ポンコツ山田.com

漫画の話です。

命を懸けて/賭けて我を通す少女の未来には何があるのか 将棋と異才の少女『龍と苺』の話

 サンデーうぇぶりで期間限定全話開放されたいのを見て、以前2話くらいまで読んでそっと離れていた『龍と苺』を再読したのですが、これがあまりに面白くて2日で最新の105話まで追いついてしまいました。

 『龍と苺』のストーリーは、喧嘩っ早く直情的な14歳の少女・藍田苺が、将棋を知ってすぐにアマチュア大会で優勝し、そこで因縁ができたプロ棋士を倒すためだけに、同年代の将棋経験者やアマチュアのおじさん、プロの入り口となる奨励会に所属している人間やそこを退会した元奨の人間、果てはプロである棋士その人までバッタバッタとなぎ倒していくという、それだけ聞くとトンデモな俺TUEEEEE漫画。
 なにしろ駒の動かし方を知ったその初めての対局で、将棋を教えた元教師に実質的に勝ち、その翌日、すなわち将棋を覚えて2日目で大会に優勝するくらいにはトンデモ。しかも、序盤から女性蔑視や暴力の嵐に出くわすので、それに見舞われて以前は離れてしまったのですよ。
 ですが、本作はそんな露悪的でバイオレンスな天才の俺TUEEEEEだけの物語ではありませんでした。一言でいえば、「我を通す者の物語」なのです。
 今までずっと心をくすぶらせていた者が、そのくすぶりを燃え上がらせられるものを見つけたとき、いかにして我を通していくのか。そこに脇目も降らず切り込んでいく作品なのです。
 
 最初に、苺は喧嘩っ早いと書きました。なにしろ第1話5p目、彼女の初登場がクラスメートを椅子で横殴りにしているシーンなのです。瞬間湯沸かし器もかくや、もはや喧嘩っ早いというレベルですらありません。狂犬。しかし、そんな彼女の心の中に、ずっとくすぶっている気持ちがありました。
「毎日生ぬるい水に浸かってるみたいに気持ち悪い。みんな友達ごっこ青春ごっこしてるようにしか思えない。命がけで何かしたい」
 命がけで何かしたい。誰しも一度は思うことでしょう。そしてほとんどの人は一度は思いながら、しばらくしたら忘れてそこそこに生きることでしょう
 しかし苺のその言葉は本気でした。命がけで何かがしたいというのは、もののたとえではありません。苺は「本気のケンカ」、おそらくその意味するところは命をかけるようなケンカがしたかったから、普段から他の人間に暴力を振るっているクラスメートを椅子で殴りつけました。そして、その直後のカウンセリング室で、カウンセラーの元教師・宮村から会話のとば口にと将棋を教えられ、駒の並べ方も動かし方も勝負のつけ方さえその場で教えられた分際でありながら言うのです。
「せっかく勝負するなら何か賭けない?」
「ん? いいよ。お金以外ならね」
「命。」
 当然宮村は冗談と思って聞き流しますが、盤面が進むにつれ、まさかの苺優勢となったとき、苺はふと席を立ち、棚から鋏を取り出して盤の隣に置き、言います。
「死ぬときは自分で死ぬこと。」
 マジ狂犬かよ。
 真っ青になった宮村は本気を出しますが、盤面が進むにつれ必敗の色が濃くなっていきます。彼の詰みまで見えたものの、苺は最終的には二歩で負け(そもそも宮村はこのルールを最初に説明していなかったのですが)、それが判明したときは迷いなくカウンセリング室のある4階から身を投げようとするのです。
 たとえ今教わったばかりのゲームでも、自ら命を賭けたのならその言葉に殉じる。それくらい彼女は「命がけで何かした」かったのでした。


 転落死をすんでのところで救われ、いったん命を宮村に預けることになった苺は、翌日アマチュア大会に連れていかれました。上述のとおり苺はアマチュア大会で優勝するのですが、ふとしたきっかけで決勝戦後に戦う羽目になったプロには一蹴されました。それも、決勝戦で相手が投了した対局図から始めたにもかかわらず。
 普通なら(ゲームを知った翌日にアマチュア大会で優勝する人間に「普通」もなにもないのですが)その敗北を当然と受け止めるものを、苺は頑として認めません。いえ、敗北したこと自体は認めているのです。ただ、相手がプロだろうと何だろうと、本気の勝負に負けたままでいる自分を認められないのです。
 もちろんプロとの勝負に命は賭けていませんでした。ですが本気でした。だから彼女は決意するのです。絶対こいつに勝つと。


