ポンコツ山田.com

漫画の話です。

『税金で買った本』「学校へ休んで図書館へいらっしゃい」を掘った先にある真実と、その掘る過程の話

 今週(2026年44)号のヤンマガに掲載された、『税金で買った本』185話が、とてもよかったのですな。

 「もうすぐ二学期。学校が始まるのが死ぬほどつらい子は、学校を休んで図書館へいらっしゃい」
 そんなフレーズをどこかで見たことがあるのではないでしょうか。
 これは2015年に鎌倉図書館がTwitter(現X)でしたツイートで、家庭や学校以外に子供が身を置ける場所を提示するものとして、全国的に評判になりました。『税金で買った本』185話はそれを下敷きに話が展開されます。

 SNSに限らず、バッと広まったいい話というのはその中身の吟味がされづらく、特にそれが海外のあまり有名ではない(でも権威はありそうな)ものを元ネタとしているならなおのこと、なんか素敵そうなことして人口に膾炙し、原典では誰がどういう文脈のどんなニュアンスで言っていたことなのかというのは気にされることが少なく、上記のフレーズもその一つです。
 もちろん私だってそのクチですし、いちいちすべての話の原典にあたるなんてのは難しいものですが、そうではいけないのが専門家。図書館の専門家である司書資格を取得するための授業で、石平君はこの話を知りました。
 この鎌倉図書館のツイートのネタを遡れば、図書館学の著名な日本人教授がアメリカの図書館のポスターの例として講演で話したものだけど、でもそのアメリカのポスターの実際の文言を見てみるとけっこうニュアンス違うよね、という講義に石平君は興味津々。そのポスターが掲載されているという大学所蔵の洋書を見つけ出し、しかも二版には載ってないから初版を探し出して、関係ありそうな個所を複写し、翻訳アプリの力を借りながら訳していくという学生の鑑の如き学業態度です。
 そうして出てきた文章を、図書館で白井さんと二人頭を突き合わせて話し合い、上記フレーズの大本であるアメリカのポスターがどこでどう使われていたのかを調べていくのですが、その一連の流れの中に、いろいろなグッとくる点がありました。

 まずは、広く流布しているふわっとした話の原典を確かめる大切さ。伝聞を経てメッセージのニュアンスが変わってしまうことは世の常。原典を確かめることで、伝聞が発生した社会状況によってどのような変化が起こったのか、確かめることができます。

 そして、過去を調べる際には、当時の、現地の社会状況を考慮しなければいけないこと。たとえば、スマホやネット、AIなどの技術の存在、喫煙や肥満、病気等に関する生理的な常識、LGBTQや中絶などに対する社会の受容など、令和の現代日本を基準にするとまるで違う状況が数十年前も遡れば日本に限らず世界の至るところで存在しています。

 また、図書館の意義。情報の収集と維持、そして提供がそもそもの出発点だった図書館に、時代を経て、居場所の提供という役割も付加された。それは存在意義が変化したのではなく、増えたということ。かつては情報で人を救っていた図書館が、居場所を提供することでも人を救えるようになったということ。
 
 さらに、石平君の成長。自分の好奇心を満たすために、図書館も、先進技術も、自分の頭も使って謎を追い求めていく姿に感動を禁じえません。
 人ということで言えば、白井さんの過去。ほんの短い回想の中で、彼のビターな過去と、自分を救ってくれた図書館の在り様が印象的に描かれています。
 そしてお話の締め。冒頭のフレーズの意味するところを原典からかみ砕いてもう一度味わいなおすような描写は、ほんのワンシーンながら深い印象を残します。どんなに辛い時でも、救われる場所があるかもしれないことは諦めないで、と。

 ちょっとしたミステリーのように仕立てた原典調査に、上記のような味わいをいくつも持たせてたった一話にまとめたこのお話、ホント、一話完結のお話としてかなりの出色の出来だなと感じた次第です。

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宇宙を飲め! 時間を飼え! 目指せチャンネル登録1000人!!『ときときチャンネル ~宇宙飲んでみた~』の話

 はじめまして! 私は十時さくら。この度配信者デビューしました。収益化を目指して、まずは登録者数1000人を目標に頑張っていこうと思います!
 このチャンネルのテーマは私の同居人の多田羅未貴さん。この人はなんかすごい人で、インターネット3に接続したり、宇宙を飲んでみたり、時間をペットにしたりと、なんかもうすごいんです! そんなすごい人を皆さんに紹介してみたいんです!! そしてあわよくばそれでお金を稼ぎたいんです!!!
 というわけで、十時さくらと多田羅未貴の「ときときチャンネル」、登録よろしくお願いします!!

