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漫画の話です。

『モルモットの神絵師』コミュニケーションの本質と、漫画を描くことと漫画の感想を書くことの意味の話

 引き続き『モルモットの神絵師』を読んでのお話。
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 本作の主人公・岡太朗は、インフルエンサーのチハルに監禁され、「人のため」の絵と「自分のため」の絵の2枚を描きあげた後、チハルが「『自分のため』に描いた絵の方が美しい」、「『承認欲求人のため』より『自己表現欲求自分のため』の方が優れた創作を産む」と評価したことに対し、異議を唱えました。

絵を描くことは 『人の好きなもの』を描くことでも 『自分の好きなもの』を描くことでもない
それは
”自分のことば”で”誰か”に伝える『コミュニケーション』なんだ
(64,65p)

 異議というよりは意義でしょうか。チハルは「人のため」と「自分のため」を比べ、後者を上位に置きましたが、太朗はどちらをよりよいとしたのではなく、それを判断する以前の前提、そもそも絵を描くこととは何か、という意義について述べたのです。
 「人のため」に描こうが「自分のため」に描こうが、それはコミュニケーションとして行うもの。どちらが好まれようと、良いものとされようと、まずコミュニケーションである、と言います。


 そもそも、コミュニケーションとは何か。
 辞書的に言えば「相互の意思疎通」ですが、つまり、誰かに自分の意を伝え、それに対し相手から何らかの意が返ってくること。そのような意の往還がコミュニケーションの本質です。
 その意味で、「何を」伝えるかというのは、コミュニケーションの本質とは無関係です。

 「おはよう」とあいさつをすると、「おはよう」と返ってくる。
 右手を差し出すと、右手を差し出し返され握手をする。
 狭い道で対向車に先を譲れば、パッシングと共に相手車が先行する。

 自分が誰かに意を差し出し、それに対して相手がその意を確かに受け取ったことを示す。そしてまた相手から意が返ってくる。そのような意の往還、意の運動性こそが、コミュニケーションなのです。意図してかどうかはわかりませんが、太朗のセリフに「何を」伝えるかについてが欠落しているのもそれを裏付けます。
 そして、太朗のセリフにはないのが、意が相手から返ってきて初めてコミュニケーションは成立する、という点。相手からの反応を期待せず一方的に発信をするのは、コミュニケーションではありません。期待しても返ってこなければ、やはりコミュニケーションではありません。先にコミュニケーションの運動を起こす側の立場で言えば、相手が反応を返せるものを発信しなければいけないのです。

 一般的には意味のある意思疎通をすることこそが目的とされるのとは裏腹に、意の往還それ自体が目的、いわば手段自体が一義的な目的と化し、その中身は二次的なものになるとさえ言えます。


 ここで、改めて本作に登場した3種の絵について、それがどのようなコミュニケーションなのかを検討してみましょう。


ケース1,「人のため」の絵
 これは、太朗が従前から描いていたもので、彼曰く、「『人の好き』を毎日研究して」、「「いいねを稼ぐこと」「フォロワーを稼ぐこと」「他の絵師に勝つこと」」を目的とするものです。チハルに言わせれば「自分を殺して100%人のために」「『人の好き』に注力して描いている」絵です。
 ではこのような絵は「誰に」描いているのかと言えば、広く「人」です。あるいは「群衆」でしょうか。具体的な誰かではなく、集団の中でうねりとしての「好き」を発生させたアノニマスな「人」です。
 何を伝えたかったかと言えば、「あなたはこういう絵が好きじゃないですか?」という問い。あるいは「こういう絵が好きでしょう?」という提示。それに対して「人」は、反応として「いいね」したり、太朗のフォロワーになったりする。
 また、チハルに描いた1枚目の絵もこれにあたります。太朗は不特定多数の誰かではなく、目の前のチハル一人のために「こういう絵がお気に召すのでしょう」という思いで描きました*1


ケース2,「自分のため」の絵
 チハルによる監禁が長く続き、彼女に対する悪感情が昂り続けた太朗は、様々な凶器でチハルを刺し貫き殺害するグロテスクな絵を描き上げました。それはチハルいわく「外界との繋がりを断ち切り・・・・・・・・・・・・ 初心に帰って・・・・・・ 誰にも見せることのない絵を内なる衝動に従って描・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」いた絵で、太朗の「苦しみと怒りと恐怖があるがままに表現されてい」るというのです。
 これが「自分のため」の絵であるというのは、太朗が自分自身のためにこれを描いたということ。チハルに「監禁されて 脅されて 恐怖して困惑して苛立って そのグチャグチャをキャンバスに描き殴った」もので、「オレの醜い心そのもの」を「鎮めるため吐き出すため 自分のために描いた絵になった」のです。
 「誰に」は太朗自身。「何を」は恐怖、困惑、苛立ち、グチャグチャになった醜い心。ならばどんな反応が送り先である太朗から返ってきたかというと、「それを描き終えたら気持ちが少し落ちつい」たという精神の安定。己が心の中に湧きおこっていた不穏で不快でグチャグチャな感情を絵にして自分自身に送った太朗は、その絵を描いてそして見て、自分の感情の客観視ができ、「気持ちが少し落ちつい」たのです。


ケース3,チハルに描いた3枚目の絵
 「自分自身が作品」と太朗に言わしめるほどに「美を追求」していたチハルをモデルに絵を描くことしかできない、「無人島で絵を描くような SNSや娯楽が何もない だけど新鮮で刺激的な日々」。彼女をひたすら見続けた彼が彼女に抱いたのは、恐怖、困惑、苛立ちでしたが、同時に「強烈な共感シンパシーと深い憧れ」でもありました。
 その結果生まれたのが3枚目の絵。「誰に」はもちろんチハル。「何を」は、あえて言葉にすれば、「オレはキミが好きです」という気持ち。

 ただ、蛇足ながらここで強く言っておかなければならないのは、彼が伝えたいのは「オレはキミが好きです」という言葉それ自体ではないということ。まさにそれを伝えたいだけならば、そう言葉で言えばいい。わざわざ絵を描く必要なんてない。それでも彼が絵を描いたのは、彼の中にある気持ちは絵で表すしかなかったから。「オレはキミが好きです」という言葉ではとても伝えきることができない、膨大で複雑でとっちらかった感情を伝えるため、太朗は自分のことばを描くしかなかったのです。

