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漫画の話です。

寡黙な眼鏡と空気読みのギャル 凸凹二人の手探り恋模様『正反対な君と僕』の話

 高校生の初交際話の漫画だって面白く読めちゃうんだから、読む人間と作品の距離なんて大して関係ないってのが分かりますね(挨拶)。
 ということで、現在ジャンプ+で連載中の、『正反対な君と僕』の話です。

 クラスの陽キャグループに属し、休み時間のたびにイツメンと騒がしくしゃべっている鈴木(♀)は、まったく場違いなタイミングで隣の席の谷(♂)に話を振っては塩対応されている。周りのイツメンたちは「また鈴木のいつものムチャぶりか」と呆れるだけだけど、鈴木の内心は

(1巻 p8)
 「正直、大好きです。」
 そう。実は谷L♡VEの鈴木。
 無理にでも話しかけちゃうのは、なんとか会話をしたいから。
 ムチャぶりしかできないのは、自分が谷を好きだと気づかれるのが怖いから。ムチャぶりに谷が塩対応してくれている間は、自分が本気で谷を好きだと思われずに済むから。
 他のクラスメートは谷のことをただの「「物静かな眼鏡の子」ぐらいにしか思ってない」けれど、鈴木から見える谷は、「自分の意見しっかり言うし 人によって態度変えたりしないし 無駄に人にあわせたりしない」人。そんな彼は、周りの目が気になっていつも空気を読んでしまう鈴木にとって、憧れの人なのです。

「谷くんに憧れているのに 私は 谷くんとは真逆の人間なのだ」

 自分にないものを持っている人に憧れるのは世の常。同じく、自分にないものを持っている人に劣等感を抱くのは人の常。
 憧憬と劣等はどちらもその対象から己を遠ざけてしまうものですが、じゃあその対象に恋心も抱いてしまったらどうしましょ、ということなわけです。
 憧憬と劣等による斥力にプラスするところの、空気読みによる現状維持指向。恋心による引力でそこを突破するのは相当に大変ですが、偶然とふとした拍子とその場の勢いで突っ切るのは若さゆえの強さでしょうか。

(1巻 p40)
 強いですね。
 でも、勢い余っての告白は裏付けのない脆さの裏返し。ここから二人がしっかりした関係を深めていくには、勢いでは詰められない歩み寄り、手探りでの凸凹の埋め合いが必要になってきます。
 第3話での、初デートで映画を観に行った鈴木と谷が、同じ映画について同じ「おもしろい」という感想を持ってもその実、二人が着眼していたところがまるで違った、というのはいいエピソードでした。かたや地名や人名などの言語野の記憶を軸にストーリーを記憶している谷と、かたやちょっとしたしぐさや振る舞いを軸にエピソードを印象付けている鈴木。二人の違いを端的に示しているし、そこでお互いがお互いの感じ方に感心しているのが、小さくて大事な歩み寄りって感じです。
 告白して付き合いだすところからスタートする第1話。そこからお互いの良いところに気づいたり、嫌なところに気づいたり、同じ好きなものを知ったり、まったく違う嫌いなものを知ったり、いろいろあることでしょう。山あり谷あり、プラスもありマイナスもあり、そんな曲道をくねくね二人で進みながら

徐々にお互いのこと知っていって 
「これが好き」て話した時に 「あ~好きそ~!」って言えるような…
わかってる人になりたいなって
(1巻 p155)

ってなれるような。
二人にはそんな未来をきちんと夢見ていてほしいなと思う作品です。
shonenjumpplus.com

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『スペシャル』読者も飲みこまれるキャラクターと同じ地平の不条理の話

 さて、『スペシャル』の最終巻が発売されたわけですが。

 3巻の途中くらいからきな臭さはたちこめだしていましたが、最終巻の4巻ではもうきな臭さで充満。噎せかえりそうなくらいきな臭くて、危うい空気で満ち満ちていました。
 狙われる伊賀。守ろうとする大石家。暗躍する、葉野の同居人(?)(父親の恋人?)(なにもわからない)である美倉。目的のためには拉致も人殺しも辞さず。まさかこの作品で暴力と血の臭いがするとは思っていませんでしたよ。ハンマーで人の頭を潰す音とか、死ぬ間際に投げつけられる罵詈とか、それまでの作品世界に圧倒的にそぐわないがゆえに、際立った違和感が読んでて消化不良を起こしそうでした。うぷ。
 そして、最終話の最終ページは、あまりにも唐突な破滅の示唆。不気味なサイレンが鳴り響いた直後に伊賀と葉野が見上げた先には、一体何があったのか。3巻第40話で何の説明もなく展開されたシェルター避難訓練の話は、あまりにも説明がないので当たり前のように受けれいていましたが、まさかそこにで鳴り響いていたサイレンが、最終話のサイレンの布石になっていたとは。シェルターへの避難訓練は、ただの形式的なものではなく、実際的なものであり、もともとそういう世界観だったわけです。たしかに、現実に地震や火災の避難訓練はしても、シェルター避難の訓練はしないもんなあ。

