『好きな子がめがねを忘れた』自信がなくて変化が怖い二人と、「そのままのあなたでいい」と祝福する二人の話
アニメが始まり、最新刊である11巻も発売された『好きな子がめがねを忘れた』。
前巻にて晴れて両想いになった小村くんと三重さん。つい色々なことを考えてしまう小村くんに、何考えてるんだかわからない三重さんと、一見正反対の二人がこうなるまでもだもだと長い時間がかかりましたが、改めて1巻から読み返してみたら、意外にも二人は似た者同士、そこまで言わなくとも、大きな共通点があることに気づきました。
それは、二人とも自己肯定感が低いこと、あるいは自分に自信がないこと。そしてそれゆえに、変化を恐れること。
そしてこの作品は、そんな二人がお互いに祝福を送り合い、自分に自信を持ち、変化を受け容れられるようになる物語でもあったのです。
二人の自己評価
小村くんの自己肯定感の低さ、自信のなさは、折に触れ現れています。
たとえば、バレンタインで三重さんからチョコをもらえるか思い悩むシーン。
しょうがない… 来年の友チョコに期待しよう…
…来年も 「友」チョコなのか…?
…いや…本命チョコをもらえる気もしないけど…
…あるいは… あるいは俺が三重さんにこ…告白して…受け入れて… もらえたら…
(2巻 p72~74)
たとえば、文化祭の準備の後に、三重さんのために靴を家までもっていってあげたシーン。
家まで押しかけて 迷惑になったかも 絶対挙動不審だったし お母さんきれだった
ごめん三重さん 俺 明日も元気な三重さんが見たくて
(5巻 p91)
たとえば、自分の趣味がつまらないものなんじゃないかと思い悩むシーン。
何もないゆったりとした時間にこもるのが好きだ でも唯一の趣味が無になることってなんだ? 三重さんを好きになるまでは気にしてなかったことだけど
絶対に三重さんの隣にいたいのに なのにどうしても自分に自信が持てない
(7巻p79)
これらはほんの一例ですが、三重さんにかいがいしくお節介を焼くくせに、そんな自分に自信がない小村君です。7巻の例は、非常に象徴的ですね。
対して三重さん。小村くんから見れば、自分にはない魅力で溢れ輝かんばかりの女神(主観)ですが、その実彼女の内心が描かれるシーンでは、しばしば彼女の自分への自信のなさが漏れています。
だから…いっぱい気を付けて 小村君と皆に迷惑をかけないようにしなきゃ
(4巻 p75)
こんな感じです。自分は「忘れっぽ」くて「ぼーっとして」て「ばか」だから、「皆に迷惑をかけ」てしまうという自己評価。彼女も自分に自信がないのです。
このように、意外な共通点が見つかった二人。この自己肯定感の低さの先にある悩みもかなり似通っています。
自己肯定感が低いと思い悩む人間は、当然それを高くしたいと願いますが、そのために必然的に発生する変化が怖く、その一歩を踏み出せないのです。
変化への恐怖 現状への安住
三重さんの隣にいるために、よりよい自分になりたいと思う小村くんですが、その一歩を踏み出せません。なぜなら、よい方へ変われる自信がないから。
きっと情けない顔をしてるんだろう そりゃそうだ
嫌われるかもしれないし 今の関係が壊れるかもしれない 不安でいっぱいなんだから
(2巻 p79)
何かが(具体的には三重さんとの関係が)変わったときに、それがポジティブな方へ変化すると小村くんは思えません。さいころの目はイチが出るにきまってる。まあ自己肯定感が高い人間ならハナからポジティブな変化を期待できるでしょうから、そもそもそれが低い小村くんには当然の意識でしょう。だから、変化が怖い。変わることが不安。変化をもたらす一歩をなかなか踏み出せません。
三重さんは、上の引用にもあるように、「ちゃんとしようと思」っても他人のやさしさに「甘えて」しまい、変われないタイプ。変わりたいと思っても、今のままでも居心地がいいと思わされてしまって、ついつい変わらないままを選んでしまいます。
小村くんの言葉を借りれば、「今が幸せで このまま何も変わらなことを祈ってしまいそうになる」(8巻 p99)二人なのです。
でも、そんな二人も変わっていきました。変わる勇気を持てました。
変化の覚悟、嫌われる覚悟
その最初の転換点は、4巻での校外学習です。
「校外学習のとき …ほんとに すごくうれしかった」
(8巻 p98)
とあるように、それは二人の共通認識なのでしょう。
その校外学習では、皆の予想通りめがねを忘れた(正確には持ってきた予備の眼鏡が伊達だった)三重さんが、それを隠そうと振舞った結果、結局小村くんに「迷惑」をかけてしまい、思わず彼の前で泣いてしまいました。
……小村くんが私を励ましてくれるたびに 安心しちゃう私がやなの
(4巻 p95)
上での引用のように、「皆に迷惑をかけないように」と前日布団の中で決心したにもかかわらず、めがねを忘れてしまった三重さん。まずその事実に自己嫌悪し、そんな自分に気を遣ってくれる小村くんに甘えてしまう自分にまた自己嫌悪してしまうという負のスパイラル。
そして、涙が止まらない三重さんをどうにかして落ち着かせようと小村くんが覚悟を決めて言ったのが、
(4巻 p98)
この殺し文句。このセリフこそが、変化を恐れずに前に進もうとした小村君の最初の一歩でした。
なぜってこのセリフ、小村くんは、三重さんとの関係が変わる、有体に言えば三重さんにキモがられて嫌われる覚悟をしたうえで、それでも彼女を慰めようと言ったものだからです。
俺にもあるよ
自分で自分がいやになっちゃうような そんな気持ち
(4巻p97)
こんな思いを踏まえて発したのが、先のセリフでした。
「絶対に知られたくなかったし 絶対に話したくなかった」のは、それを言えば三重さんに嫌われると思っていたからです。なんせ、自分を頼ってほしいから日常生活で不便を強いたいってことなんですから、そりゃあ言えませんよ。
