持っても、その印象を表す言葉がおなじ「すげえ」や「パねえ」だと、「すげえ体験」「パねえ体験」でくくってしまう。その時感じた面白さや驚き、悲しさや怒りなど、微妙に異なるグラデーションがあるはずのものが、「すげえ」「パねえ」で塗りつぶされてしまう。
 そうしないためには、どこがどう面白かったか、他のどんなものと似ていたか、通じるところがあるか、それを感じとってどのようなことを考えたか、そんなことに、できる限りの言葉を与える必要があるのです。
 与える言葉は、特殊な語彙である必要はありません。凡百の言葉でいいのです。大事なのは、その言葉が自分の感じたものにフィットしているか、それだけでうまくフィットしなかったら他の言葉も組み合わせてフィットさせられるかです。
 こうすることで、自分の得た体験が、自分の中で、他と区別可能な特別の体験となるのです。
 実際、ある程度言葉を与えて区別しないと、本当に難しいんですよね、味覚の差別化って。

 また、そうすることで、他にもメリットがあります。
 瑠璃の言語化をした鉄雄は、飲み屋の主人にして最後の主人公・隆一から、そのビールにはどのおばんざいが合うと思うと問われ、蒸し鶏梅肉大葉和えを選ぶのですが、その理由はと重ねて問われると、こう答えました。

ホップってある種の薬味やん? 大葉も梅肉も薬味やし
あと『瑠璃』は香りも味も爽やかやし この中なら蒸し鶏かなと
(2巻 p14)

 鉄雄は瑠璃の特徴としてホップの香りやさわやかさを挙げていましたが、それを意識したからこそ、合いそうな蒸し鶏を選んだし。言葉にできたからこそそれを他人とも共有できました。

 言葉は自分一人で使うものでなく、同じ言語を使う人と共有できるものです。感情や感覚、体験は、究極的に個人にしか属せないものですが、それを言葉にすることで、他者と共有するチャンスが生まれます。感覚などをまったく同じように共有することは原理的に不可能ですが、それでも言葉にすれば、他者もそれを理解するよすがになるのです。
 この回では、他の二人もそれぞれにビールの味わいの言語化を行い、自分の思う今日のベストのペアリングを出しました。飲み屋の店主である隆一は、お店で紹介できるようにと試験的に二人をペアリングに誘ったのですが、七菜の提案で意識的に言語化したことで、勧めたペアリングをお客さんに説明するときにも、とても便利になるのです。
 
 また、この回では鉄雄が撮った写真のパネルが登場するのですが、隆一はそれを欲しがりました。料理とは関係のないビーチの写真でしたので、なんでそれがいいのかと鉄雄が聞くと

ん~~ なんちゅうかこの写真
ナマぽくてえい
こないだの取材ンとき思ったがって
お客さんはうまい!! ちゅうナマの衝動を求めてるんやなって
(2巻 p27)

 これもまた、自分の感覚の言語化です。味覚ではなく、視覚から得た印象の言語化
 鉄雄の写真を見て、美しいとも、独特とも、感動したとも表現できますが、そのようななんにでも使えそうな表現ではなく、「ナマぽくて」というのは、隆一がこの写真にはこの言葉がふさわしいと思い与えた言葉。自分が出す料理をお客さんが美味しいと思った瞬間を「ナマの衝動」と表現し、とてもよいものと捉えている彼は、鉄雄の写真にも同じものを感じました。その言葉を与えたことで、鉄雄の写真に対する評価と、お客さんが美味しいものを食べた瞬間の評価を、同じ言葉で表せるものとして結び付けることができたのです。感覚に貼り付けた「ナマ」というラベルが、自分の異なる感覚どうしにバイパスをつなげたのです。
 また、同時にこの言語化は、隆一は「この写真を『ナマっぽくていい』と評価する人間」という、彼自身のラベリングにもなります。言葉遣いは、その人自身を推し量る目安にもなりますから、通り一遍ではない言葉で評価をする対象は、その人にとって、特別なものだと言えるでしょう。
 
 味を言葉で表すのは難しいですけど、うまく似つかわしい言葉を見つけられるとちょっとうれしいんですよね。 
 まだしばらくはクラフトビールのマイブームは続きそうですから、できる限り言葉を考えて、楽しんでいけたらいいなと思っています。



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*1:発酵の仕方で、大きくエールとラガーに分けられます。発酵していくと酵母が上に浮かんでいく(上面発酵)のがエール、下に沈んでいく(下面発酵)のがラガーです。あと、その二つとは別枠で、野生の酵母を取り込んで発酵させるランビックというものもあります。

対立者を敵と呼ぶ現代世界と、『チ。』に見る相容れないものと歩む世界の話

 最近知った思想家で倉本圭造という方がいまして。
finders.me
 同氏を知ったのはこのネット記事でなんですが、『新聞記者』を見ていない私でも、その論旨には感じ入るところ多く、同サイト掲載の執筆記事も一通り読みました。
 経営コンサルタントであり経済思想家という方で、アメリカの大手コンサル・マッキンゼーに就職したものの、その理念と現実に矛盾を感じ数年で退職、ブラック企業や肉体労働、ホストクラブやカルト宗教団体などにも潜入して現場や末端レベルでのフィールドワークを展開し、船井総研を経て独立、会社規模のコンサルとあわせて、個人でも文通のような形でコンサル業をやっているそうです。
 