 そんな終末的終局を迎えながら、作品にはあまりにも多くの謎が残されています。
 伊賀のヘルメットの下は明かされたもののその意味は不明瞭で、葉野と一緒に暮らしていた美倉の目的や背後にあるものはわからず、大石家がもつ隠然たる権力は示されてもそれが何によるものかはわかりません。山中に刺さっている槍は言わずもがな、それが林立しているという「放場(はなちば)」についても、全く説明がないのです。
 これを投げっぱなしととるか否かは人によるでしょうが、私が感じたのは、不条理のカリカチュアでした。
 漫画であれ小説であれ映画であれ、作品中で謎が提示されればたいていの場合、最終的には見ている人間に中身が開示されるものです。作中の登場人物には疑問が残っても、作品世界を俯瞰して見ることのできる読者・視聴者には、個々の謎が関連しあってパズルを解くように、そこではどんな物語が語られていたのかがわかるようになっているものです。
 でも、本作ではそれがない。読者は作中の人物と同じレベルで、作中の謎に困惑します。いえ、伊賀の秘密や槍など、むしろ作中の一部の人物の方が事情を把握していることも多いでしょう。読者の理解は、なんでもない女子高生である葉野と同レベルです。
 葉野は終盤で、自分の知らない内によくわからない状況に巻き込まれ、生命の危機すら感じ、なんとか脱出できても友人とは永遠の別離をにおわされ、挙句の果てには空から迫る破滅を目の当たりにする。不条理の極みです。そして読者は、それとほぼ同じレベルの理解状況に叩きこまれる。そしてそのまま終わり。実に不条理です。
 
 現実を生きる私たちも実際に、知らない内によくわからない状況に陥ることはありえます。それにしたってこれほどじゃない。そんなことは思いますが、本当にそうでしょうか。それはきっと、そう思う私たちが単に幸運なだけ。世界を見渡せば、いや、国内を見渡したって、自分にはどうしようもない内にどうしようもないことになっている人は必ずいます。歴史を紐解けば、なんならwikipediaを見るだけでも、日々のニュースを見るだけでも、そんな例はいくらでも出てきます。
 作中の人物に不条理を味わわせ、その不条理に読み手を同化させ、最終的には何の救いも解決もなく同じ地平に突き落としたまま終劇。まるで、お前の人生もこんなもんだぞと突き付けるように。

 私の趣味で言えば、作品の謎はすべて知りたいものです。不条理は条理に解きほぐしてほしいのです。懇切丁寧に説明まではされずとも、それを推理できる程度の情報は出してほしいのです。でも、それらは許されないまま終わりました。胃の中に残った飲み込んだままの異物感は、消化できそうな見込みはありません。
 でも、この作品に限ってはそれもいいのかなと思うのはなぜなんでしょうね。
 独特の言語センスによる空気なのか。コメディ路線から気づかぬうちに連れ去られていた不気味への地続き感なのか。不条理の中でもがいているキャラクターたちへの同一感なのか。
 後味は決して良くありませんが、その良くなさは強い記憶になってしばらく残りそうです。
 いやホントにね、もうちょっと秘密が明かされたらね、よかったんだけどね…

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おせっかいは心の壁を溶かす『氷の令嬢の溶かし方』の話

 容姿端麗、文武両道、品行方正。でありながら、他の生徒と慣れ合わない孤高の高校生活。本名の字面も相まって、氷室冬華は「氷の令嬢」とあだ名されている。
 マンションで一人暮らしの火神朝陽は、そんな彼女がお隣さんであることは知っていたけど、人付き合いを顧みない彼女に声をかけたことはなく、ただお隣であるだけだった。
 でもある日、熱を出して早退したと噂になっていた氷室が部屋の前で意識を失いかけているのを朝陽は発見する。そのままにしておくこともできず、自分の部屋へ運び込みベッドに寝かせる朝陽。熱に浮かされている氷室の顔は、氷の令嬢とあだ名される普段の姿とは違い、年相応の女の子のものだった……

 ということで、とこみち先生の新作『氷の令嬢の溶かし方』です。
 高校生で一人暮らし。
 学校にはあだ名のつけられたマドンナ。
 そしてそのマドンナがマンションの隣の部屋。
 現実世界にどれだけいるかはわかりませんが、ラブコメ界なら石を投げれば当たりそうな設定ですね。御多分に漏れず、本作もそういう作品ではあるのですが、特徴的であるなと思うのは、やはりとこみち先生の筆致です。
 本作には原作小説があり、そちらの方は未読であるため比較はできないのですが、なんというか、過剰さがないのですね。
 学園のマドンナが持ち上げられすぎるであるとか、そんな彼女にときめいて常軌を逸する人間が続出するとか、主人公が学校一かわいい同級生と自宅で食事を共にしてもなんら特異な反応を示さないとか、そういうのがないわけではなく、とても静かに描かれている。その静かさ、抑制のきいた筆致、そういうものが、ヒロインのかわいさや、表にあまり出てこない感情の動きを際立たせてくれているのです。