でも、小村くんは言いました。三重さんを安心させるために。今の、三重さんが自分を頼ってくれるなあなあの嬉し恥ずかしな関係が悪い方に変わるかもしれないのに、それでも。
これは、彼の大きな一歩です。
「そのままのあなたでいい」という祝福
そして、三重さんにとってもこの出来事が非常に印象深いものになったのは、上記のセリフの後の、「……三重さんの助けになれるのが 嬉しいから」があったからでしょう。
「助けになれるのが嬉しい」とは、あなたのために何かすることが私の幸いである、を意味する奉仕の言葉であり、また、失敗をするあなたであろうと私にとって特別である、という祝福の言葉です。素晴らしいあなただからこそ、その助けになれるのはとても嬉しいことなのです。
つまり小村くんはこのとき、自己嫌悪に沈む三重さんを、そのままのあなたでも素晴らしいのだと言ったも同然なのですが、これはとても大事なことだと思うのです。
思うに、人が自分を変えようとしたときに、「嫌いな自分」からの斥力をそのエネルギーにしたとして、果たして変わった先の自分を好きなることはできるのでしょうか。変わった自分を肯定的に見ることはできるのでしょうか。
嫌いな自分を出発点にしたら、そのゴールも結局、嫌いな自分から地続きのものになってしまい、「『嫌いな自分』ではなくなった今の自分」という、嫌いな自分を基準としたものになってしまうのではないでしょうか。
なので、そうではなく、「今の自分もいいけどこうなった自分はもっといい」というように、今の自分を肯定的に見た上で変化した方が、より健全な変化になるのだと思うのです。
そのため、今の自分が嫌いな三重さんに、今のあなたは特別である、今のあなたは素晴らしい、というメッセージを小村くんが送ったことで、三重さんはいやなところもある今の自分を受け容れて、その上で変われるようになったのだと思います。
だから、すぐにはこの言葉の意味がわからず、一晩考えてもなお不明であった三重さんも、翌日にまじまじと見た小村君の表情に、友人であるあすかちゃんにも浮かんでいた恋の色、誰かを特別だと思う色を見て取って、「私 小村くんの特別なのかな そうだったら うれしいな すごく そっか きっと私も」と自分の感情を自覚したのです。
三重さんから小村くんへの祝福
さて、この三重さんが小村くんからもらった「ありのままのあなたでいい」という祝福のメッセージ。逆に小村くんはもらえたのかと言えば、ちゃんともらえています。
それは水族館での出来事。自分は三重さんと不釣り合いなんじゃないか、自分は三重さんに比べて、何もなくて空っぽで、劣った人間なんじゃないかと一人悩む小村くん。「唯一の趣味が無になること」である自分に少なからずの絶望を覚えていました。
そんな中、楽し気に水槽を眺める三重さんに、なぜ魚が好きかと小村君が問うと
基本はこういう… 水槽をゆらゆら~って泳いでるの見るのが好きで…
(中略)
見てるとね… なんかこう… えっとね
(7巻 p85,86)
と予想外の答えが返ってきました。
まさか自分の趣味と同じ理由で好きとは思わず、呆然としながら
「…俺が コインゲーム好きなのも 同じ理由…」
「えっ」
「無になれるから…」
「あっ あー! なるほど」
(7巻 p87)
「一緒だね」。
この言葉に、どれだけ小村くんは救われたでしょう。「無になること」が趣味である自分でいいのかと思い悩んでいたのに、その趣味がまさか大好きな三重さんと一緒。
そんな趣味でもよかった。そんな自分でもよかった。
三重さんは意識していなかったでしょうが、これは間違いなく、今の小村くんはそのままでいいという、彼女からの祝福のメッセージでした。
祝福された小村くんは、勇気を得て、自分から三重さんの手を握り、
つくづく俺は面倒な奴だと思う 頑張ろうって決めたのに 今度は本当に頑張っていいのか不安になって
でももう大丈夫だ
何もない俺のままでいいって思えたから
(7巻 p92~94)
と今の自分を強く肯定できたのです。
変化を受け容れる覚悟 現在と未来への祝福
時は少しずつ流れ、中学卒業、高校進学が意識されだします。三重さんが女子高への進学を希望していることもわかり、「今が幸せで このまま何も変わらなことを祈ってしまいそうにな」っても、そんなことはあり得ないのです。
でも、今の自分を肯定でき、変化することを恐れなくなった二人には、それは大きな障害とはもうなりません。特に小村くんは、胸を張って言います。
「…怖いのかな なんか… 変わっちゃうのかなって思うと…」
「…俺もそう思ってた
…でも 三重さんと一緒に変わっていけるなら それがいいって思ったんだ」
(中略)
「俺もずっと自信がなくて こんな俺が三重さんと…いいのかなって思ってた
…でも…三重さんが俺に自信をくれて 俺は俺のままでいいって思えたんだ
…俺… そのままの三重さんがいいよ」
(10巻 p138~140)
改めて小村くんが送る、祝福のメッセージ。そのままのあなたでいい。あなたとなら変わることも怖くない。現在への祝福であり、未来への祝福です。
変化を恐れていた二人は晴れて恋人同士になりましたが、その未来は常に変わるし、変わり続けていくのだと、気づきました。覚悟しました。
三重さんがめがねを忘れて そうして始まった俺と三重さんの日々が
形を変えて 色を変えて
これからも続いて行くんだ
(11巻 p138,139)
そのままではいられない今。変わり続ける未来。そんな当たり前のことを、受け入れられたのです。
改めて読み返して、自分に自信がなく、変化を恐れる中学生の心情の移ろいを、思った以上に丁寧に織り込んでいる作品であったことにびっくりしました。
10巻で恋人同士になって、11巻の終りで元旦を迎えて、12巻で完結予定。高校入学するあたりでエンディングでしょうか。拙者後日談大好き侍、本編終了後の高校、大学その後のエピソードを見たいと血涙を流しながら望む者にて候。見たい…
