ポンコツ山田.com

漫画の話です。

●●●●●にある何か それを追って彼は 私は 『近畿地方のある場所について』の話

 ●●●●●。それは近畿地方のとある山を中心とした一体を指す地名です。そこにはいくつかの心霊スポットが存在しているが、どうやら調べてみると、未解決の行方不明事件や学生の集団ヒステリー事件、YouTuberの奇妙な放送事故、異常な子供の遊びなど、不可解な出来事が多く発生しているんです。それらについて僕は深掘りしてみたいんですよ——
 そう言い残して、友人である編集者の小沢君は失踪してしまいました。彼の行方を探るために、私は●●●●●にまつわる事件を集めてこうして発表しているのです。彼の情報をお持ちの方は、どうかご一報ください……
                               お山にきませんか

 ということで、背筋先生原作、碓井ツカサ先生作画のホラー、『近畿地方のある場所について』のレビューです。
 もともとは、背筋先生が小説投稿サイト・カクヨムで連載していた同名のモキュメンタリー作品ですが、発表後しばらくして波が立つように評判に。約3か月の連載の後には単行本化もして、この度、晴れて漫画化もされました。

 上記のとおり、元々は、失踪した友人・小沢君の情報を集めるため、彼が追っていた●●●●●にまつわる事件や怪談、噂話などをアップしていくという体裁の連作掌編で、一見何のつながりもなさそうな行方不明事件や集団ヒステリー、子供の異常な遊びなどが、どうやら●●●●●という地域で起こっていることがわかり、その事件の中の要素をよくよく検討してみると、発生地域以外にもいくつかの共通点が見えてきて、はたして●●●●●には何があるのか、そして小沢君はどこへ行ってしまったのか……というのが仄見えてくる構造になっています。

 ネット連載では、雑誌やネットの書きこみなど様々な媒体から収集した話と、著者による一人称視点での話を一話ずつアップしていくという形式も相まって、ひょっとして本当のことでは? と思わせる、虚実の境が淡くなる素晴らしいモキュメンタリーでしたが、それを漫画という形式、しかも単行本で読むと、現実の中に不可解さが侵入してくるというモキュメンタリー的な恐怖が減じてしまうのは否めません。どうしても作品としての「作り物」感が出てしまいます。

 ですが、絵には力があります。直截的に生理的嫌悪感をもたらす、強い力が。
 ネット連載では当然文章のみ(ごくまれに、作品の一部として参考画像もアップされていましたが)ですから、そこで描写されているものの姿かたちの言葉以上のところは読者の想像に委ねられています。想像の中では、怪異は歯止めが利かないほど恐ろしいものにもなれば、想像力が追い付かずふんわりとした「なんか怖そうなもの」でしかなかったりしますが、漫画化された本作は、怪異に十分な怖さを与えています。読み手が想像する怪異は、時として漠然とその全体像の身を思い浮かべますが、漫画化の描くそれは、現れるときの画角など、構図も含めて存在しており、読者が想像していなかった形で怪異の容貌を現わせしめるのです。
 読者が想像していなかったと言えば、たとえば行方不明になった少女の顔など、そこはそんな恐ろしいものと想像してはいなかっただろうというところにも、恐怖や嫌悪を掻き立てるような描写をぶち込んできてくれます。やってくれるぜ。
 ですので、原作未読者はもちろん既読者でも、またネット連載でのそれとはまた別種の作品として楽しめるでしょう。私は楽しいぞ。
【第1話】近畿地方のある場所について
 よければカクヨムも。こちらは完結まで全部読めます。もちろん漫画版のバチクソネタバレになりますが。
kakuyomu.jp
 余談ですが、原作の好きな点の一つはその多様な文体です。各話は収集元によって文体が変えられ、特に三流雑誌や匿名のネット書き込みを収集元にする話は、俗っぽさを強く残しながら読み物として成立する絶妙な文体であり、その軽薄さがかえって、誰もが軽んじる俗の薄っぺらい皮膜の向こうにいる異常な異形を際立たせていました。俗で雑な文章のニュアンスは残しつつも、その実リーダーフレンドネスを失わない読みやすさは、恐怖とは別の次元で感心しましたよ。

                               かきもあります

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『逃げ上手の若君』アニメでわかる、漫画にこめられた濃密な情報量の話