 とこみち先生の作品はどれも、いい意味でキャラクターに本気さ、真剣さが感じられない印象があります。それはふざけているとかだらけているとかそういうことではなく、キャラクターの中心に虚無感がある、諦念がある、大事なものをつかむことはできない確信がある。そういう人は、どれだけまじめになっても、どこか本気になっていないよう見えるものです。
 いや、実際とこみち先生のキャラクターがそんなのを抱えているかどうかはわかりませんけどね? でも、とこみち先生のキャラクターたちは、世界中が幸福になることなどありえず、自分の思う通りにいくことなど存在せず、それを自覚したうえで、それでも目の前にある人生を精一杯生きて精一杯幸せになろうとしている。そんな印象があります。『ゆーあい』しかり、『君が肉になっても』しかり、『見上げるあなたと星空を』しかり。

 なるほど、孤高のヒロインがふとした拍子に素顔を見せて、関係性が近づいていくというのは王道でしょう。ベタでしょう。しかし、それは退屈と同義ではありません。描き手次第でそこに描かれる空気は千差万別。とこみち先生の王道ラブストーリーは意外ではありましたが、先生の特徴のよく出た作品になっていると思います。この作品目当てでがうがうのアプリいれましたからね。よいぞ。
gaugau.futabanet.jp

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映画が好きな隣のお姉さんが好きな僕と映画とお姉さん『隣のお姉さんが好き』の話

 毎週水曜日は映画の日。そう決めたのは先週のこと。映画が好きなわけじゃない。好きなのは隣のお姉さん。隣のお姉さんが映画が好きだから、彼女と一緒にいるために、映画を見たい。
 好きって何だろう。本当に好きなのに。全部好きなのに。
 隣のお姉さんはどんな人なんだろう。本当に知りたいのに。全部知りたいのに。
 でも、彼女は、すごく遠い……

 ということで、藤近小梅先生の最新作、『隣のお姉さんが好き』のレビューです。
 中学二年生の少年と、高校二年生の少女。片思いをこじらせる少年と、それを大人の包容力で受け止めようとしてやっぱり受け止めきれない少女の、痛々しくも生々しい、甘酸っぱくも辛辣な、恋の物語です。

 佑(たすく)はまだ恋も知らない中学二年生。自分がモテると根拠なく思い込める、まだまだピュアなお年頃。だらしない実の兄姉をダメな人間だと決めつけられる幼さと、家族一緒にお出かけできる幼さを持つ、まだまだ幼い男の子です。
 そんな彼が、ふとした拍子に見た、お隣に住む高校二年生の女子高生・心愛(しあ)の横顔。その美しさに心奪われた佑は、彼女が興味を持つ映画を口実に、なんとか心愛と会う機会を増やそうと画策するのです。それが、毎週水曜日の映画鑑賞。映画なんか本当は興味ないのに、ただ心愛と一緒にいたいから、心愛の顔を見たいから、無理やり約束を取り付けたのです。
 
 そんな振る舞い、身に覚えのある人も多いんじゃないでしょうか。好きな人に近づくために、好きな人の好きなものに興味があるふりをする。誰しも通る道でしょう。通らなかったようなモテに不自由しなかった人は戻るボタンでいいんじゃないかな。
 全国民の98%に覚えがあるものと仮定して進めますが、そんな不純な動機で始めたものって、なかなか興味を持てないことが多いと思うんですよ。別に自分の好きな人が懇切丁寧に沼に引きずり込もうとしてくれるわけじゃないですから、それ自体に興味がないものに触れても、早々興味はもてません。
 それは佑も同様で、心愛と並んで彼女の部屋で映画を見ても、映画に集中できない彼が見るのは、映画に集中している真剣な心愛の横顔ばかり。その顔は、彼の心を奪った魅力的なものであると同時に、今の彼には理解のできないものとしても映るのです。

 三歳差。
 大人になればほとんど気にも留めないような歳の差ですが、中学生にしてみれば令和と昭和くらいの隔たり。たった三歳差の心愛のことが、佑には全然わからないのです。
 なんでそんなに大人っぽいのか。
 なんでそんなに余裕があるのか。
 なんでそんなに映画が好きなのか。
 なんであなたのことがわからないのか。

 やっぱり大人になれば、わかるんです。相手のことがわからないのなんて当たり前だって。わからないことをスタートにして、それでもわかろうとできるんだって。
 でも、まだ中学生の佑にはわからない。わからない心愛をわかることを求めてしまう。大人っぽくて、ミステリアスで、自分には計り知れない彼女の全部を知りたいと思ってしまう。
 だから、佑には思いもよらない。そんな心愛だって、大人っぽくなんてないし、ミステリアスでもないし、佑自身のことをよくわかっていないってことを。
 心愛だってまだ高校二年生。それも、人付き合いの苦手な、自他ともに認める「めんどくさい」人。自分のことで手いっぱいだし、誰かもっと大人っぽい人に寄りかかって楽したいし、年下だろうが自分を好きなんて言ってくれる男の子が何を考えているかなんてわからない。
 そんな、お互いがお互いをよく見えていない、不均衡な物語。どっちが上とかではなく、どっちもどっちを見誤っている物語。そんなアンバランスでちぐはぐな恋物語なのです。

 このちぐはぐさ、恋愛未満の未(成)熟な関係性をよく象徴しているなと思うシーンが、二人が心愛の部屋で映画を見るシーン。二人は並んで映画を見るのですが、多くは集中できない佑が、たまにはふと気を奪われた心愛が、映画に見入っているもう一人の横顔を眺めます。
 これで思い出すのがサン=テグジュペリの『人間の土地』の一節。いろいろなところで見られますし、このブログでもしばしば引用していると思いますが

愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと。

人間の土地(新潮文庫) p216

 二人並んでいるのに、同じ方向を見ないで、余所見して相手の顔を盗み見てしまう。愛と呼ぶにはまだ幼い、気もそぞろな二人。
 これから二人の思いがどうなっていくのか、それはわかりませんが、もしそれが愛になるのだとしたら、きっと二人並んで映画に見入っている姿がその時なのだと思います。

 年下の佑はもちろん、年上の心愛もまだ大人とは程遠く、制御できない自分の感情に振り回されながら、少しずつ自分の幻想、すなわち自分が見たいと思っている相手の虚像が透けていって、見たくはなかったけど確かにそこにあると認めなければいけない相手の姿を認めていく様。これは恋愛に限らず、人の成長だと思うのです。
 その意味でこの作品は、コメディの衣をつけながらも時折生々しいむき出しの感情が見える、恋愛物語であり少年少女の成長譚だと思うのですよ。
mangacross.jp
  心愛さんめんどくさいよね…でもかわいいよね……いい………



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『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』コミュニケーションが生むドラマと、私が求めた/求めていなかったものの話

 昨日は勢いのままに『シン・ウルトラマン』の感想を書き殴りましたが、端的にまとめれば、「損をしたとは思わないけど、期待していたものではなかった」というものです。
 じゃあその私が期待していたもの、『シン・ゴジラ』は百億万点だけど『シン・ウルトラマン』は60点ちょぼちょぼだった私が観たかったものって何なのか、それを改めて考えたいと思います。

 『シンゴジ』と『シンマン』。どちらも半世紀前後も前に封切られた古典特撮シリーズのリメイクであり、そしてまた、どちらのシリーズも私はほとんど観ていません。リアタイでとかではなく、作品自体を。
 そんな人間がなんでまずシンゴジを見たかと言えば、監督である庵野秀明監督のヱヴァシリーズが面白かったから。特に、一新された使徒との戦闘シーンなど、大規模戦闘の映像があまりにもよく、なにより『ヱヴァQ』と同時上映された「火の七日間」(とは明言されてないんだっけ)がすんばらしすぎたから。
 そう、私、ああいう映像が大好きなんです。
 物理法則も日常的な遠近感も無視して動く巨大な存在。
 崩れ落ちるビル。
 燃え盛る街。
 逃げ惑う人々。
 抗うことのできない圧倒的な破壊。
 まごうことなきカタルシス。そういうやつが。
 あの「火の七日間」に心打たれた人間が、同じ監督が作った怪獣映画があると聞いたら、勇んで駆け込まないわけにはいきません。そして、その中身は期待以上の百億兆点でした。

 『シンゴジ』で良かったのは、その圧倒的な映像はもちろん、破壊の巨大さに反比例したかのような、ゴジラに対する側の人間の個人のドラマの小ささです。
 当時の感想(『シン・ゴジラ』ミニマムな物語とマキシマムな映像の話 - ポンコツ山田.com)でも書いてますが、

およそ2時間の上映時間の中で、人間個人のドラマがほとんどなかった。いっそ絶無と言ってもいいくらい。ゴジラという怪物、生きる災害と対峙する、組織としての人間、集団としての人間、群体としての人間を描き続けていた。

 だったんですよね。当時賛否両論あったこの作劇ですが、それが私にはとても良かったのです。

日本国は、他者の悪意にではなく、意思なき自然災害に対するのと同じように、ゴジラに立ち向かうしかなかった。交渉の余地なく、ただ、全身全霊で抗うしかなかった。その必死さが煮詰められた物語だった。

 生き残るための必死さ。ただ一つの目標に向けた叡智の集中。個による救済ではなく、群による打倒。
 そういう物語が好きなのです。

 と、私にとって『シンゴジ』の魅力は「マキシマムな映像美」と「ミニマムな(個人の)物語」の二つに集約されるのですが、『シンマン』は、個人の物語が増やされた分だけ映像美が削られ、結果的にその両方が私にとって不満足な方向にいってしまったのです。

 ただ、二つの作品の構造を考えると、そうなるのも必然なのかもしれません。
 『シンゴジ』も『シンマン』も、人間たちが巨大な生物(非人間)と対峙するという点は変わりませんが、前者は人間vs怪獣、後者は人間&ウルトラマンvs禍威獣&外星人であり、その違いは、人間が非人間の存在とコミュニケーションをとれるか否かです。
 『シンゴジ』のゴジラは、「怪物」であり「生きる災害」であり、そこにコミュニケーションをとる余地はなく、人間は「意思なき自然災害に対するのと同じように、ゴジラに立ち向かうしかな」かったのです。
 だから人間、就中、当事者国である日本は、それに対してまとまることができた。交渉なんてできないから、力には力で対抗するしかなかった。相手の意図を察することはできないから、落としどころなんて見つけられないから、どうやってゴジラの活動を停止させられるかという、ある意味で効率だけを追い求めればよかったのです。