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『正しくない先輩』の正しくない物語で描かれる平熱の正しくなさの話
ジャンプ+にて7/17付で配信された読み切り作品、『正しくない先輩』。攻めた読み切りを数多く配信しているジャンプ+ですが、本作の攻めっぷりはかなりのもの。なにが攻めてるって、まさにその「正しくなさ」。
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「先輩」が大学を卒業して以来、二年半ぶりに再会した「私」。カレー屋でマグロとカレーの相性に舌鼓を打ちながら思い出話に花を咲かせようとした矢先、先輩が唐突に告げる自殺宣言。そんなショッキングなスタートを切る本作は、「先輩」が死を選んだ後までを淡々と描き切ります。
先輩は自殺ようと決心し、本当に死にました。「私」は止めませんでした。「私」は正しくない先輩が好きでした。
これだけといえば、これだけの物語。でも、本当に「これだけ」でしかないかのように描く平熱の筆致が、この作品の恐るべきところだと思うのです。
「先輩」は、「正しくない」ことをします。会社を無断欠勤し、知り合いにスパムを送り付け、賃貸の部屋にペンキをぶちまけ、そして、自殺しました。
「先輩」は言います。「正しいことばっか言うんじゃねえよ」と。
仕事は出来ないし こうやって逃げてばっかりだし
短絡的で そのくせプライドは高くて
やることなすこと自分でも制御がつかない
迷惑かけるなって? そんなの無理だ
これ以上生きたら 何するか分かったもんじゃないだろ
(p26)
自分は社会に不適合であると思い、この社会でこれ以上生きていくことが苦痛で、これ以上生きていたらどんなことをするかわからない。だから自殺する。
そう考え、最後っ屁のように「正しくない」ことをして、仲良くしてくれていた後輩である「私」にこれから自殺することを告げ、いったん怖気づいて諦めながらも、「私」の予想を裏切るようにして本当に死ぬ。
「先輩」は、「正しくない」まま死にました。
「私」は、「正しくない」先輩が好きでした。「正しくなくて 不完全で予想外で 面白い」先輩が好きでした。
「私」は、あの日の自分が「正しくない」とわかっていました。自殺を決心した先輩を止めず、山奥へ消えようとする先輩をただ見送りました。そのまま、自販機でジュースを買って、流れ星に目を奪われました。大好きな先輩が死ぬのを止めませんでした。
結局先輩は怖気づいて、「私」と一晩語り明かしましたが、実はその日のうちに本当に自殺をしていました。
先輩の自殺は決行され、「私」はそれを止めませんでした。
先輩は救われなかったし、「私」は救いませんでした。
「私」は救われなかったし、先輩は救いませんでした。
自殺をすることが正しいか否か、と問えば、正しくないことでしょう。
自殺をしようとしている人間を止めないことが正しいか否かと問えば、正しくないことでしょう。
だからこの物語は、正しくない先輩と、正しくない「私」の、正しくない物語。でも二人は、ほぼずっと平坦でした。
正しいとか正しくないとか、そういう話をすると、人はすぐにヒートアップします。作中でも、先輩は上司から「正しいことばっか」言われて、作中で唯一と言っていい激情に駆られましたが、またすぐに平静を取り戻しました。
この冷静さ、別の言い方をすれば日常感が、本作の最も印象的な点です。正しくない自殺を正しくないことを前提としたまま、大きな悲嘆も喜悦もない日常の空気として描き切る。最後の「私」の感情の発露が日常かと言えば審議ですが、それでもそこには、奇妙なほどの冷ややかさがあります。
正しくない自殺をここまで抑制的に描いたことで、読後には戸惑いともいえる感触が残ります。
一度は自殺を止めた先輩が本当に死んでしまった悲しみなのか、「私」の予想が裏切られたおかしみなのか、先輩の生きる苦しみを思う辛さなのか、その程度で死を選ぶなんてと感じる憤りなのか、二人の生前の関係を思う抒情なのか。
どの感情を選ぶのが「正しい」のか、そんな不安さえ思い浮かぶ結末。平熱のままに描かれたこの「正しくなさ」の物語に、感銘を受けたことですよ。
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『君と宇宙を歩くために』違くて同じ人間の、違うけど同じ感情の話
今回も、『君と宇宙を歩くために』のお話。
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主人公の一人である宇野は、作中で明言はされていないものの、自閉スペクトラムと思われる、「ちょっと人と違うところ」のある高校生男子。「記憶することが得意」だけど、「沢山のことを同時に行ったり臨機応変にすることが苦手」で「知らない人が沢山いる所は特に苦手」な性質があります。
後者の性質が彼の社交を困難なものにしていて、見知らぬクラスメートから突然脈絡のない話題で話しかけられると、途端に恐慌に陥ってしまいます。
(1話 p29)
大事なメモをいたずら半分の同級生に取り上げられ、「臨機応変に対応することが苦手」な宇野はその場から逃げ出してしまい、あとで小林からそのメモを返してもらい、彼と一緒に自分の家へ帰りました。
失くしたと思ったメモを学校で探しているときや、小林と同道する帰り道では、普段とあまり変わらない姿の宇野でしたが、家に帰るとこそには、様子を一変させた彼がいました。
(1話 p37)
声を上げて涙を流しているのです。
この変わり身の理由は、彼の大事なノートに書かれていました。
(1話 p38)
《悔しくても泣くのは家に帰ってからにする》