 というわけで、漫画:とこみち先生、原作:宮澤伊織先生の新作『ときときチャンネル』のレビューです。
 配信デビューで一攫千金、承認欲求を満たしつつ、濡れ手に粟でFIRE生活。そんな夢物語を空想することは誰しもあるかもしれませんが、それを実現させるには何より世間の耳目を集めるコンテンツ(とそれ以上に運)が必要なわけで。
 まず、それを目指すは我らが主人公・十時さくら。

(1巻 3p)
 そして、そんな彼女が用意したあまりにも強烈なキラーコンテンツ。それは同居人であるマッドサイエンティスト・多田羅未貴。

(1巻 8p)
「ほら 時間って創作物じゃん」
「まず 空間って実は存在しないんだけど」
「負の質量とか超光速とかで この辺の時間が不安定になってるからかも」

 そんなセリフを平気で口にする天才科学者の彼女は、ちょいと空間をすくってマグカップに宇宙を満たしたり、結晶化させた時間をペットにしたり、画像処理のスクランブラーを使って空間をリアルタイムで変換したり、未来の自分からエキゾチック物質を郵送されたりと、ちょっと何言ってるかわかんないことをやらかすマッドぶり。
 通常人たる十時さくらや視聴者には意味のわからないままに意味のわからない現象が意味もわからず起こり続けていくびっくりどっきり配信チャンネル。そんなの動画配信に欠片も興味のない私だって見ちゃいますし、なんならインターネット3の向こう側にいる超知性体だって興味持って見ちゃうかもしれません。
 え? インターネット3とは何かですって? 
 それは超高次元の粒子間ネットワークであって、粒子の結びつきがこの空間のレベルを超えると他の次元とリンクするごとにエネルギーが増えるのでそれを超越的な知性がネットワークとして利用しているものなんです(早口)。
 ほら何言ってるかわかんない。

 たとえば第1話では、さくらが宇宙を飲みます。超弦のD0(ディーゼロ)プレーンで行列を作って、それでホイッと中空をひねることで宇宙のかけらをすくってマグカップに注いだ宇宙をです。
 するとどうでしょう。宇宙を飲めば、すべてがわかります。

(1巻 24p)
 もともとそれを飲んだ私自身も宇宙の一部なので、たとえ飲んだ宇宙がほんの一口分でも、私が宇宙に溶け込み、宇宙が私に溶け込み、一つになって私も宇宙なので、すべてがわかるんです。すべてがわかるから、すべての場所や時間がすべての場所や時間とつながっているのがわかるし、すべての因果関係が定まっていないこともわかります。もちろん、私が子供の頃に疑問に思っていた生や死や世界やあらゆるすべてのこともわかっちゃうんです。
 すごいですね。でも、あまりにもわかりすぎちゃうから、情緒がおかしくなってちょっと泣いちゃったりしますね。

 とまあ、グッドトリップもいいとこな即BANされかねない配信を1話からやっているんですよ。俄然興味出てくる。
 そんな一般人(含む配信者自身)を置いてきぼりにした先端物理学(のさらに先)の粋を、女性二人でダラダラ配信するのがこの「ときときチャンネル」なのです。

 で、そんなぶっ飛び物理学一本やりのお話ではなく、そこかしこに差し込まれる二人のキマシタワーな関係性がまたいいのですな。

 多田羅さん曰く、人間はみんな一人。
 物理学が露わにした、あるいは身も蓋もなく表現した、この次元に存在する人間の孤独な在りよう。すなわち、同じ空間を共有しようとも、我々は同じものを観測することはできません。
 人間が世界を認識するのに光や音を使っていて、それらがいくら速かろうとも上限がある以上、各々が認識している情報が全く同じになることはあり得ず、タイムラグが発生してしまいます。
 私の目の前にいるあなたが私の姿を見るには、私に反射した光があなたの目の中に飛び込むまで、その距離を光が進むまでの、極小の時間が必要です。その意味で、たとえ肩を寄せ合っていようとも、抱き合っていようとも、私とあなたは、まったく同じ「今」を共有することはできない、多田羅さん(というか現代物理学)いうところの「非因果的領域」に存在しているのです。
 極論、人間はだれかとまったく同じものを共有することのできない孤独な存在。同じものを共有できなければ、同じことを考えることも感じることもできない。私とあなたは、一緒になれない。たとえ宇宙を飲んですべてと繋がれた気がしても、しょせん、人間は一人。

 でも、同じことを感じられなくても、繋がれなくても、他人同士でもしょせん人間は一人でも、一緒にはいられる。そんな残酷な物理学的真実を知っても、一緒にいられるし、一緒に暮らせる。
 物理学的事実とは別の次元にある、人の友愛、慈しみ、思慕、あるいは言葉にできない何か。そういうやり取りをセリフに頼らず、表情とコマの配置を用いて、抒情にドライさをまとわせて描写してくるとこみち先生の描き方が染みてくるのです。

(1巻 18p)

(1巻 49p)
 ほら、いい顔してる。

 作中、ガチ現代物理の用語が飛び交いますが、そこらへんは魔法の呪文と思ってくれてあまり問題はありません。先端物理の先の先が顕れてしまった少し不思議(SF)な世界を、かわいい女の子二人でゆるゆる楽しく配信している、そう捉えてもらえればいいのです。
 宇宙を飲んだ時ほどではありませんが、普段考えるどころか気づく事すらない物理的世界の在りように頭がぐんにょりしてくる。そこに、物理的に見た人間の儚さと無常さが冷や水をぶっかける。でも、人間が見る人間の在り方が冷えた心をほのかに温めてくれる。
 そんな少し不思議で冷たくて優しい作品です。