 でも、『シンマン』はそうではありません、禍威獣はともかく、ウルトラマンをはじめとする外星人と、人間は言葉を交わせます。コミュニケーションが取れます。心理的駆け引きも生まれるし、他の存在(日本にとっては諸外国、外星人にとっては他の外星人)に出し抜かれやしないかというおそれも出てきます。効率だけではすみません。
 心理的駆け引きやおそれには、「個」が出ます。個人の考えです。つまりは心の交錯や葛藤。端的に言えばドラマです。
 人のドラマがつまらないとは言いません。むしろ、多くの物語ではそれが醍醐味でしょう。ですが、少なくとも私にとって、『シンマン』とそれは食い合わせが悪かった。特に、禍特対の面々。
 『シンゴジ』の巨災対のような「はぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児など、ドがつくほどの曲者揃い」を集めた感じを出したかったのでしょうが、巨災対よりも人数が少ないこともあってか、人間ドラマに尺的にも時間を割きやすいこともあってか、各人物へスポットが当たる時間が相対的に長く、さりとてその内面が十分に描かれるほど長くはなく、結果として、中途半端な変人ぷりが浮かび上がり、悪目立ちする結果に終わってしまいました(個人的には、特に浅見(長澤まさみ)の物語への馴染まなさに醒めてしまいました)。
 禍特対のみならず、政治家の面々も、意思決定や対外星人との交渉が褒められるようなものとは描かれず、苦悩する現場と対比される無能な政治家然としていました。というよりは、そういうものを狙った可能性が大なのですが、私にはそれが効果的なものとは捉えられませんでした。上で「個人の物語が増やされた分だけ」と書きましたが、その増えた物語もできの良いものではなかったからでしょう。対比が生まれず、全体的に心の動きが平板な人間たち、という風に映ってしまったのです。

 二時間弱の映画の尺というのは標準的なものですが、映像美とドラマを両立させるには、少し足りないものであったのだろうというのが私の感想です。クライマックスでのゾフィがとウルトラマンが対話するシーンで、説明調の会話ばかり数分続いたのは、そうしないとウルトラマンの内心を説明しきることができなかったからでしょう。TVでの毎週放送とは違う、2時間の映画一本の中でウルトラマンの心情を説明臭くならず視聴者へ伝えるには、圧倒的に時間が足りなかったのです。

 人間と対峙する非人間が、自然災害のごとき意思なき意図なき大怪獣から、言葉の通じる巨大な、強靭な、圧倒的に進んだ科学力を持つ外星人に変わったのが、『シンゴジ』から『シンマン』への変化。そして、『シン』シリーズには、『シン・仮面ライダー』が控えています。
 まだその全貌ははっきりしませんが、原典を踏襲するならば、今度の登場人物はすべて等身大の人間になることでしょう。ライダーも、ショッカーも、怪人もみな、技術もサイズも人間の枠を出ないものに留まることが想像されます。言ってみれば、より、各当事者間でのコミュニケーションをとりやすくなった。言葉を交わしやすくなった。つまり、ドラマを作りやすくなった。
 映画館で予告編を見た時点で、正直かなり見る気力はしぼんでいたのですが、その理由を改めて考えてみれば、まさにおおむねこれまで書いてきたことの通りです。私が求める映像美は減るだろうし、求めないドラマが増えるだろうから。けど、ここまで書いたうえでまた考えてみれば、派手な特撮シーンに割く時間が減れば、その分ドラマを丁寧に描く余裕が生まれるのでは、とも言えそうなので、ちょっと揺れだしたところです。
 『シンゴジ』、『シンマン』とコミュニケーションのハードルは下がりましたが、さらに下がった等身大の物語となることが予想される『シンライダー』。さて、どうしましょう……



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『シン・ウルトラマン』見てきたマンの感想 ドラマと特撮のちょっと残念な塩梅の話

『シン・ウルトラマン』見てきたマンによる感想です。
前提その1:ウルトラマンの谷間世代。リアタイで見てないし、そもそもまともにウルトラマンシリーズは見てない人間。
前提その2:『シン・ゴジラ』が百億点だった人間。
それを踏まえて以下感想。

