ポンコツ山田.com

漫画の話です。

滅びゆく人類の美しくも寂しく穏やかなエピローグ『海底清掃人マタタビュリス』の話

 今より先の未来。海面が上昇し、海は原因不明の毒素に汚染され、数を減らした人類は、少なくなった海上の世界でそれでも身を寄せ合って生きている。まだ小さな子供、マタタビュリスも海中からの物品回収を仕事に暮らしている。細々と、でもニコニコと。
 終わりが見えていても、生きていれば楽しい。生命は美しい。これは世界のそんなエピローグ……

 ということで、本山とらじろう先生の『海底清掃人マタタビュリス』のレビューです。
 発展した科学と、それ以上に悪化した地球環境。滅びがもう目に見えそうなところまで来ている地球の上で、それでも人類は生きている。人が減っても、モノが少なくなっても、海が死の世界と同義になっても、人が生きていれば、そこに喜びがあり、哀しみがあり、幸せがあり、不幸せがある。出会いがあれば別れもある。誕生はほとんどなくなってしまったけれど、死はある。それは逃れようもなく、必ず。
 マタタビュリスはそんな世界に生きるのです。

 大規模な海面上昇に、深刻な海洋汚染。多くの文明が海中に没した中で人類は大きく数を減らし、子供もめったに生まれず、残った者のほとんどは機械で身体機能を補ってなんとか寿命を延ばしています。今の私たちから見ればそれはひどくギリギリで、とても不安定で、未来に展望がまるで見えない世界。
 でも、どんな時代でも人類はそこに楽しみを見出します。
 たとえば流行の食べ物。
 たとえばリバイバルのおもちゃ。
 たとえば日々を飾る花。
 たとえば人類を救ってくれたクジラに感謝を捧げるお祭り。
 時に笑い、時に泣き、人類は生きるのです。

 人類は多くのものを海の中に残してきました。土地も、建物も、財産も、墓も、ガラクタも、持って行けなかった何もかもを。マタタビュリスは、世界に二人しかいないマスタークラスのダイバーとして、依頼されたものを海底から回収することをたずきに暮らしています。他のダイバーでは潜れないような視界の悪い海域でも、高度な方向感覚と聴覚、そして対毒性を持ったマタタビュリスは、他では匙を投げられるような高難度の依頼もすいすいとこなすのです。
 依頼をこなしたマタタビュリスは、雇い主のアグヌスや依頼者からほめそやされ得意満面。もう子供がほとんどいない世界。ずっと年上の、身体のどこかしらが機械になっているような大人たちに囲まれて、まだ子供の、まだ生身のマタタビュリスは生きるのです。
 
 そう、人類は生きるのです。どんなひどい境遇になっても、生きている限りは、生きようと思えている限りは生き続けるのです。
 身体が機械になっても、子供が生まれなくなっても、地球が不可逆に滅亡へと進んでいても、生きていられると思う内は、生きるのです。マタタビュリスが生きる世界には、そんな強さと、脆さと、寂しさと、美しさがあります。
 強さとは、どんなに生きづらそうになっても人間はしぶとくやっていけるところ。
 脆さとは、あともう一押し破滅に進めばあっという間に滅びに呑み込まれるであろうところ。
 寂しさとは、もう未来が大して残っていないことに大人はみんな気づいているところ。
 美しさとは、それでも今ある平穏を守ろうとし、日々に喜びを見つけるところ。

 たとえるなら、晩夏の海辺の夕暮れ。夏が終わる寂しさと、海が夕焼けに染まる美しさ。両方に胸がいっぱいになり、訳もなく鼻の奥がツンとなる感情。それがこの作品にはあります。もう終わるのがわかっていても、「それでもいいじゃない」とにっこり笑うような度量の広さ。あるいは諦念。強さ。寂しさ。美しさ。
 そういう、穏やかな乾いた終末の気配。人類のエピローグ。カタストロフの後日談。ごきげんよう。おやすみなさい。

 古くは『ヨコハマ買い出し紀行』、近年なら『人類は衰退しました』のような(近年か?)、ゆるゆると滅亡に向かいつつある地球の上で、それでも人類が穏やかに生きる、寂しくも平和なポストアポカリプスの世界。すこし趣を変えれば『少女終末旅行』。そういう作品にどうしようもないほどの悲しさと美しさを見出し、惹きつけられてしまうような人なら読んで損のない作品でしょう。
 人が生きた痕跡が残る、自然に吞まれつつある人気のない風景とか、滅びに流されながら抗わずに生きる人間とか。そういうのがぶっ刺さるタイプの人間ているじゃないですか、私みたいな。
 読め同志。
www.harta.jp

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『HUNTER×HUNTER』露わになるキャラの側面と深まる魅力の話

 二日に一度はハンタの既刊を読み返している山田ですこんにちは。

 王位継承戦からこっち、文字が多い、キャラが多い、ストーリー軸が多い、おまけに時間があっちこっち跳ぶ。
 たいていの作品だったらあまりの読みづらさにごめんなさいをしてるところですが、面白いんだからしゃあない。しゃあない。

