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漫画の話です。

『2.5次元の誘惑』内面の言語化のメンターと作品に伏流するものの話 あと最終章の話

 ついに最終25巻が発売した『2.5次元の誘惑』。

 いろんな要素をうまく回収していって、おさまるべくしておさまったエピローグは100億万点で、これには後日談大好き侍こと私もニコッリで候でした。

 ただ、それはそれとして連載時から思っていたことがありまして、それは、よりによって最終章(194話以降)が今までで一番盛り上がれなかった、ってことなんですよね。盛り上がれなかったというかノれなかったというか入れなかったというか、とにかく、読んでて心がスンてしてしまってたんですわ。

 それがなぜかということをちょっと考えてみたんですが、気づいたのがこの最終章、他の各エピソードと決定的に違うところがありました。
 それはキャラクター、この場合はみかりですが、彼女の内面の言語化にメンターがいないことです。198話でみかりが自身の感情に決定的に自覚するシーンにおいて、彼女はそれを自分一人だけで言葉にしていたんです。それは今までの本作において、まずありえないことでした。

 メンター。すなわち先達、あるいは指導者。
 『2.5次元の誘惑』は内面の言語化に定評のある作品でしたが、それがなされるときは、常にメンターによって悩める者の心に導きの手が伸ばされていました。
 たとえば3、4巻での753編では、悩めるリリサにはまゆらが、あるいは悩める753にはリリサが、彼女の抱く葛藤になんらかの答えを出す助けとなっていました。
 他にも、6巻のノノア編のノノアには奥村あるいはリリサ。8巻のアリア編のキサキには奥村が。13巻のヨキ編のヨキにはリリサが。16巻のツバキ編の椿井は奥村が。17、18巻の淡雪エリカ編の奥村にはエリカが、ユキにはリリサが。
 主だったところをダダダッと挙げてみましたが、ほぼすべての長編エピソードにおいて、そこで主役となるキャラクターの葛藤は、他の誰かからの手助け(そう意図したわけでもなかったりしますが)によって、こんがらがった糸をほどくことができているのです。
 ここには、人の心は他人との関わりの中で生まれていく、という本作の核となる考え方が伏流していると言えるでしょう。

 このような考え方は、作中のそこかしこで出てきます。
 淡雪エリカ編では、ユキがリリサに、「作品」と「鑑賞者」の「間」にある「アート」の話をしました。

作者と鑑賞者が作品を通じ 「感情」や「意味」を生み出す。
その営み自体が「アート」 なんとなく私はそう思ってる
(17巻 81p)

 「感情」や「意味」は天然自然に発生するものではなく、なんらか(たとえば「作品」)を通じて、送る者と受け取る者の間に生まれると言っています。
 そしてリリサはその話を敷衍して、自身の思う「究極のROM」について一定の答えを見いだします。

「私にしか表現できないリリエルは 先輩に向けるリリエルだったんです」
「だとしたら―― 俺にしか表現できないリリエルは リリサに向ける「個人的な」写真…ってことか?」
「リリエルは その「間」にいる
 個人的な体験を全部ひっくるめて 私と先輩がお互いに向ける 「愛」の「間」に
 そこに私たちの究極で個人的な「表現」がある」
(18巻 116~118p)

 撮る奥村だけでなく、撮られるリリサだけでなく、その両者の「個人的な体験を全部ひっくるめ」たところに、「お互いに向ける「愛」の「間」に」、「究極で個人的な「表現」がある」と言うのです。

 また24巻では、今まで何度もコスプレを重ねてきたリリサは、その集大成となる舞台でこれまでのことを思い出し、自分が自分でいられる理由に気づきました。

そうだ 私の形はこれだった
みんなの中に私がいるから 私は私として立っていられる
「私」はみんなの中に生きている
コスプレが私に教えてくれたこと
コスプレは繋げるもの 視点を纏うこと
私と誰か 愛と愛
キラキラは誰かとの「間」にあって
キラキラとは 誰かの瞳に映る「私」
「私」とは 誰かの空想上を生きるもの
(24巻 115~117p)

 自分の形は自分一人で作られるわけではない。誰かとの交わりの中で、誰かから見られることで、誰かとの間に「間」が生まれることで、「こうである」という自分の輪郭が生み出される。

 「究極のROM」の話でも、「私」のあり方の話でも、自分ではない誰かがいることが前提とされています。一人では、キラキラは存在しないし、「私」も出てこない。「私」と「私」の周りの誰かとの「間」で初めて「私」は生まれてくる。言ってみれば『2.5次元の誘惑』は、そんな話を手を替え品を替え、繰り返し繰り返し語ってきた物語なのです。

 しかして最終章に立ち戻ると、198話のみかりはひたすらに、ただひたすらに自問自答をして、自分の心を自覚しました。現実におけるそれの善し悪しは別にして、本作においてその振る舞いは、あまりにも特異です。そしてその相手である奥村も、リリサとの交流というよりも、リリエルの姿をしたリリサを借りて自分の過去を見つめ直しているようで、誰かとの交わりで気づいたのだとは素直に肯いがたいものです。
 つまり二人とも、誰かとの「間」でそこにある愛に気づいたのではなく、自分の「中」に愛を発見したのです。
 その意味では、本作のメインテーマに基づく総決算は最終章一つ前の冬コミ編で、批判的に言えば最終章は、ただ作中の恋愛模様を畳むためのものだった、とさえできるかもしれません。それまでの作劇やテーマのありようが好きだっただけに、それが欠けた最終章で私がスンとしてしまったのは致し方のないことです。そうか?
 
 とまあ色々書いてきましたが、最終章は他のエピソードと何が違うのかということを考えたことで、改めて本作のテーマと呼べるものが見いだせました。
 本作は6年半の長きにわたって楽しんできましたし、そのおかげで関連するブログもそこそこ書いてきました。なにより、エピローグの後日談は100億万点だということは何度でも言っておきたいことです。
 橋本悠先生の次回作を、今から楽しみにしています。

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『ハクメイとミコチ』14巻 「好き」の光と影と、重い「好き」に振り回される者たちの話

Q.年に一度、毎年一月にある楽しみってなーんだ?
A.『ハクメイとミコチ』新刊の発売。

 ということで、先日発売された『ハクメイとミコチ』14巻の感想です。

 相も変わらずいろいろなキャラクターが賑やかに過ごし、以前登場したキャラクターの再登場も楽しいところですが、14巻を読みおわってまず感じたのは、「この巻は『好き』を描いた巻だな」というものでした。