 あなたはバットを初めて握った翌日にプロのピッチャーから三振を取られて悔しがりますか?
 ギターを持った翌日にワールドクラスのギタリストとセッションをして一切歯が立たなかったからって悔しがりますか?
 絵筆を握った翌日に描いた絵が展覧会でプロと比較されて悔しがりますか?
 頑是ない子供ならそう思うこともあるでしょう。しかし、物事の分別もつく中学生にもなれば、そうは思わないのが普通でしょう。
 でも、その「普通」など目にも入らないのが藍田苺。プロ相手の敗北に心の底から悔しがり、リベンジするためにどうすればいいのか真剣に考えるのです。
 やはり普通に考えれば、奨励会に入り、プロになり、同じ土俵に立って再び盤を挟むのが常道です。というか、それ以外に道はありません。でも、そこにいたるまでには、めちゃくちゃ早くても10年は見積もられますので、苺はそんなの待っていられないと言下に拒否。
 じゃあどうするのかと裏道を探り、浮上した一つの案が棋士のタイトルの一つである竜王戦に出ること。もちろんプロのタイトル戦はプロしか出場できませんが、このタイトルだけは特別で、アマチュアにも出場枠があるのです。しかしそれは実質的に形式だけのもの。現実にアマチュアが本選に出場し、プロと対局できることはまずないのです。なぜなら、本選に出る前にアマは確実にプロに負けるから。
 それだけプロとアマの壁は厚いのですが、そんな厳然たる事実には一切頓着せず、苺は竜王戦に出場して、かつて自分に地を舐めさせた棋士と再戦することを誓うのでした。それゆえの、龍と苺。
 

 将棋を覚えた次の日にはアマ大会で優勝するなんてありえない? そう思います。
 女性がプロになるなんてまだまだ先の話? きっとそうなのでしょう。
 天才過ぎてリアリティがない? まったくそのとおり。

 でも、そこに問題はありません。この作品は、苺の強さを描く物語ではないのですから。
 彼女の強さに理由はありません。いえ、どこが彼女の強いところかという指摘はできますが、なぜその強さを備えているのかという理由は「そういうものだから」としか説明しようがないのです。いくら現実に大谷投手のような存在が登場して、事実は小説よりも奇なりと嘯いても、ここまできてしまうと「さすがにやりすぎ」と言うほかないでしょう。
 なので、この作品で大事なのはそこではない。苺の強さの理由ではない。「命をかける」なにかを探していた苺がそれに出会ったとき、いかにふるまい、どのようにして障害に対処し、己が精神の命じるままに猛進するのか。
 すなわち、彼女はどう「我を通すのか」を描く物語だと思うのです。


 彼女の我を通す力は、なにより物語のスピードに表れています。成長の早さはもちろんなのですが、勝ったら次、そしてまた次、負けてしまったらその相手と再戦するために埒外の方策を思い付き、そこに針の穴ほどの可能性があるなら迷わず突き進む。彼女はプロになりたいのではなく、自分を負かした人間と再戦し倒したいだけ。だから、選ぶのはただただ最短距離。
 物語に幅を持たせるための寄り道などまるでしないで、因縁の棋士と再戦するまでの最短ルートをひた走るこの物語は、階段を5段飛ばして駆け上がっているようであり、ブレーキを踏んで姿勢を制御しようとするところをアクセルベタ踏みしているかのよう。前しか見ないドライブ感がたまりません。そりゃあ読む手も止まらず2日で最新話に追いつきますわ。
 私が今回の無料開放で一気に読んだのは、まさに一気にまとめて読めるからたっだのでしょう。苺がどこまで行くのか、どこまで加速していくのか、それを何に求められずに一気に読めたのがとても大きいと思うのです。

 作中には苺に将棋を教えた宮村を初め、同年代の棋士を目指す人間やプロなど、多くのキャラが登場しますが、彼や彼女に割かれる紙幅は少なく、それもまた物語のスピードの一助となっています。
 苺と縁を結ぶ将棋にかけている登場人物、特に彼女と同年代の連中は、天才すら通り越した何かである苺(作中では冗談交じりに、本当に人間かとも怪しまれています)の強さに畏怖と恐怖を覚え、なんとか彼女に追いつこうと必死の努力をしますが、彼や彼女が進んだ何倍何十倍何百倍、あるいはいくら倍々してもおおいつかないほどのスピードで苺は成長していくので、結果として苺の孤独さ、異形さを浮かび上がらせることになっています。
 そして、彼や彼女が必死に目指すプロを苺は目指していない。この悲しいほどのズレが、彼や彼女を滑稽に見せ、逆に苺の異形さをブーストするのです。