 じゃあ何が面白いのかというといろいとありますが、確実に言えるその中の一つはキャラクターの魅力ですよね。もっと突っ込んで言えば、キャラクターのいろんな側面を見せる描写。ぽこぽこわらわら蠢いている数多のキャラクターたちも、一面的な描写に終わらず、第一印象を裏切るような、あるいは第一印象をさらに加速させるようなシーンがそこかしこに出てくるので、「意外にええやつやん……」と愛着が湧いてきます。

 たとえばと挙げるにも例が溢れかえっていますが、王子たちで言えば、傲慢な筋肉バカかと思いきや、部下からは熱烈に慕われ、(その方向性はどうあれ)国の繁栄を心底から考えている第一王子ベンジャミン。
 わがままで独善的な甘ったれかと思いきや、不可持民(被差別民)たちの立場の地位向上を図り(その真意はまだ不明ですが)、念能力さえ身に付けていた第二王子カミーラ。
 残虐な趣味を持つ唯我独尊の塊と思いきや、それを認めざるを得ない数々の才能に恵まれ、自身の好奇心には極めて忠実というどこかゴンめいた性質冴さえ持つ第四王子ツェリードニヒ。
 謎の頭身に謎の容貌に謎の宗教と王子の中で一番のキワモノと思いきや、「愛で世界を救いたい」というあまりにも純粋な心からの願いを持つ第六王子タイソン。
 周りの全てに牙をむく狂犬かと思いきや、守護念獣さえその心優しき心根を反映し、死して後にかわいさがうなぎのぼりの第十王子カチョウ。
 彼らの父であり王であるナスビ=ホイコーロ自身も、初登場ではおどけたバカな夜郎自大のおっさんにしか見えなかったのに、その実、王として国のことを何よりも考えている真摯な王でした。
「残すべきは国!! 国民の命に決まってるホ!? 問題は「誰が」!! レバーを引くかホイ!!」
 どう考えてもあの初登場をしたおっさんが発するセリフではありません。


(※注 以降の文章には、単行本未収録の雑誌掲載話に登場する情報も含まれています) 


 それ以外のキャラクターも、ものわかりのわるい偏狭な人間だと思ったら、ビスケの真の姿に即オチしたウェルゲー。
 自信過剰なかませという第一印象を変えずに、命を賭すほどにガチでベンジャミンを崇め慕っていたことを見せた私設兵のフュリコフ。
 破滅指向のニヒリストの裏側には、その目的に対する真摯さがあり、同時に少女のようなお茶目ささえ見せたモレナ=プルード。
 法の番人として威厳を持っていたのにビヨンドと愉快なトークをして一気に垣根が取っ払われたクレアパトロ。
 またそのビヨンドも、当初の豪放磊落な傍若無人さとは裏腹に、カキンの人権状況を改善しようと訴訟を起こしていたり、その訴訟記録を速読で理解したり、異常な乱読家であったりと、意外な側面がどんどん出てきます。

 このように、あるキャラクターのイメージを第一印象のそれからさらっと上書きする、というよりは、別のイメージを付け加える手管。冨樫先生はそれが抜群にうまい。なにか特別なことをしているわけではありません。していることは、第一印象からは異なる意外な側面をストレートに描いているだけです。しかもけっこう唐突に。上記のクレアパトロやビヨンドのそれなんて、(現時点では)本筋になんら関係ないエピソードですからね。でも、それがあると、一気にキャラクターが立ち上がる。存在が立体的になる。
 それまでのキャラクター性の地続き、すなわち同じ次元(平面)に情報が足されるのではなくて、そこに厚みを出すように、あるいは別角度で立ち上がるように情報を据え付ける。
 冨樫先生が元々そういうキャラクターにしようと設定していたのかはわかりませんが、もしそうでないとしても、そこでキャラクター性が変わることになんら躊躇がないような、そんな潔さを感じます。人間がそうであるように、キャラクターにもいろんな側面があって当たり前。一面的でないから、魅力的にもなり、憎らしくもなり、いずれにせよ読み手の感情をより強く集められるようになる。
  とまあ簡単に言いましたが、これは冨樫先生が成功した形で描けているからそう言えるわけで、他の例と比べないと、なにをどうすることで上手くいくのか、どうすると失敗するのか、あるいはとにかく意外なエピソードを挿入すればキャラが立つのか、なんとも言えませんね。

 今日発売のジャンプの最新話で、「ここでそうくるか~」という話が出てきました。この流れの登場でいっそう物語は混沌としそうですが、続きを座して待て! そして、できるかぎり長く(可能であれば王位継承戦が終わるまで)連載が続いてくれ!!

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人と、人なざる者と、光と闇のあわいに立つ者たちの物語 『夕闇とかたわれ』の話

 橋の上で今にも飛び降りようとした男に声をかけてきたのは、吸血鬼を名乗る女子高生。次の瞬間男は意識を失い、目覚めたボロアパートの一室で、彼女は妖艶ににじり寄る。
「血をくださいよ おじさん」「私 もう我慢できないんです…」
 首元に迫る白い牙に、抗えぬまま男は……
 人と人ならざる者が交わる、4つのショートストーリー。

 ということで、ろびこ先生の新刊『夕闇とかたわれ』のレビューです。
 人間社会の中で人知れず生きている、人ならざる者たち。しかし、彼らも人間社会で生きている以上、人間たちと交わらないでは生きていけない。
 吸血鬼。人狼。猫又。サトリ。
 人間社会の中では爪弾きものの彼らが出会うのは、いつだって人間社会の半端ものばかり。
 人と人ならざる者のあわい、夕闇で出会う人と人ならざる者は、いつだって互いが互いの片割れ。いつか失ったものなのか、生まれながらになかったものなのか、自分にない片割れを欲して、薄暗い世界で互いを求めるのです。