宇野は、自分の性質をそのまま出すと、社会生活でにおいて不利益を被りやすいことを学び、少しでもマシな生活を送るため、そのようなルールを作ったのでした。
自分にはわからなくても、自分には見えなくても、それを悔しく思い、悲しく思い、泣きたくなるほど辛い人がいる。
このシーンは私に、そんな当たり前の事実を強く突きつけてきました。
人は、自分のわかることしかわかりません。わかることはわかっているから、それについて悩むことはなく、当然のものとして受け入れます。
わからないことについてとりうる態度は三択です。わかったふりをして受け入れるか。わからないまま受け入れるか。あるいは、わかっていないことに気づかずわかった気になるか、です。
宇野をからかった同級生は、宇野のことを「ヤバい」やつだと「わかって」いました。彼の性質も何も知らず、ただ自分が変だと思うことをやっているやつだから「ヤバい」やつだと理解し、危険性はないけどイジったら面白そうなヤバいやつ、として宇野をからかいました。
「ヤバい」宇野は、(ヤバくない)自分とは違う人間。そんな意識が、同級生にはあったでしょう。自分とは違う行動様式の人間だから、物事の受け止め方も自分とは違うし、感情表現や感情の種類も自分とは違う。そんな意識が、あったでしょう。
いえ、彼だけでなく、同級生の行動を横で見ていた小林にも、多かれ少なかれ似ている、そんな意識があったでしょう。
でも、そうではありません。宇野の性質が一般的な社交を困難にするものだとしても、喜怒哀楽や羞恥、悔しさ、といった人間の当たり前の感情が、彼にも当たり前にあるのです。そのコントロールの仕方が、他の人とは違うだけなのです。
からかわれれば恥ずかしい。馬鹿にされれば悔しい。そんな当たり前の感情があるのです。
わからないことがある時は一人でも宇宙に浮いてるみたいです
聞いても教えてもらえない時もあります
上手にまっすぐ歩けない
それを笑われたり怒られたりすると 怖くて恥ずかしい気持ちになります
(1話 p42)
この宇野の言葉を聞いた小林が、「ああ…何かわかるな 俺もバイト先でいつもそんな気分になる」と思ったように、宇野も小林も、違う人間だけど、同じ人間なのです。
そして、このシーンが私に強く突き付けられたということは、私自身、「そんな意識」があったのでしょう。自分とは行動様式が違う人間は、自分とは違う感情で動いている。感情の湧き方が自分とは違う。そんなことを無意識の裡に思っていたのでしょう。
でも、そんなことはない。なくはないこともあるだろうけど、そんなことはない方が圧倒的に多いはずです。
わかったものしかわからない私たちにとって、私たちがわかっているものは、本当にわかっているものなのか、それともわかっている気になっているだけで本当はわかっていないものなのか、その両者を区別することは原理的に困難です。
そして、優秀な物語は、その困難なことに気づくきっかけを、時に強烈に、時に優しく与えてくれます。今回は、けっこう強烈でした。家に帰ってからの宇野の嗚咽と、彼のメモの中身は、非常なインパクトでもって、わかったつもりになっていた私の全然わかっていなかったところを、蹴っ飛ばしてくれました。
また、宇野のメモの中身の、《→何が悪かったか考えてみる ①お姉ちゃんに聞いたり相談してみる ②自分で調べてみる ③(判読不能)》の部分もインパクトがあります。
これを己にルールで課しているということは、宇野は自分が周囲の世界のルールを理解していないことを理解している、ということです。
自分にはその意味が理解できないけど、何か悔しく辛い気持ちになる理不尽な目に自分は遭った。そこにはなにか、「悪かった」ことがあるはずだ、と宇野は考えています。その「悪かった」ことは、彼自身が周囲のルールを破った「悪」なのか、それとも周囲の人間の悪意などの「悪」なのか、どちらもありえます。ただ、そのどちらであれ、宇野自身にはその場でそれがどういう「悪」だったかがわかりません。ただ、「悪かった」ことによって悔しさを覚えたので、その「悪」がなんだったのかを理解する、そうやって周囲のルールを少しずつ理解していく、そうやって自分の生活を少しずつより良いものにしていく。
そんな当たり前なこと、当たり前すぎてみんな意識しないようなことを彼はしているわけで、それはとりもなおさず、彼の生活がそれだけ辛いものだという証左です。
いってみれば、ルールのわからないスポーツをいきなりやらされたようなもの。野球は日本ではメジャーなスポーツで、なんとなく程度でもルールを知っている人は多いですが、全然知らない人から見ると、複雑怪奇極まりないものなようです。
キャッチャーが捕ったボールがストライクとボールで何が違うのか。ファールグラウンドに飛んだボールがファールなのかフェアなのか。なんでランナーは勧めたり進めなかったりするのか。
野球の概要 - Wikipedia
これを読んでみると、サッカーやバスケに比べて圧倒的にルールが煩雑なことがわかりますよ。
宇野は、いきなりバットを忘れてバッターボックスに立たされるようなもの。
このバットで何をするのか。どうやら投げられたボールを打てばいい。打ったら右側にあるベースに向かって走ればいい。次のバッターが打ったらピッチャーの後方にあるベースに走ればいい……
そんなことを、少しずつ少しずつ、学んでいきます。
宇野は本人の特性ゆえにルールを覚えるのが他の人より遅く、周りの人間がおおむね覚えた段階で、彼はようやくルールの存在に気づいたくらいのものです。だから、自分にわからないルールに出くわしたときは、誰かに聞いたり、自分で調べたりしなければいけない。そしてそれを忘れないように、あとで参照できるように、メモに残している。
それは、彼が「宇宙を歩きたい」と強く願っているから。「わからないことがある時」でも、安心して生きられるようになりたいから。
そんな強さが、彼のメモの文字から浮かび上がってくるようでした。
