また『チ。』のお話。
6巻から始まった第3章の重要人物ドゥラカ。早くに母を、そして一か月前に父を亡くした幼少期のドゥラカは、父の死以降、彼が亡くなった朝になると共同体の輪から離れ、一人泣いていました。父を亡くした悲しみと共同体の人間の信仰の板挟みにあい、誰にも見られぬよう涙を流していた彼女に対して、残された唯一の肉親である叔父は、その「悩みを解決する三つの魔法」を与えました。曰く、「神は存在しない」。
曰く、「考えろ」。
曰く、信念。
この三つの魔法。
「「神ナシ」の世界で「考え」てると、いつしか自然と三つ目の魔法が生まれる。信念ってやつだ。」
「信念?」
「そうだ。コレがあれば不安に打ち勝ち泣きやめる。」
(6巻 p81)
この叔父の教えを胸に刻み付けたドゥラカは長じて相当の知恵者になり、第3章の時間軸の主人公となるのですが、さてこの叔父の教えで興味深いのは、第一と第二の魔法です。
まず第一の魔法「神は存在しない」。これは、C教の純朴な信仰者にとって、今まで使っていた価値判断の物差しを捨てろと言うのと同義です。この「価値判断」は、日常の細部から生きる意味まで、生きる上で非常に多くの部分に浸透しています。
家族や隣人にはどう振舞うのがいいのか。
道で物を拾ったらどうするのがよいのか。
なぜ結婚するのか。
生きる意味とは何か。
死んだ先には何があるのか。
小から大まで、生きる中でのいたるところに神、あるいはその教えが判断基準として存在しています。
あるいは神は、思考の天井と言ってもいいでしょう。たとえば、ドゥラカが村長に今後の村の発展のためにどうするべきか弁をふるっても、長老はそれを否定します。なぜかと問うドゥラカに、彼は一言こう答えるのです。「それが神の教えだからだ」と。
神という不可知の存在が、それ以上思考が進むことを阻むのです。
いずれにせよ、それが「存在しない」と叔父はいうのです。
価値判断の物差しを取り上げられるのは、着の身着のままで荒野に放り出されるようなもの。どこに行けばいいのかわからず、何をすればいいのかもわかりません。
まず、その状態が人間の真実の姿であり、それを受け入れろというのです。
なので、そのうえで二つ目の魔法が必要です。すなわち「考えろ」。
叔父は言いました。
その為に文字を学べ。本を読め。
「物知りになる為」じゃないぞ。「考える為」だ。
一見、無関係な情報と情報の間に関りを見つけ出せ。ただの情報を、使える知識に変えるんだ。
その過程に、知性が宿る。
(6巻 p80)
世界にはあらゆる情報が転がっています。むしろ、情報で構成されていると言ってもいいくらいです。目の前にあるパソコンあるいはスマホからも、物質的な情報(色や形、質感)、文化的な情報(使用言語、アイコンの形状)、経済的な情報(機種の値段、キャリアか格安SIMか)、社会的な情報(入れているアプリの種類)等、読み取ろうと思えばいくらでも情報があります。
で、その情報同士に関連性を見つける。「無関係な情報と情報の間に関りを見つけ出」すことで、「使える知識に変える」。そこに「知性が宿る」。
つまり「知性」とは、情報を何らかの関係性で結びつけて知識にすること。いいかえれば、個々の情報を一つの体系(=知識)にまとめること。
これは、いわば情報を知識として一つ上の次元に据えることであり、ただ情報を集めることとは次元の違う知的行為なのです。叔父自身、「物知り」を決していい意味で使っていないのはこのためでしょう。「物知り」とは、単に情報を集めただけの者に過ぎません。個々の情報の要素を抽象化し、他の情報の要素と共通点を見つけ、関連性のある情報として結び付ける。そのような抽象化の作業は、ただの情報収集と一線を画するものです。つまり、「知性」にまた別の説明をつけるなら、情報の要素の抽象化ともいえるでしょう。
ところで、叔父は情報を知識とすることを知性と評しましたが、この作業にはもう一次元上のものもあります。つまりそれは、無関係に思える情報同士を知識として結び付けたのと同様、無関係に思える知識同士を結び付けることです。いわば、メタ知識を生み出すことです。
個人的にはこのメタ知識のことを「知恵」と呼んでいます。
たとえば何か問題に突き当たっている人から「なにか知恵はないか」と問われる状況。このとき欲されているのは、情報でも知識でもなく、知恵です。手持ちの材料では解決できない問題に対し、そこにない何かを持ってくる、あるいは既に持っているけど関係ないと思っていたものにヒントを見出す。それは、問題系を抽象化し、それに対応できる別の知識系を関係づける行為と言えます。
ゆえに私はメタ知識を、知恵と呼ぶのです(当然、知恵をさらに関連付けていくメタ知恵もありえますが、それ以上はひとくくりに知恵ということで)。
さて、叔父から魔法を授けられたドゥラカは、どうしたか。
「神はいない」と前提した。その上で、今自分を悲しませていることについて必死に考えた。今彼女の手には、狩りに出て死んだ父が遺した血塗れのお金がある。
父は狩りに出て命を落とした。命の危険があっても狩りに出なければいけなかったのは、命を賭けてでもお金を稼がなければいけないから。なぜお金を稼がなければいけないのかと言えば、そうしなければ生きていけないから。お金があればそんなことをしなくてよかった。お金があれば父は生きていられた。貧乏は弱い。貧乏は不幸せだ。だから、お金を稼がなければいけない。心から不安が消えるまで。
「これが私の信念だ」。
血まみれのお金から、そこから読み取れる情報を抽象化し、生活の状況やお金の意味、必要性などを論理的に考えて、叔父の言う通り、「信念」が生まれました。
この論理的な思考も、抽象化のもたらしたものです。血塗れのお金という具体的な事物だけでは、それから離れた観念的な物事を考えられませんが、そこに抽象的な意味(文化、社会、経済など)を見出すことで、人生の指針と呼ぶべき指針を見出せたのです。
抽象化。論理的思考。いずれも訓練が、少なくとも自覚的な行使が必要な行為です。ただ漫然と生きているだけでは身に付きません。
それをちゃんと言葉にして教えられたあたり、叔父はかなりの知恵者だったのでしょう。共同生活の中で嘘をついて怠けたり、わが身可愛さに姪を教会に差し出したりと、やってることはひどいもんですが、そうやって立ち回るだけの頭があったわけです。
とまれ、学者であれば当然それらが必要なわけで、地動説を研究した彼や彼女にも備わっていたはずです。叔父によってそれを教えられたドゥラカ。彼女自身、地動説には心動かされましたが、彼女が感じ入ったのはその内容そのものより、それが人々に知れることで社会に与えるであろう影響力です。その意味で彼女は、地動説の本をメタ的に把握していたと言えます。
そんな彼女が6巻の最後で出会ったあの人物。25年の歳月を経て、どんな人生を経てその立場になったのか。その人物がドゥラカと出会ったことで生じる新たな知の化学反応は。
7巻もまた、楽しみです。
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