 なんておセンチに言ってみましたが、物語は意外にコメディタッチのものも。
 家庭の都合で10年間血を吸えなかったけど、その都合がなくなったものだから適当に目をついた自殺志願者の血を吸おうとした女子高生吸血鬼。
 マッドサイエンティストに囚われ、驚異的な再生能力をいいことに目も当てられない人体実験をさせられる人狼。
 かつての恩人によく似た推し男子中学生とともに、なくしたネタ帳を盗んだ犯人を捜そうとする小説家の猫又。
 悪の組織のボスである父から進路希望用紙にハンコをもらうため、彼を追い詰めつつ組織を壊滅させるサトリの少年。
 どれがおセンチで、どれがコメディで、どれがシリアスなのかは読んで確かめてほしいのですが、どれも一話完結(人狼の話のみ前後編)の短編として面白くまとまっています。

 ところで本作の英題は"To Dusk and Twilight"なのですが、ここに「かたわれ」という言葉へのダブルミーニングというか、言葉遊びというかが見られるように思います。
 duskもtwilightも「宵闇」「夕闇」「薄明」の意味がありますが、「かたわれ」という言葉も少しアナグラムすると、「かわたれ」すなわち「彼は誰時(かわたれどき)」という、明け方を意味する言葉になります。暮れ方を意味する「たそがれ(誰そ彼)時」の対になる言葉ですね。
 つまり、作品に登場する人も人ならざる者も、duskだしtwilight。真昼の住人でもなく真夜中の住人でもなく、その狭間の薄暗い中に生きるものだということ。どちらが主でどちらが従なのではなく、どちらもどちらのかたわれ。my better halfというと言いすぎなのかもしれませんが、それに足る程度の関係性を、物語の彼らは築こうとしています。

 私の一番のお気に入りは、表紙も飾った女子高生吸血鬼が登場する「吸血鬼ちゃん」。ウェーブがかった髪で三つ編みの、お上品そうだけど実は粗暴な吸血鬼女子高生と、やる気のなさそうなおっさんの関係性って、ちょっと私のヘキですね。
 そういえば講談社のコミックデイズでは、『ひとくちちょうだい』とか『吸血鬼さんはチトラレたい』といった吸血鬼もの、それも吸血行為が性行為と密接に関連付けられるような作品があります(ありました)ね。ヘキ、ですかね。

yanmaga.jp

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『幽遊白書』『HUNTER×HUNTR』終わらない「敵」との戦いと、「敵」を作らないゴンと、「敵」しかいないカキン王位継承編の話

 39巻が発売し、本誌での連載も再開した『HUNTER×HUNTER』。

 情報量が多い。人が多い。ストーリー軸が多い。時間軸が前後する。読むのに難儀するんだけどでも読んじゃう。だって面白いんだもん……。
 もうしょうがないねと観念し、ジャンプ+の定期購読を始めて最新話も追う日々です。

 だから、というわけではないんですが、同じ冨樫先生の『幽遊白書』も読み返しまして。

 最終話のあの終わり方に文句言う人とは同じテーブルを囲めないなと思って幾星霜ですがそれはともかく。
 
 仙水編の最終盤で、死ぬ寸前の仙水を抱きかかえた樹の言ったこのセリフ。

(幽遊白書 17巻 77p)

 『幽遊白書』に限らず、延々とバトル路線を続ける(続けさせる)ジャンプ編集部に対する皮肉ではないかという都市伝説が生まれたのはいつどこでのことだかは定かでないですが、さもありなんと広く流布したものと思います。その説が真実かどうかはともかく、仙水編が終わった後は魔界トーナメント編と一話完結の短い話が続き、2巻と少々で連載を終えました。

 で、この「お前らはまた別の敵を見つけ戦い続けるがいい」。バトル路線の否定だとすると、次の魔界編ではトーナメントなんかやっているわけで、結局編集の方針には逆らえなかったのかとも思えますが、「敵」というものをもう少し掘り下げて考えてみましょう。
 本作の一番初めの初め、死んだ幽助が生き返るために善行を積むというテイストで始まった物語のはずが、いざ生き返れば霊界探偵として数々の事件に巻き込まれ、霊界探偵編、暗黒武術会編、仙水編と、終わらぬ戦いに身を投じられます。そこで戦った相手は「敵」と呼んで差し支えないでしょうが、たとえば霊界の宝物を取り戻すために戦った飛影ら、たとえば幻海の弟子になるために戦った乱童ら、たとえばトーナメントを勝ち上がるために戦った各チーム、たとえば魔界の穴を閉じるために戦った仙水ら。戦った相手との間には常に信念の対立、あるいは利害の対立がありました。つまり、幽助にはなんらかの目的があって、その目的をかなえるために排除すべき障害としての相手であり、それをして「敵」と呼べます。
 信念や利害の対立の結果戦う相手が「敵」なのです。

 しかし、仙水編後の魔界トーナメント編では、その構造は異なっています。

(18巻 p124)
 