 とにかく、一度読んで波に飲み込まれてしまったらそのまま読み続けるしかない、ドライブ感とスピード感に満ち溢れた本作、とにかく7話くらいまで一度読んでみて。お願い。私はこれから単行本買ってくるから…

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『メダリスト』クセの染み込んだ体と自由な心の話

 先日6巻の発売された『メダリスト』。

 難易度の低いジャンプを構成に入れているために高得点が望めないと思わせるいのりの演技が、実はGOE(スキルレベル)を上げる方向で構成を組んでいることが判明し、これは予想外の選手が5位以内に食い込んでくるかと他の選手がやきもきしだしたところで、ジャンプの点数が上昇する演技の終盤に2回転アクセル+オイラー+3回転サルコウという見る者すべてが仰天する高難易度ジャンプをぶちこみ無事着氷。全選手唯一のノーミス完走の演技ということもあり、いのりが見事に初の金メダルを獲得しました。
 わずか一年余りでメダリストとなれる練習を積んできたいのりと、それを心に技に体にと支えてきた司、両名が成し遂げた偉業だと言えるでしょう。熱いぜ。泣けるぜ。
 
 さて、上記のようにいのりは唯一のノーミス選手だったのですが、大会がスタートする直前に、いのりの地元のリンクで受付をしていた男性・瀬古間が、加護父子にした説明のように、スケートリンクは「ツルツルというかもはやヌルヌル」の世界。練習通りの演技が本番でもできる保証などかけらもなく、演技の成功率と得点のバランスを考えにを考え抜いて構成を作る、「賭け」の競技です。
 その成功率と、そして演技自体のクオリティを上げるために必要なことの一つが、動きやポージングを身体にしみこませること。
 これは、4巻での合宿中に、バレエの講師を招待していのりら生徒に教えられました。

バレエやってると自分の体への意識が変わって どんな時も姿勢をコントロールしやすくなります!
みんなも試合で焦った時…
緊張して体がうまく動かなくなることがあるでしょ? 凹むと前屈みになるじゃん マジ感情って色んな重力があるワケ
バレエのレッスンは毎日姿勢を確認する バーレッスンで正しく綺麗な動きを修正して
毎日毎日メンテナンスして クセで必ず同じ角度でできるくらい体に覚えこませる
身体が美しい姿勢を覚えてくれてるから心が自由になれる
感情を込めて演技しても姿勢は綺麗なままで転んだりしない
(4巻 p133,134)

 一見チャラいあんちゃんとしか思えないバレエ講師が、現に陸上で直立状態から3回転し、それでいて美しい姿勢を崩さない様子を見て、いのりたちはその言葉の重要性を実感するのです。

 この「クセで必ず同じ角度でできるくらい体に覚えこませる」「身体が美しい姿勢を覚えてくれてる」「感情を込めて演技しても姿勢は綺麗なまま」というのを改めて読み直して、依然似たようなこと書いてたな、ってことに気づきました。
yamada10-07.hateblo.jp
yamada10-07.hateblo.jp
ここらへんの記事で、練習をする意味・目的について書いていますが、そこでも触れているように、

 練習の目的は極論すれば二つ。
 一つ目は、できないことを意識すればできるようになること。
 二つ目は、意識すればできることを意識しなくてもできるようになること。
 この二つです。

 なのですが、美しい姿勢を体に覚えこませ、感情(思考)とは離れたところで綺麗な姿勢を維持するというのは、「意識すればできることを意識しなくてもできるようになること」だと言えます。
 氷という不安定な場所でも、プレッシャーに押しつぶされそうな中でも、既にしてしまった失敗にさいなまれている真っ最中でも、演技は続いているのだから、その中で最善を尽くさなければいけない。その最善のために、思考が、感情が揺さぶられていても、身体は綺麗な姿勢をとっていなければいけない。そのための練習です。