さっそく第2話の前半が公開されています。
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比喩の話だけかと思ったら、天文としての宇宙の話もちょろっとでてきました。これからどんな物語になるんだろう。わくわくしますね。
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『君と宇宙を歩くために』『税金で買った本』宇宙の中で自分を繋ぎとめる、言葉という命綱の話
2023年8月号のアフタヌーンで掲載された、泥ノ田犬彦先生の『君と宇宙を歩くために』。
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高校生が宇宙を目指す的な『宇宙兄弟』みたいな作品かなと思ったらあにはからんや、「”普通”ができない正反対な2人の友情物語」という惹句にあるように、真面目になるのがダサいと思ってしまうヤンキー気味な小林と、自閉スペクトラム(とは明言されてませんが)の転校生・宇野が出会う、社会とコミュニケーションの物語です。
予想を裏切られながらもグイッと引き込まれるストーリーで、話の完成度が非常に高く読み切りかと思ったほどなのですが、どうやら2話以降は&sofaに掲載とのこと。追っていきたいですね。
第一話で心に残るシーンは多くあるのですが、その一つがこれ。
(p43)
タイトルにも掛かっているこれ。
「記憶することが得意なのですが 沢山のことを同時に行ったり臨機応変にすることが苦手」という自身の特性に悩む宇野は、上手く対応できない事態に直面して、焦ったり困ったりするときを「一人で宇宙に浮いているみたい」と表現し、「上手にまっすぐ歩けない」と無力感に襲われるのですが、困ったときにすぐ参照できるようにと日常のルーティンを書き留めてあるメモを、無重力空間での命綱である「テザー」とすることで、「宇宙を歩きたい!」と前を向いて生きることを宣言するのです。
このメモは、物語を駆動させるキーにもなっているのですが、日常のルーティンを書き留める、すなわち行動などのマニュアル化あるいは言語化は、作中で別の形でも現れてきます。
それは、小林がバイト先で失敗した後に、他のスタッフからアドバイスを受けたシーンです。
(p62)
マニュアル化とは、連続的な行動について、適切な言葉で適当な単位に分割することですが、そうすることで、実際に行動した時にやり方を忘れてしまっても思い出せるし、途中で止まっても止まったところからやり直せるし、行動について他人と共有することも容易になります。
宇野とは違う形で、小林は行動のマニュアル化によって救われたのです。
上で「マニュアル化あるいは言語化」と書いたように、マニュアルとは言語によって作られるものですが、本作では、他にも言語の特性を表している場面があります。それは、上で引用した小林のシーンの少し前、バイト先で、良かれと思ってやったのにそれを失敗してしまっていたことに気づいたシーンです。
あ~辞めてぇ
浮かれてただけじゃん
一個出来るようになったからって何だよ 何も変わんねーじゃんかよ
バカにしやがって…! クソッ…!
ああ いやちがう そうじゃない
《上手にまっすぐ歩けない それを笑われたり怒られたりすると怖くて恥ずかしい気持ちになります》
それだ
これはイラついてるんじゃねえ 怖くて恥ずかしいんだ
宇野もそうだった? お前も俺と同じだったのかな
(p56,57)
今まで真面目になることから背を向けていた小林が、宇野との出会いを経て、今やっていることに真面目に向き合ってみようとやる気を出したにもかかわらずうまくいかず、かえって余計な仕事を増やしてしまった。
自分のミスに陰で悪態をつく他のスタッフの会話を聞いて、小林は「バカにしやがって」と怒りを滲ませるのですが、宇野の言葉を思い出して、自分の今の気持ちを落ち着いて整理し、この感情が「イラついてる」のではなく「怖くて恥ずかしい」という気持ちだと理解したのです。
すなわち、自分の感情の適切な言語化です。苛立ちの解消方法と、恐怖や羞恥の解消方法は別であるように、行動だけでなく、感情も適切な言語化をすることで、問題の解決を容易にするのです。
さてこのシーン。最近、他の作品でもよく似たシーンを見た覚えがあります。それがなんの作品かと言えば『税金で買った本』の第56話。
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この前後編の話は主人公である石平少年の過去編なのですが、その中で、現在の友人である山田との出会いが描かれています。山田が湯本という女生徒にひどいことをしたという噂を不審に思った石平が、山田をとっつかまえて詳しい話を聞こうとするのですが、問い詰めてくる石平に対し山田は噛み合わない返答をするばかり。それでも根気強く(そうか?)話を聞いた石平は、山田の考えていることをこう表現するのです。
(税金で買った本 56話 p15)
(同上 p17)
この石平の喝破と、小林の気づきが、同質のものだと私は思うのです。
すなわち、山田と小林二人とも、自分の思考や感情に、適切な言葉を与えられていないのだと。
日本語には非常に多くの単語がありますが、その単語全てを知っているわけでなく、ましてや使えるわけでなく、日常的に見聞きし使用するのは、その中のほんの一握り。ましてや、まだ若かったりするなどしてボキャブラリーが少ない場合には、幅広い意味を持つ言葉でたいていのことを片付けてしまいます。
「ヤバイ」「スゴイ」「ダサい」「エモい」「むかつく」「ハンパない」などなど。世代ごとに膾炙する単語の違いはあるでしょうが、いい意味悪い意味両者を含意できる単語がどちらの意味を表しているのか理解するには、非常な文脈読解能力が必要とされます。