  • 「シン・ウルトラマン」の題字でいきなりアガった。
    • 赤地に白字であの書体。直接知らないはずなのに、なんであんなに緊張感を掻き立てるんだろう。
    • いい意味で、おどろおどろしさがある。
  • 冒頭のダイジェストあらすじはすごくよかった。ギリギリ文字を読めるくらいのテンポなので必死に画面を追って、緊張感がその意味でいや増した。
    • 最近、人間には情報の摂取の仕方として、①聴覚型、②映像型、③文字型の三種類がいる、という話を見たけど、明らかに③に属する自分としては、高スピードで表れる文字情報には食いつかざるを得ない。他の種類の人にとってはわからないけど。
    • 子供の頃は怪獣と戦う人間すげえって(直接観たわけでもないけど)思ってたけど、大人になって改めて見ると、本作が自衛隊とかの描写をなるべく忠実にやってるおかげで、本当にあのサイズの生物に対して対抗できるのか、ちょっと疑問に思う。
      • 疑問というか、不思議というか。ネガティブな意味でなく、純粋に「できるのかな?」という思い。
      • そういえば、結局禍威獣が日本にしか出現しない理由って直接描かれなかったよね。
        • 後述のメフィラス星人が日本にいたからってことなのかな。
          • あいつ日本に馴染みすぎだろ。
    • TLで見た「シンエヴァっぽい」という感想。わかる。
  • 最初に本格的に描かれた第七号禍威獣ネロンガとの戦闘。
    • シンゴジ大好きっ子としては、この倍の尺を使って禍威獣大暴れをやってくれてよかったんですがね。
      • ミサイルを電気エネルギーで破壊してたけど、効率クッソ悪そう。
    • 禍特対の面々の披露。
      • 正直、本作の最大の不満は人間の役者の演技の棒っぷり。
      • 棒読み的な演技はある意味でシンゴジに似てるんだけど、そのクオリティが段違い。悪い意味で。
        • セリフの専門用語が言葉として馴染んでいないというか、言葉が上滑りしていた感じが強い。なんでだろう。
          • 限られた禍特対の面々しかそういう言葉を使わなかったから、作品全体として言葉がなじんでいなかったのかもしれない。
          • 役者の力量もあるんだろうけど。
      • 禍特対のオーバーアクションが、一般社会に馴染めない尖ったはみ出し者というよりも、ただの演技くさい人という印象に終わってしまっている。
        • シンゴジだと、「はみ出し者」たちの人数が多く、かつ後から召集されたものというイメージを与えることに成功していた気もする。単にそういう設定の人ではなく、ストーリーの流れで存在が許された人というか。
      • 子供を助けに行くのは禍特対ではなく自衛隊員の仕事では?
        • あれを禍特対の人間が行くという不自然さのせいで、神永がこの件でウルトラマンになったのか、それとも元々ウルトラマンだったのか、途中まで確証を持てなかった。
          • まるで、一人になる=ウルトラマンになる為に助けに行ったように見えてしまったのよね。だから疑念が残った。
    • からのウルトラマン初登場。
      • その立ち姿に巨神兵を思いだした。シンゴジの前にやってた方のやつ。
        • 体表がすっごいヌメヌメしてる。
        • 飛び去るあの姿勢、めっちゃ不自然でめっちゃいい。
  • 長澤まさみこと浅見登場。
    • 正直に言います。初めて登場した時、たぐいまれな演技力を持つ個性派女優だろうと思いました。長澤まさみだと思いませんでした。
      • ちょっとかわいいパタリロみたいって思いました。
        • つぶれ饅頭……
          • その上で醒めるほど演技がひどいんだもんなあ……
            • 演技というしかない演技。悪い意味で演技。作り物であることが見え透く演技。悲しい。
    • あきらかに対禍威獣と関係ない本をいきなりデスクに積み上げた神永に、禍特対の面々はもう少し気遣ってやろうよ。
      • 『野生の思考』は果たしてウルトラマンの人間理解に役立ったろうか。
  • 八号禍威獣ガボラ
    • ドリルはロマン。
      • でも、地底を進むのは効率悪いよな。
    • 倒した後抱えて飛んでったけど、どこに持ってたんだろう。
      • 次元の狭間(作中の名称忘れた)だろうか。
  • 外星人二号ザラブ。
    • 偽物のウルトラマンなのに一目でそれとわからないだなんて……もっと釣り目にするとかさ……
    • 都下の上空で行われた巨大生物同士の戦い。都民は気が気じゃなかったろう。
      • もっと壊滅的な破壊をしてくれると俺は楽しかった。
  • 外星人零号メフィラス星人
    • ブランコをこぐ大の大人ってちょっとした都市伝説。
      • 尋常な地球人ではないことがよく伝わるシーンだ。
      • あと、大人になって乗るブランコって怖いぞ。マジで。
    • しかしお前日本に馴染みすぎだろ。
      • 鼓腹撃壌とか捲土重来とか「河岸を変えようか」とか「大将、お愛想」とか、生粋の日本人でもそういわんぞ。
        • 浅草で飲んだ後に、メフィラスが(たぶん)いったんおごろうとして、自分の財布を見て「割り勘にしよう」と提案。IQ一万なら自分の財布の中身くらい把握しとけ。
          • その直後、神永が浅見に電話をかけたとき、「今どこにいるの!」と叫ぶ浅見に、「浅草の飲み屋に来てくれ」「飲み屋で支払う金がない」って絶対言うと思ったのに、言わなかった。とても残念だ。
  • 巨女出現。
    • 私と同世代の諸兄はみな、ウゴウゴルーガのOPを思い出したことでしょうが……