 「好き」な姉のシナトを思って奮闘するミマリ。
 「好き」な刃物を語るハルシナ。
 タブワカといろんなこと話すのが「好き」なハクメイ。
 「好き」な種帽子のためにプライドをかなぐり捨てるヨロ。
 「好き」な旅に興じるロカとウラガ。
 自分の「好き」な服の制作者に出会うミコチ。
 自分の「好き」な散髪でミコチを慰めようとするジャダ。
 
 様々なキャラクターが抱く「好き」が、どの話にも描かれていました。
 でも、よくよく考えてみると、『ハクメイとミコチ」の話には、ほとんどすべてと言っていいほどに「好き」が描かれているんですよ。作品の世界観自体がそうだとも言えるのですが、この作品の登場人物達は享楽的というか好き勝手というか自分に素直というか、彼や彼女の「好き」に忠実に生きていて、それが行動原理になって駆動している物語ばかりです。
 それでもなおこの巻が「好き」の巻だと感じたのはきっと、特にこの巻では、「好き」のポジティブだけではない部分が多く描かれていたからであるように思えます。

 「好き」という感情はポジティブなものです。それは間違いありません。その対象を慈しんだり、大事にしたり、強く追い求めたりと、「好き」と思うことで、その対象も自分自身も善い状態になるはずです。
 ですが善い状態となるのは、その「好き」が肯定されているときの話です。「好き」が肯定されない、認められない、報われない、届かない。そんなとき、その「好き」の気持ちは、大きければ大きいほど、自分を苛むトゲになります。

 たとえば109話のミマリ。
 彼女は、普段は姉のシナトが店長として切り盛りしているお店を、体調を崩して休んでいるシナトの顔に泥を塗らないよう、ミコチを助っ人に呼んでなんとかお店を差配しようとしました。細かく動き回り、お客にもミコチにも気を配り、はたから見れば十分すぎるほどに活躍したミマリですが、彼女が理想とする大好きな姉はむしろ幻想に近く、いくら褒められようとも彼女を満足させるものにはなりません。姉が好きすぎるあまりにミマリの自己評価は低くなり、彼女の認識を大きく歪めています。
 もしミマリが姉をさほど好きでなければ、店の差配ももっと落ち着いてできたし、自分自身の活躍についてもっと適切に評価できたでしょう。

 たとえば112、113話のヨロ。
 種帽子職人であることに誇りをもち、弟子として日々研鑽を積む彼女でしたが、ある日、師匠のヤンプが出張に出ているさなかに飛び込みの種帽子作成の依頼が舞い込んで、己の力量と種帽子職人としての矜持を秤にかけた結果、覚悟を決めてその依頼を請けました。無論一人でできるはずもなく、ミコチやトレモらの、職人ではない者たちの助力を得ることに忸怩たる思いがありながら、仕事を請けた以上はお客のためにならない誇りは脇によけ、悔しさと絶望を噛みしめながら死に物狂いで完成に漕ぎつけました。
 もし彼女が種帽子をさほど好きではなければ、ミコチら素人に助力を仰ぐことに迷いはなく、あるいはそもそも弟子の身で仕事を請けはしなかったでしょう。種帽子がすごく好きだからこそ、師匠不在で作ることの強い抵抗と、帽子をほしがるお客への気持ちの間で強く葛藤したのです。

 そしてなにより14巻の「好き」の白眉は、自分の大大大好きな服であるナイトスネイルの作り手・ネフルに出会ったミコチです。
 町中で出会った奇矯な女性が、実は自分の敬愛するナイトスネイルの作者だと知ったミコチは、ナイトスネイルに対する思いの丈を作者にぶつけたくて仕方がなく、どんな環境で作者が服を作っているか興味が湧いて仕方がなく、創作の源泉を知りたくて仕方がないのですが、好きが強すぎる故にそれを尋ねることに気後れしてしまい(ところで、ネフルの前で何度も言いあぐねているミコチを見るハクメイの表情、すごくいいですよね……)、いざ彼女の源泉の深淵の一端に触れると、自分とはかけ離れたところにあるその精神性にひどく打ちのめされてしまい、好きすぎるが故に、憧れすぎるが故に、目標を見失ってしまいました。

 このように、14巻で描かれる「好き」にはポジティブなものだけでなく、その裏側のネガティブな部分、いわば「好き」の影の部分が随所でクローズアップされており、その影があることで、光の部分と相まって「好き」が際立って感じられたように思うのです。

 思えば、ミコチの服そしてナイトスネイルに関する「好き」の気持ちの強さ、重さは以前から触れられていました。
 たとえば11巻84、85話で、コンジュのリサイタル衣装を依頼されたミコチは、衣食住にも差し障りが出るほどに悩み、やりたいこととできることに引き裂かれ続けました。
 そんなミコチを見てコンジュが言ったのが以下の台詞です。

好きだからこそですわ 辛いのは
好きだから 足りなく感じて
なんとかしたくなって
それで苦しいんですわよ
(11巻 66p)

 ミコチの好きなものは他にも料理がありますが、そちらに関して、ミコチがこのように思い悩む様子はありません。言ってみればあちらは、何かを思い求めない「好き」、具体的に目指すもののない「好き」、ただ楽しいだけの「好き」。善くも悪くも、重さのない「好き」。軽々しいから塞ぎ込んだときの気分転換にもなるし、失敗してもくよくよはしないし、自分よりすごいものを見ても「へえすごいなあ」で済む。
 でも、重い「好き」はそうはいかない。四六時中心の片隅に居座り、アイデアを思いついたら心に留めておかずにはいられないし、いいアイデアを思いついた気にもなってもそれを形にしてみれば理想との乖離に膝をつく。否定されたくないからおいそれと表には出せないし、もし否定された日には恥も外聞もないほど落ち込む。常にそこには不足があり、その不足に、埋まらない穴に苦しくなってしまう。
 重いせいで、一度弾みがついたら自分の心も生活も大きく振り回してしまう、そんな「好き」。

 軽い「好き」と、重い「好き」。
 この文章を書いているときに思いついたものですが、存外、考え方の整理にはよい概念のようです。

 好きは呪いにさも似たり。
 嫌いも呪いにさも似たり。
 畢竟、執着は呪いにさも似たり。

 好きも嫌いも、重い感情は執着となり、当人の人生を縛ります。それは規律でもあり、軛でもあり、ミコチだけでなく、ミマリやヨロを見てもそれは言えるでしょう。
 「好き」の光の面と影の面と、両方を見せてくれる14巻でした。
 やっぱり『ハクメイとミコチ』はおもしれえなあ……

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見えない世界に魔術で光を『魔術師クノンは見えている』の話