 「ただのケンカ」。「国なんかぬき」。「一度みんなただの一人に戻」る。
 一度は「バカな案」と黄泉が一蹴しかけたように、とてもじゃないけど一国を背負う人間が一国を背負う人間に提案する内容ではないですが、結局黄泉の側近である蔵馬らも、軀も、飛影も、最終的には黄泉自身もその「バカな案」にのって、ただの一個人として戦いに参加することにしました。
 ここでの幽助の提案は、雷禅・黄泉・軀ら、三匹の大妖怪の信念の違いから生まれた国同士のにらみ合いという、信念も利害もせめぎ合っている敵同士の状況を白紙に戻すものです。「国なんかぬき」にして、「一度みんなただの一人に戻って」、「ただのケンカ」をして、「最後に残ったやつが大将」で「負けた奴は全員そいつに従う」という、実にシンプルなかたち。 黄泉の言葉を借りればこれは「智略戦」などではなく「純粋」な戦い。「何も望まず全力で戦う」ことを目的としたものです。
 いわば、戦うための戦い。手段が即ち目的。利害も信念もなく、戦いたいから戦う。
 樹が拒絶した、信念や利害が対立した「別の敵」が延々と現れ続ける戦いとは、一線を画したものだと言えるのです。

 さて、そんな魔界トーナメントを最後にバトル編を終え、連載も幕を閉じた『幽遊白書』ですが、短期連載の『レベルE』を挟んで連載を始め、今もなお続いている『HUNTER×HUNTER』。この作品の主人公であるゴンは、そんな樹の思いを異なる形で受け継いだかのような主人公だと言えるでしょう。
 どこがといえば、以前も別の記事で言及したゴンの特性、すなわち時として社会的倫理に反するほどに強い好奇心で、それが信念や利害の対立による戦いをよけているのです。
yamada10-07.hateblo.jp
 父を探すためにハンターになったゴンは、その過程で様々な体験をしますが、「生命が危うい状況であろうと、その状況が楽しければ享楽的にそちらを優先してしまう」「好奇心(外的規範の薄い意志の固さ)」が随所に顔を出しています。
 目の前で人殺しが行われれば止めるけれど、当事者が承知の上ならば命を賭けて戦うことになんら異論をはさまない(ハンター試験編や天空闘技場編)。
 世に詐欺やイカサマと呼ばれるようなことでも拒絶しない(ヨークシン編でのゼパイルによるイカサマ講座)。
 世話になったら殺人犯でも平気で見逃す(GI編でのビノールト)。
 仲間だと思えれば人間を何人も殺した異種族相手でも仲良くなる(キメラアント編)。
 挙げれば枚挙に暇がありませんが、このようにゴンは、信念や利害が対立して戦いに至ることがやけに少ないのです。

 象徴的なのは、逃げようもないほどに信念も利害も対立したハンター試験でのハンゾウ戦で、どんなに痛めつけても理を説いてもいっこうに折れる気のないゴンに、こんなのとは戦ってられないとハンゾウの方がギブアップしました。逆説的に、信念や利害の対立がゴンの戦う理由にならないことを示すシーンでしょう。
 
 そんなゴンが、信念や利害が対立したがゆえに戦い始めることができなかったのがピトーで、カイトを助けるために戦うべき相手が、目の前で倒れている人間(コムギ)を助けるために必死で命乞いをしているその姿を見て、強烈なダブルバインドに陥りました。結局ゴンがピトーと戦ったのは、そのダブルバインドから解放された後、すなわち、コムギの治療が終わり、カイトの死が判明してからのこと。その時のゴンは、もはや対立ゆえに戦ったのではありません。どう言いつくろっても憂さ晴らし。もう生き返らないカイトを殺したピトーを殺し尽くすことで自分の気分を晴らすためでした。
 このように、信念や利害の対立という面で見ると、ゴンの戦いというのは非常に興味深いと言えます。 
 いやもちろんゲンスルーみたいに、明確に利害が対立して戦っている相手もいますけどね。

 さて、目下連載中のカキン王位継承編。主人公であるゴンが登場しなくて果たしてどれくらい経つのかというレベルですが、考えてみればこの王位継承編、対立構造がすさまじく複雑なんですよね。
 これまでのハンター試験編やGI編、キメラアント編なんかは、ハンター試験合格やゲームクリア、生存競争という明確な一つの前提がある物語でしたので、その中に生まれる対立も単一の前提に立つものでしたが、このカキン王位継承編は本筋であるカキン王国の王位継承戦はもとより、その継承戦の中で第14王子を生き残らせようとするクラピカ、暗黒大陸に行きたがるビヨンド=ネテロとその協力者、ビヨンド=ネテロを止めようとするハンター協会、旅団対ヒソカ、エイ=イ組によるカキン国の滅亡とそれを止めようとする他のマフィアと、複数の前提の異なるストーリーが時に絡みあいながら並行して展開していき、そしてそのストーリーの中ではどいつもこいつも信念と利害が対立しまくっているのです。異なる前提の上での異なる複数の対立。そりゃあストーリーも難解になるってもの。樹の言葉を借りれば、「敵を見つけて戦い続ける」蟲毒のような船なのです。
 そんな中で対立を無効化しかねないゴンがいたとしたら圧倒的異物。出番がなくなるのは避けられません(同じく圧倒的異物のヒソカも、王位継承編で名前は出てもほとんど顔を出していません)。
 ある意味、今までゴンを主人公とした『HUNTER×HUNTER』ではできなかったことをやっているのが、このカキン王位継承編なのかなと思います。