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    • 長澤まさみの全盛期の時なら、きっと多くの子供たちが性癖を拗らせたんじゃないかなと思う。全盛期の時なら。
    • ウルトラの母が登場しなくてよかった。
      • やっぱり、元のサイズに戻った後の演技がくさくてきっつかったんだよなあ…
  • vsメフィラス星人
    • こういうのをさ、もっと長尺でさ、やってくれていいんだよ!!
  • ゾフィ来襲。
    • こいつはもう来襲よばわりでいいだろ。
    • 言葉を交わせる相手がいとも簡単に対立者の殲滅を選べるって、怖い。とても怖い。
    • 1テラKの熱量を生み出せる殲滅兵器のゼットンを出したけど、本当に確実に地球を消滅させたいなら、もっと効率的に(少ないエネルギーで短時間で)できるものもあるだろうに。
    • ウルトラマンvsゼットン
      • 絶対勝てないことはわかっていたろうに、なぜ立ち向かったんだろう。
        • 一本の映画という尺のせいか、人間と融合したウルトラマンの心、何を考えているかがよくわからない。勝てないことをわかっていながらゼットンに立ち向かうほど地球に、人間に価値を見出していたとは、いまいち思えないんだよな。人間(神永)の心が影響していたとしても、だからといって絶対勝てない相手に立ち向かう理由になるとも思い難い。神永がそれだけ正義感と自己犠牲精神にあふれていた描写もないし。
  • 負けたウルトラマンゼットンがもたらす未来に絶望する人間。
    • 滝がああいう態度をとるのはリアルだろうけど、でもリアリティはなくて、ああいうシーンをぶっきらぼうにいれっちゃったもんだから、全体的に人間ドラマむしろ薄っぺらくなる。
      • リアルとは、現実にそうなる(蓋然性が高い)こと。リアリティとは、現実にそうなるだろうなと受け手に思わせること。現実にはそうなるだろうことでも、そうなるだろうと受け手に思わせられなければ、受け手は納得できない。
      • 何度もシンゴジと比較するのも何なんだけど、シンゴジは全編通して人間がゴジラに対して必死で抗おうとしているので、その抵抗の仕方が現実にはおこりえないようなヒロイックなものだとしても、「彼らならそうできるだろう」と思わせる力(描写)がある。
      • ところで、現実を忘れるにはやはりストゼロなのか。

  • ゼットンとの二度目の対決に赴くウルトラマン
    • 浅見が神永にキスしないでよかった。本当によかった。
    • 君たち、そんなに関係性はぐくんでないよね?
    • 最終形態ゼットン使徒かな?
  • 次元の狭間でのマンとゾフィの対話。
      • その前の、木っ端のように振り回されるマンがかわいい。
    • しかし、セリフで説明してる感が否めないんだよ……説得力がないんだよ……
    • 帰ってきた神永に降り注ぐ浅見の涙。ご褒美感がないのが悲しい。本当に悲しい。
  • エンドロール。
    • 最後に副監督や准監督などが並び、少し間を開けて庵野秀明氏と樋口真嗣氏の名前が出るのは、すごくぐっとくるな。


トータルとしては、損をしたとは思わないけど自分が期待していたものではないし、もう一回見ようという気にはならないな、って感じです。
タイトルの通り、特撮部分が物足りなくて、人間ドラマ部分が余計に感じられた、という印象でした。どっちつかずというかね。たぶん意図的ではあるんだろうけど、シンゴジよりも(個)人を描こうとしていて、で、それが自分にはかえって余計に思えてしまったんですわ。それを表現するなら、もっと腰を据えて、そういう演技のできる人をそういう演技指導の下でやってほしい。もしくは、特撮に全振りしてほしかった。ぬーん。

ちなみにこっちは絶賛してるシンゴジの感想。絶賛。
yamada10-07.hateblo.jp



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君は漫画のために死ねるか!?『これ描いて死ね』の話

 君は漫画のために死ねるか!?
 君は漫画のために殺せるか!?

 面白い漫画は人を生かす。生かされた人は、自分のように誰かを生かすべく面白い漫画を描こうとする。
 しかし、はたと気づく。
 面白い漫画を描くのは、とてもとても難しいと。

 そして必死で描いていくうちに気づく。
 人を生かす漫画は、死ぬつもりで描かれているのだと。殺すつもりで描かれているのだと。

 ある人間の、愛と欲望と努力と苦労と諦めと希望と絶望と救いと殺意と、その他あらゆるもののを煮詰めた先にある、一すくいの上澄み。
 それが漫画。

 そんな漫画に憑りつかれた少女たちと、憑りつかれていた女性。そんな二本の線が交わったのがこの作品、とよ田みのる先生の『これ描いて死ね』です。

 伊豆王島。そこはよく言えば自然にあふれた、悪く言えば文化の威光が弱い、太平洋に浮かぶ島。
 そこで暮らす高校一年生の安海相(やすみあい)。子供の頃から人見知りだった彼女は、島に唯一ある貸本屋の漫画だけを友達に過ごしていましたが、人に話しかける勇気や誰かと仲良くなるための思いやりを漫画から学び、無事友達ができました。
 そんな彼女にとって漫画はバイブル。特にお気に入りは、打ち切り作品ながらもその熱量からカルト人気を誇る『ロボ太とポコ太』。相の人付き合いに大きな影響を与えたポコ太は、彼女のイマジナリーフレンドにすらなっています。
 しかし、相のバイブルを「全部嘘」と切って捨てるのは、彼女の担任教師である手島零。見るからに堅物そうな彼女は、虚構でしかない漫画から得られるものなど何もないと、相を漫画から引き離そうとします。
 
 とはいえ、漫画に救われた相は手島からのダメ出しもどこ吹く風、気にせず漫画をむさぼり読みますが、ふとした拍子に、ずっと筆を置いていた『ロボ太とポコ太』の作者が、コミティアで同作の新刊を出すことを知り、生まれて初めて一人で島から船に乗り東京まで行くことを決心しました。
 初めて行った東京。初めて行った同人誌即売会。今まで味わったことのない空気に相は鮮烈な印象を叩きこまれますが、その日最大の目当てはもちろん『ロボ太とポコ太』の新刊。そしてその作者である☆野0(ほしのれい)。自分を救ってくれた作品を生み出した人間のブースを前に、胸を高鳴らせた彼女が出会ったのは……?