 1・2巻同時発売で、すわ短期連載だったのかと焦りましたが、無事続刊も出る様子。安心して、皆も思う存分ハートをトキトキさせちゃえ☆
ときときチャンネル 第1話 宇宙飲んでみた①

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遠い宇宙の果てでケモたちの出会った愛すべき異常性癖『ヒトナー』

 宇宙のどこかに存在するとある星。そこでは多種多様なケモたちが住んでおり、言葉を話し、神話を共有し、国家を作り、芸術を生み、すなわち文明を築いていた。そんな平和な星に、天から降ってきた人工物が一つ。見慣れぬ金属製のそれから出てきたものは、架空の生き物としか思われていなかった化物、ヒトだった。
 ヒトとは何者か。なぜ我々ケモとここまで異なる姿をしているのか。なぜこの星にやってきたのか。
 今、ケモとヒト、種族と星間距離を超えた交流が始まる……

 ということで、屋宜知宏先生『ヒトナー』のレビューです。
 ジャンプ+の掲載時に大きな反響を呼び、ジャンプ+10周年記念の読切集「変」にも収録された同名の読切が、連載になって帰ってきました。トネリコ報道官のあの痴態に心震わせた人も多いでしょう。全国10万人のケモナーの皆さん、お待たせしました。

 そう、擬人化された動物、ヒト型の動物愛好家をケモナーと通称しますが、それは我々人間サイドから生まれた呼称。もし、ヒト型のケモノしかいない世界で、ヒトを愛好する趣味嗜好のケモがいたとしたら。それこそがヒトナーなのです。

 我々の社会でケモナーはごく少数の悲しきマイノリティ。お日様の下を歩けず、人目を避けて暮らし、もし見つかれば石もて追われるような迫害を受けて生きていますが、ケモたちが暮らす星でもそれは同じ。架空の生き物であるヒトを好きだなどと広言すれば、特殊性癖の異常者として親族郎党まとめて焼き討ちに遭うがごとくに社会的に抹殺されかねません。
 じゃあ、そんな世界で、本当にヒトが来てしまったら?
 生きて、動いて、私たちケモとコミュニケーションを取ろうとしてくるヒトが現れてしまったら?
 しかもそのヒトが、明らかに自分たちケモより高等な文明や科学技術を持っていたら?
 その上で、私たちケモの前に姿を現したヒトが、何回生まれ変わっても足りないくらい遠くからたった一人と来ているのだとしたら?

 そう、この作品は特殊性癖の異常者であるヒトナーを描くだけの物語にあらず、自分たちよりも高等な存在と見受けられる相手とどのように交流するかという社会の混乱を描くものであり、未知なる社会からもたらされる知見による社会変容の物語であり、なにより、遠く離れた宇宙からやってきたたった一人の異邦人との交流譚なのです。

 敬意を払うのか、蔑むのか。
 実りある出会いと考えるのか、害悪をもたらすものと捉えるのか。
 新たな発展を生むのか、深刻な混乱を生むのか。
 敵対するのか、友誼を結ぶのか。
 文明への闖入者は、その文明の成熟度を測ります。
 ケモたちが見せる狂乱は、我々人間の写し鏡になりえるでしょう。

 しかし、ここで同時に考えたいのは、ケモたちというホーム側だけでなく、宇宙の反対側までやってきて、唯一のヒトとして星に降り立った男・ヒトシです。
 その存在が理論上証明されたからと、辿り着ける保証などない片道切符で外宇宙の彼方にあるという星へと送り出されたヒトシ。その旅路は、「遠すぎてまるで寿命が足りないので船の中で冬眠し」「故郷が確実に滅亡しているだけの年月をかけて」「本当に存在ているかもわからない星を目指す」ものであり、彼がなぜその役目を負ったのかは明かされていませんが、「旅立ったことを呪いながら虚空の中で力尽きていく」ことを覚悟するものだったのです。
 「故郷が確実に滅亡しているだけの時間をかけて」やってきたということは、もし次に彼が目覚めた時には、文化も、文明も、言語も、種としてさえも、だた自分だけが最後の一人として負っていることになるということ。自分が死ねば、それまでに自分も含めたすべての人類が築き上げてきたものが、一切合切ゼロになってしまうということ。
 たとえ本当に星があって、生命があって、文明があって、交流のできる何かがいたとしても、自分が最後のヒトだということには変わりがない。そんな、わが身を押し潰すほどの重圧と孤独は作中でも触れられており、読んでいる私たちがヒトシの状況に想像を巡らせることは難しくありません。その想像がどれだけ真に迫れるものかはわかりませんが、たとえ10分の1、100分の1だとしても、彼の抱える恐怖に慄かずにはいられません。
 もちろん、同時に、遠い宇宙の隣人であるケモたちに会えた彼の喜びにも、ですが。
 『プロジェクト・ヘイルメアリー』の大ヒットは記憶に新しいところですが、たった一人のヒトとして宇宙の彼方で異種族と出会う物語は、脳ミソの普段なかなか働かない部分が刺激されます。
 先ごろ完結巻が発売された『宇宙兄弟』でも、宇宙空間でたった一人取り残される恐怖が描かれますが、自分を包む宇宙服(あるいは宇宙船)一つ壊れたらあっという間に死んでしまうような、無慈悲で静謐な死の空間での孤独が生む恐怖は、想像を絶するものです。だからこそ、そこから救われるときのカタルシスも、また想像を絶するものですが。

