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漫画の話です。

対立者を敵と呼ぶ現代世界と、『チ。』に見る相容れないものと歩む世界の話

 最近知った思想家で倉本圭造という方がいまして。
finders.me
 同氏を知ったのはこのネット記事でなんですが、『新聞記者』を見ていない私でも、その論旨には感じ入るところ多く、同サイト掲載の執筆記事も一通り読みました。
 経営コンサルタントであり経済思想家という方で、アメリカの大手コンサル・マッキンゼーに就職したものの、その理念と現実に矛盾を感じ数年で退職、ブラック企業や肉体労働、ホストクラブやカルト宗教団体などにも潜入して現場や末端レベルでのフィールドワークを展開し、船井総研を経て独立、会社規模のコンサルとあわせて、個人でも文通のような形でコンサル業をやっているそうです。
 
 で、そんな氏が種々の文章で繰り返し言っているのは、不毛な極論の対立はやめて、お互いをリスペクトしたうえで改善していこうぜ、ということ。
 敵を絶対悪、自分を絶対善と規定し、自分は正しいんだから相手は完膚なきまで滅ぼしてもいいと考えるのはやめようぜ、ということ。
 欧米、なかんずくアメリカ式の、一部のエリートによるインテリジェンスこそ正しく、それが理解できない奴は愚鈍な間抜けと考えて断絶を作るやり方はやめようぜということ。
 
 これだけ見るとただの穏健派で、極右極左の思想が先鋭化している人たちからは日和見主義者とかそんなんじゃ社会は変わらないとか突き上げられそうなスタンスですが、氏が何度となく強調しているのは、こうありたいこうあるべしという理念は大事だけれど、それを社会に実現していくためには、現場で問題に対応している人間の知見を吸い上げて分析し、それをまた現場にフィードバックさせる必要があり、また、その「正しい」理念に反対する人にも、反対するだけの(
(少なくともその人たちにとっては)合理的な理由があるのだから、その反対の理由を丁寧に解きほぐし、きちんとお互いの落としどころを探っていくべきだ、ということです。
 敵を敵のままにするのではなく、というか敵とみなすのではなく、同じ社会に生きる人間(集団)として敬意を払い、社会の同じ構成員としてともに問題点を改善していこうというのですな。

 氏の一連の文章を読んで、なんかそんな文章を自分でも書いたような気がしたのですが、それは年初に書いた次の記事でした。
yamada10-07.hateblo.jp

思うに彼の言う対話とは、「自らと相手の間で前提を共有し、妥協点を見つけること」なのでしょう。
一般的には「交渉」という言葉の方が近しいニュアンスでしょうが、この「対話」の目的は、非身内・非仲間・非同士、要は目的を共有できていない相手との間で、なんらかの落としどころを見つけて、そこまでについては争わないようにする、ということです。

 妥協点。
 落としどころ。
 それは「不毛な極論の対立はやめて、お互いをリスペクトしたうえで改善してい」こうということです。
 『チ。』の場合は、時限的な共同戦線を張るために行われた対話ですが、相手の言っていることを、受け入れられずとも理解しようとし、譲れるところ譲れないところの線引きをして、その線までは共に歩もうとしています。
 リンク先の記事でも書いたように、C教は異端審問という形で、自分たちが正統としたもの以外の信仰を排斥しています。それは「敵を絶対悪、自分を絶対善と規定し、自分は正しいんだから相手は完膚なきまで滅ぼしてもいいと考え」ているのです。氏が危惧している、世界の各地で起こっている暴走したイデオロギーそのものです。
 たとえばこの記事。
finders.me
 2020年の秋頃に発表されたナイキのCMを基に、ナイキの打ち出した反人種主義的な主張に諸手を挙げて賛同し、賛同しない人に対しては嘲笑する人たち(その人たちが、ナイキのCMの裏側にある、それをタネにした金儲けの思惑に自覚的かどうかはさておき)の態度は、決して人種差別の解決を進めないだろうと氏は言っています。

「こういうCMを絶対やってはダメだ」って言いたいわけじゃなくて、問題提起として大事だとは思うけど、「反感を持つ層」だって当然出てくる課題だし、そういう人を徹底的に嘲笑するような仕草は、「善なること」につながるとは到底思えない、むしろ非常に醜悪な商業主義と言っても過言ではないと私は考えています。
(賛否両論ナイキCM「反対派は差別主義者」で片付けていいのか。思想が違う人を「ヒトラーだ!」と悪魔扱いするのはもう止めよう【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(9))

 相手の言うことに従えじゃないんです。言うべきことは言うべきなんです。でも、それには合目的的な言い方があるし、敵を敵のままにしておくような物言いは、物事を良い方に進めないんです。

 「対話」をしたドゥラカとシュミットは、言いたいことを言っています。受け入れられないことは受け入れられないと明言しています。そのうえで、今は手を組むことでお互いの目的に近づけるということで、呉越同舟と相なっているのです。
 最終的に二人(というかドゥラカと異端解放戦線)の関係がどうなるか、6巻までしか読んでいない私にはわかりません。本誌では最終回も近いようですが、ひょっとすれば必要な情報を得られた異端解放戦線によって、彼女は殺される(殺されている)かもしれません。時代や法や社会を考えればその可能性もなくはないですが、C教との対比という点で考えれば、そうはならないんじゃないかと予想しています。
 両者は「本の出版」という目的で歩みを共にしていますが、ドゥラカは事業としての出版による金儲け、異端解放戦線は出版により情報を解放し人々の理性を磨くことと、出版の先で得ようとするものが違います。究極的なところで神の存在の有無という相容れなさを抱えている両者、特に異端解放戦線が、神を信じないドゥラカを、神を信じないという理由で排除するのか。
 それが否であると言えるのは、そうしないのが理性だからです。相手を尊重するということだからです。
 もちろん『チ。』の舞台は現在より何百年も前ではありますが、C教という非寛容で強固な社会の枠組みと、地球を動かそうとしてきた人々を対比的に描いてきた作品ですから、現代世界にも通じるようななにかが見られるのではないかと期待しています。



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