しかし、そのような便利すぎる言葉の多用は、えてして、自分や他人の感情や思考を極めて大雑把にまとめることになってしまいます。
テストで平均点を越えた嬉しさも、恋人ができた嬉しさも、アイスのあたりが当たった嬉しさも、三年間最後の試合で勝った嬉しさも、せいぜい「超」「鬼」「激」など、程度を表す言葉を加えて量的な差異を表すくらいですべて「ヤバイ」で表してしまうことは、湧き上がった感情の中に含まれている、「嬉しい」以外の他の細かい成分をすべて無視し、すべて同じものとまとめてしまうことになります。
その結果が、小林や山田のような、自分で自分の感情がよくわかっていない状況なのです。
小林が、自分では苛立ちだと思っていた感情の下には恐怖や羞恥があり、山田が自分では怒りだと思っていた感情の下には羞恥や屈辱ありました。でも、それらの細かい感情になんと名前を付けていいかわからなかったために、「苛立ち」や「怒り」というラベルを貼ってしまい、苛立ちや怒りを晴らすための振る舞いをとってしまっていました。
しかし、苛立ちの解消が恐怖や羞恥の解消に、怒りの解消が羞恥や屈辱の解消につながるとも限りません。小林や山田は、解消しようと思っても解消できない鬱屈に悩まされ、それを解消できない無力感が精神を苛んでいきます。
あるいは、問題を解消できない無力感が、感情や状況に適切なラベルを貼る能力の形成を妨げたという方向もあり得るでしょう。
小林は、小学校の二桁の割り算で躓いて以来、どうやって理解すればいいかわからず、どうやって教えを請えばいいかもわからず、他人からカッコ悪く思われないように、「バカ」って思われないように、「マジメに授業受けるのが怖くなって フケって逃げてた」のですが、勉強がわからなくなってしまい、自身の問題解決能力の自信を無くしてしまったために、小林は努力しない自分を選び、主体的にサボって、知能的・情緒的な能力の向上を放棄したのです。
これを、彼らの個人的な問題と片付けてしまうのは簡単ですが、そうしてしまっては何も生みません。学校教育や、家庭環境や、地域社会など、一度躓いた人間をフォローできるセーフティーネットはなにかしらある、あるいはあったはずなのです。もしくは、あるべきだ、と言った方がいいのかもしれませんが。
ともあれ、『税金で買った本』では、石平が山田に指摘をすることで、山田は自分の感情を前より適切に理解することができました。
『君と宇宙を歩くために』でも、小林は、宇野の頑張りを思い出し、自分の感情をきちんと腑分けしたうえで冷静になり、他のスタッフにミスを謝罪し、それによって彼らからアドバイスを受けられました。
心も、行動も、自分でもよく理解できていないままに振舞おうとすると、周囲とうまくかみ合っていればいいですが、いったん齟齬が起きると、途端に世界はぎくしゃくし始め不安定になりますが、それらに適切な言葉をつけられると、不安定な世界に放り出されても、自分の居場所をはっきりさせられたり、安定している場所へ自分を引っ張っていくことができるのです。
言葉が生まれたことで、人間は精神世界をより深められるようになり、また莫大な情報を他者に伝達できるようになりました。言葉はあまりにも日常的ですから見過ごしがちですが、まさにこうして言葉にすることで、その重要性を改めて意識できますな、と。
お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。
武士道とは(異世界だろうと)死ぬことと見つけたり 『異世界サムライ』の話
立身出世に興味なく、器量を活かした女の幸せも興味なく、ただ剣に生き剣に死ぬことを望んだ女侍・月鍔ギンコ。戦場で死に損なってしまった彼女が、己を殺してくれる敵よ来たれりと仏に祈ると、その願いは聞き入れられた。すなわち、怪物が跋扈する異世界に彼女は飛ばされたのだ。
オーク、バジリスク、ドラゴン、そして勇者。数々の強者が存在する世界で、果たして彼女は満願を成就できるのか……
派手なアクション。テンポのいい会話。転がっていくストーリー。そしてなにより、主人公ギンコの人間性。これが本作をとても魅力的なものにしているのです。
異世界/転生ものと言えば、主人公は前世の心残りを晴らそうとしたり、あるいは前世で苦労したからスローライフを目指そうとするのが多いもので、そのテの主人公は第二の生をポジティブに謳歌しようとするものです。
しかし、本作の主人公ギンコは、元々いた中世日本で、無双の剣の腕で出世することにも、器量よしで良縁を得ることにも興味はなく、ただ武士として生き武士として死ぬことを望むのみ。戦で死に損なった後は、その望みはいよいよ強まるばかり。
そう、彼女はとても前向きに望む後ろ向きな願いとして、つまり、よりよく死ぬために、異世界に跳んだのです。
「武士は矢弾飛び交う合戦にて散るが誉
わた…某も そのように死にとうございます
怒涛の如く押しよせる敵兵相手に一騎当千に斬りまくり
そして討たれて死ぬのです あとに残すは骸のみ」
「お前の剣は天才だ 剣の道で成功も名誉も意のままだぞ」
「立身出世興味なし」
「では女として生きるのは? お前は器量もいいし…」
「父上 某 女に非ず 侍に御座候!!」
(1巻 p8~12)
この宣言どおり、ギンコは関ケ原の合戦に先鋒隊の足軽として参加し、長槍も持たず太刀のみで敵兵を斬り斃していくのですが、鉄砲の弾が鉢金に中り気絶、その間に戦は終わり、他の人間の骸が死屍累々と広がる中、ただ一人生き残ってしまったのでした。
大戦は終わり時は泰平、武士として死ねた名もなき武士たちを羨み、生き残ってしまった己を恥じ、幽鬼のように諸国を流離っては自分を殺してくれるものを求めて立ち合うのですが、天才と呼ばれた彼女に敵う者はおらず、ただ自分のものではない骸を増やすだけ。
仏門に帰依し、僧より説法を説かれるもまるで響かず、生き永らえた恥を、罪を深めるばかり。