 『逃げ上手の若君』のアニメが始まり、連載デビュー作から3作全てがアニメ化という偉業をあっさり成し遂げている松井優征先生、やっばいすね。

 そのアニメを視聴したのですが、1話を見た感想は「丁寧に作っているな」というもの。なんというか、動きやセリフに余白というか間(ま)を感じました。で、その後に原作1話を読んでびっくりしたのは、情報量が濃密だということ。コマの中の絵の密度だったり、セリフ量だったり、展開の速さだったりと、1話50p強を読んでこんなに疲れるものかと思いました。そんな情報量の話をアニメ1話分でやったのだから、余白や間を感じるというものです。

 さて、その情報量、すなわち漫画だからこそ詰め込める情報の密度にもう少し着目してみましょう。
 たとえば、時行が諏訪重行と初めて会うこのシーン。

(逃げ上手の若君 第1話 19p)
 暑苦しいまでの絵の密度もさることながら、

「噂通りの逃げ上手でございますな!!」
「わーっ」
「お初にお目にかかります時行様! 信濃国の神官諏訪頼重と申しまする!!」

 この掛け合いを実際に演技しつつ読み上げてみる(脳内でも可)と分かるように、時行が聞き取れる程度のスピードと十分な間でもって、相手の反応を見ながら頼重のセリフを言おうとすると、思った以上に時間がかかります。漫画(絵)であれば、現に読み上げる以上の速さで読み進められる分量でも、アニメ(音声を含む動画)では、それを現に口にするだけの時間が必ず必要になるのです。

(同上 22p)
 このシーンも、頼重がゴニョゴニョブツブツ呟いてるセリフは、漫画ではその文字の多さ・フォントの小ささも考えれば、読み流し前提のギャグとして書いていることがわかりますが、アニメではちゃんと口にしなければなりません。そこそこ時間がかかる。

 たとえば、稽古を嫌がる時行が指南役から逃げるシーン。

(同上 10p)
 追いすがる手をかいくぐるこのシーン、つまり空間内を三次元的に大きく動き回るシーンを、漫画では効果線を使うことで、1つのコマだけでも「そのような動きをしている」と思わせることができますが、アニメではなまじ絵を動かせるので、時行の逃げ上手を表すため、ひょいひょい逃げ回る彼をその逃げている分の時間を使って表現しています(実際アニメでは、屋根の上を走り回ったり飛び降りたりと、時行は原作以上に縦横無尽に逃げ回ります)。
 頼重が時行を崖から蹴り落した「では死になされ」のシーンや、2話での伯父・五大院との「鬼ごっこ」のシーンも、非常に贅沢に時行を動かしていますね。

 このような、文字で書かれるセリフ、効果線や残像などの漫画表現で表される動作は漫画特有のもので(もちろんアニメでも類似の表現はできますが、使用は限定的になります)、無時間メディアである漫画には、限られたコマの中に現実以上の情報、すなわち音声や動作などの時間の流れを大いにぶち込むことができるのです。
 そして、時間の流れをぎゅっと圧縮して作られた漫画の『逃げ若』を、丁寧に解凍して元の時間に戻しているから、アニメの『逃げ若』には丁寧な余白や間を感じたのでしょう。

 また、実際に時間が流れることで生まれるリアリティとして、時行の兄・邦時が斬首されて首が地面に落ちるシーンは、漫画では感じなかったグロテスクな生々しさがありました。血と舞いながら首が胴から離れ、ごとりと鈍い音を立てて地面にぶつかる生首。想像力だけではブレーキをかけてしまう残虐なシーンも、動いて音がするとそこに「落ちた首」というリアルがまざまざと見せつけられ、一瞬肝が冷えました。

 改めて漫画『逃げ若』(というか、松井優征作品か?)の特徴に気づかされたアニメですが、原作の良さをアニメに還元して作っているなという思いです。

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『だんドーン』「呪術師」吉田松陰と受け継がれる呪いの話

 先週発売された2024年32号のモーニングに掲載された、泰三子先生の『だんドーン』の番外編、「番外長州編 松の下の若人たち」。長州にて松下村塾を開き、志士たちの師として明治維新に大きな影響を与えた吉田松陰と、その弟子の桂小五郎を主人公に描いた話です。

