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漫画の話です。

『葬送のフリーレン』雪山手ぶら一人旅で気づいた、アニメと漫画で違う想像の余地の話

 面白いぞ『葬送のフリーレン』アニメ。

 ケルティックなBGMがマッチしているのが意外で、20~30年前にちょっとケルトミュージックブームが起こったのを思い出しました。エンヤとか。

 それはそれとして、アニメを見ていて気になったこと、より正確には、漫画を読んでいて少し気になっていたけどアニメになって明確に意識したことがありまして、それは、フリーレンたちの旅装です。いくらなんでも軽装すぎやせんかと。
 それがもっとも意識されたのは17話のザインとの別れのシーンで、フリーレンらと別れたザインはまだ雪の残る山道を、着の身着のまま手ぶらのままで一人旅立ったのです。
 冬 山 を 舐 め る な 。
 女神の加護も甚だしいのですが、でもこれは原作通りなんですよね。

葬送のフリーレン 4巻 p150

 冬 山 を 舐 め る な 。

 もちろんフリーレンたちも負けず劣らずの軽装で(三人で荷物はフリーレンの持つ鞄とシュタルクの担ぐ斧だけ)、まあこの軽装の理由が〈荷物を異空間に収納する魔法〉でも女神の加護でも作画コストの軽減でもなんでもいいのですが、それ自体は作品の魅力を減じるものではありません。旅のリアリティがなければいけない作品ではないですから。

 しかし、漫画ではさほど気にならなかったことが、なぜアニメになって強く意識されたのか。
 思うにそれは、静止画(漫画)と動画(アニメ)の違いなのではないでしょうか。
 漫画はコマとコマが非連続的に描かれる、すなわち一枚の絵ごとに時間が経過しているので、その時間的・空間的隙間は読む側が想像で補っています。絵ごとの時間経過はシーンにより異なり、1コマ移動するだけで何時間も何日も経つようなケースもあれば、ほんの一呼吸分のケースもあります。

葬送のフリーレン 4巻 p110

 このコマ群では、コマの間の時間経過は会話の間合い程度ですが

葬送のフリーレン 4巻 p103

 このコマ群では、数時間、あるいは日付が変わっています。でも、それを読んでて不自然には感じない。このように読み手は、描かれていない時間経過を、無意識の裡に調整しながら埋めています。いわば、読み手にとっての主観的な時間が流れているのです。

 で、その時間経過を埋める想像は、すべてを詳細に設定するわけではありません。たとえば上のp110のコマ群では、修行と日常のほんのワンカットを描いているだけなので、その間に何をしているのかを補完するには自由度が高すぎます。ですので、「なにか他の修行をしたり生活を送ったりしているのだろう」と漠然と思い(もちろん詳細な想像を膨らませてもいいのですが)、自分なりに不自然にならない何かがあるのだと考えるのです。
 この「自分なりに不自然にならない何か」がキモで、旅の道中で異常なほどに軽装なフリーレンらを見ても、無意識の裡にそれを異常と感じさせない想像が働いて、旅を舐めてる軽装をなんとなく見過ごせてしまうのです。

 でも、動画のアニメですと事情が変わってきます。現に動き、音声が流れる、すなわち客観的な時間が流れているアニメだと、少なくともひとつながりのワンシーンの中では想像の働く余地が減じる(描かれていることそのものを捉える配分が大きくなる)ので、そこに不自然な描写があったときに、想像による補完をしづらくなるのではないか、と思うのです。その所作や振る舞いに、リアリティ、現実味、実際に起こりうるかどうかが気にされやすくなると言ってもいいかもしれません。
 なので、山の雪道を着の身着のまま手ぶらで一人旅する異常男性は、一つのコマの中で描かれるだけでは見過ごしやすいけど、いざ動くと(実際の時間経過の中に放り込まれえると)その異常さが際立ってしまうんですね。

 それと関連した話だと、魔法使い試験に臨むラヴィーネやカンネ、ユーベルなんかの格好も、漫画のグレースケールの静止画だと気にならないけど、色がついて動くアニメだと、お前ら正気かコスプレパーティーじゃねえんだぞってくらい場違いな格好に見えてしまいますね。野山でそんな肌をさらすなよ。藪や蛭が怖いぞ。

 まあそれに文句があるわけでなく、漫画では気にならなかったことがなぜアニメでは気になったのか、というお話でした。人間の想像って、いろいろと自分の都合のいいように働くと思うんですよ。

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