 また、クセがすっかり身に付き、姿勢の維持に気を払わなくていいということは、その分思考のリソースを他のことに割けるということ。すなわち、思考の省エネ化です。その分のリソースが使われる先は、演技中に構成を変えることかもしれませんし、したばかりの演技の反省・修正かもしれませんし、とっておきの演技をするための覚悟かもしれませんが、いずれにせよ、姿勢を注意する以外の余裕が生まれるわけです。
 何度も書いていますが、私のやっているジャズでスケール(音階)やフレーズの反復練習をするのは、考えなくても指が動くよう体にしみこませることで、「今どう指を動かすか」ではなく「次は何を吹くか」に意識を割けるようになるためです。刻一刻とコードが進行しリズム隊が演奏を続けているアドリブにおいて、今何を吹いているんだっけどう指を動かせばいいんだっけ次に何を吹こうかな、などと悠長に考えている余裕はありません。それらは同時に行う必要があり、そのうちの一つである「どう指を動かせばいいか」を考えなくて済むようになるのは、演奏のクオリティを上げるための非常に重要なステップです。

 なんであれ、上手い人が他の人の何倍も練習をしているというのはそういうことなんですよね。体に動きを染み込ませる。動きのクオリティを上げる。それをするためには、ひたすら練習を重ねるしかないのです。同じ練習量でも各人で結果に差が出るという残酷な現実はあっても、それは練習をしない言い訳にはならない。
 
 金メダリストとなり、中部大会を抜けたいのり。その先には、狼嵜光をはじめとした全国の強豪選手が待っています。その選手たちも、いのりと同等かそれ以上に練習をしている選手ばかりでしょう。その上でいのりがどんな演技を見せるか。司がどんなコーチングを見せるか。今後もドキドキがとまりません。

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『ブランチライン』欲望の素直な肯定と身軽で気軽な姿の話

 新刊の出ました『ブランチライン』。

 4巻を読んで感じたのは、この作品は人の素直な欲望を肯定してくれるんだな、ということでした。
 どこで感じたかと言えばいろいろあるんですが、やはり象徴的なのは、4巻で初登場した月子です。
 老齢ながら、YouTuberとして自分の好きなものを紹介する番組を配信している彼女。自分のもとを訪れた仁衣から「また物が増えた」と驚きながら言われても、「そうなの 収集癖が年々ひどくなって」と屈託なく同意し、仁衣と同行した山田から「装飾品 お好きなんですね」と皮肉でもなく言われた感嘆にも、「何の役に立つんだって感じでしょ でもねー みんなとってもかわいくて 見てるだけで楽しくなっちゃうの」と5%の諧謔と95%の喜びで返答しています。
 自分の好きなものに衒いのない月子の姿はとても軽やかで、他人の目とか今後の不安とか、そういう余計なものを脱ぎ捨てたかのような素朴な美しさを感じさせます。
 彼女の家を辞した後に仁衣が山田に言った、「月子さんはいつもだいたい快諾で いつもご機嫌なんだ 好きなものにかこまれてるからかもなー」という言葉は、月子の在りようを端的に示しています。
 好きなものに囲まれているからご機嫌。
 自分の好きなものが何かわかっていて、そこから自然に喜びの感情を得ている。素直さ。素朴さ。朴訥さ。自然さ。世間のしがらみから解き放たれて、地面から3cmくらい浮かんでいそうな自由さ。そういう感じです。

 好きなものは好きでいい。自分の欲望は素直に認めていい。
 こういうことを言うと、人を害したいとか見下したいとかそういうネガティブな欲望も認めていいのか、みたいな半畳も入りそうですが、そういう半畳を脇に置いた、人間に備わっていてほしい・・・・・素朴でささやかな善性を信じた上での、欲望なんです。それをみんな持ってれば、世界もすみやくなるよなって思えるやつなんです。それはたしかに欲望なんだけど、その欲を満たしている当人の姿が他の人にまぶしく映り、マネしたくなるような、そんな欲望。

 そういう、自分で満たす自分の欲望以外にも、他者から満たされる欲望もあります。
 たとえば、山田が仁衣から思いもかけずに投げかけられた「宝もの」という言葉。家に帰ってベッドの上で一人、山田はその言葉を噛みしめ、あまりにもストレートにうれしさを表明しています。
 他者から肯定される喜び。自分を認めてくれる喜び。あなたは私にとって大事な人ですよ、と表明してもらえる喜び。
 一言で言えば、愛、ですかね。
 本作では、けっこう気軽に愛という言葉が使われます。それは男女間のみならず、親子間や姉妹間、親族間など、広い間柄で。
 4巻で印象的だった愛の使い方は、仁衣が山田について語った言葉を、太重が評したものでした。すなわち、山田のことを「いつも幸せでいてほしい子なんだよね」と言った仁衣の言葉を「愛の言葉」と表したものです。
 誰かに幸せでいてほしい。誰かを肯定し、認め、大事な人だと表明する、祈りにも似た思い。それが愛。
 この素朴さは、上で書いた月子のような欲望に通じるところがあります。素直で、自然な欲望。それは、自分で満たすのでも他者から満たされるのでも、ともにことほぐべきものであるように描かれていると思うのです。
 