 ということで、『幽遊白書』を読み返して考えた、樹の継承者としてのゴンと、ゴン不在ゆえのカキン王位継承編、という話でした。

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『#512【プロジェクト・キノ】 思い出振り返り雑談と、これからのこと【活動休止】』が教える「忙しいコミュニケーション」の話

 つい先日発表された、現在『アリスと蔵六』を連載中である今井哲也先生の新作読み切り『#512【プロジェクト・キノ】 思い出振り返り雑談と、これからのこと【活動休止】』。
neu-world.link
 タイトルに「活動休止」をもってきて物語を始めるこの誘引力よ、と思いつつ読み始め、まあたいそう面白かったですね。
 この作品は

Neu Worldとは。
脳研究と物語でまだ見ぬ世界をえがくプロジェクト。

漫画家や小説家などクリエイターと研究者が織りなす作品で
新たな体験にいざないます。

近いみらいであるかもしれない生活に思いを巡らせてみませんか。
neu-world.link

 という趣旨のものとにつくられたサイトに掲載されており、より具体的には


 というものだそうです。
 今井先生の描いた 「BMI*1とかサイバネティックアバターとかの技術が実現した2050年の世界」には、ポストアポカリプスの中で芽吹いている希望があるのですが、具体的な中身は作品を読んでもらうとして、私の心に引っかかったのは、この作品の主たるテーマである登場するコミュニケーションの在り方です。

 この作品の主な登場人物は三人。

(p1)
 向かって右から、研究者の纏崎レイラ、同じく研究者の號田エミ(のリアルアバター(作中で言う「リアラ」))、そしてAI搭載エージェント、要は人工知能ロボットのキノです。
 当初は感情の表出が乏しくいかにも人工知能然としたキノが、いかにして今のような人間と見まごう振る舞いを見せるようになったのか、そのきっかけとなった考え方は何なのか、というところに、「コミュニケーションとはどういうものなのか」という考えが登場します。
 その中で私が膝を打った要点、それを端的に引用すれば、「コミュニケーションは忙しい」です。

 コミュニケーション。
 日常的に見聞きする言葉の割にしっくり対応する日本語はなく、「意思疎通」なんていうおかたい漢語に頼らなければいけないし、それでもなんだかしっくりこない言葉なのですが、日々生活する私たちは当たり前のように誰かとコミュニケーションをとって生活しています。目の前の人と、あるいは電話の向こうや画面の向こうの人と、ほとんどの場合は言葉を用いて、互いの意を通じ合っているのです。
 その当たり前さゆえに気が付きづらいものですが、この主に言語を解して行われる(ように思っている)コミュニケーションは、単に言葉をキャッチボールのようにやり取りしているのではなく、視線や身振りや声のトーン、表情などの非言語的情報も含めた膨大な情報を、双方向的に、同時的にあるいは連続的に送り合い、受け取り合い、そのやりとりの中身を無意識のうちに修正し続けているのです。


(p37)
 私がなにか発言しました。
 相手はその内容を受け取り、意味を理解し、それに対する応答をしました。
 私はその内容を受け取り、意味を理解し、それに対する応答をしました。
 そして相手はまたその内容を受けて……
 というような、一個のボールを受けては握りを確かめてまた投げ返す普通のキャッチボールではなく、色や形が異なるボールを同時に使って、投げてはとりとっては投げ、なんならこちらが投げる前に相手が何個も投げつけてくるのでその都度対応しなければいけない、非常に難易度の高いキャッチボールというか球の投げ合い。それこそがコミュニケーションなのであり、それを評してエミが言ったのが、「コミュニケーションは忙しい」だったのです。

(30p)
 向けられた言葉に対してその意味を検討し、完全な回答を考え出し、相手に十全な形で伝える。 それをするにはあまりにも「考える時間が足りない」。だって「それより先に…返事をする時間がくるから・・・・・・・・・・・・」。常に足りない時間の中で、それでも相手とやりとりをしなければいけない。
 だから「コミュニケーションは忙しい」。

 一個のボールでキャッチボールをするキノと、種類ごちゃまぜのボールで球を投げ合うキノのセリフの違いは、具体的に以下の通りです。

(29p)

(39p)

 一読瞭然の差です。
 端的に、上のセリフ、つまり一個のボールによるキャッチボールは整然としています。主述や修飾被修飾の関係は明確で、読解のノイズになる余計な言葉もありません。生成AIの文章みたいですね。まあキノはAIなんですけど。
 それに対して下のセリフ、ごちゃまぜのボールでの投げ合いは、明確な主述関係が登場せず、フィラー(「あー」「ええと」など、会話の間を繋ぐための言葉)が挟まり、一文が完結する前に相手の反応に即した言葉が出てきます。つまりは、整然としていない文です。そしてこの整然としていない文こそ、実際に私たちがしゃべっている文でもあります。
 いや、それどころか実際私たちが口にしているのは、もっとずっとはるかに整然としていない文で、文字に起こせば読みづらいことこの上ない代物なのですが、にもかかわらず私たちがコミュニケーションをとれているのは、言葉と同時に「視線や身振りや声のトーン、表情などの非言語的情報」も受け取って情報を補い、「相手にそれが伝わってるか伝わってないか 相手の表情や相槌なんかから同時に判断」しているからです。
 なるほど、そんなことをしているのだから、そりゃあ「コミュニケーションは忙しい」。コミュニケーションというものの高度さ、複雑さ、難しさの理由を端的に表したこの言葉に、私は強く膝を打ったものです。