 蛇足ついでに言えば、『子供はわかってあげない』(田島列島)で、「好き」という言葉は「ただのカード」で、「それを見せるだけで済むように」「先人があみ出した方法だ」と言っています。

 誰かを好きだという感情はあまりにも大きく複雑なので、それを言葉で十全に伝えきることは不可能ですが、「好き」という言葉にはその大きく複雑な感情がすべて入っているということにしておく・・・・・・・・・・・ことで、その感情を伝えやすくしたのです。
 でも太朗は、「好き」という「カード」を使う代わりに、自分のことばを使ったのですが、念のために付言すれば、あのページに書いてある「オレはキミが好きです」という言葉は、太朗が発したものではなく、チハルが感じ取ったものです。太朗が自分のことばで伝えた感情を、彼女は「好き」という「先人があみ出した」便利な言葉で受け取ったのです。

 話を戻して、太朗からことばを送られたチハルは、その反応として、恥ずかしがりました。前回の記事(『モルモットの神絵師』モルモット/人間を見る目と、「絵を描くこと」がつないだものの話 - ポンコツ山田.com)で書いたように、元々太朗の前で全裸になっても一切恥じるそぶりを見せなかったチハルは、彼を同じ人間ではなくモルモットとしか見ていなかったわけですが、太朗のことばを見たことで、彼を意を通じ合うことのできる同じ人間とみなし、裸でいることが恥ずかしくなりました。太朗の意が通じたからこその羞恥です。


 以上、3つのケースを見ましたがいずれも、太朗が自分のことばで「誰か」に対して何らかの感情を伝え、それを受けた誰かは何らかの反応を返しているように、すべてコミュニケーションが成立しています。
 そして最後、太朗がチハルに描いた3枚目の絵(ケース3の絵)は、二人の2ショットとともにチハルのアカウントでSNSにアップされましたが、それを見た彼女のフォロワーはこぞって「いいね」を押しました。彼の絵と共に、彼らの2ショットという作品は多くの反応を引き起こし、これもまたコミュニケーションの成立です。


 さらにメタ的に見れば、そんな漫画を中山先生が描き、それに対して私たち読者が感想を言ったり、こんな長い文章を描いたりする。自分のことばで描いた漫画に、読者がなんらか反応を返す。この作品を中山先生が、「人のため」に描いていようと、「自分のため」に描いていようと、それは問題ではありません。絵を描いて、それに反応が起こる。コミュニケーションなのです。

 漫画の感想を書くというのは、作者のことばに対する反応という面もありますが、同時に、ケース2のように、漫画を読んで自分の中に生まれた感情を自分自身に説明するためのものという、自分対自分のコミュニケーションという面もあります。
 さらに、こんな風にブログで書いたりSNSで発信したり、誰かとそれについて話したりするというのも、「この漫画よかった(あるいは悪かった、ということもありえますが)よね」ということを伝えて誰かから反応をもらいたいというコミュニケーションでもあります。
 そしてさらに、その感想そのものに対する評価や批判という反応が生まれたり、その感想に触発されて書いた文章や描いた作品、読んだ本など、新たな反応が連鎖して生まれていくのです。

 こうして、コミュニケーションとして世界に放たれたある漫画は、誰かに届いて感想という形で反応が生まれ、そしてその感想がまた新たなコミュニケーションとして誰かに向けて放たれる。そしてそこからまた…とコミュニケーションの運動は波及していくのです。
 世界とつながるとは交換の連鎖を続けていくこと、とは記事中にも登場した『子供はわかってあげない』に通底しているテーマですが、漫画を描くことも、その感想を書くことも、また世界とつながることだと思うのですよ。

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*1:後にネットにアップしてバズらせたい、という思いもありましたので、完全にチハルの目しか意識していなかったわけではありませんが。ここにはやはり、「人」はこういう絵で喜ぶでしょう、という思いがあります

『モルモットの神絵師』モルモット/人間を見る目と、「絵を描くこと」がつないだものの話

 本日(令和6年9月12日)付でジャンプ+に掲載された、中山敦支先生の読み切り『モルモットの神絵師』。
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 これがたいそう面白かったのです。

 物語は、世間で人気のあるものを徹底的にリサーチして、「いいね」を稼ぎ、フォロワーを稼ぎ、競争相手に勝つことを至上の喜びとする神絵師が、ある日国民的インフルエンサーのモデルから絵を描いてほしいとの依頼を受け、いざ指定された場所に赴いて言われたことには、「自分の肖像画を描いてくれ、それが完成するまでここから出ることは許さない」と……と始まります。

 詳しい中身は、ワンイシューをピーキーな設定で一気呵成に描き出す本編を読んでほしくて、そして読んでることを前提に以下の文章は書くのですが、何回か読んでから「なるほど」と合点がいって面白かったのは、タイトルの「モルモット」の含意するところです。

 主人公の神絵師・岡太朗が「モルモット」であるのは、彼を監禁したインフルエンサー・チハルによる「実験」の対象だからです。
 キュレーターの両親の娘として、幼いころから芸術作品に触れて育ったチハルは、ある疑問を抱くようになります。

(53p)
 この疑問に対する答えをだす実験として、「『人の好き』を毎日研究し」、「『誰かの好き』」のために絵を描く太朗をさらってきて、彼に「人(=チハル)のために描く絵」と「自分(=岡太朗)のために描く絵」、両方を作らせ、どっちがより美しいか判断しようとしたのです。
 その実験の結果として、「『自分のため』に描いた絵の方が美しい」、すなわち「『承認欲求人のためより自己表現欲求自分のための方が優れた創作を産む」という結論を得ました。

 ここまでが彼女の実験。彼女にとって太朗はまさに実験の「モルモット」に過ぎず、対等な人間として扱っていませんでした。肖像画を描く彼の前に全裸になるどころか、必要なら触れと言って胸を触らせているのはその証左です。これは実験に熱中しているというより、彼を同じ人として見ていないが故の振る舞いです。

(30p)
 『アーロン収容所』という本には、著者が戦時中に捕虜として捕まっている際、英軍の女性兵士が著者の目の前で恥ずかしげもなく全裸を晒すエピソードが登場します。