 『ブランチライン』に限らず、池辺葵先生の作品を読むと、自分の欲望に素直になっていいんだなと思えます。自分の欲しいものを手に入れたら素直に喜んでいい。自分のしたいことをできたら素朴に嬉しがっていい。ともすると、別にどこにもない世間の目なんてやつを気にして湧き上がる感情を抑えようとしてしまったりすることもありますが、そんなことしないでいいんだ、自然に喜びに身を任せればいいんだと思えるのです。そうする姿は、月子のようにとっても身軽。
 自分の好きなもの、好きな気持ちををふと見失いそうになるとき、池辺先生の本を読むと、すっと靄を晴らしてくれるようです。

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寡黙な眼鏡と空気読みのギャル 凸凹二人の手探り恋模様『正反対な君と僕』の話

 高校生の初交際話の漫画だって面白く読めちゃうんだから、読む人間と作品の距離なんて大して関係ないってのが分かりますね(挨拶)。
 ということで、現在ジャンプ+で連載中の、『正反対な君と僕』の話です。

 クラスの陽キャグループに属し、休み時間のたびにイツメンと騒がしくしゃべっている鈴木(♀)は、まったく場違いなタイミングで隣の席の谷(♂)に話を振っては塩対応されている。周りのイツメンたちは「また鈴木のいつものムチャぶりか」と呆れるだけだけど、鈴木の内心は

(1巻 p8)
 「正直、大好きです。」
 そう。実は谷L♡VEの鈴木。
 無理にでも話しかけちゃうのは、なんとか会話をしたいから。
 ムチャぶりしかできないのは、自分が谷を好きだと気づかれるのが怖いから。ムチャぶりに谷が塩対応してくれている間は、自分が本気で谷を好きだと思われずに済むから。
 他のクラスメートは谷のことをただの「「物静かな眼鏡の子」ぐらいにしか思ってない」けれど、鈴木から見える谷は、「自分の意見しっかり言うし 人によって態度変えたりしないし 無駄に人にあわせたりしない」人。そんな彼は、周りの目が気になっていつも空気を読んでしまう鈴木にとって、憧れの人なのです。

「谷くんに憧れているのに 私は 谷くんとは真逆の人間なのだ」

 自分にないものを持っている人に憧れるのは世の常。同じく、自分にないものを持っている人に劣等感を抱くのは人の常。
 憧憬と劣等はどちらもその対象から己を遠ざけてしまうものですが、じゃあその対象に恋心も抱いてしまったらどうしましょ、ということなわけです。
 憧憬と劣等による斥力にプラスするところの、空気読みによる現状維持指向。恋心による引力でそこを突破するのは相当に大変ですが、偶然とふとした拍子とその場の勢いで突っ切るのは若さゆえの強さでしょうか。

(1巻 p40)
 強いですね。
 でも、勢い余っての告白は裏付けのない脆さの裏返し。ここから二人がしっかりした関係を深めていくには、勢いでは詰められない歩み寄り、手探りでの凸凹の埋め合いが必要になってきます。
 第3話での、初デートで映画を観に行った鈴木と谷が、同じ映画について同じ「おもしろい」という感想を持ってもその実、二人が着眼していたところがまるで違った、というのはいいエピソードでした。かたや地名や人名などの言語野の記憶を軸にストーリーを記憶している谷と、かたやちょっとしたしぐさや振る舞いを軸にエピソードを印象付けている鈴木。二人の違いを端的に示しているし、そこでお互いがお互いの感じ方に感心しているのが、小さくて大事な歩み寄りって感じです。
 告白して付き合いだすところからスタートする第1話。そこからお互いの良いところに気づいたり、嫌なところに気づいたり、同じ好きなものを知ったり、まったく違う嫌いなものを知ったり、いろいろあることでしょう。山あり谷あり、プラスもありマイナスもあり、そんな曲道をくねくね二人で進みながら

徐々にお互いのこと知っていって 
「これが好き」て話した時に 「あ~好きそ~!」って言えるような…
わかってる人になりたいなって
(1巻 p155)