 「英雄の傷跡」。それは勇者の末裔に稀に現れるもの。それは欠落のカタチで現れる。四肢の一部。指。耳。味覚。感情。グリオン侯爵家の末子、クノンに現れたそれは、視力の欠落だった。
 周囲の人間は、「英雄の傷跡」が現れた彼を勇者の末裔の証しと褒めそやすが、当のクオンにとっては、自分の世界から光を奪った呪いでしかない。魔術の素養が見つかり、いよいよ周囲からの期待も高まるが、期待の重さは彼にとっては重荷であり鎖でしかなかった。
 光なき世界そのものの暗い性格が災いし、婚約者である第九王女からも愛想を尽かされていたが、7歳になったある日、彼の元にやってきた魔術の家庭教師が発した一言で、彼の心に文字通り光が差した。自分の目が見えないなら、魔術で外に目を作ればいい。
 こうして、魔術師クノンの大いなる一歩が踏み出されたのだ……

 ということで、南野海風先生原作、La-na先生作画の『魔術師クノンは見えている』のレビューです。

 今年一発目に書いた記事でも登場していましたが、前々から楽しみに読んでいた本作がいよいよアニメ放映されるので、それにあわせてレビューです。
俺の俺マン2025の話 - ポンコツ山田.com
 誰もがその才を持つわけではないけど、魔術が当たり前のものとして存在する世界。そこで、「英雄の傷跡」の持ち主として、視力を剥ぎ取られて生まれてきた貴族の少年クオン。彼が自分の世界に光を取り戻すため魔術を追い求め、さらに魔術の魅力にどっぷり浸かっていく姿を描いているのがこの物語です。

 俺マンの記事でも書きましたが、本作の魅力はなんと言っても、魔術の楽しさにはまりそれを心ゆくままに追い求めようとしていくクノンや他の魔術師達の姿。好奇心に突き動かされて試行錯誤する人の姿は、見るものの目を惹きつけてやみません。
 主人公クオンもそうで、「英雄の傷跡」に絶望していた頃の彼は無気力根暗で社交性皆無、年上の許嫁からもつい距離をとられてしまうくらいに失意の空気を振りまいていたのですが、魔術で世界を見てやると決意してからは、魔術だけでなく、目に見えないままにあらゆるものに興味を示しだし、勉学や社交にも精を出すようになり、侍女の教育の賜でやたらと軟派な性格に仕上がってしまったのはご愛敬、許嫁も彼の元に通うのを心待ちにするようになるほどの魅力的な人間になりました。

(1巻 5p)

(1巻 6p)
 こんな少年が

(1巻 30p)
 こんな少年に。大変身ですね。生きる気力とは、何かを追い求めようとする力とは偉大なものです。

 好奇心が旺盛と言っても、ただ気になったことにあれもこれもと手を伸ばすことだけでは、それはただの移り気や飽き性というもの。興味を持ったものについて、これはいったいどのようなものなのかと分析し、検討し、実践することで知見を深め、深まった知見によってさらに増えていく世界の不思議に怖じることなく、さらに没頭していく。そんな知のサイクルに飛び込んでこそ、他者に魅力的に映るのです。

 たとえば、クノン最初に身につけた、水の初級魔術「水球ア・オリ」は、水を生み出す魔術ですが、本当にただ水を生み出すのは初歩の初歩。魔術の階に立っただけです。生み出す水の形状を一定にし、複数個生み出し、生み出したそれらの形や大きさを同一にする。それができてようやく初心者卒業ですが、本番はここから。この「水を生み出す」と簡単に説明できてしまう魔術の性質を、さらに細分化していくとどうなるでしょう。
 まずは当然、何もないところに水を発生させること。そして、発生させた水を空中に浮かせること。さらに、水の形状を保つこと。一旦固定した形状を変えること。分割すること。統合すること……と、できることはいくらでも細分化できますが、このように言語化して性質を定義することで、分析や検討や実践が容易になります。
 さらには、温度、味、色、匂いなども水が持ちうる性質として考えれば、そのような水を生み出すこともできるし、たとえば温度を突き詰めれば、氷や、高温の蒸気などにもできるでしょう。発生させた水の動かし方や速度、形状なども適切に変化させれば、ウォーターカッターのように切断にも使えるし、放水ホースのように暴徒鎮圧にも使える。なんなら水の表面に伸縮性の高い膜を作ればウォーターベッドにもできるし、あらかじめ定めた動きをさせることで小動物のオートマタだって作れる。
 これらは実際に、「水球ア・オリ」について研究しまくったクオンが生み出したもので、名だたる魔術師たちですら驚嘆させる成果でした。

(2巻 8p)

(2巻 10p)
 こんなです。

 また、学ぶという行為に失敗はつきものですが、クノンはそれを恐れません。失敗をしてもいい。実験が無為に終わってもいい。失敗をすればそれが誤りだったとわかる。無為に終わればそれが必要のないものだったとわかる。すでに先鞭がつけられているものであればともかく、まだ誰も手をつけていないもの、先行研究が少ないものなら、そのような失敗すらも研究材料となります。それを当然のものと思っているのがいいですね。

 さらに、クノンはこのような成果について自分一人で成し遂げたわけでは決してなく、師からの助言や学友らとの共同作業などの中から、魔術の新たな使い方を考えついています。その師や学友もクノンに刺激を与えたり、逆に彼から触発されたりと、お互いに影響を与え合っているわけで、この作品全体から、知的作業というもののあり方について強いイメージをがあることを感じ取れますね。
 王宮魔術師というトップレベルの魔術師でさえ、弱冠9歳のクオンが見せた魔術に興味津々で、彼と同じ目線で議論をし(もちろん、クオンがそれについて行けるという前提があってですが)上司から大目玉を食らうくらいに興奮したりするんですから、みな魔術に、ひいては自分の興味があることに目がないんです。我を忘れちゃうんです。自分の世界を広げてくれるものが大好きなんです。

(2巻 10p)

(2巻 15p)
 みんなノリノリ。

 2巻までがいわば「魔術の目」取得編、3巻からは魔術学園編と物語は進みますが、大魔王も魔術王を決めるトーナメントも今のところ登場する気配はなく、学園内での派閥争いや、下級クラスとの交流、魔術バトル、あるいは婚約者である第九王女の王宮内での政争など、物語の行き先がふらふらとたゆたいます。でも、知的好奇心、あるいは学ぶことの楽しさとでも言える、物語の理念的な軸があるおかげで、話がとっちらかるという印象はありません。キャラクターの行動の結果にわくするというよりも、行動の過程が読んでて気持ちいい。そんな読み味の作品です。
 現在7巻まで刊行中。アニメに合わせて漫画もどうぞ。
【第1話】魔術師クノンは見えている

