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漫画の話です。

『チ。ー地球の運動についてー』シュミッツの対話、あるいは前提の共有と妥協点の模索、あるいは理性の話

昨年末に6巻が発売された『チ。』。

オクジーとバデーニが処刑されてから25年。地動説の感動は途切れることなく、また新たな者の手に渡されました。
残されたのは、科学的な考察や資料を基にまとめられたバデーニの論文ではなく、拙いながらもそれゆえに感動を伝えられるだろうと思われたオクジーの本(を基に再製本されたもの)。しかしその本は、C教正統派を攻撃する「異端解放戦線」と、金儲けを信念とする少女・ドゥラカの間で取り合いになりました。
かたや地動説を広めることでC教正統派を揺るがしたい異端解放戦線。かたや刺激的な内容の地動説を本として出版することで大稼ぎしたいドゥラカ。
組織として動く前者に対し、個人で動き始めたばかりのドゥラカに対抗する術はありませんが、一歩間違えれば即座に殺されるような奇策でもって彼女は、本の代わりに自分の価値を認めさせたのです。
本を奪取する実働部隊のリーダー・シュミットは、異端解放戦線の中で更に異端の「自然主義者」を自称し、「理性の外、自然にこそ神は宿る」と主張する男ですが、その物腰は案外に理性的。少なくとも目的のために皆殺しなどのような手段を即座にとるわけではなく、まずは言葉を用いて相手と対話を試みようとする男です。

最悪な出会い方だが同行が決まったのなら争いは不要。お互いに無礼はひとまず不問にしよう。
これからは相互理解を深め目的に対し協力し合い、尽力し、仕事を円滑に進めたい。
つまり、今、我々に必要なのは対話・・だ。
(6巻 p141)

饒舌で冗舌なセリフをしゃべるシュルツですが、ここで傍点をふってまで彼が求める「対話」とはなんなのでしょうか。

思うに彼の言う対話とは、「自らと相手の間で前提を共有し、妥協点を見つけること」なのでしょう。
一般的には「交渉」という言葉の方が近しいニュアンスでしょうが、この「対話」の目的は、非身内・非仲間・非同士、要は目的を共有できていない相手との間で、なんらかの落としどころを見つけて、そこまでについては争わないようにする、ということです。
ポイントは二つ。
一つは、当事者間で前提を共有すること。
一つは、その上で当事者間の妥協点を見つけること。
では、具体的にシュルツの「対話」を見ていきましょう。

ドゥラカと同行することになったシュルツ。彼にとってドゥラカは、自分らが求めていた本を争った相手、いわば競争敵ですが、ひとまず呉越同舟とはいきませんが、彼らのボスのところまで連れていくことにしました。その最中にシュルツは、前述の引用のとおり、彼女に対し「対話」を求めます。
まずシュルツはドゥラカに対し、命を賭けてまで自分たちに同行しようとした動機を尋ねます。彼女は、金を稼ぐという自分の信念のために、と答え、それに対しシュルツは、自分も信念がある、と返しました。
まずここで二人には、「(中身は違えど)なんらかの信念がある」という前提が共有できました。本を争う敵ではあったけれど、まず共通点を見出したのです。
次に彼が、C教正統派を否定するような自らの信念を開陳すると、それに対しドゥラカは「聖書の解釈になんて興味ない」と同意を示しました。「教会の階級制度はバカバカしい」、「この世界は人間の為に創られたとも信じていない」。これらについても二人は同意見でした。共有できる前提が増えていきます。
しかし、神を信じているかどうかというところについては、決定的に意見を異にしました。かたや神を信じないドゥラカ。かたや神を信じるシュルツ。ここにいたって二人は、異なる自分たちの意見を戦わせましたが、互いに説き伏せることはできず、「どうやらこれ以上の対話は不要だ」とシュルツにより対話は打ち切られてしまいました。

ここで二人の対話は終わりましたが、何も得られなかったわけではありません。たしかに二人は、意見を共にする仲間になることはできませんでしたし、シュルツはドゥラカに対し「大変動揺してるし怒りも覚えている」とまで言っていますが、それでもいくつかの前提を共有することで、「C教正統派について敵対的である」というテーブルを囲むことはできるようになったのです。そのテーブルに共に着けている以上、最終的な両者の目的は違っても、そこに至るまでの中目標、すなわち「地動説本の出版」までは、お互いの利益のために協力できると判断しました。根っこのところがどうしようもなく折り合わなくても、その前段のどこかで共有できるものがあれば、争わなくて済むのです。

これが「対話」です。「対話」を通じて二人は、「C教正統派について敵対的である」という前提を共有し、「地動説本の出版までの協力」という妥協点を見出したのです。
ここで示されている「対話」は、C教正統派の異端審問と対比的に存在しています。絶対的な神、そして神が創り給うた世界はこう存在している、と決定された前提に対し、そこから外れる異端に対しては暴力でもってなきものとしていく異端審問。彼らがしてきたことに、「対話」はありませんでした。YESかNOか。信じるか信じないか。その二択です。
異端解放戦線にしても、最終的に暴力を使うことを否定はしていませんが、シュルツがドゥラカにそうしたように、神を信じる/信じないという根本的なところで相容れなくても、そこよりもっと手前のところで前提が共有できるのならば、協力共存にやぶさかではありません。
合目的的であり、折衷的であり、合理的であり、なにより理性的です。
自分の信念と異なる情報に対して開放的であるという態度は、地動説に感動した人間たちと共通するものだと言えるでしょう。

「積み重ねた研究を一瞬で否定する力があって、
故人の都合や新年を軽く超えて、
究極に無慈悲で、それ故に平等な、
そんなものがあるとしたら、それをなんと言うと思いますか?」
「それは、真理だ」
(3巻 p164~166)

真理への到達という最終目標の途中で、今まで歩いてきた道が間違いだった(少なくとも別のより確からしい道がある)と気づいたら、そちらを選びなおすことができる。端的に言えば、誤りを認められる。それが理性です。間違っていることにうすうす気が付いていてもそのまま進んでいくのは、妄信と言わざるを得ません(無論、真理が真に「真理」であるかについて保証されているかどうかは、また別問題ですが)。

さて、このように「対話」が理性的な行為だと書いてきましたが、実はそれ自体は、シュルツの言っていることと少しく矛盾します。最初に書いたように彼は、「理性の外、自然にこそ神は宿る」と主張しており、成長や発展、技術も否定しています。しかし、彼自身はその成長や発展の最先端に生きており、技術によって作られた火薬で窮地を切り抜けてもいます。技術はゼロからポンと生じるわけではなく、それまでの多くの関係ある、あるいは関係ないと思われる発見や技術の積み重ねの果てに、コップから水かあふれるように生み出されるのです。本作の地動説(天文学の発展)もまさにそういうものであるというのは、本ブログで何度となく書いているとおりですし。
あるいは彼は、人間が理性的な存在(であるべき)と信じ、事実そう振舞っているからこそ、それらの創造主たる神はそれらから隔絶した存在であるゆえに理性の外にあると規定しているのか(あるいはその逆か)。
そこらへんの、理性の外にいる神と理性に生きる彼との関係性なんかも今後の物語で描かれるのか、少し楽しみにしています。



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