仏さま 某は…たくさん人を斬りました
地獄で灼かれる覚悟です
某も彼らのように
熱く 戦いの果てに死にたいのです
赦しはいらぬ 敵がほしい
私が鬼なら 悪鬼羅刹のはびこる地獄の世へ いっそ——…
(1巻 p50,51)
こう祈った時に起こった奇跡は、心の底からの祈りに報いた仏の救いか、それとも人を殺し続けた彼女への罰か。
次の瞬間、ギンコは怪物が跋扈する異世界にいました。
ゴブリンが森を走り、オークが街を襲い、ドラゴンが空を駆ける世界。
人間たちは怪物たちと日々戦っている世界。
すなわち、戦いが、強敵が、死が身近にある世界。
こうしてギンコは、己が「熱く 戦いの果てに死」ねる(かもしれない)世界へやってきたのです。
死は恐ろしいものであれど、不退転の覚悟でそれを乗り越え、信念のために戦って死ぬ。それこそが武士の生きざま。尊ぶべき美しいもの。
まさに理想的な理念ですが、理想的なだけに現実にそれを内面化できている武士は多くなく、実際にそれに殉じて死のうとした(そして死に損なった)ギンコは、元々の日本でも稀有な人間ですが、じゃあそれが日本とは違う異世界にいったからといって、そこではマジョリティになれるかといえばそんなことはありません。日本でも異世界でも、ギンコの死生観・倫理観は非常に奇特なものです。
弱きを助け強きを挫くといった普遍性のある正義と、戦いのために己の命を平気で投げ出す(そして立ち会った者の命も同様に平気で討ち果たす)破滅的な死生観が、まったく矛盾なく同居しているギンコは、異世界でもやはり異端視されるのです。
周りの見る目ある者たちからそのように警戒されるギンコは、まるでハンターハンターのゴンか、ドリフターズの島津豊久のよう。
こいつは善悪に頓着がない
(中略)
あるのはただ一つ
単純な好奇心
その結果すごいと思ったものには善悪の区別なく賞賛し 心を開く つまり こいつは
危ういんだ… 言うなれば
目利きが全く通用しない 五分の品……ってとこか
(HUNTER×HUNTER 10巻 p91,92)
これが怖いのよ
この時代のニッポンのブシは 同じ笑みで感謝と死が同居してるから!!
(ドリフターズ 2巻 p195)
こんな二人と対比できるような主人公なんですから、魅力的じゃないわけがないんですよね。モンスターに襲われた人間を助ける救世主でありながら、それを知らない人間からは「ドブ川みたいに血の匂いのするヤロー」よばわりされるこの二面性。それがギンコ。
世界を救うことも、スローライフを送ることも興味なく、ただ戦いの果てに武士らしく死ぬことを望む彼女が、異世界でも異端視されながら、どう生きるのか。そしてどう死ぬのか。
異世界にいる、「勇者」と呼ばれる強者たちは彼女を味方だと認識してくれるのか。それともギンコにとっての宿願となってくれるのか。
モンスターは、人間は彼女にとって待ち望んでいた敵なのか。それとも、彼女こそが世界の敵なのか。
今後物語がどう描かれていくのか、とても楽しみです。
comic-walker.com
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『みちかとまり』と少しだけ神話と構造主義の話
連載開始時にもレビューをした、田島列島先生の『みちかとまり』の単行本がついに発売されました。
その時は(一挙掲載だった)1、2話までのレビューでしたが、第8話までの単行本一冊分がまとまったので、今一度つらつらと。yamada10-07.hateblo.jp
8歳の少女・まりが竹やぶで出会った、人か人ならざるか定かではない子供・みちか。
みちかを保護した老婆いわく、「竹やぶに生えていた子供を 神様にするか人間にするか決めるのは 最初に見つけた人間なんだ」とのこと。
自分でも知らない内にみちかの運命を握らされたまりは、それ以来、不思議なことが盛りだくさん。みちかに連れられ、常識の埒外にある世界へ足を踏みいれてしまうのです。
あらためて単行本で読んでまず気づいたのが、掲載時はカラーだった第1話の冒頭、みちかとまりが燃えるなにかを見つめているシーン、立ち上る煙を見上げているまり(おそらく)が、そのあとの本編から、髪型はもとより体型まで変化しているんですよね。明らかに胸が膨らんでいるので、第二次性徴が始まっているということ。つまり、本編開始時8歳のまりから、数年単位で時間が経過してからの時系列で、この冒頭は描かれているということになります。
みちかとまりの出会いは、一夏の幻のようなファンタージではなく、もっと長い期間にわたる交流であることが、物語の最初の最初で示されていたわけです。前2作の連載とも、主なストーリーは数か月間の出来事として描かれていましたから、つい本作もそういう物語かと思っていたのですが、そうではなかったようです。まあ、冒頭の部分は数年後のエピローグかもしれませんが。
また、以前のレビューでも触れましたが、竹やぶで見つかった少女(みちか)や、冒頭で燃やされた煙を見つめるまりなど、「竹取物語」のオマージュが見て取れるように、神話やおとぎ話の要素をふんだんに盛り込んでいくだろうことが1、2話の時点で予想されていました。
実際、物語が進むと、みちかと一緒にあの世と思しき場所に入り込んだまりは、そこで供される食べ物や飲み物を口にするなと、みちかから忠告されますが、あの世の食べ物を口にするとあの世のものになってしまうという話は、日本神話のイザナミを思い出させます。
ついでに言うと、その一連のシーンで登場する、奇妙な顔をした二人組の着る服には「yellow fountain」の文字がありました。「黄色い泉」。すなわち黄泉。あの世ですね。
この二人組や、もうちょっと後に登場する座敷の奥にいた着物姿のモノたちは、ある共通した「奇妙な顔」を持っているのですが、これもなにか神話的な意味合いがあったりするのかもしれませんね。