 物語の背後にあるそんな重さに、「ヒトナー」という言葉をまぶしつけてコメディ風味を強め、ライトに楽しく読めるようにしている本作。カバー折り返しのコメントにもあるように、それほど長いお話にはならないのでしょう。ギュッとまとまった傑作になることを期待せずにはいられないので、未読の人はさあ読んどけ。
shonenjumpplus.com

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世界一面白い小説を書いたおもしれえ女『件の件について』の話

 SF大賞の選考をしていた心人編集者・狭間は、突如雷に撃たれたような思いにとらわれた。世界一面白い小説に出会ってしまったのだ。100年近く先の世界を強烈なリアリティで描き出した投稿作『二千百年』。矢も楯も止まらず作者にアポを取り、交通の便の悪いド田舎まで足を運んだ狭間だが、だだっ広い家の奥深くの部屋で会った作者の正体は……

 ということで、作画・イズタニC先生、原作・端先生による『件の件について』のレビューです。
 ある編集者が出会った不世出の天才作家。果たしてその正体は。そしてその作家に出会った編集者の未来は……と煽るまでもなく、その正体は表紙にも描かれている女性です。
 頭から二本の角を生やし、長身の尻からは尾を生やし、手足(ひじの少し先からと、太ももの半ばから先)は黒く染まり、その手には長い爪をもつ彼女の名は坂斑子。彼女の正体は、予言の力を持つと言われる半人半牛の妖怪、件(くだん)なのです。その予言、すなわち未来を視る力でもって彼女は西暦2100年の世界を視て、それを小説にしていたのでした。
 しかし、いかに前代未聞、空前絶後のものを見聞きできようとも、それを文章で表現できるかどうかはまた別の能力。斑子の『二千百年』の未来の世界のリアリティが彼女の件の能力に由来しているとしても、それが作品として成立しているのは紛れもなく彼女の文章能力ゆえなのです。
 そして、そんな稀有な能力を持つ作家に出会ったからには是が非でもその作品を世に出し、新たな作品を書いてもらいたいと思うのが編集者のサガ。斑子の正体には当然驚きながらも、それ以上に彼女の才能に惚れ込んだ狭間は、斑子を作家デビューさせることこそ我が本懐と決意を燃やします。
 が、惚れ込んだのも、決意を燃やすのも狭間だけではありません。斑子もまた、惚れ込み、決意を燃やすものがありました。それは狭間自身。
 実は、『二千百年』の主人公は彼女と狭間の孫。つまり、彼女の知る未来において狭間と彼女は夫婦になり、子をなし、孫までいるのです。
 恋人より先に夫も子も孫も知ってしまった天才作家斑子と、世界一面白い小説を知ってしまった上にその作者からいきなりプロポーズをされてしまった編集者狭間。ある意味で利害の一致した二人の共同作業は、こうして始まるのでした。

 設定に多少ピーキーなところを作りながら、その設定の良さを削ぐことなくするすると読め、それでいて作中で起こるイベント自体はピーキーになりすぎずに地に足がついている。キャラクターたちはドタバタと騒ぎながら、話がゴチャゴチャとならず、適度に愉快で適度にまじめ。老若男女を問わず、どの層の人にも届きそうな懐を感じます。
 斑子と狭間のラブコメでもあり、創作をする作家の話でもあり、自分がいいと思ったものを世に出そうとする編集者の話でもあり、ファンタジーと少しのオカルトの話でもあるのですが、斑子というピーキーな部分を一気に掘り下げず、最低限のところだけ説明して、ストーリーの展開に紙幅を費やしているからこそ、とっつきやすく、多くの人に立直する作品になっていると思いますね。
comic-fuz.com
まずは第1話の試し読みを。

 この作品と言い、既にレビューを書いている『チハヤリスタート!』、書いてはいないけど単行本を買っている『ゆるキャン』、『なにも理解らない』、『虎耳女になったとて』、まだ単行本化されていない『名願叶の見えざる手』など、comic FUZが今熱い。