 著者は、もし自分が白人兵士だったら彼女は金切り声を上げただろう。だが、見たのが日本人兵士である自分だから、彼女は何とも思わなかったのだ、と考えました。これは、当時の女性英軍兵が日本人捕虜を同じ人間ではなく、イエローモンキーとしてしか見ていなかったことを如実に示す話ですが、これと同じ心性がこのときのチハルにはあったと言えるでしょう。実験が終わったその時まで、チハルは太朗を同じ人間と見ていなかった。
 なぜそう言いきれるのか。それは、最終的にチハルが太朗を人間として見るようになった、彼に人間としての感情を向けるようになったからこそ、逆説的にそうだと言えるのです。

 2枚の絵を描き切り、彼女の実験が終了したのち、太朗は言います。


(65、66p)
 絵を描くこととはコミュニケーションである。
 そう表明した太朗は、2枚の絵のほかにこっそり描いていた絵をチハルに見せました。何も言わずに、ただ”自分のことば”でチハルに思いを伝えるのです。
 このことばは見事にチハルに届きました。だから彼女は、その場で崩れ落ち、自らの裸体を隠したのです。

(77P)
 チハルが体を隠したのは恥ずかしくなったから。人前で裸体を晒すのは恥ずかしいことだから。目の前にいる太朗は、実験動物のモルモットなんかじゃなく、思いを通じ合うことができる人間だとわかったから。

 この最後のシーンで、描いた絵を見せられた=告白されたチハルが大いに照れて体を隠すのは、単に彼女の可愛さを描くだけでなく(照れチハル、クッソかわいいですよね)、太朗の気持ちが通じた、すなわち、絵を描くことがコミュニケーションだと言った彼の言葉が正しかったことを、否応なく示すものなのです。
 その意味で、このクライマックスは、「絵を描くことは」「”自分のことば”で”誰か”に伝える『コミュニケーション』なんだ」という太朗の主張を象徴的に示すものであり、同時に、遡及的に彼がモルモットであったことを示すものでもあるのです。ついでにいえば、チハルのかわいさを100点満点で示すものでもあります。花マル。

 本作は「絵を描く(創作をする)こととはなんなのか」という単純にして深遠なテーマに鋭く切り込みをいれたものですが、今まで私が触れてきた、共通するテーマを持つ作品にも思いを馳せさせる力を持つもので、他作品とも絡めてもうちょっと考えてみたいですね。

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好きなものを描け! そして食え! 芸術はパクパクだ!『馬刺しが食べたい』の話

 テーマが「自分の好きなもの」だっただから他意なくそれを描いた。それだけのはずだった。なのになぜこんなことに。
 梅野かえでが描いた馬刺しの絵は、見事最優秀賞に輝いた。その絵が校内に飾られたことで、彼女の馬刺し好きは学校中に広まってしまった。華の女子高生には少々ダメージが大きい事件だが、それ以上に彼女を驚かせる事件があった。その恵体と、目つきと愛想の悪さで校内に悪評とどろく男・竹内聡巳に呼び出された彼女は、思いもよらないお願いをされる。どうか俺のために料理の絵を描いてほしい、と……

 ということで、桜井さよる先生の『馬刺しが食べたい』のレビュー。たまさか描いた馬刺しがバズった女子高生と、その見た目から恐れられながらも実は家族思いで超絶偏食家の男子高生が織りなす、「好き」が生み出す魅力と自己肯定の物語です。

 あなたが好きなものを描け、と言われたときになにを描くか。
 推しのアイドルを描く人もいるでしょう。愛用する物品を描く人もいるのも自然です。好きな食べ物を描く人がいたっておかしくない。
 でも、いくらそれが自分の好きなものだからって、馬刺しを描く女子高生はきっとあんまりいない。別に華の女子高生が馬刺しを好きだってなにもおかしくないですが、作中でも「うちのお父さんも華の女子高生と同じ好物で嬉しいって言ってたよ」とあるように、世間的にはアダルティな方々が好む食べ物。「自分の好きなもの」をテーマに描いたときにそれを選べば、華も恥じらう華の女子高生とて「全学年に馬刺しの人だと認知される」事態になってしまうのもむべなるかな。
 そう、梅野かえではいまや「馬刺しの人」になりました。

 でも、それが最優秀賞に選ばれる絵になるくらいの「好き」が生み出すものは、そんな周囲の評判だけではありません。一人の男に食欲を湧き起こすこともできるのです。
 子供の頃に母親の絶望的な手料理を食べさせられたことから超絶偏食家になってしまった同級生の竹内聡巳。弁当の中身が白米とたくあんだけというくらいに偏食家の彼は、他の食べ物を口にすると即座にもどしてしまうレベルなのですが、校内に飾られた彼女の馬刺しの絵を見て「初めてお腹が鳴」り、「初めて食べ物を食べたいと思」い、お米とたくあん以外のものを「初めて食べることができた」のです。
 だから竹内は梅野に頼み込みました。「偏食を克服したい 助けてくれないか」と。
 自分の馬刺しの絵にそんな力はない、と梅野は固辞しようとしますが、竹内は「あの馬刺しは梅野さんの力強い色使い 食欲ををそそるアングルのセンス! 梅野さんにしか描けない絵の魅力があるんだ!と熱弁します。「梅野さんの絵は唯一無二の力があると思うんだ 本当に素敵だ」と。

 こうして、プロポーズにすら似た熱烈なラブコールに折れた梅野は、竹内のためにまずはハンバーグの絵を描くことに……と物語は進んでいくのですが、この作品にずっと伏流しているのは、「好きなものだから生まれる魅力がある」ということです。
 象徴的なのはもちろん梅野の描いた馬刺しの絵。絵が好きで、馬刺しも好きな彼女が描いた馬刺しの絵は、公募展で生まれて初めての最優秀賞をもたらしましたし、それだけでなく、一人の男の偏食すら治すという力までありました。全校生徒が即座に精肉店に駆け込んだわけではないので、見た人にその絵がどういう形で届くかは千差万別ですが、偏食に悩む竹内の腹を鳴らすくらいには、彼に刺さったのです。
 偏食家でありながら料理が好きな竹内が作ったカツ丼は、味見をしてないにもかかわらず、彼の家族のみならず梅野にも刺さりました。「なんか新鮮で不思議な感じ 竹内くんがごはん食べられて笑顔になる気持ち分かるかも」と、今まで食べたカツ丼とは違うと評しています。
 そして、梅野が第5話で描きあげた絵が竹内に何をもたらしたかは、ぜひ本編を見て確認してほしいです。
 ただやっているのではなく、好きなこと(もの)を好きだからするというその気持ち。それが生み出す力を肯定的に描いています。

