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漫画の話です。

『チ。―地球の運動について―』積み重なる知の価値の話

今回も『チ。』についての話。

前回の記事では、理論の美しさの価値の話をしました。今回はまた別の価値として、タイトルの通り、積み重なる知の価値について書こうと思います。

本作では、知識や知恵が前の世代から自分の世代へ、そして次の世代へと渡されていくことに、非常な価値を置いています。なにより象徴的なのは、地動説についてのアイデアが詰め込まれた石箱です。

1巻の主人公ラファウは、天文に興味があるも、将来への「合理的」な考えから神学の専攻を志していましたが、ある時、彼の義父が保証人となった元学者で異端者フベルトと出会ったことで、地動説の考えを知り、合理的な将来をなげうって、天文の道へ歩もうとしました。その際に、フベルトから託されたものが、彼が今まで考えてきた地動説に関するアイデアの断片が詰まった石箱でした。一度は中身を燃やそうとしたラファウでしたが、地動説の魅力にはあらがえず、中身を保管し、後に自分の研究もその中に収めていました。彼自身がフベルト同様、異端の罪で裁かれようとするときも、自身の保身よりも研究結果を残すことを選び、石箱のことは誰にも言わないまま、自ら毒の盃を仰ぎました。

ラファウの死後、天体観測をしていた占星術師が、偶然この石箱を発見し、その彼も地動説の考えに打ち震え、自分の観測結果や計算結果を石箱に詰めていきました。そしてその占星術師が、やはり異端として処刑されようとする前に、代闘士のグラスに、さらに同僚のオクジーに、そして修道士のバデーニへと石箱の存在は託されていきました。

こうして、社会的に許されないその考えは、背教者一人の妄想に終わらず、石箱の中で時代を越えて生き延びているのです。
ここで大事なのは、正しい考えすなわち地動説が絶やされなかったことではありません。誰かの考えが次の誰かへとバトンタッチされたこと、それ自体なのです。

それは、バデーニへ天体観測の資料を渡したピャスト伯を見ればよくわかります。伯は天動説の熱烈な信奉者で、それを完璧に証明するために生涯をかけていました。現代の常識からみれば天動説は誤った考えですから、彼の生涯は、間違ったものに、絶対に正解に辿り着けないものに捧げてしまった、愚かなものなのでしょうか。
そんなことはありません。彼、そして彼の先代のピャスト伯は、天動説を完璧に証明するために、多くの技術を得、機器を向上させ、観測を重ね、膨大な観測結果を残していました。前提としていた考え方が誤っていても、正確な観測記録は地動説の証明のためにも極めて重要で、それらはバデーニの研究を大きく進めました。彼が先代から、そしてさらにその前の研究者たちから観測結果を受け継いでいたからこそ、この一助となったのです。

もし……過去の積み重ねの先に答えがないのなら、真理にとって我々は無駄だったかもしれん。
しかしたとえ…誤ちでも何かを書き留めたことは、歴史にとって無意味ではない。
――と、願ってる。
(3巻 p170)

と、ピャスト伯が言ったとおりなのです。
これと似たようなことは、1巻でラファウも言っています。

「この選択は…君の未来にとって”正解”だと思うのか?」
「そりゃ不正解でしょ。
でも不正解は無意味を意味しません。」
(1巻 p136,137)

過ちがいけないのではない。不正解がいけないのではない。知の積み重ねを、知の歩みを止めることこそが、いけないことなのだ。


さて、ではその何かを書き留め、知を積み重ねるために必要なものは何でしょうか。
それは文字です。
文字があるからこそ、人は場所を、時代を越えて考えを残し、後世の人間や遠く離れたところにいる人間に知識を渡せるのです。
3巻で登場した研究者志望の少女ヨレンタは、まさにそのことを言っています。

文字は、まるで奇跡ですよ。
(略)
アレが使えると、時間と場所を超越できる。
200年前の情報に涙が流れることも、100年前の噂話で笑うこともある。
そんなの信じられますか?
私達の人生はどうしようもなくこの時代に閉じ込められている。
だけど、
文字を読む時だけはかつていた偉人達が私に向かって口を開いてくれる。
その一瞬この世界から抜け出せる。
文字になった思考はこの世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある。
そんなの、まるで
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(3巻 p175~177)