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物語のリアリティを揺るがす「素人の基準」の話

 突然ですが、物語のリアリティって何でしょうね。
 リアルとリアリティもまた別物ですが、思うにリアリティとは「物語世界に実在感を与える種々のディティール」ではないでしょうか。その意味で、私たちの現実世界で起こりうることが正確に描写されたリアルとは別物で、物語世界で描写されたことが現実世界では実際に起こりえないことでも、それを読んだ私たちがそこに実在性、本当っぽさ、作品世界の強度を感じられれば、そこにはリアリティがあると言えます。
 じゃあ、どうやってリアリティを与えられるのかと言えば、それにはいろいろな方法がありそうですが、逆に、どうしてしまうとリアリティを失ってしまうのかという点について、最近気づいたことがあります。

 現在月刊少年マガジンで連載中の『カインズオブブルー!』。ジャズに目覚めた女子高生の漫画ということでジャズ好きの私は追っていたのですが、2026年8月号9月号と連続して、ある描写を読んでスンとなってしまい、それこそがリアリティの消失とも呼べる感覚だったのです。
 
 その二つの描写は別個のものなのですが、8月号のそれは、高校からアルトサックスを始めた少女しえりが陰口を言われるシーン。初心者にも関わらず自前の楽器を購入し、入学前の春休みから吹奏楽部に参加して練習している彼女について同級生らが、「いつも同じところを間違えている」と嗤っているのをしえりは聞いてしまいました。

 9月号のそれは、そのしえりが、主人公のいつみと奏太朗とのトリオで屋外ライブに参加したシーン。元々参加するはずだった別の経験者のために描かれた譜面を必死に練習した彼女のソロが終わったとき、とある事情であわや演奏全体が止まりそうになったとき、観客が「ジャズってアドリブなんだから、譜面なくても演奏できるんじゃない?」と口にしたのを聞いて、若くしてピアノの熟練者である奏太朗は、「頭の中に浮かんでる音をそのまま出力する事だって初心者には難しいんだ」としえりを擁護するようなことを思いました。

 さてこの二つのシーン。共通しているのは、この作品の中での「素人」の基準のおかしさです。
 高校からサックスを始めた、わずか数か月の経験者でしかない人間が、譜面を間違えることを嗤われたり、経験者向けに書かれた譜面をたとえ完璧に演奏できなくても暗譜したり。そして、初心者じゃなければ頭の中に浮かんだ音をそのまま鳴らすことができることになっていたり。

 いや、そんなん無理ですよ。それができるのはもう初心者じゃないですよ。
 いくら日本の義務教育が音楽に手厚くて、譜面の読みからを授業で教えているからって、それまで個別に音楽を習ったことのない人間がそうそう簡単に譜読みをできるものでもないし、サックス(に限らず木管楽器)のソロなんて指が動いてナンボですから、そんなもんを始めて数か月の人間が暗譜できるのなら、もうその人は将来のビッグプレイヤーですよ。
 頭の中に浮かんだ音を鳴らすのだって、それができるのはよっぽど音感が磨かれた人間で、単音ならまだしもメロディでなんてのは高校三年間みっちり吹奏楽でやった人間を無作為にピックアップしたってできるやつの方が少ないですよ。初心者どころか中級者の基準もだいぶ怪しいですよ。

 こんな具合の「素人の基準」のおかしさ。で、素人というのはつまりは一般人とか普通の人ってわけですが、その基準がおかしいと作品世界の実在性が一気に揺らぐわけです。要は、普通の人が全然普通に見えない、本当にいるようには思えないってことですから。
 念のため付言しておけば、音楽がテーマの作品で素人の基準が高ければ常に実在性が揺らぐとも限らず、少なくとも本作は、読み手と同じ常識を共有している世界であるがゆえに、そんな素人離れした人間が素人扱いされていることに強烈な違和感が生まれました。もしこれが「みんながみんな音楽がうまくて当たり前な特殊な社会」の作品であれば、私たちのそれとは違うおかしな世界なのだと、かえってリアリティを補強する描写になります。
 重要なのは、その作品世界にはどういう常識が設定され、そして実際にその常識を踏まえたどんな生活があるのか、ということです。

 ここで同じジャズ漫画である『BLUE GIANT』シリーズを見ますと、主人公のダイは楽器を始めてわずか数年で日本のジャズクラブ最高峰の舞台に立ち、世界に飛び出し、幼いころから楽器をずっと触っていたり、レジェンドプレイヤーを父に持ったりという人間を押さえて、世界中の若手ナンバーワンテナープレイヤーの称号を得ているのですが、この彼のある種異常な成長をおかしいとは言いません。なぜなら、このようなある種異常な成果を上げている人間というのは、将棋の藤井王位や野球の大谷選手とか、現実にいるからです。
 どの分野も最上位層はバケモノぞろいで、そこはもはや我々一般人の思う基準や常識なぞが通用しない世界ですし、もしその最上位層だけが持つ基準があるにせよ、それすら日々更新されています(前記のふたりはその好例でしょう)。