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俺の俺マン2025の話

 あけましておめでとうございます。
 昨年は仕事が忙しい日が増えて、ブログの頻度が減ってしまったのが悔しいですね。もっとのんべんだらりと享楽を尽くして生きたいものです。

 ということで年始めの恒例、前年に読んだ漫画の振り返りで俺マン2025です。
 レギュレーションは例年通り、
1,2025年中に発表された、もしくは単行本が出た作品で
2,その中でも特に心をつかまれた作品で
3,5作品
4,今まで選んだことのある作品はなるべく除外する(なるべく)
 となります。
 それでは順不同で、れっつすたーと。


1,邪神のお弁当屋さん/イシコ

 意図せず戦争の原因となってしまった罰にと、人に零落した元邪神のレイニー。人に堕ちた彼女は、神に戻るため善行を積もうとお弁当屋さんを始めた。かつて彼女を信仰していた人間。かつて彼女が気まぐれに助けた人間。かつての彼女のことなど気にもとめない人間。市井で交わる数多の人間たちに、神の心をもったままお弁当を売る彼女は何を思うのか……
 というところの、童話か寓話のような物語。派手なアクションがあるでなし、お涙頂戴の愁嘆場があるでなし、爽快な勧善懲悪があるでなし、でもつい読みたくなる不思議な魅力を持ったこの作品がまずノミネート。
 人の心の機微や、人とは異なる物の見方をする元神や現神の心の機微などが、押しつけがましさのない描写で、いい意味で他人事のように淡々と描かれます。この押しつけがましさは説明のなさと表裏一体で、「ここは何を言いたいのか?」と首をひねることもままありますが、童話や寓話に何を言いたいかを尋ねるのも野暮というもの。明快な一つの答えを求めるのではなく、読んだそのときの自分の心のありようで味わいが変わってくるのが、このテの物語のいいところです。
 人を愛するとは。憎むとは。大事に思うとは。生きるとは。死ぬとは。幸福とは。絶望とは。
 そんな人生の難問の答えが入っている、と大仰なことを言うつもりはありませんが、そんな問いのヒントが読み取れる気がしないでもない作品です。
 2025年に連載が終了し、今年1月に最終巻の4巻が発売予定。読み切りでも連載でもイシコ先生の新しい作品が待ち遠しいですね。読み切りも寓話チックでいいのですよ。
元神様で今は弁当売り 『邪神の弁当屋さん』の話 - ポンコツ山田.com
神の罪は弁当箱の隙間に 人の隙間に神のお弁当を『邪神の弁当屋さん』の話 - ポンコツ山田.com

2,こころの一番暗い部屋/雨夜幽歩

 作家が集う作業通話コミュニティの一部で密やかに流行しているのがキーワード怪談。三人の参加者が一つずつお題を挙げ、それをキーワードに即興で怪談を作って語るというもの。売れない漫画家の朱雀奏は、あるときそのキーワード怪談に誘われ、そこで語られた話を聞き、ふだん明るみに出ることのない、人の心の奥底にある感情に触れたような気持ちに……
 というところの、ホラーであると同時に人の心のひだを解きほぐす物語。キーワードを元に即興で作られた怪談には、「ホラーを作る」という意識に隠されて語った当人には見えていない、それを語らせたなにかがあるのだけど、主人公の奏はそれをに気づくのがとても上手。参加して怪談を語った当事者達は、奏の感想を聞いて、自分自身だからこそ見えない、こころの一番暗い部屋に光が差したような気がする。いや、光が差したというか、そもそもその感想でその部屋の存在を知ったというか。
 そもそも恐怖とは何か。端的にそれは、未知であること。自分の知らない、理解できない現象や事態に人は恐怖を感じます。
 暗闇が怖いのは、そこに何があるのか、何がいるのかわからないから。
 見知った自分の部屋が真っ暗でもそれは怖くありません。それは、どこに何があるかわかっているから。でも、その真っ暗な部屋の中で、見知らぬ物音や、するはずのない臭いがするのはとても怖い。それは自分の知らないものだから。
 だからというべきか、人が怖いことを考え出そうとするとき、そこには自分の知らないもの、自分が理解できないものが紛れ込んでくるし、その知らないものや理解できないものは、知らないし理解できないものなのだから、自分の語ったどこにそれが紛れているのか、自覚することができない。
 その構造をうまく解析して、隠れていた感情の言語化をすることで、ただのホラーで終わらない面白さが生まれています。
 また、1巻の後半から、ただのキーワード怪談にとどまらない、作中の現実世界に関わってくる人間ドラマが始まりだして、しかもそれ自体も、今までのキーワード怪談のようなホラーじみた話が展開されている。すごく巧みだなと思います。
 2025年のホラー漫画枠第1位。現在2巻まで発売中です。
怪談を生んだ、自分も知らない心の奥底『こころの一番暗い部屋』の話 - ポンコツ山田.com

3,チハヤリスタート/たけうちホロウ

 コロナ禍で露と消えた高校陸上総体。その不完全燃焼を何年も引きずって引きこもり生活を続けていた桜坂千早だが、母親に無理矢理連れ出されたハローワークの帰り道に、かつてのライバル小清水澪と再会する。立派な社会人としてやっている彼女との出会いが、チハヤの劣等感や反骨心やあの日に忘れてきた走るの大好きという心に火を点けた。果たされなかった青春をやり直してもう一度走りだすため、また彼女はスタートラインに立つ……
 というところの、青春やり直し陸上漫画。コロナ禍というすべての人に訪れた災厄は、生命にかかわらずとも人生を大きく狂わせもして、できたはずのことができなくて人生に大きくつまずいた人は、主人公のチハヤならずとも多くいることでしょう。倒れたまま何年も経ってしまったかつての少女(現引きこもりニート)の再起を、等身大のスケールで爽やかに、しかしてコミカルに描くのが本作。
 青春が宙ぶらりんに終わった悔しさとか、その宙ぶらりんから引きこもり続けてしまった焦燥とか、かつての友が立派に働いている劣等感とか、自分に言い訳して立ち上がれない絶望とか、そういう負の感情をちゃんと描きながらも、それでもそこから立ち上がろうとするチハヤや、彼女に手を差し出す友人達の前向きな姿の描き方がとてもみずみずしく、美しいのです。
 あと、彼女たちが走る姿がとても軽快でとても美しい。かねがね、世界でも国内でも最高峰のランナーのスプリントを見てみたいなと思っているのですが、その気持ちを強くさせてくれる、空気を切り裂くような、空を跳ねるような、何でも飛び越せるような、強くて美しいスプリントの絵。これも大きな魅力です。
 現在3巻まで発売中。
消えたあの夏よ蘇れ 少女達はもう一度走りだす『チハヤリスタート』の話 - ポンコツ山田.com