 莫大な情報を処理しながら即時的にやりとりを構築していくことは高度なマルチタスクであり、どこかの情報を受け取り損ねると、やりとり全体がガタつき始めます。
 たとえば少し極端な例として、LINEのような文字情報のみのやりとりを考えてみましょう。
 交通手段を聞きたくて「なんでくるの」と尋ねたら、「なぜおまえが来るのか」と反語表現的に拒否のメッセージと読み取られたり、友情を確かめるために「あなたとは友達じゃない」と言ったら、「お前と私は友達なんかではない」と関係断絶のメッセージと読み取られることがありえます。表情や声音、仕草と言った非言語情報込みで送れる対面コミュニケーションであれば決して誤解しないであろう言葉も、それらのない文字情報のみのコミュニケーションでは、容易に断絶が起きるのです。

 作中では、同時性のないやりとりの苦労として、テキストを入力しリアラ経由でレイラと会話するエミのエピソードが語られました。
 身体上の理由で自身による直接的な会話ができないエミは、昔は、テキストで一文を入力・作成→リアラに送信→リアラが発声、という一連の流れで発話をしていたのですが、あるとき気づきました。それだとコミュニケーションが全然スムーズじゃないし、相手にまくしたてられるとまったくこっちがしゃべれないと。
 それに気づいた彼女は、一文を完成させてから送信するのではなく、文節単位で思いついた端からポンポン入力していくようになりました。そう、それはまさに、私たちが会話するのと同じやり方です。私たちは会話するときに、いちいちすべての文章を考えてからしゃべりだしません。とりあえず何か口にしてから次に何を言うか考えだすし、考えながらしゃべりながら、相手の反応次第でどんどんそれを修正していきます。
 エミの「一文を入力してから送信する(発声する)」というやりかたは、「忙しくない」コミュニケーションです。そこには、自分の発声の最中の相手の反応をうかがい、修正するというプロセスがないのですから。
 「忙しくない」コミュニケーションのエミは、「忙しい」(つまりは通常の)コミュニケーションであるレイラに口げんかで勝てませんでしたが、文節ごとにポンポン発声させる「忙しい」コミュニケーションに参入することで、彼女との口喧嘩(もしくは議論)がスムーズにいくようになったのです。
 ただ、これは「忙しくない」コミュニケーションが劣っているというわけではなく、コミュニケーションの忙しなさは当事者間でそろえた方がいいし、スピードやテンポという点では「忙しい」方が優れているよね、というものです。論理性や精緻さ、第三者による可読性という点などでは、「忙しくない」方が圧倒的に優れています。
 つまりは、コミュニケーションの忙しさ、hecticnessという観点で、日常の様々な形での情報のやり取りを見直すと、またちがった発見があるのではないかと思うのです。



 というわけで、「コミュニケーションの忙しさ」について、いくつかの観点から見てきました。「忙しい」という形容を筆頭に、コミュニケーションというものの捉え方に対し、新たな知見を得た思いです。

 さて、そのコミュニケーション。本作の最後で、キノはこう言います。

キノはね コミュニケーションそのものに強い興味がある
どうやったら…「わかる」ってことが起こるのか
「わからない」同士がなにを交換したら「わかる」になるのか
目や口や身体のうごき 言葉 触感 香り
わかりたい気持ち
これからはキノは もっとそれを考える仕事を始めます
(p74,75)

 実はこれ、今井哲也先生の連載作にずっと伏流しているものなんじゃないかって気がします。
 『ぼくらのよあけ』では、子供同士のコミュニケーション不全や、オートボットや異種知的生命体との交流が描かれ、現在連載中の『アリスと蔵六』では、研究所で生まれた紗名が、蔵六や他の人間とのコミュニケーションを通じて、社会的人格を形成てしていく過程が描かれています。デビュー作の『ハックス!』では、具体的なコミュニケーションではなく、「忙しいコミュニケーション」を意識したセリフ回しが見られます。
 そこらへんの話についても、また改めて考えてみても面白そうですね。手始めに、「忙しいコミュニケーション」のセリフ回しが生む意味や効果とか。

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*1:Brain Machine Interfaceの略。脳と機械を直接接続し、思考や意図に基づく情報の伝達や操作を可能にする技術のこと。 https://www.dir.co.jp/world/entry/bmi より

『ブランチライン』「愛する」ことと「愛される」ことの形の話

 ようやくお目見えの『ブランチライン』8巻。

 八条寺家の母・千の過去や、二女・太重の同僚・桂木の不倫(?)相手、三女・茉子の周辺、そして四女・仁衣と山田の関係などが描かれた8巻ですが、全編通して脳裏にちらついたのが「愛」でした。特に、夫婦や恋人の間に生まれる類の愛。