 『カインズオブブルー!』も、主人公のいつみがどれだけ異常な才能を見せてもそれは問題ありません。それは、どの分野にも存在しうるハズレ値ですから、普通や平均から大きく飛び出たデータが一つだけ(あるいはごく少数)あっても、普通や平均にはたいした影響は与えません。普通や平均の母数が圧倒的に大きいからです。
 しかし、その圧倒的多数であるはずの普通や平均の値がおかしいとなると話が変わってくる。明らかにおかしいある分野での普通や平均が、それらが存在している世界の他の分野の普通や平均とどうにも噛み合わない。そうすると、リアリティが失われる。
 それこそが、「素人の基準」が揺るがすリアリティなのです。

 とはいえ。
 『カインズオブブルー!』のこの描写にリアリティの喪失を覚えてしまうのは、私が音楽経験者であるからかもしれません。
 たとえば『シオリエクスペリエンス』も、私は作中の吹奏楽部員が他人のアルトサックスを冷静な悪意でもって壊すシーンを見て、一気に気持ちが醒めてしまいました。いくらなんでも楽器経験者はそんなことしないよ、と。ですが、少なくとももう25巻まで出ている同作が一定以上の人気を博していることは事実ですから、そこにリアリティの喪失を覚えない人の方が圧倒的多数だったのでしょう。
 また、同作の上記エピソードの近傍で、野球部員がバットで同級生を襲うシーンが(たしか)あり、初読のときの私はそれをスルーして、吹奏楽部員の振る舞いにだけしょんぼりしていたのですが、そのしょんぼりしたすぐ後に、「何で自分は吹奏楽部員が他人の楽器を壊すのはありえないと思っているのに、野球部員が他人をバットで殴ることは問題ないと思っているんだ?」と気づき、ひとり笑ってしまいました。結局私も、自分でサックスをやっていたから、楽器経験者が他人の楽器を壊すその振る舞いに引っかかったわけで、野球をやっていなかったから、野球部員の悪辣な暴力はスルーしてるんです。結局のところ、リアリティのセンサーは、読んでる人間の経験、もっと言えば偏見に基づいて働いているにすぎないんですよね。

 元落語家で現ラジオパーソナリティーの伊集院光氏は、落語が題材の『あかね噺』やラジオ番組制作が題材の『ラヂオの時間』、深夜ラジオリスナーが主人公の『さむわんへるつ』を十分楽しめないと言っています。これも、その畑で生きている(きた)人間には、作品の中の「そうはならんやろ」というおかしな描写が目についてしまい没入できないということで、その畑にいない人間が大多数ならば世間的に十分な評判を得られるということです(余談ですが、『昭和元禄落語心中』はそんな伊集院氏も楽しめた落語漫画です)。

 それを敷衍してまとめると、ある分野の普通や一般の基準がおかしいと感じると受け手はそこからリアリティを見出せなくなるけれど、その分野に親しんでいる人が少なければ世間的な評判を得るのに支障は少ない。しかし、その分野の裾野がある程度以上大きくなると、リアリティの喪失を感じる人が多くなってしまう、よろしくないことになる、と言えそうです。

 まあ以上の話は「お前の心が狭いだけでは?」という問い対して明確な答えを私から返せないのですが、真実の答えは皆さんそれぞれの心の中にあるのです……

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『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』キャラクターの沈黙による欲望の喚起と、アニメでも変わる時間の流れの話

 休日の朝イチ7:45の回で『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観てきました。
chiikawa.toho-movie.jp
 人混みが嫌いなので朝イチを狙った(本当は前日の夜遅くに行く予定だったけど睡眠不足からの頭痛で断念)んですが、朝もはよからちびっこから大人までそこそこ席が埋まっていてびっくりです。

 私はちいかわミリ知る勢(1巻だけは読んでる)なのですが、ネットでの不穏な評判に誘われて行ってみたのですな。思い返せば最後に映画館で観た映画は何だったか、ひょっとしたらコロナ前かと思ったけど、『シン・ウルトラマン』(2022)だったのでギリコロナの最中。そんな人間の映画感想なのですが。

 率直に言えば、ラスト15分くらいまではあまり入り込めませんでした。キャラ重視で、ストーリーのライブ感が強くて、作品自体になじみのないおっさんがズップシいけるものではないかなって感じの。
 でもそのラスト15分、セイレーンが島民を襲う理由が明らかになるシーンあたりからは、複雑な感情がこみあげてきた良かったですね。
 ネームドキャラたちとは違う、外見上の差異が頭部から生えてるものしかない、ほぼ同じ姿の顔のパーツすらない島民だからこそ、ヒトハとフタバが何を思ってそうしたのか、そうしているときどんな顔をしているのか想像の余地があり、最後のキャンプファイアーや、最後の最後(エンドロール後)でも、表情がないキャラだからこその味わいがあります。本当に最後の最後のあの三匹の姿、子供たちはどう思って観るんでしょうね?