 また、この作品では、好きなもの(こと)を自分で好きになりきれないというコンプレックスが見え隠れします。
 梅野は絵を描くことが好きだけど、自分よりずっと絵が上手い姉がいるおかげで、それを堂々と表明することに後ろめたさを感じていました。
 竹内は料理が好きだけど、偏食家の自分ではそれを味見できないことが「夢さえも潰れる」ほどの悩みでした。
 で、その悩みの解決方法、というか、そもそも自分がそれを好きであるという根源に、「周りが自分がそれ(絵を描く、料理を作る)をすることに喜んでくれる」という外発的な理由を肯定的に描いているのが印象的です。
 自分の好きなことを語るときはしばしば、他の誰が言おうと自分が楽しいから、という内発的な理由こそがよしとされます。そうじゃないと続かないぞ、みたいな。
 それもわかりますし、この作品でもその点を否定していませんが、

「次回作楽しみにしてる」
そんなこと言われたら
次はイカの塩辛とか描きたくなっちゃうな
(53p)

姉ちゃんみたいに親に褒められたいからやり続けてた
いや違うな
姉ちゃんと少しでも仲良くなりたかったから
初めはその一心だった
(126p)

はあ? そんなの楽しいからにきまってるじゃん
私の絵を見た人の反応を見るのが好きなだけ
(128p)

 と、他人の目や言葉を意識した動機付けを屈託なく描いています。
 でも、実際そうですよね。やってて自分で楽しくないことは続かないけど、自分が楽しいだけで続けられるほど強い人間はそういません。他人から褒められて、評価されて、次も期待してるよなんて言われて、そういう自分をアゲてくれるニトロが適宜供給されることで、なにか発表するような行為は続けられるのです。そこらへん、正直でいいな、と。

 まさに、作者が絵を描くのが好きだし、食べること好きだし、人から評価されるのも好き!と己の好きを詰め込んだような作品と言えるでしょう。顔のふくよかさが様々な面で描写される割に作中では一切触れられず、エピローグの卒業数年後ではしれっとスッキリしてるあたり、そこらへんにも作者の隙があるのでしょうか。とりあえず、馬刺しは食べたくなりました。
 1巻完結のおすすめ漫画です。
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『ヤンキー君と科学ごはん』「当たり前」に隠された理屈の面白さの話

 現在「となりのヤングジャンプ」で連載中の『ヤンキー君と科学ごはん』。今まで特に触れてきてませんが、現在連載中で既刊5巻以内のおすすめ作品を問われたら、五指に入るくらいには好きなんですよね。

 双子の弟妹と暮らすヤンキー高校生が、単位のために、そしてなにより弟妹においしいご飯を食べさせてあげるために、化学の補習の一環として、ダウナー系化学教師とともに科学的知見に基づいた料理を作ろう、という作品。一昔前だったらなあなあにされていたであろう「双子の弟妹と暮らす」の部分を、きちんと「ヤングケアラー」として前景化したり、教える化学教師にもそのどこか捨て鉢なダウナーさに背景を与えていたりと、物語部分でも面白いところがあるのですが、私がこの作品で好きなのは、「科学的知見に基づいた料理」の部分なんです。

 たいていの料理漫画の調理パートは、料理のレシピと、作り方を実際に絵で描くことでわかりやすくするというのがせいぜいで、「なぜこの順番で調味料を入れるのか」、「なぜ沸騰させてはいけないのか」、「なぜこの時間加熱しなければいけないのか」というwhyの部分に焦点を与えることはまずありません。普通に考えれば作中にそんな話を挿入すれば冗長ですし、そんなこと知らなくてもレシピ通りにすれば作れますし、なによりwhyを解明するのはすこぶる面倒臭い。
 でも、この作品はあえてそこをメインに据えます。
 そして、その科学的知見に基づくと、今まで自分でなんとなくやっていた調理法がよろしくなかったことを知れ、それがたいそう面白い。

 たとえばお肉の炒め方。
 肉野菜炒めくらい誰しも作ったことはあると思いますが、あれ、まず肉を炒めるときに、パンを熱して油を敷いて、肉を投入したら鍋肌にくっつかないようすぐに菜箸等でかきまわしちゃってません? 実はそれ、科学的には間違いなんです。
 いわく、フライパンの表面には吸着水と呼ばれる水があり、それが食材のタンパク質と80度ほどで結合してしまう、すなわち鍋肌と食材がくっついてしまうのだとか。だから、食材を入れても鍋肌が80度以下にならぬよう、重ならないように肉を入れたら動かさず、鍋肌に接している面に火が通るまで待つべきなのです。むやみに動かすと肉表面の水分が蒸発して、気化熱で温度が下がるし、表面が80度以下で十分に油が付着していない部分が鍋に触れてくっついてしまいます。
 最近はテフロン加工のフライパンが一般的ですからそうそう焦げ付きませんが、10年以上鉄鍋を使ってる私はこれを読んで実践したところ、本当に肉が鍋肌にへばりつかなくてびっくり。

 また、特にニンジンなどをゆでる際、柔らかくするためじっくり火が通るよう弱火で水からゆでたらかえって硬くなってしまった、という経験を持つ人もいるでしょうが、これも科学的に説明ができます。
 多くの野菜に含まれるペクチンという成分は、50~80度、特に60~70度の温度帯で、酵素などの働きにより変性し、硬くなってしまうのです。ですから、ニンジンを弱火でゆでることでこの温度帯に長時間とどまると、硬化したペクチンのせいでカッチカチになってしまいます。逆に、もともとあまり硬くないもやしなどは、この温度帯である程度熱を通すことで、炒めた時にシャキシャキにすることができます(実際、野菜を下茹でして作る野菜炒めが作中に登場します)。

 このような、なんとなくやってきたことの中にある理屈を知ることが好きな人って、一定数いると思うんですよ。科学的な理屈だけでなく、たとえばピカソキュビズムや現代美術がどういう文脈で評価されるのかといった、文化史的な理屈もそうですけど、それが料理のような身近なものだと、その楽しさはひとしおなんですよね。世界の表面から「当たり前」や「常識」の皮を一枚むけば、こんなにも緻密に不思議で織りなされているのかと気づかされるのです。