ってなれるような。
二人にはそんな未来をきちんと夢見ていてほしいなと思う作品です。
shonenjumpplus.com

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『スペシャル』読者も飲みこまれるキャラクターと同じ地平の不条理の話

 さて、『スペシャル』の最終巻が発売されたわけですが。

 3巻の途中くらいからきな臭さはたちこめだしていましたが、最終巻の4巻ではもうきな臭さで充満。噎せかえりそうなくらいきな臭くて、危うい空気で満ち満ちていました。
 狙われる伊賀。守ろうとする大石家。暗躍する、葉野の同居人(?)(父親の恋人?)(なにもわからない)である美倉。目的のためには拉致も人殺しも辞さず。まさかこの作品で暴力と血の臭いがするとは思っていませんでしたよ。ハンマーで人の頭を潰す音とか、死ぬ間際に投げつけられる罵詈とか、それまでの作品世界に圧倒的にそぐわないがゆえに、際立った違和感が読んでて消化不良を起こしそうでした。うぷ。
 そして、最終話の最終ページは、あまりにも唐突な破滅の示唆。不気味なサイレンが鳴り響いた直後に伊賀と葉野が見上げた先には、一体何があったのか。3巻第40話で何の説明もなく展開されたシェルター避難訓練の話は、あまりにも説明がないので当たり前のように受けれいていましたが、まさかそこにで鳴り響いていたサイレンが、最終話のサイレンの布石になっていたとは。シェルターへの避難訓練は、ただの形式的なものではなく、実際的なものであり、もともとそういう世界観だったわけです。たしかに、現実に地震や火災の避難訓練はしても、シェルター避難の訓練はしないもんなあ。

 そんな終末的終局を迎えながら、作品にはあまりにも多くの謎が残されています。
 伊賀のヘルメットの下は明かされたもののその意味は不明瞭で、葉野と一緒に暮らしていた美倉の目的や背後にあるものはわからず、大石家がもつ隠然たる権力は示されてもそれが何によるものかはわかりません。山中に刺さっている槍は言わずもがな、それが林立しているという「放場(はなちば)」についても、全く説明がないのです。
 これを投げっぱなしととるか否かは人によるでしょうが、私が感じたのは、不条理のカリカチュアでした。
 漫画であれ小説であれ映画であれ、作品中で謎が提示されればたいていの場合、最終的には見ている人間に中身が開示されるものです。作中の登場人物には疑問が残っても、作品世界を俯瞰して見ることのできる読者・視聴者には、個々の謎が関連しあってパズルを解くように、そこではどんな物語が語られていたのかがわかるようになっているものです。
 でも、本作ではそれがない。読者は作中の人物と同じレベルで、作中の謎に困惑します。いえ、伊賀の秘密や槍など、むしろ作中の一部の人物の方が事情を把握していることも多いでしょう。読者の理解は、なんでもない女子高生である葉野と同レベルです。
 葉野は終盤で、自分の知らない内によくわからない状況に巻き込まれ、生命の危機すら感じ、なんとか脱出できても友人とは永遠の別離をにおわされ、挙句の果てには空から迫る破滅を目の当たりにする。不条理の極みです。そして読者は、それとほぼ同じレベルの理解状況に叩きこまれる。そしてそのまま終わり。実に不条理です。
 
 現実を生きる私たちも実際に、知らない内によくわからない状況に陥ることはありえます。それにしたってこれほどじゃない。そんなことは思いますが、本当にそうでしょうか。それはきっと、そう思う私たちが単に幸運なだけ。世界を見渡せば、いや、国内を見渡したって、自分にはどうしようもない内にどうしようもないことになっている人は必ずいます。歴史を紐解けば、なんならwikipediaを見るだけでも、日々のニュースを見るだけでも、そんな例はいくらでも出てきます。
 作中の人物に不条理を味わわせ、その不条理に読み手を同化させ、最終的には何の救いも解決もなく同じ地平に突き落としたまま終劇。まるで、お前の人生もこんなもんだぞと突き付けるように。

 私の趣味で言えば、作品の謎はすべて知りたいものです。不条理は条理に解きほぐしてほしいのです。懇切丁寧に説明まではされずとも、それを推理できる程度の情報は出してほしいのです。でも、それらは許されないまま終わりました。胃の中に残った飲み込んだままの異物感は、消化できそうな見込みはありません。
 でも、この作品に限ってはそれもいいのかなと思うのはなぜなんでしょうね。
 独特の言語センスによる空気なのか。コメディ路線から気づかぬうちに連れ去られていた不気味への地続き感なのか。不条理の中でもがいているキャラクターたちへの同一感なのか。
 後味は決して良くありませんが、その良くなさは強い記憶になってしばらく残りそうです。
 いやホントにね、もうちょっと秘密が明かされたらね、よかったんだけどね…