 歴史で幕末を習えば確実に名前が出てくる吉田松陰。上記の通り、松下村塾を開いて志士の精神的指導者となったことや、安政の大獄によって刑死したことくらいまでは学校の授業で習いますが、それ以上を知るにはもっと突っ込んだ本を読んだりせねばならず、恥ずかしながら私は今回の話を読んで、吉田松陰がこんなアナーキーなマネをしていたことを初めて知りました。
 友人との待ち合わせに遅れるからと脱藩したり、ロシアの船に密航しようとしたり(ロシア船の予定が狂って早くに出港してしまったため乗船できず)、アメリカの船に密航しようとしたり(乗船までしてアメリカに連れて行ってくれるよう船員に直談判するも断られ下ろされる)、言わなくていい間部詮勝の暗殺計画をゲロって死刑になったり。えぇ…何この人……。
 教科書的な記述しか知らない歴史上の人物が物語になると、その人がかかわった出来事はどのような理念に基づいてなされたのかや、どのような人とつながりがあったのかなどが知れ、言葉だけの人物ではなく、歴史の中に確かに存在した血肉を持つ人間として見えてきて、フィクションという前提は意識する必要はありますが、面白いですよね。ホットなところで言うと、アニメ化した『逃げ上手の若君』の北条時行なんかもそうですが。

 で、そんな血肉も理念もある吉田松陰が、コメディでと残酷さと冷酷さが同居する泰三子先生らしい筆致で描かれていて、たいそう面白うございました。明治維新の原動力の一つとなった長州藩の志士の師として彼がどういう存在であったのか、フィクションゆえの誇張や省略ももちろんあるでしょうが、不安定でそれゆえに魅力的である人物として造形されています。

 その中でもっとも印象的だったのは、最終ページでの桂の独白です。刑死直前の吉田が「必ず一人の時に読んでほしい」と自分に宛ててしたためた手紙を読んだ桂は、師との思い出と言葉が心の中で溢れかえり、こう思うのです。

(モーニング 2024年32号電子版 230p)
 呪。
 師から自身が死んだ後の日本の行く末を託された弟子が抱く思いとしては、いっそ不釣り合いな言葉です。でも、桂にとって吉田の言葉は、まさしく呪いだったのです。
 言葉の呪いについては、以前『3月のライオン』を読んでこんなことを書きました。
yamada10-07.hateblo.jp
 すなわち、「時として、言う側の意図とはまったく別の形で言われた側を縛るもの。それが言葉。それが呪」です。いわば吉田松陰は、類稀なる才知の言によって若人を縛った、しかも「言う側の意図とはまったく別の形」ではなく、自身の意図どおりに縛った、稀代の呪術師だと言えるでしょう。

 吉田は若くして藩主に才を認められ、広く弟子を取りましたが、その講義に初めて出た桂が抱いた感想は「教える方も教わる側も この教室の中にいる人間はみな楽しそうだ」というものでした。
 そして、桂の思う吉田の元に弟子が集う理由は以下の通りです。

(同上 197p)
 「だから若い門人がぞくぞくと先生のもとに集まる」のだと。
 吉田は桂を「さすが…「皆に将来は萩城一のスケコマシ」と評されるだけはある」と褒め(?)ますが、吉田もそれ以上の人誑しです。吉田から褒められ彼の魔力や魅力に触れた門人たちは、次第に吉田に心酔、崇拝し、彼の理念のもと、日本の危機を救おうと奔走するのです。
 吉田は安政の大獄に繋がれる直前、門人たちにこう説きました。

一心不乱に行動を起こす狂愚はまことに愛すべきものですが
考えるばかりで行動ができない才良であれば恐れるべきです
百年はほんの一瞬
諸君 狂いたまえ

 そして彼の死後、実際に長州藩からは明治維新の立役者となる者が多く出て、維新後の日本でも長く国の中枢で働きました。彼の言葉で言えば、「一心不乱に行動を起こす狂愚」たちが死に物狂いで国を動かしたのです。

 門人たちはきっと、吉田が自分たちを縛ったとは思っていません。彼の思想に触れ、まさにそのとおりだと思い、自ら決断して国のために奔走したのだと考えています。でも、そう思わせることこそが吉田が稀代の呪術師たるゆえんです。門人たちは自分が縛られた、呪われたとは思いもせずに、彼ら自身の意思として、吉田の思うとおりに動く。それこそが呪術師の使う、最も効率的で熱狂的な式神です。
 吉田は、自身を崇拝する門人の本性を見極めるためあえて理不尽に、不合理に振舞い、彼らをわざと窮地に立たせたりもしましたが、それもまた呪いの一種です。吉田に振り回された門人は、師から見放されそうになったところを謝罪しそれを受け容れてもらったことで、よりいっそう崇拝の度を深めました。