 さて、それ以外に印象に残ったのが、ラスト15分でしばしば登場した、「意味ある沈黙」のカットです。
 セイレーンに襲われたフタバが回復して皆が喜んでいる中ちいかわが二人を見るシーンとか、キャンプファイアーの最中にちいかわがヒトハ・フタバと話そうとしたシーンとか、「わかった」セイレーンのことを思い出しながらヒトハとフタバが帰路に就くシーンとか。おおむねヒトハとフタバなんですが、二人の沈黙のシーン、元々喋らない二人ではありますが、他のキャラクターも含めてなにも声がないことに明らかに意味を持たせているシーンが、強く印象に残ったのです。
 それがなぜかと言えば、私が無意識の裡に想定していた沈黙の尺の長さより、少しだけ長かったから。沈黙することで、なにかセリフがあってしかるべきシーンで誰も何もしゃべらないことでなにがしかの意味を持たせる演出はしばしば見受けられますが、私が今までの人生で摂取してきた色々な作品から経験的に想定している、沈黙の尺の長さがある中で、それよりも二呼吸分くらい長い。それがやけに印象に残りました。
 「このくらいでこの沈黙(のシーン)は終わるだろう」という無意識の想定があるのに、それからちょっとだけはみだすことで生まれるいい意味での違和感、いい意味での居心地の悪さ。それがよかったんです。悪い意味にならないのは、それが違和感や居心地の悪さが効果的になるシーンだったからです。違和感や居心地の悪さが仕事をする不穏なシーンだったんですな。違和感のある沈黙があったから、そこに何かを見出そうとし、印象に残ったのです。


 で、この沈黙。これがどういうものかと言えば、「あるはずのものがない」状態です。本来なら、一般的には、常識で考えるならそこになにか(この場合は言葉)があってしかるべきなのに、それがない状況。それが沈黙。元々言葉がなくてしかるべき状況である「静寂」とは違うのです。
 あるはずのものがないから、あると想定していたのにそこでなにも語られなかったから、人はそこに不在ゆえの何らかの意味を見出します。
 元々ないと思っていれば、そこに何もなくても気にしません。誰かが何かを言うに違いない。何か言うべきことがあるだろう。言いたいと思っている気持ちがあるだろう。見る者は、それまでの文脈から無意識の裡にそう想定しますが、それが裏切られると虚を突かれ、かえってその不在に意味を見出すのです。
 何か言うべきなのに言わないということは、その言うべきことは言えない何かなのだ。口にできないくらい重要な、問題を孕んだ何かなのだ。そう思うのです。

 たとえば古代ギリシャの画家のゼウクシスとパラシオス。筆上手と名高い二人が絵の勝負をしたときのことですが、壁に掛けられているゼウクシスの描いたブドウの絵は鳥も間違ってついばみにくるほどに写実的だったため、ゼウクシスは内心勝利を確信し、カーテンで隠したままのパラシオスの絵を見て「早くそのカーテンをとって絵を見せろ」と迫るのですが、あにはからんや、パラシオスが描いたものは壁に直接描いたカーテンそれ自体だったのです。
 ここには、パラシオスの描いたカーテンの写実性以上に、人の心の在り方がみてとれます。すなわち、隠されているからこそその下にあるものを見たいとゼウクシスの欲望は掻き立てられたのです。
 このように、人は見たいものが見えないと、聞こえるべきものが聞こえないと、あるはずのものが見つからないと、そこにあるべきものを見つけたいとそこに意味を見出そうとしてしまいます。


 上でも書いたように、私はその沈黙の長さを意外に思いました。普通なら、他の作品ならこんなもんだろうと勝手に想定していた沈黙の長さよりも、少しだけ長い。気のせいと言うほどには短くなく、冗長と言うほどには長くない。そのくらいの、二呼吸分くらいはみでた長さ。
 あらためて原作(twitter)の当該シーンを確認してみました。



 当然ですが、原作の漫画では具体的にそのシーンで何秒沈黙があったなんてことはわかりません。読者が読んだその時に内心で勝手に感じた時間があります。
 で、おそらくそれは現実の時間とまったく一致しない。漫画のコマの内部では時間が圧縮されているように、それを読んで読者が感じる時間は、ストップウオッチで測れる時間とはまったく無関係で、ほんの一秒で何分もの時間を感得することもあれば、逆に何分もかけてほんの一瞬を描いたコマを味わうこともある。作品自体にも鑑賞する側にも現に時間が流れる映画(やその他映像作品)とはそこが違います。

 『ちいかわ』の沈黙を長く感じたその感覚が私だけの独自のものなのか、それともある程度一般的なものなのか(つまり、映画制作サイドが意図的に一般的な感覚より長くしたのか)はわかりません。映画に限らず映像作品をとんと見なくなって久しい私ですので、最近の沈黙の尺の長さがどんなものなのか知らず、アップデートがされていない可能性が十分ありますし、そもそもその長短は属人的な感覚である可能性も大きいですから、そもそも一般的な感覚なるものがあるかもわかりません。なんであれ、そこに「長い」と感じた私の感覚があり、それゆえにそこに後まで残る強い印象があったのです。
 コマに時間が圧縮されている漫画というメディアに比べ、映像作品の時間は作品にとっても鑑賞者にとっても一律一定であると思っていたのですが、こういう形で「実はそうでもないのでは」という思いに至ったのは少し意外でした。