 8巻で直接的に「愛」という言葉が登場したのは、Day.36で、茉子が両親がそろって健在だった過去を思い出すシーンです。
 千の喫煙を優しく咎める父(そういえば名前は未登場?)。
 散髪結果に不満げな子らを困り顔で見つめる両親。
 危険ないびきを発する父を心配する千。
 子らといがみあう千をなだめる父。
 家族皆で行った海水浴。
 記憶の中で蘇る両親の姿には「愛しかなかった」と、先に逝ってしまった父を惜しみながら茉子は思うのです。

誰かを大好きになることも 誰かと結ばれることも 生涯連れ添うことも
全部人生の宝ものじゃないですか
うちは父が早く亡くなったので
できるなら母に
父と一緒に年をとらせてあげたかったって
そう思います
(8巻 p24,25)

 本作でこれ以前にはっきりとした言葉で愛が語られたので思い当たるのは、太重が、仁衣が山田について語った言葉を思い出したシーンです。
 正月に八条寺家が勢揃いした時に、仁衣の同僚であり自分の友人であり八条寺家にも訪れたことのある山田について岳が触れ、興味を示した他の面々が山田とはどんな人間なのかと矢継ぎ早に問う中、仁衣が口にしたのが次の言葉です。

なんだろ
いつも幸せでいてほしい子なんだよね
やさしすぎる子だから
(4巻 p104,105)

 それを後日思い出した太重が、

だから心底驚いたのだ
そんな私たちだから本当のところはわからないが
恋のこの字も出てきそうにない末妹の口から
突然愛の言葉が出たことに
(4巻 p165,166)

 と表現したのでした。
 「いつも幸せでいてほしい」と願う言葉。それをして太重は「愛の言葉」と評しました。
 誰かを愛することとは、その人の幸せを願うこと。
 そんな太重の思いが見えてきます。

 また、「愛する」という能動態ではなく、「愛される」という受動態では、岳が亡くなった祖父(千から見れば夫、仁衣らから見れば父)について、こんなことを言っています。

笑ってるとこしか見たことないんだよね いつも嬉しそうに俺を見てるんだ
それ思い出すだけで おじいちゃんに愛されてるって感じるんだよね
それってすごく心強くてさ
(5巻 p117,118)

 誰かに愛されるとは、その人から嬉しそうな、幸せそうな顔で見られていると意識できること。
 茉子いわく、「愛を受けとるのがとっても上手」な岳が愛されていると感じるのは、そういうときなのです。

 Day.36の茉子の思い出を筆頭に、8巻で語られた愛にまつわるいくつかのエピソードが、この「愛する」「愛される」という両方向のエピソードを喚起し、強く「愛」のイメージをもたらしました。
 特に、お互い労わりあっているのが見て取れる見知らぬ老夫婦から、かつての両親の姿を思い出した茉子のエピソードは、長い時間をお互い慈しみあう夫婦の愛の形を意識させましたし、片思いの既婚者が再び客としてくれた茉子や、不貞(未満?)相手との関係が切れてしまったある女性のエピソードは、愛の脆さ、儚さを突きつけました。
 脆さ儚さという意味では、夫と死別してしまった千もそうだと言えるでしょう。人はいつか必ず死ぬのだから、二人の間に愛があろうがなくなっていようが、人にはいつか必ず別れが訪れるのです。その意味で、愛はいつだって期間限定。永遠の愛なんてないのかもしれません。
 でも、死が二人を別つとも、そこに十分な愛があったのなら、あとから思い出すときにそこに見出すものは「愛しかなかった」なんてこともある。嫌なこともあったでしょう、辛いこともあったでしょう、でもそれ以上に愛が大きければ、思い出した後に残るのは愛ばかり。それを周囲の人間や遺された人間が継いでいけるのならば、ひょっとしたら永遠の愛なんてものもあるのかもしれません。
 Day.40の仁衣と山田の

「おかえり」
「ただいまです」
(8巻 p163,164)

 や、

「山田に会えなくても平気って言ってるんじゃないぞ」
「僕は無理してるんじゃなくて 先パイの顔を見たくて帰ってきてるんです」
(8巻 p166,167)

 なんてのは、言葉を飾らない仁衣と山田のふたりだからこそ直截的な物言いに、すごくお互いを思いやる、思い合う「愛」を感じます。そんなやりとりをした直後に握った手を悪気なくぱっと放す仁衣はご愛敬ですね。

 とまあ、柄にもなく「愛」を強く感じた『ブランチライン』の8巻でした。
 やはり池辺先生の作品はいいですね。それが善いものであれ悪いものであれ、感情、あるいは欲望の素直で素朴な表出と肯定が、ひどくしみわたるのです。
 人を好きになってもいいしならなくてもいいけど、なったならその気持ちは大事に認めてあげるのがいいぜ。
 そんなことを言っているように感じられます。

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人と人のつながりにまじる、あるいは人と人を繋げる優しいSF『時間跳躍式完全無劣化転送装置』の話

