突然ですが、物語のリアリティって何でしょうね。
リアルとリアリティもまた別物ですが、思うにリアリティとは「物語世界に実在感を与える種々のディティール」ではないでしょうか。その意味で、私たちの現実世界で起こりうることが正確に描写されたリアルとは別物で、物語世界で描写されたことが現実世界では実際に起こりえないことでも、それを読んだ私たちがそこに実在性、本当っぽさ、作品世界の強度を感じられれば、そこにはリアリティがあると言えます。
じゃあ、どうやってリアリティを与えられるのかと言えば、それにはいろいろな方法がありそうですが、逆に、どうしてしまうとリアリティを失ってしまうのかという点について、最近気づいたことがあります。
現在月刊少年マガジンで連載中の『カインズオブブルー!』。ジャズに目覚めた女子高生の漫画ということでジャズ好きの私は追っていたのですが、2026年8月号9月号と連続して、ある描写を読んでスンとなってしまい、それこそがリアリティの消失とも呼べる感覚だったのです。
その二つの描写は別個のものなのですが、8月号のそれは、高校からアルトサックスを始めた少女しえりが陰口を言われるシーン。初心者にも関わらず自前の楽器を購入し、入学前の春休みから吹奏楽部に参加して練習している彼女について同級生らが、「いつも同じところを間違えている」と嗤っているのをしえりは聞いてしまいました。
9月号のそれは、そのしえりが、主人公のいつみと奏太朗とのトリオで屋外ライブに参加したシーン。元々参加するはずだった別の経験者のために描かれた譜面を必死に練習した彼女のソロが終わったとき、とある事情であわや演奏全体が止まりそうになったとき、観客が「ジャズってアドリブなんだから、譜面なくても演奏できるんじゃない?」と口にしたのを聞いて、若くしてピアノの熟練者である奏太朗は、「頭の中に浮かんでる音をそのまま出力する事だって初心者には難しいんだ」としえりを擁護するようなことを思いました。
さてこの二つのシーン。共通しているのは、この作品の中での「素人」の基準のおかしさです。
高校からサックスを始めた、わずか数か月の経験者でしかない人間が、譜面を間違えることを嗤われたり、経験者向けに書かれた譜面をたとえ完璧に演奏できなくても暗譜したり。そして、初心者じゃなければ頭の中に浮かんだ音をそのまま鳴らすことができることになっていたり。
いや、そんなん無理ですよ。それができるのはもう初心者じゃないですよ。
いくら日本の義務教育が音楽に手厚くて、譜面の読みからを授業で教えているからって、それまで個別に音楽を習ったことのない人間がそうそう簡単に譜読みをできるものでもないし、サックス(に限らず木管楽器)のソロなんて指が動いてナンボですから、そんなもんを始めて数か月の人間が暗譜できるのなら、もうその人は将来のビッグプレイヤーですよ。
頭の中に浮かんだ音を鳴らすのだって、それができるのはよっぽど音感が磨かれた人間で、単音ならまだしもメロディでなんてのは高校三年間みっちり吹奏楽でやった人間を無作為にピックアップしたってできるやつの方が少ないですよ。初心者どころか中級者の基準もだいぶ怪しいですよ。
こんな具合の「素人の基準」のおかしさ。で、素人というのはつまりは一般人とか普通の人ってわけですが、その基準がおかしいと作品世界の実在性が一気に揺らぐわけです。要は、普通の人が全然普通に見えない、本当にいるようには思えないってことですから。
念のため付言しておけば、音楽がテーマの作品で素人の基準が高ければ常に実在性が揺らぐとも限らず、少なくとも本作は、読み手と同じ常識を共有している世界であるがゆえに、そんな素人離れした人間が素人扱いされていることに強烈な違和感が生まれました。もしこれが「みんながみんな音楽がうまくて当たり前な特殊な社会」の作品であれば、私たちのそれとは違うおかしな世界なのだと、かえってリアリティを補強する描写になります。
重要なのは、その作品世界にはどういう常識が設定され、そして実際にその常識を踏まえたどんな生活があるのか、ということです。