4,限界OL霧切ギリ子/ミートスパ土本

 テレアポで働くOLの霧切ギリ子。丁寧なようで粗雑、ちゃんと気にしているようでそんなことは内ギリギリな食生活は見るものをハラハラさせるし、そんな彼女の周りにいる人間も、一癖も二癖もあるやつばかりなのだった……
 というところの、一応グルメ枠のギャグ漫画。その枠に入れていいのかはだいぶ議論の余地があるけれど。
 どのくらいギリギリかといえば、第一話最初に登場する料理が、味の素と塩かけ食パン。そう、味の素と塩を焼いていない食パンにかけたものである。どんな味かと言えばギリ子いわく、「惣菜パンの惣菜がのってない味」。ちなみに初登場時のギリ子は、テレアポのしすぎで受話器のあたる左耳から耳血が出てる。いろいろとギリギリ。グルメ漫画の枠に入れていいのか。
 ちなみに第一話二つ目に登場する料理は、冷蔵庫の中にあった、「コンビニでもらえるケチャップとマスタードをパキッとするやつ」(原文ママ)を指に塗ってしゃぶるやつ。「アメリカンドッグの味がする」らしい。いくら酔っ払いながら作ったつまみのレシピとはいえ、ギリギリにもほどがある(類似のレシピとして、ケチャップとオリーブオイルを1:1~2くらいの適当な分量で混ぜそこにお好みでニンニクチューブを入れ油とケチャップが分離しなくなるまで混ぜた「ピザ味」がある。ピザポテトやピザトーストなんかの「ピザ味」だけを抽出した味がするという。マジか)。
 本作の半分くらいはそんな感じの限界レシピや他に披露する場のない食レポに溢れ、3割くらいは奇人な同僚や行きつけのバーの関係者らの奇矯な生活が描かれ、2割くらいは役に立つレシピがあり(とんがりコーンクリームチーズを詰めるつまみにはお世話になってます)、残った1%くらいには妙にウェットなお話があったりしてビックリします。 漫画ってこんだけ好き勝手にやっていいんだから、偉大なメディアだなと思うことしきりですね。なお、0.1%くらいメギ(ン)ド(ゥ)72(0)の話してます。なんなら一話まるまる使ってしてます。ジャンプ+のインディーズ連載だからってフリーダムすぎんか?
 とまれ、2025年のグルメ枠第1位。グルメ? 現在1巻発売中。2巻発売も無事決まったぞ!
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5,魔術師クノンは見えている/La-na・南野海風

 視力を持たずに生まれた貴族の少年クノン・グリオン。「英雄の傷跡」と呼ばれるその欠落は、彼の生まれた家には名誉をもたらしたが、彼自身には人生の絶望でしかなかった。悲嘆の日々を過ごす彼だったが、ある日やってきた魔術の家庭教師の一言で彼はふと思いつく。自分の目が見えないなら、魔術を目の代わりにすればいいのではないか。その日からクノンは人が変わったようになり、精力的に魔術を学び、見えない世界の有り様を感じ取ろうとし、他人とも積極的に関わろうとし、日々を前向きに生き始めた。あまりの急激な転向に、本当に人が変わったような軟派な性格になってしまったのはご愛敬。ぐんぐんと魔術の素養を伸ばしていく彼は、果たして世界最高峰の称号「青の魔術師」に届くのか……
 というところの、魔術に目覚めた少年がその才をどんどん花開かせていく、ファンタジー成長譚です。
 この作品の魅力は、主要な登場人物達が有する「魔術って楽しいんだぜ」という姿勢。魔術とは何か、それで何ができるのか、今できるこれをどう改良すれば何ができるのか、あの人の魔術があれば自分の持つ魔術とあわせて一人じゃできないこともできるんじゃないか。魔術の可能性を考え、実験し、実践し、失敗し、再検討し、また試す。その試行錯誤が三度の飯より楽しいと思っている者達がわちゃわちゃとしているのが、とてもいいんですよね。知的好奇心というものの楽しさが、「魔術」というファンタジーを通して描かれているのです。
 主人公のクノン自身が使える魔術は決して多くなく、低級魔術をほんのいくつかなので、他の魔術師達にその点では大きく後れをとっているのですが、持ち前の探究心で、魔術の操り方や、世界や物事の構造を分析したクノンは、低級魔術でできることを細分化し、抽出し、拡大することで、別の魔術と見まがうほどの応用を見せ、他の魔術師を圧倒します。それに触発された魔術師は、改めて自分が持つ魔術に目を向け、理解を深め、新しい使い道を見いだす。そしてそれを見たクノンが、また自分の魔術や共同してできる研究について考える。そんな健全なサイクルが、読んでてわくわくするんですよ。
 わかりやすい悪役や世界の敵みたいなものは(少なくとも今のところは)出てこず、少年が成長し、周囲の人間も成長する姿が、知的好奇心を軸に描かれていくのですが、ストーリーとは別になにか芯が一本通っている物語というのはとてもいいですよね。
 現在7巻まで発売中で、この1月からアニメも放送します。それまでにちゃんとしたレビューも書いときたいですね。


 以上5作品が俺マン2025の5作品ですが、惜しくも漏れた他のノミネート作品も挙げましょう。
・片田舎のおっさん剣聖になる/乍藤和樹・佐賀崎しげる

 主人公の過去の話が引っ張られすぎてるのはたいがいにした方がいいと思いつつ、主人公が剣の道に打ち込みすぎてる(剣への入れ込みが度を超してる)描写が噺に説得力を持たせてるなと思います。

ハプスブルク家の華麗なる受難/稲谷・あずま零

 世界史履修者を悩ませる謎の存在、神聖ローマ帝国。神聖でもなければローマでもなく帝国ですらないそれの帝位に長らく就いていた、中世欧州の覇者ハプスブルク家の華麗にして苦難の歴史をライトなコメディタッチで描く作品。その歴史の中を生きる当事者としてではなく、既に起きた歴史を俯瞰する者の視点で描かれる歴史物のコメディって妙に好きなんですよね。

・その着せ替え人形は恋をする/福田晋一

 2025年に完結したラブコメ。終盤のコミケからラストまでの展開が、山あり谷ありからの大団円で大満足です。

・2.5次元の誘惑/橋本悠

 同じく去年連載終了した作品。正直、最終エピソードはノれなかったのだけど、最終回のエピローグが「こういうのが見たかったんだよ」欲を100点満点で満たしてくれたのでオッケーです。