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おせっかいは心の壁を溶かす『氷の令嬢の溶かし方』の話

 容姿端麗、文武両道、品行方正。でありながら、他の生徒と慣れ合わない孤高の高校生活。本名の字面も相まって、氷室冬華は「氷の令嬢」とあだ名されている。
 マンションで一人暮らしの火神朝陽は、そんな彼女がお隣さんであることは知っていたけど、人付き合いを顧みない彼女に声をかけたことはなく、ただお隣であるだけだった。
 でもある日、熱を出して早退したと噂になっていた氷室が部屋の前で意識を失いかけているのを朝陽は発見する。そのままにしておくこともできず、自分の部屋へ運び込みベッドに寝かせる朝陽。熱に浮かされている氷室の顔は、氷の令嬢とあだ名される普段の姿とは違い、年相応の女の子のものだった……

 ということで、とこみち先生の新作『氷の令嬢の溶かし方』です。
 高校生で一人暮らし。
 学校にはあだ名のつけられたマドンナ。
 そしてそのマドンナがマンションの隣の部屋。
 現実世界にどれだけいるかはわかりませんが、ラブコメ界なら石を投げれば当たりそうな設定ですね。御多分に漏れず、本作もそういう作品ではあるのですが、特徴的であるなと思うのは、やはりとこみち先生の筆致です。
 本作には原作小説があり、そちらの方は未読であるため比較はできないのですが、なんというか、過剰さがないのですね。
 学園のマドンナが持ち上げられすぎるであるとか、そんな彼女にときめいて常軌を逸する人間が続出するとか、主人公が学校一かわいい同級生と自宅で食事を共にしてもなんら特異な反応を示さないとか、そういうのがないわけではなく、とても静かに描かれている。その静かさ、抑制のきいた筆致、そういうものが、ヒロインのかわいさや、表にあまり出てこない感情の動きを際立たせてくれているのです。

 とこみち先生の作品はどれも、いい意味でキャラクターに本気さ、真剣さが感じられない印象があります。それはふざけているとかだらけているとかそういうことではなく、キャラクターの中心に虚無感がある、諦念がある、大事なものをつかむことはできない確信がある。そういう人は、どれだけまじめになっても、どこか本気になっていないよう見えるものです。
 いや、実際とこみち先生のキャラクターがそんなのを抱えているかどうかはわかりませんけどね? でも、とこみち先生のキャラクターたちは、世界中が幸福になることなどありえず、自分の思う通りにいくことなど存在せず、それを自覚したうえで、それでも目の前にある人生を精一杯生きて精一杯幸せになろうとしている。そんな印象があります。『ゆーあい』しかり、『君が肉になっても』しかり、『見上げるあなたと星空を』しかり。

 なるほど、孤高のヒロインがふとした拍子に素顔を見せて、関係性が近づいていくというのは王道でしょう。ベタでしょう。しかし、それは退屈と同義ではありません。描き手次第でそこに描かれる空気は千差万別。とこみち先生の王道ラブストーリーは意外ではありましたが、先生の特徴のよく出た作品になっていると思います。この作品目当てでがうがうのアプリいれましたからね。よいぞ。
gaugau.futabanet.jp

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映画が好きな隣のお姉さんが好きな僕と映画とお姉さん『隣のお姉さんが好き』の話

 毎週水曜日は映画の日。そう決めたのは先週のこと。映画が好きなわけじゃない。好きなのは隣のお姉さん。隣のお姉さんが映画が好きだから、彼女と一緒にいるために、映画を見たい。
 好きって何だろう。本当に好きなのに。全部好きなのに。
 隣のお姉さんはどんな人なんだろう。本当に知りたいのに。全部知りたいのに。
 でも、彼女は、すごく遠い……

 ということで、藤近小梅先生の最新作、『隣のお姉さんが好き』のレビューです。
 中学二年生の少年と、高校二年生の少女。片思いをこじらせる少年と、それを大人の包容力で受け止めようとしてやっぱり受け止めきれない少女の、痛々しくも生々しい、甘酸っぱくも辛辣な、恋の物語です。