 ということで、ただの料理好きでなく、「なぜ調理でこの過程を踏むのか」ということについ疑問を持ってしまうようなタイプによりお勧めな漫画です。

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アニメ『ワンダンス』に期待する「見てて気持ちのいい」ダンスの話

 アフタヌーンで連載中の『ワンダンス』がアニメ化という報が飛び込んできた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
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 本作は、自身の吃音もあってコミュニケーションに自信のなかったカボこと小谷花木が、高校に入学し、ストリートダンスを踊る同級生のワンダこと湾田光莉に惹かれてダンス部に入る、というところから始まる物語。生来の悩みを抱えるカボが何度もクローズアップされるように、青春を生きる高校生の心のモヤモヤや葛藤を描く漫画でもありますが、なによりかによりダンスの物語です。カボやワンダが躍るダンスがいかに人の心を惹きつけるのか。音のない漫画というメディアでそれをどう描くかという点は、作中でも色々と試行錯誤が見て取れます。

 というところで、私が本作のアニメ化で最も気になる点は、人を惹きつけるダンスシーンをどのように描くか、です。
 もっと言えば、見てて気持ちのいいダンスをどう描くのか。
 『ワンダンス』は、カボやワンダがハマった時にくりだすダンスが、読んでいるこちらがシンクロして感じられるように描写されるので、読んでて快感、気持ちいいのです。
 不思議ですよね。漫画から音は聞こえないのに、彼や彼女が狙ったリズムのアクセントは確かに伝わってくるんですから。読みながら自分もそのリズムにのっていて、同じように身体が跳ねる。
 私の好きなジャズでも、ライブでアドリブをしているプレイヤーのキメが他のリズムセクションとぴたりとハマると、身震いするほどの快感があります。演奏にのめりこみ、あたかも私も一緒にキメをしたかのように身体がびくりと動く。その痙攣的な動きがなんとも気持ちがいい。演奏を聴いてシンクロする気持ちよさは非常に身体的なものですが、『ワンダンス』には同様のものがあります。

 作者の珈琲先生は、アニメ化を受けて出したコメントの中で、こんなことを言っています。

漫画は音が出ないし動きもしない。
その代わり、実際のダンスや音楽には無い別の長所がある。
それは「読者の想像力の中で動きや音を補完してもらえる」という点。
場合によってはそれは実際に観たり聴いたりするよりも感動を覚えるかもしれない。
(後略)
『ワンダンス』アニメ化決定。フリースタイルなダンス表現挑む少年少女の青春漫画。制作はマッドハウスとサイクロングラフィックスで2025年放送 | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

 漫画は音が出ない。動きもしない。つまり、時間がありません。逆に言えば、音も動きもあるアニメには、時間がある。
 時間については先日書いた『THE FIRST SLAM DUNK』の話でも触れましたが
時間軸とシームレス 時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界の話 - ポンコツ山田.com
漫画のコマとアニメのカット 時間のブランクとそれを削ぎ落した『THE FIRST SLAM DUNK』の話 - ポンコツ山田.com
漫画は読み手が好きなタイミングでページをめくれるため、紙の上で動いている動作や鳴っている音は読み手の好きなように、読み手が気持ちいと思えるように動かしたり鳴らすことができます(そして作り手は、読み手が素直にそう思えるように、すなわち「読者の想像力の中で動きや音を補完してもらえる」ように描写を工夫します)。
 翻って映像作品であるアニメは、時間感覚の主導権を作品側が強く握っているため、それを見ている視聴者は気持ちよくなるために「動きや音を補完」することはできません。気持ちよくなる部分は現に描かれなくてはいけないからです。


 では、それはなぜか。なぜそういう部分がちゃんと描かれなくてはいけないのか。
 そこで、見てて気持ちのいいダンスとは何かを考えてみましょう。
 逆の話で、見てて気持ちのよくないダンスのことを、作中では「見てるとムズムズする」と表現しています(1巻 155p)。そのムズムズの正体は「早取り」。すなわち、「リズムに対して先走る」ということ。
 音楽にのって踊るダンスにおいて、キメになるような音(リズム)が鳴るよりも先にそれに合わせようとした動きをすると、違和感を覚えてしまうというのです。作中で上手いとされるワンダと部長のオンちゃんは、他の部員と違い「ほんのわずかに音が「鳴ってから」動いている」くらいなのですね。
 つまり、見てて気持ちのいい動きとは、動きと音(リズム)が一致していること(なんならほんのわずかに動きの方が遅いこと)。せっかくアニメという動きも音もあるメディアなのに、動きと音が一致しているシーンを描かないでそこを視聴者の想像での補完に任せようとしたら、ただの手抜きにしか見えないでしょう。動きと音の一致を描かずして、見てて気持ちいいダンスは描けますまい。

 ただ、現実のダンスとは違って、ある程度デジタルに調整の利くアニメですから、単に動きと音を一致させるだけならさほど難しいものでもないでしょう。大事なのは、それらを一致させたうえで、どんな気持ちよさを生み出せるのか。
 たとえば漫画では、空間で何かが破裂したような効果線(漫符)や、楽器が鳴っている絵を描くことで音のアクセントを表現したりしていますが、『THE FIRST~』でスローと加速をシームレスにつないだプレイで視聴者の心を惹きつけたように、時間の緩急で緊張と解放、すなわち気持ちよさを生み出すこともできるでしょう。無音・微音をしばらく維持してからのビートの利いたダンスミュージックといった、音声面でのカタルシスもあるでしょう。
 珈琲先生が上のコメントの引用元で言った「実験性、即興性をもってケレン味たっぷりに遊んでいただき、想像してなかったような映像」を、まさに期待するものです。
 
 ダンスを見てての気持ちよさ。この作品にはなによりそれがほしいなと思います。

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漫画のコマとアニメのカット 時間のブランクとそれを削ぎ落した『THE FIRST SLAM DUNK』の話

 先日『THE FIRST SLAM DUNK』の記事(時間軸とシームレス 時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界の話 - ポンコツ山田.com)を書いたときに、アニメのカットの時間の流れ方について色々考えましたが、それを漫画のコマと比してみたらどうだろうとふと思いました。