ここで同じジャズ漫画である『BLUE GIANT』シリーズを見ますと、主人公のダイは楽器を始めてわずか数年で日本のジャズクラブ最高峰の舞台に立ち、世界に飛び出し、幼いころから楽器をずっと触っていたり、レジェンドプレイヤーを父に持ったりという人間を押さえて、世界中の若手ナンバーワンテナープレイヤーの称号を得ているのですが、この彼のある種異常な成長をおかしいとは言いません。なぜなら、このようなある種異常な成果を上げている人間というのは、将棋の藤井王位や野球の大谷選手とか、現実にいるからです。
どの分野も最上位層はバケモノぞろいで、そこはもはや我々一般人の思う基準や常識なぞが通用しない世界ですし、もしその最上位層だけが持つ基準があるにせよ、それすら日々更新されています(前記のふたりはその好例でしょう)。
『カインズオブブルー!』も、主人公のいつみがどれだけ異常な才能を見せてもそれは問題ありません。それは、どの分野にも存在しうるハズレ値ですから、普通や平均から大きく飛び出たデータが一つだけ(あるいはごく少数)あっても、普通や平均にはたいした影響は与えません。普通や平均の母数が圧倒的に大きいからです。
しかし、その圧倒的多数であるはずの普通や平均の値がおかしいとなると話が変わってくる。明らかにおかしいある分野での普通や平均が、それらが存在している世界の他の分野の普通や平均とどうにも噛み合わない。そうすると、リアリティが失われる。
それこそが、「素人の基準」が揺るがすリアリティなのです。
とはいえ。
『カインズオブブルー!』のこの描写にリアリティの喪失を覚えてしまうのは、私が音楽経験者であるからかもしれません。
たとえば『シオリエクスペリエンス』も、私は作中の吹奏楽部員が他人のアルトサックスを冷静な悪意でもって壊すシーンを見て、一気に気持ちが醒めてしまいました。いくらなんでも楽器経験者はそんなことしないよ、と。ですが、少なくとももう25巻まで出ている同作が一定以上の人気を博していることは事実ですから、そこにリアリティの喪失を覚えない人の方が圧倒的多数だったのでしょう。
また、同作の上記エピソードの近傍で、野球部員がバットで同級生を襲うシーンが(たしか)あり、初読のときの私はそれをスルーして、吹奏楽部員の振る舞いにだけしょんぼりしていたのですが、そのしょんぼりしたすぐ後に、「何で自分は吹奏楽部員が他人の楽器を壊すのはありえないと思っているのに、野球部員が他人をバットで殴ることは問題ないと思っているんだ?」と気づき、ひとり笑ってしまいました。結局私も、自分でサックスをやっていたから、楽器経験者が他人の楽器を壊すその振る舞いに引っかかったわけで、野球をやっていなかったから、野球部員の悪辣な暴力はスルーしてるんです。結局のところ、リアリティのセンサーは、読んでる人間の経験、もっと言えば偏見に基づいて働いているにすぎないんですよね。
元落語家で現ラジオパーソナリティーの伊集院光氏は、落語が題材の『あかね噺』やラジオ番組制作が題材の『ラヂオの時間』、深夜ラジオリスナーが主人公の『さむわんへるつ』を十分楽しめないと言っています。これも、その畑で生きている(きた)人間には、作品の中の「そうはならんやろ」というおかしな描写が目についてしまい没入できないということで、その畑にいない人間が大多数ならば世間的に十分な評判を得られるということです(余談ですが、『昭和元禄落語心中』はそんな伊集院氏も楽しめた落語漫画です)。
それを敷衍してまとめると、ある分野の普通や一般の基準がおかしいと感じると受け手はそこからリアリティを見出せなくなるけれど、その分野に親しんでいる人が少なければ世間的な評判を得るのに支障は少ない。しかし、その分野の裾野がある程度以上大きくなると、リアリティの喪失を感じる人が多くなってしまう、よろしくないことになる、と言えそうです。
まあ以上の話は「お前の心が狭いだけでは?」という問い対して明確な答えを私から返せないのですが、真実の答えは皆さんそれぞれの心の中にあるのです……
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