 佑(たすく)はまだ恋も知らない中学二年生。自分がモテると根拠なく思い込める、まだまだピュアなお年頃。だらしない実の兄姉をダメな人間だと決めつけられる幼さと、家族一緒にお出かけできる幼さを持つ、まだまだ幼い男の子です。
 そんな彼が、ふとした拍子に見た、お隣に住む高校二年生の女子高生・心愛(しあ)の横顔。その美しさに心奪われた佑は、彼女が興味を持つ映画を口実に、なんとか心愛と会う機会を増やそうと画策するのです。それが、毎週水曜日の映画鑑賞。映画なんか本当は興味ないのに、ただ心愛と一緒にいたいから、心愛の顔を見たいから、無理やり約束を取り付けたのです。
 
 そんな振る舞い、身に覚えのある人も多いんじゃないでしょうか。好きな人に近づくために、好きな人の好きなものに興味があるふりをする。誰しも通る道でしょう。通らなかったようなモテに不自由しなかった人は戻るボタンでいいんじゃないかな。
 全国民の98%に覚えがあるものと仮定して進めますが、そんな不純な動機で始めたものって、なかなか興味を持てないことが多いと思うんですよ。別に自分の好きな人が懇切丁寧に沼に引きずり込もうとしてくれるわけじゃないですから、それ自体に興味がないものに触れても、早々興味はもてません。
 それは佑も同様で、心愛と並んで彼女の部屋で映画を見ても、映画に集中できない彼が見るのは、映画に集中している真剣な心愛の横顔ばかり。その顔は、彼の心を奪った魅力的なものであると同時に、今の彼には理解のできないものとしても映るのです。

 三歳差。
 大人になればほとんど気にも留めないような歳の差ですが、中学生にしてみれば令和と昭和くらいの隔たり。たった三歳差の心愛のことが、佑には全然わからないのです。
 なんでそんなに大人っぽいのか。
 なんでそんなに余裕があるのか。
 なんでそんなに映画が好きなのか。
 なんであなたのことがわからないのか。

 やっぱり大人になれば、わかるんです。相手のことがわからないのなんて当たり前だって。わからないことをスタートにして、それでもわかろうとできるんだって。
 でも、まだ中学生の佑にはわからない。わからない心愛をわかることを求めてしまう。大人っぽくて、ミステリアスで、自分には計り知れない彼女の全部を知りたいと思ってしまう。
 だから、佑には思いもよらない。そんな心愛だって、大人っぽくなんてないし、ミステリアスでもないし、佑自身のことをよくわかっていないってことを。
 心愛だってまだ高校二年生。それも、人付き合いの苦手な、自他ともに認める「めんどくさい」人。自分のことで手いっぱいだし、誰かもっと大人っぽい人に寄りかかって楽したいし、年下だろうが自分を好きなんて言ってくれる男の子が何を考えているかなんてわからない。
 そんな、お互いがお互いをよく見えていない、不均衡な物語。どっちが上とかではなく、どっちもどっちを見誤っている物語。そんなアンバランスでちぐはぐな恋物語なのです。

 このちぐはぐさ、恋愛未満の未(成)熟な関係性をよく象徴しているなと思うシーンが、二人が心愛の部屋で映画を見るシーン。二人は並んで映画を見るのですが、多くは集中できない佑が、たまにはふと気を奪われた心愛が、映画に見入っているもう一人の横顔を眺めます。
 これで思い出すのがサン=テグジュペリの『人間の土地』の一節。いろいろなところで見られますし、このブログでもしばしば引用していると思いますが

愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだと。

人間の土地(新潮文庫) p216

 二人並んでいるのに、同じ方向を見ないで、余所見して相手の顔を盗み見てしまう。愛と呼ぶにはまだ幼い、気もそぞろな二人。
 これから二人の思いがどうなっていくのか、それはわかりませんが、もしそれが愛になるのだとしたら、きっと二人並んで映画に見入っている姿がその時なのだと思います。

 年下の佑はもちろん、年上の心愛もまだ大人とは程遠く、制御できない自分の感情に振り回されながら、少しずつ自分の幻想、すなわち自分が見たいと思っている相手の虚像が透けていって、見たくはなかったけど確かにそこにあると認めなければいけない相手の姿を認めていく様。これは恋愛に限らず、人の成長だと思うのです。
 その意味でこの作品は、コメディの衣をつけながらも時折生々しいむき出しの感情が見える、恋愛物語であり少年少女の成長譚だと思うのですよ。
mangacross.jp
  心愛さんめんどくさいよね…でもかわいいよね……いい………



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