漫画のコマの時間とコマとコマの間の時間

 現代の漫画は基本的に、一つのコマに絵を描き、それを複数並べることで物語(時間)の流れを生み出します。
 たとえばこの画像。

(逃げ上手の若君 1巻 p13)
 画像内の3枚のコマにはそれぞれ逃げ回る北条時行(の残像)が描かれているところ、コマ一つだけでは、ただ誰かから逃げてる絵でしかないものが、右上→右下→左と読み進めることで、時行が三人の人間から逃げ回っていることが読み取れます。三人から逃げ「回って」いる時間の流れを、読み手は無意識の裡に了解しているのです。

コマで経過した時間の合計と、作中で実際に経過した時間のズレ

 各コマの中では、そのコマの中で逃げている分の作中時間しか流れていません。1コマ目では清子の抱擁から「あ…」と言いながらするっとすり抜けるだけの時間。2コマ目では「明日にしましょうっ」と言いながら二人の武芸指南役の間をするするっと逃れるだけの時間。3コマ目は「今日は… 体調が悪いのでっ…」と言い訳をしながらなおも指南役の手をするるっと避けるだけの時間。
 たとえばここで、1コマ目で流れた時間を1秒、2コマ目を2秒、3コマ目を3秒と仮定します。ならばこの3コマで流れた時間が6秒、すなわち3コマで流れた時間の単純な合計かというと、そうではないでしょう。1コマ目で清子の手からすり抜けた時行は、コマから消えた動きそのままに2コマ目の指南役二人の間を縫ったわけではないでしょうし、2コマ目で二人の身体から時行が離れている以上、3コマ目で彼らの手が迫るまでにいくばくかの時間が経過しているはずです。

 このように、漫画の作中全体での時間の経過は、各コマ内の時間の経過とは一致しません。コマの間には、前後の文脈から不自然でない程度の時間のブランクが必ず存在しているのです*1。このブランクというのも単純に間が空いている(=時間が跳んでいる)というだけでなく、同じ瞬間に発生した出来事を複数のコマで描くなど(あるプレーに驚いている瞬間のキャラクターが複数のコマで描かれたりとか)、コマ同士で時間が重複することもあります。
 それでも、そんなことは無意識の裡に無視して私たちは漫画を読んでいます。時間が跳んだり、重なったりしても、気にせず読めるのです(というより、気にすることのないように作り手は描いているのでしょう。それがきっと漫画の技術の一つ)。
 いえ、無視する、というよりは補完でしょうか。その隙間に何があったか、詳細に、具体的にまでは考えずとも、その流れを阻害しない行動(上の例でいえば、逃げ続ける時行や追いかける他のキャラクター)をコマの隙間へ無意識のままに流し込み、物語(時間)の流れを無矛盾なものにしているのです。

コマとカットの間に存在する時間的ブランク

 そもそも漫画が、動画や音楽などのような、それを鑑賞(意味内容を認識・解釈)するために各作品に固有の時間(の流れ)を必要とする表現物と違い*2、鑑賞に要する時間が受け手に非常に強く委ねられている絵(静止画)という表現物で構成された作品ですから、時間の連続的な流れ自体が原理的に存在しえないと言えるでしょう。コマとコマの間は、そこでコマが分かれている以上時間の流れが一旦停止し、大きくか小さくか歩幅の差はあれ、時間が跳んでいるのです。

 で、このコマ間に存在する時間のブランクは、アニメ(に限らず映像作品)のカット間の時間のブランクと同種のものだと思ったんですよね。従来のアニメは、漫画のコマ間に時間のブランクがあることを当然とみなしたように、カット間に時間のブランクがあることを前提としてシーンを構成します。漫画とアニメには無時間メディアと有時間メディアという断絶的ともいえるほどの差があるにもかかわらず、その点で非常に相似的なのです。

濃密な時間描写へのアプローチの違い 漫画『SLAM DUNK』と映画『THE FIRST SLAM DUNK

 ここで話を『SLAM DUNK』に移すと、原作漫画も、特に山王の逆転から湘北の再々逆転までのラスト8秒は非常に濃密に描かれていましたが、漫画では無音にする(音声を書かない)ことで、瞬間瞬間の濃密さと緊張感(とそれが解放されたときのカタルシス)を表現していました(「SLAM DUNK」に見る、無音の緊張感 - ポンコツ山田.com)。
 既に述べたように、漫画のコマ間の時間的ブランクは絶対に避けられないものですが、それを逆手にとって、音声を書かないことでコマ内に時間を流さず、コマの瞬間の長さを限界まで切り詰め(時間の経過をゼロに近づけ)、その1コマ1コマの濃密さと緊張感でもって読者の意識を引き込みました。

 それが映画『THE FIRST SLAM DUNK』では、前の記事で書いたように、同作ではいくつかのキメシーンで、そのブランクを徹底的に削ります。

山王ゴールを向かって桜木が走り出した瞬間から、桜木のシュートがリングを通るまで、試合の中で起こった8秒は、スローになったり速くなったり、現実時間のおよそ1分30秒にまで伸び縮みします。 1分半の間、時間軸上の点Pは、緩急をつけながらも止まったり跳んだり戻ったりすることはほぼないまま動き続け*2、点Pが通り抜け続けるカット群は、目まぐるしく切り替わりながらもその間に継ぎ目を作らず、シームレスに時間は流れていきます。

時間軸とシームレス 時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界の話 - ポンコツ山田.com

 カットは変わる。でも、その継ぎ目をなくす。カットの最後に映ったボールは時間的連続性をほとんど保ったまま次のカットでも動いており、選手たちも各カットの合計で経過している時間にしていたはずの動きをそのまましている。
 上でコマとコマ(カットとカット)の間を私たちは想像して補完していると書きましたが、いってみれば『THE FIRST~』は、その補完を許しません。想像なんか、補完なんかさせずに、そこで起こったことを起こったまま、わずか8秒が1分30秒にまで引き延ばして感じられるあの世界を、1分30秒のまま毀損を許さずに、視聴者に目の当たりにさせようとする。まるでその試合会場に視聴者もいあわせたかのように。
 ブランクを当然のものとするというこれまでの漫画的、アニメ的前提から外れたところに、『THE FIRST~』のメルクマールがあると言えるでしょう。

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一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