 とまあこんなところでしょうか。
 あと去年は、無限大に増殖する本と無限小に縮退する部屋の容積に屈し、電子書籍を大幅に解禁して、既に巻数を重ねている作品をセールのタイミングでごそっと買ったりしてます。上に出てきた『魔術師クノン』や『片田舎のおっさん』、他には『アルスラーン戦記』、『幼女戦記』、『居酒屋のぶ』、『いびってこない義母と義姉』なんかは繰り返し読んでます。
 ただ、電子書籍はまとめ買いや手持ち無沙汰の時に手軽に読むのにいいのですが、読書体験自体が少々雑になってしまうなというのが否めないのは痛し痒しですね。
 とまれ、今年も暇を見つけては本を読んでブログも書いていきたいものです。

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消えたあの夏よ蘇れ 少女達はもう一度走りだす『チハヤリスタート』の話

 私の高校生活を、青春を、すべてをかけた高校陸上は、あの夏に幻となった。
 女子高生チハヤのインターハイは、新型コロナのために露と消えた。それから8年。ニート生活におぼれていたチハヤは、あの夏に雌雄を決するはずだったライバルのミオと偶然再会し、もう一度彼女と勝負をすることになる。幻になったあの夏からもう一度始めるために……

 ということで、たけうちホロウ先生の『チハヤリスタート』のレビューです。
 人生につまずきそのままうずくまり続けてしまった人、つまずいたけどすぐに起き上がって歩き出した人、歩き出したけどつまずいたときにできた傷がずっと癒えなかった人。本作は、青春真っただ中に新型コロナという世界的な災禍を食らった少女たちのその後、なかんずく、うずくまり続けた彼女が再び歩き出す物語です。

 世界中で猖獗を極めた新型コロナ。大なり小なり、その影響から逃れられた人はいません。本作の主人公チハヤもその一人。彼女がそれまでの人生の集大成とした高3のインターハイは、時あたかも2020年、新型コロナの直撃で中止となってしまいました。

 幼少期から足の速さだけが取り柄だったチハヤでしたが、そんな彼女に最初の挫折を味わわせたのが、中学校で出会ったミオでした。
 チハヤより、勉強ができて、人当たりがよくて、顔がよくて、そしてなにより足が速い。他の何で誰に負けても「でも私の方が足速いしな」と心の平安を保っていたチハヤにとって、ミオの存在はアイデンティティの危機に直結し、あわや引きこもりになりかけましたが、ミオからかけられた敵視と賞賛が相半ばする言葉に奮起し、幽霊部員だった陸上部に復帰、必死のトレーニングをすることで、中3のときには全中で100m全国2位の快挙に輝きました。
 しかし、100m全国1位は当のミオ。結局中学時代、彼女に勝てなかったチハヤですが、ミオは終生のライバルであると同時に、最高のチームメイト。彼女とも組んだ400mリレーでは、全国1位の栄冠を勝ち取ったのでした。
 高校では上京することを決意したミオに、チハヤは高3のインターハイで雪辱を果たすことを宣言。その言葉をかなえるために、努力に努力を重ね、これなら今度こそミオに勝てると確信したところでの、インターハイ中止。これにチハヤのメンタルは耐えられませんでした。成長しても足の速さ以外に大した自己肯定を得られなかった彼女。自分の足の速さの集大成となったはずのインターハイの中止は、ずっと体重を預けていた支柱をすかされたようなもので、そのまま心は大転倒。立ち上がることのできないまま、なんとか卒業だけはしたものの、ニート生活に突入してしまったのでした。
 それから8年(つまり2025年の今から3年後の少し先の未来)。いまだニート生活に喘ぐチハヤを尻目に、かつてのチームメイトはそれなりに社会でうまくやっていました。子供の頃から続けていたピアノでレッスンコーチをしていたり、就職した広告会社で過大な業務量に青息吐息だったり、結婚して子供を産んで今は楽しく地域の陸上クラブに所属していたり。
 自分がどうしようもないときに、社会とうまく折り合いをつけていられるかつての友人を見るのはとても辛いもの。チハヤは友人から連絡が来ても、ろくすっぽ返事もできない状況でした。
 しかし、母親から無理やりハローワークに連れていかれ、胸を張れるものが何もない自分を改めて思い知らされ、絶望したまま就いた帰路で出会ったのが親友のあやせ。そして、かつてのライバルであるミオだったのです。
 大学卒業後、地元に戻ってお天気キャスターとしてお茶の間の人気者になっているミオ。連絡はとらずとも、毎日のようにテレビで見る彼女の姿はチハヤの劣等感を刺激し続けていたのですが、彼女もまた、チハヤと決着をつけられなかったことがとげになって、ずっと心に刺さったままだったのです。
 再会した居酒屋で大騒ぎをした後に、なぜか酔っぱらった状態で短距離走をすることに。かたや8年間のニート生活、かたや大学までは陸上をやっていたものの就職後はすっかりご無沙汰になりその日もパンプスをはいた小綺麗な格好、しかも両者には酩酊という強烈なデバフがかかっていたわけで。このかけっこはミオの勝利に終わったものの、そんな勝負ともいえない勝負では、積年の二人の鬱憤はまるで晴れず、改めて、8年前の夏の戦いをもう一度やろう、ということになるのでした。

 とまあ、長々と書きましたがこれが始まり。タイトルのとおり、チハヤが再び歩き出す、チハヤのリスタートの物語です(読むまでは『チハヤリ/スタート』だとばかり思っていて、「チハヤリ」ってなんだろうと悩んでいたのはここだけの話)。
 いやホント、他の皆が歩いているのに、自分だけ立ち止まってしまった時の心の苦しさってきっついんですよね……。私にも思い当たるところはあるのですが、焦燥とか、羨望とか、悔恨とか、諦念とか、無力感とか、いろんな負の感情がごっちゃになって、なんとかもう一度歩き出そうとしても、それらに足を取られてうまく動けない。動けないと、またその感情が膨れ上がっていく。そしてまた動きづらくなっていくという悪循環。それを断ち切るには自分だけの力というのはなかなか難しくて、運というか、それが意図的なものであれ偶然のものであれ、外部からのなんらかの力が必要だったりします。
 チハヤも再び歩き出す気になれたのは、無理くりハローワークに連れ出した母親と、偶然出会ったあやせ、そしてミオのおかげでした。
 歩き出そうとしても、8年の間にまとわりついた心の重しは振りほどきがたく、その歩みを止めようと何度も邪魔をしてくるのですが、そのたびに周囲の助けと、8年前に決着をつけられなかった悔しさをばねにして、チハヤはまた足を動かすのです。