 と、あまり本編とは関係ない話が大半でしたが、そんな映画『ちいかわ』の感想でした。
 「今日の日はさようなら」の印象が変わってしまった作品3作目です。一つ目は深夜の馬鹿力の「絶えることなく友達でいよう」コーナー(作品か?)、二つ目はヱヴァ破。多くない?
 あと特典でもらったボンドロシールがけっこうかわいくて、ちょっと貼りたくなっちゃいましたね。

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滅びゆく人類の美しくも寂しく穏やかなエピローグ『海底清掃人マタタビュリス』の話

 今より先の未来。海面が上昇し、海は原因不明の毒素に汚染され、数を減らした人類は、少なくなった海上の世界でそれでも身を寄せ合って生きている。まだ小さな子供、マタタビュリスも海中からの物品回収を仕事に暮らしている。細々と、でもニコニコと。
 終わりが見えていても、生きていれば楽しい。生命は美しい。これは世界のそんなエピローグ……

 ということで、本山とらじろう先生の『海底清掃人マタタビュリス』のレビューです。
 発展した科学と、それ以上に悪化した地球環境。滅びがもう目に見えそうなところまで来ている地球の上で、それでも人類は生きている。人が減っても、モノが少なくなっても、海が死の世界と同義になっても、人が生きていれば、そこに喜びがあり、哀しみがあり、幸せがあり、不幸せがある。出会いがあれば別れもある。誕生はほとんどなくなってしまったけれど、死はある。それは逃れようもなく、必ず。
 マタタビュリスはそんな世界に生きるのです。

 大規模な海面上昇に、深刻な海洋汚染。多くの文明が海中に没した中で人類は大きく数を減らし、子供もめったに生まれず、残った者のほとんどは機械で身体機能を補ってなんとか寿命を延ばしています。今の私たちから見ればそれはひどくギリギリで、とても不安定で、未来に展望がまるで見えない世界。
 でも、どんな時代でも人類はそこに楽しみを見出します。
 たとえば流行の食べ物。
 たとえばリバイバルのおもちゃ。
 たとえば日々を飾る花。
 たとえば人類を救ってくれたクジラに感謝を捧げるお祭り。
 時に笑い、時に泣き、人類は生きるのです。

 人類は多くのものを海の中に残してきました。土地も、建物も、財産も、墓も、ガラクタも、持って行けなかった何もかもを。マタタビュリスは、世界に二人しかいないマスタークラスのダイバーとして、依頼されたものを海底から回収することをたずきに暮らしています。他のダイバーでは潜れないような視界の悪い海域でも、高度な方向感覚と聴覚、そして対毒性を持ったマタタビュリスは、他では匙を投げられるような高難度の依頼もすいすいとこなすのです。
 依頼をこなしたマタタビュリスは、雇い主のアグヌスや依頼者からほめそやされ得意満面。もう子供がほとんどいない世界。ずっと年上の、身体のどこかしらが機械になっているような大人たちに囲まれて、まだ子供の、まだ生身のマタタビュリスは生きるのです。
 
 そう、人類は生きるのです。どんなひどい境遇になっても、生きている限りは、生きようと思えている限りは生き続けるのです。
 身体が機械になっても、子供が生まれなくなっても、地球が不可逆に滅亡へと進んでいても、生きていられると思う内は、生きるのです。マタタビュリスが生きる世界には、そんな強さと、脆さと、寂しさと、美しさがあります。
 強さとは、どんなに生きづらそうになっても人間はしぶとくやっていけるところ。
 脆さとは、あともう一押し破滅に進めばあっという間に滅びに呑み込まれるであろうところ。
 寂しさとは、もう未来が大して残っていないことに大人はみんな気づいているところ。
 美しさとは、それでも今ある平穏を守ろうとし、日々に喜びを見つけるところ。

 たとえるなら、晩夏の海辺の夕暮れ。夏が終わる寂しさと、海が夕焼けに染まる美しさ。両方に胸がいっぱいになり、訳もなく鼻の奥がツンとなる感情。それがこの作品にはあります。もう終わるのがわかっていても、「それでもいいじゃない」とにっこり笑うような度量の広さ。あるいは諦念。強さ。寂しさ。美しさ。
 そういう、穏やかな乾いた終末の気配。人類のエピローグ。カタストロフの後日談。ごきげんよう。おやすみなさい。

 古くは『ヨコハマ買い出し紀行』、近年なら『人類は衰退しました』のような(近年か?)、ゆるゆると滅亡に向かいつつある地球の上で、それでも人類が穏やかに生きる、寂しくも平和なポストアポカリプスの世界。すこし趣を変えれば『少女終末旅行』。そういう作品にどうしようもないほどの悲しさと美しさを見出し、惹きつけられてしまうような人なら読んで損のない作品でしょう。
 人が生きた痕跡が残る、自然に吞まれつつある人気のない風景とか、滅びに流されながら抗わずに生きる人間とか。そういうのがぶっ刺さるタイプの人間ているじゃないですか、私みたいな。
 読め同志。
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