*1:もちろんそのブランクは、コンマ以下の限りなく小さいケースから、時間単位、日単位それ以上と大きなケースまで様々ですが

*2:30分のアニメ作品を鑑賞するには30分の時間が必要です。たとえば1.2倍速の時短で鑑賞するにしても25分かかりますし、これくらいならギリかもしれませんが、15分で(2倍速で)視聴したらさすがに意味内容や細かいニュアンスの認識・解釈に支障が出るでしょう。逆に(そうそういないと思うけど)1/2倍速で30分の作品を60分で視聴したら、やはり作り手が意図したものとは大きく乖離したものになるでしょう。「各作品に固有の時間(の流れ)を必要とする」とはそういう意味です。

時間軸とシームレス 時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界の話

 2022年の公開から今になってようやくNetflixで視聴した『THE FIRST SLAM DUNK』。
 なぜ今になって観たかと言えば、先月ブログで『逃げ上手の若君』のアニメと漫画での情報量と時間の話を書いたとき、その観点に絡めて2008年に私が書いた『SLAM DUNK』の記事(「SLAM DUNK」に見る、無音の緊張感 - ポンコツ山田.com)を引きつつ視聴を勧めてくれた方がBlueskyでいまして、また、映画公開当時見ていたリアル友人から、作品内での時間感覚に特徴的なものを感じたという感想を聞いていたことを思い出し、それならいっちょお盆休みの暇な時間に見てみようかと思っていたわけです。

 で、視聴してみてなるほど、Blueskyでは映像史において『THE FIRST~』以前以後で分けられるくらいエポックメイキングな出来だったという話を聞いていたのですが、それに頷けるくらいに、映像作品の時間表現において特徴的なものがあり、その特徴によって生み出される時間感覚と映画への没入感は特異なものでした。
 一回の視聴ではその特異さを感じつつ何に由来するのかわからなかったものの、配信作品の強みで何度か見返したところ、これかなというものが見つかったので、以下、まとめてみようと思います。

時間の描き方の二つの特徴

 まずは、端的にその特徴を言い表してみましょう。
 それは、本作の試合を描いている場面において、一まとまりのシーンの中で時間の流れが跳ばず止まらず、シームレスに流れることです。
 別の言い方をすれば、明確な一本の時間軸があり、そこにすべてのキャラクターが属しているということです。

 さて、ではそれを具体的に説明していきましょう。観点として、一つのカット内の描写と、複数のカットにまたがる描写に分けて考えてみます*1

同じ画面の中で動いて、同じ時間軸に属するキャラクターたち(と私たち)

 まずは、あるシーンの中での一つのカットに着目してみます。
 多くのアニメでは、一つのカット内に複数のキャラクターが映っている場合、あるキャラクターが動いている(発話している)と、それ以外のキャラクターは動いていないか、不自然に少ない動きしかしないことがしばしばです。これが作画上のコストカットのためなのか、あるいはセル画か3Dかのように作り方に由来するものなのかはわかりませんが、このような作品が圧倒的に多いので、私たちはそのようなカットを見ても特段おかしくは思いません。現実には、誰かが動いたりしたりしているときに他の人が微動だにしなかったり、誰もしゃべらないなんてことはないのに、そういうものだと思って観ています。

 でも、『THE FIRST~』は違う。宮城がカットインをするときは他のプレイヤーもそれに合わせて動いているし、三井が棒立ちで荒い息をついているときも他のプレイヤーの靴底が床をこする音がする。桜木が何度もリング下で跳び上がりながら同時に「リバウンド!」と声がかけられている。このような、カット内にいるキャラクターが同時に、意味のある別個の動きや発話をしている描写というのは、実は案外少ないんじゃないかと思うのです。

 で、これが先に書いた「時間軸」という観点につながります。あるカットの中で、一人のキャラクターだけが動いて他のキャラクターが(現実で考えれば動いているはずなのに)動かない、あるいは不自然に少ない動きしかしないというのは、ある時間軸に一人のキャラクターだけが属していて、他のキャラクターは外れている、と言えます。つまりメインとなる時間軸から外れたキャラクターは、ある一瞬に固定されたり、不自然に反復的な動きを繰り返してしまっているのです。

 また、カット内に同時に描かれていなくても、描かれてなくても存在しているはずのキャラクターが、描かれているカットでの時間の流れから無視されることは非常によく起こります(起こらない方が稀です)。
 たとえば、テレビアニメ放送時の『SLAM DUNK』。
 試合中にあるキャラクターがしゃべりながらドリブルをしているカットは、その描写から推測されるドリブルのスピードとそのカットの時間を考えると、おまえ一体どこまで走ってくねん他の奴らなにそれを黙って見てんねんと半畳を入れたくなるシーンが散見されました(『キャプテン翼』などでもよく揶揄されますが)。

 あれなどは、ドリブルをしているキャラクターだけにそのカット特有の時間が流れており(カット固有の時間軸に一人で属しており)、他のキャラクターはそこから一時的に零れ落ちてしまっているわけです。カメラから外れたところで彼らが黙って見ているというのは実はその通りで、時間軸から零れ落ちた彼らに時間は流れておらず、時間の流れない彼らが動けるわけがありません。その意味で、物語内の時間経過と、各キャラクターごとやカットごと、シーンごとで時間の帳尻があっていないのです。


 現実にはそんなことありえないのに、アニメは昔からそう描かれているから、そういうもんだと思い慣れている。でも、『THE FIRST~』ではカット内のキャラクターは主役脇役関係なく、試合の状況に応じた各々の振る舞いをして動いていて、その意味で、彼らは皆が共通の一本の時間軸に属し、同一の時間の流れの中で動いているのです。そして、それを見ている私たち受け手も、その同じ時間軸にいっしょにいるような錯覚を起こします。

カットの間をシームレスに流れる時間

 今度は、複数の連続するカットに着目します。
 たとえば、対沢北との1on1の中で、パスの選択肢を得た流川が赤城にパスを出し、ゴールを決めてワンスローを得た後のシーン(試合時間残り4:29)。

 外れたフリースローのリバウンドを桜木がとり、河田らに挟まれた桜木が宮城にパスを出し、宮城が流川にパスを出し、ゴール下に切り込んだ宮城に流川が再度パスを出し、河田弟を引き付けた宮城が赤城にパスを出して赤城がゴールを決めるという、現実時間でわずか10秒のシーンで5カットが目まぐるしく切り替わりますが、この各カット間のタイムラグがほぼゼロなんです。あったとしても(というか、現実にまったくラグなしというのは物理的に無理でしょうが)意識してもまるでわからない程度。
  言ってみれば、現実の10秒間を複数のカメラで10秒間撮ったものを足しも引きもせずに切れ目なくつなぎ合わせているということ。作中の経過時間と、各カット内で経過した時間の合計が等しいということです。