 さて、山素先生のSF短編集『時間跳躍式完全無劣化転送装置』のレビューです。

 SFと言われたとき、なにかこう身構えてしまう人は少なくないでしょう。自分の知らない理系知識をぶつけてこられて訳の分からないままそっと本を閉じるはめになるのではないか。そんな、難解な科学知識や科学考証に怯んでしまうようなあなた、朗報です。この作品で、そんな怯えを持つ必要はありません。科学的な言葉遣いが出てこないわけではありませんが、量は少ないし、言ってしまえばフレーバーテキスト。この本の中でのSFの役割は、人と人が心を通わせる物語の中にそっと紛れ込んだSF、あるいはSFというギミックでつながった人と人の物語であって、楽しむべきなのは非常にうまく調理された人間(とそれに類する何か)のドラマなのです。

 表題作の『時間跳躍式完全無劣化転送装置』は、高校時代にはぐれ者同士でつるんでいた二人の女性が、卒業を機に道が分かれ、そして7年ぶりに再会する物語。かたや料理人になる為に渡仏してから久しぶりに帰国し、かたや日本でタイムマシンを開発しつつ博士論文に苦しんでいる。そんな二人が久しぶりに会うお話。
 タイムマシンというギミックさえなければ一般的なヒューマンドラマにとどまりそうですが、ここに(ずいぶん前から機械自体はあるとされている)タイムマシンがまざってくると、とたんに今私たちがいる世界から一歩ずれた世界線に紛れ込みます。一方通行とはいえ、現在から未来へ向けて一切劣化することなく物質を転送できる機械がある世界では、人はどのように生き、どのように考え、どのように心を通わせるのか。
 と、考えてしまうかもしれませんが、意外に人間は変わるものではありません。そんなタイムマシンがあっても、まとめて調理をしたものを順次任意の時間へ転送することで料理の手間を省略したり、複数の食材が同じ時間に転送されたことでTSCA(時空間衝突事故"Time and Space Collision Accident")を起こすも、その結果全く違う味わいの食材になったことでこれが新たな調理方法につながるのではないかと思考したり。結局人間は、驚くべきものがあっても自分の身の回りのある認識に回収しないとそれを扱えないのです。SFは意外に、するっと人と人のつながりにまぎれこんできます。
 いえいえ、ひょっとしたら人間はそんなことはなく、現在に存在しないパラダイムシフトを起こすような代物があれば、がらっとその思考や認識が一変してしまうのかもしれません。でも本作は、そのあたりがとても自然。とても説得力がある。いかに意外で常識を一変させるようななものがあっても、それが人間をドラスティックに変えるものではない。人は人。その変化は意外にゆっくりなんだと、そう思わせる温度感と無理のない筆致で、人と人の心の通い路を描いているのです。

 単行本で最もページ数の多い『ザバイバーズゲーム』は、ある小学生の少女が宇宙船にアブダクションされるお話。道を歩いているときに宇宙船からのトラクタービームで少女は空へと吸い上げられるのですが、それがすんごく遅い。どんくらい遅いかというと、2300
を昇るのに12年。時速0.0219m。カタツムリだって時速48mで移動するってのに、少女は光線を浴びたその日から12年かけて緩慢に誘拐されるのです。
 食料や寝具など各種必需品や、勉強道具や通信道具などはなんとか送り込めても、彼女自身を救い出すことはできず、少女は一人、延々とさらわれ続けるのですが、そんな彼女の心のよりどころはネットで知り合ったゲーム友達。素性を明かさずネット上での繋がりしかないその人だからこそ、自分をかわいそうな人扱いすることはせず、平熱のトーンでやり取りをしてくれる。けれどある日その友人が、「一緒にゲームを作らないか」と持ち掛けてきて……。
 このお話は、『時間跳躍式完全無劣化転送装置』とは逆に、SFというギミックで人と人がつながる物語。UFOにゆっくりと連れ去られようとしている少女が、そんな状況だからつながった顔も知らぬ誰かとの交流のお話。常識を超えたシチュエーションから始まる物語が、そこにどんなSFがあっても人と人のつながりの物語に収斂していく、手触りの良い美しさ。
 『時間跳躍式完全無劣化転送装置』も『サバイバーズゲーム』も、そこに生きる人の顔が見えるようで、それがとても読んでいる人間の心の深いところに収まっていく感じです。

 うさぎが人類のように生きている世界の『うさぎの本』も、また滋味深いんですよね。登場人物がみなうさぎなので、読んでる方は一発でこれはフィクションだと理解するので、そこに過剰な感情移入、「同じ人間」と思って読む感覚がはだいぶ減じられるのですが、だからこそ、そのうさぎに仮託された人間に気づきます。うさぎの向こう側にいる人間の姿にすぐ気づけるのです。
 うさぎの世界というフィクションだからこそ、そこで人間のように生きるうさぎたちが、私たち自身である人間の世界に接続され、そこに比喩としての物語を生み、比喩ゆえに読み手次第で受け取り方を変えてくるのです。絵本のようともいえる、淡々と語られるとあるうさぎの物語。表面的な静かさの下で大きくうねっているうさぎの感情が、薄皮一枚の穏やかさを通して伝わってくることで、そのフィルターで読み手それぞれの味わいに変換されます。

 「ヒューマンドラマSF」と呼ぶとなんだかSFが強くて少し味気なく感じてしまいます。そんなわかりやすい単語で表すよりも、もっと優しくて、食感がバラエティに富んで、いろんな味がする、そんな極上の短編集なのです。
 これは老若男女問わず読んでほしいすてきな作品。
 表題作はこちらで全部読めます。まず読め。御託はいいから。
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