 で、そんな氏が種々の文章で繰り返し言っているのは、不毛な極論の対立はやめて、お互いをリスペクトしたうえで改善していこうぜ、ということ。
 敵を絶対悪、自分を絶対善と規定し、自分は正しいんだから相手は完膚なきまで滅ぼしてもいいと考えるのはやめようぜ、ということ。
 欧米、なかんずくアメリカ式の、一部のエリートによるインテリジェンスこそ正しく、それが理解できない奴は愚鈍な間抜けと考えて断絶を作るやり方はやめようぜということ。
 
 これだけ見るとただの穏健派で、極右極左の思想が先鋭化している人たちからは日和見主義者とかそんなんじゃ社会は変わらないとか突き上げられそうなスタンスですが、氏が何度となく強調しているのは、こうありたいこうあるべしという理念は大事だけれど、それを社会に実現していくためには、現場で問題に対応している人間の知見を吸い上げて分析し、それをまた現場にフィードバックさせる必要があり、また、その「正しい」理念に反対する人にも、反対するだけの(
(少なくともその人たちにとっては)合理的な理由があるのだから、その反対の理由を丁寧に解きほぐし、きちんとお互いの落としどころを探っていくべきだ、ということです。
 敵を敵のままにするのではなく、というか敵とみなすのではなく、同じ社会に生きる人間(集団)として敬意を払い、社会の同じ構成員としてともに問題点を改善していこうというのですな。

 氏の一連の文章を読んで、なんかそんな文章を自分でも書いたような気がしたのですが、それは年初に書いた次の記事でした。
yamada10-07.hateblo.jp

思うに彼の言う対話とは、「自らと相手の間で前提を共有し、妥協点を見つけること」なのでしょう。
一般的には「交渉」という言葉の方が近しいニュアンスでしょうが、この「対話」の目的は、非身内・非仲間・非同士、要は目的を共有できていない相手との間で、なんらかの落としどころを見つけて、そこまでについては争わないようにする、ということです。

 妥協点。
 落としどころ。
 それは「不毛な極論の対立はやめて、お互いをリスペクトしたうえで改善してい」こうということです。
 『チ。』の場合は、時限的な共同戦線を張るために行われた対話ですが、相手の言っていることを、受け入れられずとも理解しようとし、譲れるところ譲れないところの線引きをして、その線までは共に歩もうとしています。
 リンク先の記事でも書いたように、C教は異端審問という形で、自分たちが正統としたもの以外の信仰を排斥しています。それは「敵を絶対悪、自分を絶対善と規定し、自分は正しいんだから相手は完膚なきまで滅ぼしてもいいと考え」ているのです。氏が危惧している、世界の各地で起こっている暴走したイデオロギーそのものです。
 たとえばこの記事。
finders.me
 2020年の秋頃に発表されたナイキのCMを基に、ナイキの打ち出した反人種主義的な主張に諸手を挙げて賛同し、賛同しない人に対しては嘲笑する人たち(その人たちが、ナイキのCMの裏側にある、それをタネにした金儲けの思惑に自覚的かどうかはさておき)の態度は、決して人種差別の解決を進めないだろうと氏は言っています。

「こういうCMを絶対やってはダメだ」って言いたいわけじゃなくて、問題提起として大事だとは思うけど、「反感を持つ層」だって当然出てくる課題だし、そういう人を徹底的に嘲笑するような仕草は、「善なること」につながるとは到底思えない、むしろ非常に醜悪な商業主義と言っても過言ではないと私は考えています。
(賛否両論ナイキCM「反対派は差別主義者」で片付けていいのか。思想が違う人を「ヒトラーだ!」と悪魔扱いするのはもう止めよう【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(9))

 相手の言うことに従えじゃないんです。言うべきことは言うべきなんです。でも、それには合目的的な言い方があるし、敵を敵のままにしておくような物言いは、物事を良い方に進めないんです。

 「対話」をしたドゥラカとシュミットは、言いたいことを言っています。受け入れられないことは受け入れられないと明言しています。そのうえで、今は手を組むことでお互いの目的に近づけるということで、呉越同舟と相なっているのです。
 最終的に二人(というかドゥラカと異端解放戦線)の関係がどうなるか、6巻までしか読んでいない私にはわかりません。本誌では最終回も近いようですが、ひょっとすれば必要な情報を得られた異端解放戦線によって、彼女は殺される(殺されている)かもしれません。時代や法や社会を考えればその可能性もなくはないですが、C教との対比という点で考えれば、そうはならないんじゃないかと予想しています。
 両者は「本の出版」という目的で歩みを共にしていますが、ドゥラカは事業としての出版による金儲け、異端解放戦線は出版により情報を解放し人々の理性を磨くことと、出版の先で得ようとするものが違います。究極的なところで神の存在の有無という相容れなさを抱えている両者、特に異端解放戦線が、神を信じないドゥラカを、神を信じないという理由で排除するのか。
 それが否であると言えるのは、そうしないのが理性だからです。相手を尊重するということだからです。
 もちろん『チ。』の舞台は現在より何百年も前ではありますが、C教という非寛容で強固な社会の枠組みと、地球を動かそうとしてきた人々を対比的に描いてきた作品ですから、現代世界にも通じるようななにかが見られるのではないかと期待しています。



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