 これが先に書いた「時間の流れが跳ばず止まらず、シームレスに流れる」につながります。
 時間軸という考えにもつなげると、時間軸上を動く点Pは、(シーンごとに跳躍することはもちろんあるけど)一つのシーン内では緩急をつけつつも跳躍せずに(時間的ブランクを作らずに連続して)動き続けます。作中の経過時間軸上の点Pと、各カットをつなげた経過時間上の点P’は、動いた距離が等しいのです。
 このような、『THE FIRST~』の随所で見られる、複数カット間で経過した時間の合計と、実際に作品内で経過した時間が等しくなる(もちろん視聴者側の現実時間とは別です)描き方は、プレイの流れに切れ目を作らず、受け手に緊張感を与えてくれます。


 一般的なアニメ作品を考えてみますと、複数のカットをつなぎ合わせて一連のシーンを構成するという映像作品の都合上、カットごとに時間の流れが跳ぶ(連続的にならない)のは必然的に起こるものであり、それを私たちは問題なく許容しています。でも、いざそうでないもの、カットをまたいでも時間がシームレスに流れていく『THE FIRST~』でのシーンを目の当たりにすると、その表現方法の特異さにギョッとするのです。

 無料で配信されているスポーツアニメの競技シーンを試しに見てみてください。ほとんどすべてと言っていいと思うのですが、カットとカットの間には、たとえ一連の動作をつないでいるのであろうと、時間的につながっていません。ブランクがあります。あるいは、意図的に前後の連続性のない他のキャラクターのカットを挿入することで、時間の流れが断ち切られます。

 たとえば、あるプレイが描かれる複数のカットの合間に、それを見て驚いている別のキャラクターのカットが描かれるケースはしばしばありますが、このとき一連のカットには、時間の流れの連続性はありません。なぜなら、キャラクターが驚いている最中にもそのプレイは続いているはずですが、ほとんどの場合、驚きのカットの後は、またその前のカットから連続するプレイ、あるいは驚いた分の時間とは無関係の時間が経過しているプレイが描かれるからです。

カットA(プレイ)→カットB(驚きの表情)→カットA’(プレイの続き)

 となるときに、作中時間で経過しているはずの時間は、A+B+A’のカットで経過した時間よりも多いか少ないかになり、イコールにはなりません。コマ間で時間が途切れることなく流れるということがまずないのです。

時間の流れに連続性を与える音声

 なお、カット間をシームレスにつなげるために使われている手法として、単純に、カット間の動作を極力継ぎ目が分からなくなるようにつなげるというもの以外に、カットを越えてセリフなどの音声を流している、というものがあります。

 たとえば、パスの選択肢を増やした流川が沢北を抜いてゴールを決めた後(試合時間残り2:50 湘北8点ビハインド)の、流川を再び抜いた沢北が、桜木&赤城によってゴールを阻まれるシーン。ここで原作通り、「天才の作戦ズバリ的中!」と桜木のセリフがありますが、よーく見るとこのシーン、セリフが二つのカットにまたがっています。
 ある(音)声がとぎれずに聞こえるということは、それがまたがったカットがつながっていると、視覚的にではなく聴覚的に理解させてくれます。(音)声がつながってるんだからそこでは切れ目なく時間が流れている、と考えられるんですね。

時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界

 ということで、一つのカット内の描写と、複数のカットにまたがる描写で分けて、『THE FIRST SLAM DUNK』の時間表現に関する特徴について考えてみました。
 では、その二つを意識して作品を作るとどうなるのか。
 観ている私たちに、極めて強い臨場感、没入感、時間的な共同性が発生するのです。

 アニメという誰かが作為的に生み出した作り物ということを忘れ、まるで本当に存在するバスケの試合を描き出していると錯覚するような、強い臨場感。
 そこに生きて動いている人間がいるかのような、フィクションを離れた実在性。
 そして、たとえ画面越しでも、そんな彼らが試合をしている場にまさに居合わせていると思える同時性。
 私たちも画面の向こうの宮城たちと時間を共にしているかのような、同じ時間軸に属しているかのような気持ちになれるのです。

 これらを踏まえて、もう一度試合のラスト8秒、沢北の再逆転ゴールから桜木の再々逆転ゴールまでの流れを見てみると、いかに臨場感を崩さず、時間の流れを止めず、緊張感をギリギリまで高めて私たちの意識が試合に釘づけにされるのかに気づき、息をのむしかありません。
 山王ゴールを向かって桜木が走り出した瞬間から、桜木のシュートがリングを通るまで、試合の中で起こった8秒は、スローになったり速くなったり、現実時間のおよそ1分30秒にまで伸び縮みします。
 1分半の間、時間軸上の点Pは、緩急をつけながらも止まったり跳んだり戻ったりすることはほぼないまま動き続け*2、点Pが通り抜け続けるカット群は、目まぐるしく切り替わりながらもその間に継ぎ目を作らず、シームレスに時間は流れていきます。
 その、画面の向こう側のキャラクターもこちら側の私たちも同時に捕らえる一本の時間軸に、緩急をつけながらもシームレスに流れる時間の滑らかさに、私たち受け手はすっかり巻き込まれ、まるで時間の感覚を操られていたかのようにすら思えるのです。

 本の時間軸の上での、緩急があるのにシームレスな時間の流れ。
 これが『THE FIRST SLAM DUNK』を観ていて感じる特異な時間感覚の要諦ではないでしょうか。


 ちょうど8/13の今日から全国で復活上映をするようですが、映画館視聴でも配信視聴でも、こんな点に気をつけてみてみると、また違った感動が味わえるかもしれませんよというお話でした。

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*1:ここでいうカットは、カメラ(フィルム)がある映像を映し始めてからそれが切り替わるまでの、ひとつながりの映像を意味しています。そして、シーンとは一つあるいは複数以上のカットを組み合わせてつくられる物語上の一まとまりです。文章で例えればカットを文、シーンを段落でイメージしてもらうと近いかもしれません。

*2:正確に言えば、桜木がジャンプシュートを打ったときと、そのシュートでボールがリングを通り抜けネットを揺らしたときの2シーンは、別カメラでの2種類の映像が流れており、時間が巻き戻っています。そこはない方がよかった、絶対よかった……!!