その他、田島列島先生的だなあと思ったのが、第3話でのまりの(おそらく未来の時点から回想している体での)モノローグ、「理解できる言葉をつなげて なんとか世界をつくっていくけど 理解できる言葉以外のものは 世界にありすぎたし 私はコドモすぎた」というもの。
言葉をつなげて世界をつくるというのは、自分の知っている言葉でもって世界を認識するということ、すなわち、世界を言葉で分節化するということ。
これは19~20世紀にかけて活躍した言語学者ソシュールに端を発する構造主義的な考え方ですが、田島列島先生の最初の連載『子供はわかってあげない』の記事でも書いたように(『子供はわかってあげない』交換によって生まれる人と社会のつながりの話 - ポンコツ山田.com)、田島列島先生の作品にはレヴィ=ストロースやマルセル・モースなど、構造主義的、人類学的な発想が色濃いのが特徴で、本作でもそれがはっきりと出ています。
前2作に比べ、神話要素とグロ要素をふんだんに盛り込んでいる本作。物語がどこでどう曲がりくねって、最後にあの冒頭へ連れていかれるのか、そもそもあの冒頭の意味は何なのか。まだまだ見えないところがたくさんです。もう2巻が待ち遠しいぜ。
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『さよならミュージアム』描かれる眼と描かれない目の意味の話
となりのヤングジャンプに掲載された読み切り作品、岩井トーキ先生の『さよならミュージアム』。
tonarinoyj.jp
美術部員の主人公・空木(うつぎ)は人付き合いが悪い。親とも部員とも顧問とも最低限の口しかきかず、ただ、自分がもっとも美しいと信じるもの、すなわち人間の横顔をひたすら描くばかり。そしてそんな彼女が横顔のモデルにしているのは、毎日数分だけ乗り合わせる、同じバスで通う名も知らぬ女生徒。話しかけることもせず、ただ彼女の横顔を美の化身とばかりにこっそり拝むばかり。しかしある日、その彼女に異変が起こって……
というストーリーの短編作品。
己の内側に閉じこもり、良くも悪くも己の道を行く空木が、どのような出会いで、どのように殻を破っていくかが一つの見どころなのですが、本作で面白いなと思ったのが、「横顔」を好む空木の心情と、その表現です。
空木が横顔を好む理由が以下のとおり。
横顔は美しい
何故なら こちらを見ていないからだ
「見ていない」「こちらに関心を持っていない」「干渉しない」「取り繕わない」
つまり――
素の姿という事
素の美しさが現れる横顔を描くことは 私にとっての美術なのだ
「素の姿」「素の美しさ」を求めるがゆえに、横顔を偏愛する空木。他人から関心を持たれたくない、すなわち他人の素の姿を見たいから他人に対して冷淡なのか、それとも他人に冷淡でい続けた結果自分に干渉してこなくなった他人の横顔に素の美しさを見つけたのか、ニワトリタマゴの話はさて措いて、その心根ゆえに、彼女は人と目を合わせません。
自分の絵を褒められてもほぼ無視し、帰り際の挨拶すらそっぽを向きながら頭を下げるだけ。生活のレベルを勝手にベリーハードに爆上げてる態度ですがそれはともかく、そのような態度の彼女から見る世界には、彼女に向けられる目が存在しない、正確に言えば、彼女に向けられる目が彼女には見えていません。
それは明らかに作者による意図的な描写で、顧問も、同じ美術部の部員も、両親さえも、彼や彼女の目が描かれることはほとんどなく、それが描かれるときは、彼や彼女が空木に目を向けていないとき、すなわち、空木を「見ていない」、「関心を持っていない」、「干渉しない」ときの顔、つまりは空木の思う「横顔」です。
(p8)
それが非常にわかりやすく描かれているページです。
「目は口ほどに物を言う」の言葉どおり、漫画において、目の表現は非常に重要です。セリフはなくとも、目の描き方如何で感情は雄弁に表せます。英語の顔文字は口で、日本語の顔文字は目で感情を表現するとはよく指摘されることですが、日本語の顔文字の異常なまでの豊富さは、様々な目の表現に由来するのでしょう。
そしてそれは、裏を返すと、目を描かないことでそのキャラクターの人間性を剥奪できるということです。顔のどのパーツをなくすより、目の省略はキャラクターのキャラクター性を失わせます。
最近では、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく』で主人公ぼっちの父親が、全身を登場させ声まであてられているにもかかわらず一切目を描かれることがなかったのが印象的でした。主人公たちの女子高生や、ぼっちの母親、妹という女性キャラはなんのさわりもなく描かれているのに、男である父親だけはひたすらに目を描かれない。女の子だけのキャッキャウフフな世界から人格を有する男という存在を排除する、制作サイドの強い意思を感じましたね。
『さよならミュージアム』の話に戻りますが、空木以外のキャラクターが空木に目を向けているはずのシーンでその目は描かれず、彼女から視線(関心)が外れた時にようやく目が描かれる。つまり、そのときに初めて空木にとって、他の人間たちが自分の意識を向けるに値する(素の美を有する)存在になっていると言えるのです。
そしてそれは、空木の横顔のモデルになっている少女にも言えることで、彼女の顔には一貫して目が描かれています。空木にとって彼女は、一貫して自分の意識を向けるに値する存在なのです。
で、それら目の描かれ方、目の意味するところを踏まえると、クライマックスに描かれているものと、エピローグ的部分での描写に非常な味わいが生まれるんですよね。これは是非実際に読んでほしいところ。
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