 この物語に、派手な出来事はありません。一度陸上から離れた少女が日本新記録を出したり、あるいは新型コロナのない世界線に移動したりといったことはない。ただ、かつて挫折した少女が、あの夏に忘れてきた勝負をやりなおして、もう一度歩きだす物語。かつての仲間達と、もう一度走りだすだけの物語。誰にでもありうる、誰にでもありえた物語。
 そんな、ある意味でありふれた物語を、魅力的なキャラクター達が走り回ります。彼女らの魅力とは、その存在感のちょうどよさというか、等身大より少しだけ大きいキャラの在り様です。
 たとえば主人公のチハヤ。インターハイに出られなくて引きこった彼女の苦しみや、その苦しみから抜け出せない辛さ、現状に対する他責的とさえ言える物言い、そしてあの夏にかけていた強い思いは、誰もが共感できそうに描かれながら、物語的を盛り上げられる過剰さが少しだけ付け加えられています。
 この過剰さのさじ加減。一振りの誇張。それらが、チハヤや他のキャラクターが抱えた悩みにシリアスさを損なわないまま、作品全体にユーモラスな軽やかさを与えているのです。

 また、軽やかさと言えば、チハヤたちが走るその姿。作中に描かれる彼女たちの運動シーンは、跳ぶようで、飛ぶようで、まるで重力のくびきから放たれたようで、とても軽やか。「速く走る」という行為の、プリミティブな楽しさと力強さが伝わってきます。
 常々私は、コンマ以下の秒数、ほんの数センチの後先で決まる勝負が、たかだか十数秒の間に行われる100m走というのは、競技として非常にシリアスなものだと思ってるので、一度は生で見てみたい競技です。テレビで見る分にはそこまでではなくとも、生で見るとその異常な、自分の常識から大きく外れた速さは度肝を抜いてくれると思うんですよね。そんな「速さ」の描写がとてもよいのです。
 チハヤが走る前に準備体操的にする、その場での軽いジャンプとかも、すごく軽々としてていいんですよね。

 果たしてチハヤとミオの勝負の行方は。チハヤはあの夏をやり直して、もう一度前に進めるのか。
 最新刊である3巻が発売されたばかりである本作、今、是非に読んでほしい一冊です。
comic-fuz.com

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物語も現実も、喜怒哀楽も、愛も殺意も欲も絶望も、そこにある死を思え 短編集『SUGAR GIRL』の話

 恋多き女性のオフィスラブのような導入から、次第になにやら不穏な気配が漂い出す、表題作の『SUGAR GIRL』。
 我が儘放題の彼氏についにぶちぎれた男がハンマー片手に引き起こす、残虐的で暴力的なドタバタ劇『絶絶絶絶絶対殺す』。
 ハワイに行きたがる女性の心の裏側が漏れ出る掌編『夢ハワイ現ハワイ』。
 彼氏に飽きを感じたその日から、彼女には彼の幽霊(生きてるのに)が視えるようになった『CLING ONCE, BLINK TWICE』。
 中学の入学式から付き合いのある男性二人の間にある、まだ名前をつけてない感情に関する掌編『変人』。
 事件現場にうんざりしている警察官、ぶつかりおじさんにうんざりしている女性、特殊詐欺の末端を管理する日々にうんざりしている反社、災害のときから姿を消した夫を探す日々にうんざりしている元警察官......うんざりしている人たちの人生がふとした瞬間に交錯する『死神』。
 人類が滅びた後の地球に降り立った宇宙人が現代日本の文明に触れて、滅びの儚さにとんちんかんな思いを馳せる掌編『THE ABSENSE OF GOD』。

 4本の短編と3本の掌編で構成された、ヤマシタトモコ先生の最新短編集。概要だけ読めば、まあいろいろな話が詰め込まれた短編集なんだろうなと思いますが、あにはからんや、これらの作品にはすべてあるものがまとわりついています。

 あるもの。それは死。

 そう、それが前面に出ているか、伏流しているか、もやのように漂っているか、挿話として差し込まれているだけか、差はあれどすべてに死の概念がとりついているのです。

 自分が殺されないと思っている素朴な人間への素朴な殺意であったり、愛したら殺さずにはいられない者の悲しさと強さとあったり、恋人への倦怠と殺人衝動と美意識の混淆であったり、滅んだ文明の残滓への哀悼であったり。
 4つほど順不同で、各話に見える死のあり方を端的に書いてみましたが、まあずいぶんといろいろなカタチで死を表しているものです。
 重々しく扱っているものもあれば軽々しく扱っているものもある。淡泊に受け止めているものもあれば感傷的に受け止めているものもある。シリアスに抱え込んでいるものもあれば、キッチュに放り投げているものもある。かけがえのない喪失に悲しむものもあれば、数でしか表現しない無機質なものもある。
 
 一つ具体的に見てみれば、たとえば掌編『夢ハワイ現ハワイ』。
 この話に登場するのは、楽しいことと辛いことを天秤にかけるとどうも後者が傾いてしまいそうな女性で、嫌なことがあるたびに「ハワイに行きたいと」と口にするのですが、その彼女が物語の最後に呟くのが、「ハワイとは遠くにありて思うもの」という一言。お気づきのようにこれは室生犀星の詩の一節のパロディですので、ハワイ=ふるさとと変換できますが、そして作中においてはハワイ=死と読み取ることができます。すなわちその言葉は、実現させるつもりのない願望に姿を変えた、うっすらした希死念慮
 ここではないどこかに行きたいという思いに代入されたのが「ハワイ」ですが、それはここではないどこかの最たるものである「死」の穏当な代替物。そしてそのハワイ=ふるさとは、「遠くにありて思うもの」。ゼロから生まれてゼロに帰る生命にとって、誕生と死はある意味で同源で、時に郷愁を覚えることがあっても、そこは一度帰ればもう二度とは戻ってこられない、向こう岸にある世界。帰ることを希って涙しても、それが叶わぬことを理解しながら「みやこ」である今・ここを生きなければならない。
 カジュアルな希死念慮が心の中にあっても、それが不可逆の到達点であることは理解している。だからといって、日々に小さくわだかまる虚無を忘れることはできない。そんな白々しい絶望が漂っているお話です。