 というところが第1話。
 相が出会ったのが誰かというのは勘の良い人ならマッハで気づくでしょうがそれはともかく、そうして始まった相のまん道です。
 今まで相にとって漫画は読むもの、目の前に差し出されるもの。受け身の存在だったのですが、それがコミティアへ行き、こんなにもたくさんの人が自分で漫画を描いてる、漫画は誰でも描けるものである、自分でも描いていいものであるという、あまりにも当たり前のことに気づき、自分も描いてみたいと思ったのでした。
 偶然島にいた元漫画家を師と仰ぎ、拙いながらも漫画を一本描きあげ、漫画同好会を立ち上げ、同好の士を集め、試行錯誤を重ねてなんとか面白い漫画を生み出そうとするのです。

 相の視点は、言ってみれば漫画づくりの陽の視点。漫画を作りたいと強く思い、実際に着手し、実際に一本描き上げる彼女の姿が、生き生きと描かれています。
 頭の中では誰もが名クリエイターとはしばしば言われることですが、頭の中に素晴らしいアイデアがいくらあっても、それを絵なり文なり音なり物なり動きなり、現実の媒体へと形を与え、一つの作品として完成させるところにまで行きつく人は稀ですし、それが本当に素晴らしい作品となることはもっと稀です。
 でも、相はそれをする。

漫画だって表現です。真摯に気持ちを乗せた表現は人間そのもの。
そこに優劣はありません。
その気持ちは同じ気持ちを持つ誰かの脳を揺らします。
たとえあなたの絵や構成が稚拙でも、気持ちが正しく漫画に乗れば技術を越えて人の脳を揺らすのです。
(1巻 p110,111)

 これは相の師匠が彼女にかけた言葉ですが、『ラブロマ』や『FLIP-FLOP』、『金剛寺さんは面倒臭い』など多くの作品でも繰り返し登場した、とよ田みのる節とでも言うべき、心揺らすこと、心揺らされることの大事さを強く謳っています。

 でも、1巻に収録されている、本作の前日譚にあたる、師匠である元漫画家の話では、陰の視点があります。
 自分も作る側に生きたいと思い大学卒業を控えた時期に漫画を描き始めるも、描いても描いても上手くいく感触はなく、就職もしてない自分に向ける周囲の視線も気になり、ついには何が面白いかもよくわからなくなってしまいます。
 いくら頑張っても、いくら努力しても、いくら自分の人生を込めても、作品の面白さはそれと関係ありません。

「頑張りましたね。」
…と言われたら失敗作。
こちらの苦労が向こう・・・に見えてしまっている。
没頭して笑ったり泣いたりしてもらいたい。
(1巻 p189)

 これは、師匠がデビュー前に編集者に原稿を読んでもらっているときに思ったことです。
 苦労の跡とか、そんなものは読者が漫画を楽しむときの夾雑物。漫画へ没頭することを妨げるお邪魔虫。

 上では師匠が相に、気持ちが人との脳を揺らすと言っていますが、それは一面では正しくあり、また一面では間違っています。
 たとえば学校の音楽の授業などでも、「もっと声に感情をこめて」などと言われた人もいるかと思いますが、感情は声にこめようと思ってこめられるものではありません。感情をこめるにはどう歌えばいいか、という具体的な技術面、客観的な表現面からアプローチをしなければ、聴くものにこめたい感情を届かせることはできないものです。
 このメロディは少しだけためて。
 次のフレーズを盛り上げるためにここは少し声量を抑えて。
 ハーモニーを響かせるために少しだけ音程を下げて。
 感情をこめる(こもっているように聴かせる)には、そんな実際的な検討をしなければいけないのです(木尾士目先生の『はしっこアンサンブル』では、そのあたりが意識的に描かれています)。

 先の引用の師匠のセリフの後には

まあ気持ちが技術を超えるのにも限界はありますから、
あなたのレベルでは届く人がいないかもですね。
(1巻 p112)

 と冗談交じりの続きがありますが、現実にはこれはまったく冗談ではないですし、ここで要求される「レベル」はそれなりに高いのです。少なくとも、より多くの人に届けようと思えば、高くしなくてはいけません。

 創作を始めたばかりの相というアマチュアの第一歩からの視点で、今後の活動と成長に期待をさせ、自身の創作に限界を感じてしまった元師匠という元プロが顧みる視点で、相の行く道に待ち受けている厳しさを感じさせる。そんな第1巻です。
 で、1巻の時点で相には二人の仲間と一人の師匠がいますが、次に必要なのは何か。そう、ライバルですね。
 1巻の最後に登場した、どこかで会ったことのある一人の少女。彼女がどう相に影響を与え、そして与えられるのか、2巻も楽しみですね。
gekkansunday.net



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