そして、積み重なり体系化された知識は、より多くの人間へと伝播していきます。知識を得ることで、その人が見る世界が一変することも、本作では何度も描かれています。地動説を知ったラファウやグラス、バニーニやヨレンタら、もともと知識人だったもの達はもちろんのこと、そうではない、無学者でほぼ文盲であったオクジーもそうです。
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(2巻 p157)

「不思議だ。
ずっと前と同じ空を見てるのに、少し前からまるで違く見える。」
「だろうな。」
「え?」
「きっと、それが何かを知るということだ。」
(3巻 p157,158)

知識を得ることで、世界は動く。いうなれば、知動説ですか。タイトルの「チ」とは、「地」であり「知」でもあるというのは、あながち間違った想像ではないでしょう。知が、地(球)を動かすのです。
ただ、4巻では、バデーニが文字についてこんなことを言っています。

文字というのは特殊な技能、言葉を残すのは重い行為だ。
扱うには一定の資質と最低限の教養が要求される。
誰もが簡単に文字を扱えたらゴミのような情報で溢れかえってしまう。
そんな世の中目も当てられん。
(4巻 p8)

「文字」や「言葉」を「インターネット」に置き換えたら、今の世でも通用してしまいそうなセリフです。
また、知識についてはこんなことを言っています。

私は前提として知識の共有に興味がありません。というか嫌いだ。
並の人間が知を欲すると悲劇を招きかねない。
そもそも、それを扱うのに相応しい資格を持ち合わせていない普通の人に知なんて必要ないでしょ。
(4巻 p17)

知識は、それを扱うに相応しい人間が独占すべきだと、彼は主張するのです。
異端審問官に研究をかぎつけられたときも、必要最低限の研究結果のみを残し、その他すべての雑多な記録は焼却しようとします。
ですが、自身に知識はなくとも、地動説の考えを期せずして橋渡しすることになったオクジーは、それを止めようとしました。

…あ、あまり他人を排除しすぎると、間違いに気づきにくくなるのでは… それは研究にとってよくないんじゃ……
(中略)
『自らが間違っている可能性』を肯定する姿勢が、学術とか研究には大切なことじゃないかってことです。
三者に反論が許されないそれは―――――
信仰だ。
信仰の尊さは理論や理屈を超えたところにあると思いますが、
それは研究とは棲み分けられるべきでは?
(4巻 p120~123)

オクジーの言うそれは、科学哲学者のカール=ポパーの言う「反証可能性」であり、心理学者の鈴木光太郎の言う「科学とは、絶対的真実を認めず、常に誤りを修正し続ける活動」でもあります。
バデーニは

我々は目指すべき絶対的真理を放棄することになる。
そして学者は永久に未完成の海を漂い続けるのだ。
その悲劇を、我々に受け入れろと?
(4巻 p126)

と、反証可能性の存在、絶対的真実の不存在を「悲劇」と称し、そんなものは受け入れられないと詰め寄りますが、バデーニはそれに、「そうです」と力強く肯定します。

それでも、間違いを永遠の正解だと信じ込むよりマシでは?
(4巻 p127)

C教が覇権を握っている中世ヨーロッパ。神という絶対的存在や、「永遠」に対する考え方への信じ方は、今とは比べ物にならないほどに強いでしょう。絶対的な真理は過たず永遠に存在する。そう強く信じるからこそ、そこに思考の美しさを見出したからこそ、バデーニは天動説に人生を捧げようとしたのです。
奇しくも、学者でも聖職者でもない卑俗な人間オクジーだからこそ、「信仰」と「研究」に線引きできたのかもしれません。
4巻の最後では、知識の橋渡しをしてきたオクジーが、研究結果を持って逃げようとするバデーニのために、異端審問官らの前に立ちはだかりました。それは彼の信仰のため。自分を感動させた地動説への信仰。
より洗練されたものになるために反論可能性を残すべきという科的な態度と、自分を感動させたもののために他人の言葉に耳を貸さず己の心に殉じるという信仰への態度は、オクジーの中で矛盾しません。前者は世界にとっての地動説であり、後者はオクジーにとっての地動説。別の言い方をすれば、前者は地動説という枠の内側での論理的整合性の話であり、後者はその枠組みそのものへの思いなのです。
彼の生命は、この後に絶たれるのかもしれません。ですが、地動説を残そうとする彼の思いは、また次の人間へと託されるはずなのです。それは積み重なる知なのです。



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