 これはほんの一例ですが、こうまでいろいろなカタチの死を見せられると、死の持つ両義性が読者の意識に浮かび上がってきます。すなわち、平等性と固有性。

 死は老若男女、貧富も貴賎も関係なくあらゆる生命に平等に訪れ、同時に、その生命が体験する死に再現性はなく、代替性もなく、代償性もない、その生命固有のものです。その事実は生命が存在し始めてから、ヒトが意識を持ってから、言語が生まれ文化文明が作られるようになってから、一度も違えられたことはないのに、人間は未だにその事実を知りながら実感することができていません。自分がいつか死ぬことは知っているのに、本当に死ぬとは実感しておらず、命に関わる大病や怪我、あるいは身近な人間の死に触れるなどしてそれにリアリティを感じるまで、自分からは縁遠いどこかにあるものだと思ってしまっているのです。
 それは人間の弱さであり強さ。常に死を実感していたらすぐに参ってしまう程度に人間の心は弱いし、その弱さ故に自分がいつか必ず死ぬ未来から目をそらして今よりよいものを目指すことができます。

 もちろん私だって、死を知ってはいながら実感できていません。それはきっと幸せなことなのでしょうが、いつか訪れるであろう不意の不幸に耐性ができていないことの証左でもあります。自分がそう漫然と生きていることを、様々な形で現れる死でもって意識させられ、「少しは世界のありふれたところに転がっている死に気づいたらどうだ?」と鼻先をつかれたような気になる。一般誌やBL、同人誌など、様々な媒体から集められた話一つ一つからは死とは関係ない感想を得もしますが、この一冊を読み通した後にはそんな風に思うのです。
 メメントモリ、というやつですね。

 今までのヤマシタトモコ先生の短編集とは違う読後感を味わえること請け合いの一冊です。

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脆くひりつく思春期の心と、無意味で開放的な楽しさ 両方楽しめ! コトヤマ短編集『ファンフィクション』の話

 高校2年生にして剣道日本一を達成した少年・高砂シン。その大会からの帰り道、快挙の達成とは裏腹に剣道をやめようと決意した彼の目の前に現れたのは、編み笠をかぶった小柄な辻斬りだった……
 百鬼夜行。それは、見れば死ぬと言われている妖怪達の大行進。人には恐怖でしかないそれも、当の妖怪達にとってはたまに行われる楽しさしかない大騒ぎ。百年ぶりに行われるそれに参加する妖怪を選抜するために、今、百鬼夜行実行委員会が組織された……

 ということで、コトヤマ先生の初短編集『ファンフィクション』のレビューです。
 収録作は、剣道に飽きた天才剣道少年ミーツ剣道に飢えた天才剣道少女の『ミナソコ』と、百鬼夜行前夜から当日に至るまで、妖怪達がどうわくわくしているかを描く『百鬼夜行実行委員会』。短編集と言いつつ実質2作品しか収録されていないのはご愛敬ですが、この2作品が、コトヤマ先生の違った方向にある二つの魅力を表した、いい作品なんです。
 
 じゃあその二つの魅力とは何かって話ですが、端的に言えば、思春期の繊細に尖った心と、軽薄そうな楽しさの裏に隠れている心の底からの底抜けで開放的な楽しさ。『ミナソコ』には前者が、『百鬼夜行実行委員会』には後者があります。そして、それらをテンポよく読ませるコミカルさもまた、コトヤマ先生の魅力です。え? 魅力が三つだって? 野暮なことは言いなさんな。

 『ミナソコ』では、剣道に倦んだ天才少年と、女だからという理由で強さを認めてもらえない天才少女が剣を交えるのですが、その両者は剣道に対して、まっすぐであるが故にねじれてしまい、本気であるが故に外道に逸れてしまう、そんな危うさがあります。
 かたや天才少年は、剣道しかやってこないまま埒外な能力と順当な評価を得て、慢心と表裏一体の空虚を抱いてしまう。
 かたや天才少女は、剣道しかやってこないままに埒外な能力と不当な評価を得て、絶望と表裏一体の空虚を抱いてしまう。
 互いに埒外な能力を得たまま、それとあわせて得た評価は正反対で、そして抱いた感情は同じもの。
 二人とも、剣道が好きには違いない。でも好きすぎて、その思いをうまく練れない、研げない、磨けない。脆いままに尖ってしまう。感情の種類は違えど、そんな狂気さえ孕む心の危うさ、不安定さは、前作『よふかしのうた』でも多く登場しますが、その描き方がいいんですよね。魅力です。
 尖った心を剣にして、二人が交わすものは何か。少なくともそれは、言葉ではない。だって二人は剣道しかやってこなかったから。言葉で説明できるものは、二人の剣の間にはない。交わしている本人達も、それが何かよくわからない。
 二人が言葉を交わすのは、剣を交えたその後で。じゃあどんな言葉を語るのかと言えば、なんてことない普通の言葉。でもその普通さこそが、尖った気持ちが少し磨かれた証し。張り詰めた、というよりも引き攣れていた二人の間の空気は少し緩んで、空虚はわずかに埋められました。あからさまに過ぎない救いの種が、読後に安堵の芽を出してくれます。

 『百鬼夜行実行委員会』は、『ミナソコ』よりずっと馬鹿らしさのあるお話。百年ぶりに開催される百鬼夜行のため、ぬらりひょん猫娘、座敷童の三人(?)が、実行委員会として百鬼夜行に参加しようとする妖怪達を選抜するのですが、オーディションとは名ばかりで基本的にみんな合格。だってこれはお祭りだから。妖怪達みんな、祭りを楽しむために駆けつけてくれたんだから、それをはねるなんて野暮はできません。
 名ばかりオーディションを、面倒くさい大変だと(主に猫娘が)ぶつくさ言いながら6日間かけてこなしていき、そして迎えた百鬼夜行当日。選抜された妖怪達はもとより、シード枠の大妖怪の方々も参加して、山から街から夜っぴいて練り歩くのですが、その絵が圧巻です。がしゃどくろや泥田坊といった巨大な妖怪が闇夜の山から突如として現れる様や、誰もいない都会のど真ん中に一匹のすねこすりがぽつねんとうずくまる様は、ポスターにして飾っておきたくなるほどにぐっとくる絵です。
 街を練り歩く妖怪達の馬鹿騒ぎ的な楽しさと、それを遠目に眺める実行委員会として尽力した猫娘と座敷童のやれやれ一息ついたぜといった安堵の楽しさ。無意味なコメディかと思わせる一連のオーディションのシーンから、その無意味な諧謔こそが肝要なのだと気づかされる、開放的で解放的な享楽のシーン。それが最後のページの最後の台詞で、不条理なまでに清々しく幕を引かれる(むしろ帳は開かれるのですが)のがとても気持ちいいんです。

 これ一冊でコトヤマ先生の魅力がギュッと詰まっていますので、入門編としてもオススメ。同時発売の『よふかしのうた 楽園編』は、さすがに本編を未読で読むわけにもいかないので、『よふかしのうた』全20巻を読んでからにしてほしいですね。

 読み切りでも連載でも、またコトヤマ先生の作品を読みたいぜ。
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