 そんな彼がかけた最大の呪いは、自身の死。稀代の呪術師である彼は、どうすれば門人が自分の信念を内面化してくれるのか、すなわち呪われてくれるのか熟知していました。

(同上 228p)
 自身の死こそが門人たちを「決死の行動に駆り立てる」と理解していたのです。

 では、なぜ吉田は自身の命を賭けてまでそのようなことをしたのか。それは、彼が「公」に殉ずる人間だから。
 「人のお役に立」つよう幼少期から教育を受けてきた吉田は、そのためには、脱藩してまで見聞を広めに出たり、密航して海外に出ようとしていました。脱藩はダメ、密航はダメ、というきまりも「公」ではありますが、彼はそれ以上に優先する「公」、より高次にある「公」として、広く「人のお役に立」つことを考えており、それは「日本を他国の奴隷にしない」という言葉で表されています。日本のトップである幕府が作ったきまりを守っているままでは、日本が外国に踏みにじられてしまうのであれば、それを破っても構わない。幕府は日本の政治のトップであって日本そのものではない。守るべきは幕府(の権威)よりも日本。そして、守るべきは自分の命よりも日本。
 それが彼の殉じた「公」でした。

 上述のように、ほぼすべての門人たちは自分たちが吉田に呪われていることに気づいていませんでした。むしろ、祝福されているのだくらいの気持ちだったでしょう。
 でも、桂だけはそれに自覚的でした。いえ、最後の最後に自覚したのでしょうか。
 吉田から「僕みたいなつまらない人間をこんなに褒めてくれたのは君が初めてです」、「いつか君は必ずことを成す人になります!」などの言葉をかけられ、陰で密航の手伝いなどもしていた桂は、吉田にとっても他の門人とは一線を画す存在だったのでしょうし、桂自身も、他の門人たちは振り回されるだけだった吉田のことを一歩引いた立場で推しはかろうとしていましたが、それでも最後の手紙を読むまでは、吉田の遺志を継いで日本を救おうと奮い立っていたはずです。
 でも、その手紙には、自分の死すら「公」のために役立てようとする、空恐ろしいまでの吉田の意思があった。「窮地に立たされた時に出てくる各人の本性」を踏まえてうまく調整し、日本の窮地を救ってほしいという願いがあった。その時に桂は気づいたのです。今まで吉田がかけてきた言葉は、自分の進むべき道を示してくれた言葉は、自分の心の中で溢れかえっている言葉は、吉田からの祝福なのではなく、呪いなのだと。日本を救う「公」に殉じる師の呪いなのだと。
 
 きっと吉田は信じていたはずです。桂であれば、自分がかけていた言葉が呪いであったと知ってなお、「公」のために動いてくれると。
 吉田がは桂に呪いをかけたと告白しながら、悪びれもせずに「向こうで共に桜を見下ろす日がくるまで僕は信じて待っています」と願いながら別れを書いています。吉田は自分がかけた呪いの後継者として桂を恃んだのでしょう。桂なら、きっと自分の遺志を継いで日本を窮地から救ってくれると。
 それはたしかに桂へ受け継がれました。桂は幕末から明治初期まで、日本の変革の第一線を駆け抜けました。でも、その遺志もまた呪いです。

 信頼する君に呪いを託す。あとは任せた。あの世でまた一緒に肩を並べよう。

 死んだ者には何も言えません。何もできません。もう呪い返しはできません。師からの最後の言葉は、今まで桂にかけられた言葉はすべて呪いであると明かし、他の者もそれに縛られていると明かし、呪われたままに国を救えと告げました。
 ああ、なんて恐ろしくも強く、そして魅惑的な呪い。

 ということで、最後の一文で読後感を一気に複雑なものに叩き落としてくれた、『だんドーン」の「番外長州編 松の下の若人たち」の「呪い」の話でした。
 『ハコヅメ』のときから思ってましたけど、泰三子先生はこういう短くまとまる話の切れ味が鋭くて好きですね。

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『富めるひと』『遠い日の陽』ひとの抱えるやましさとそれを薄れさせる別の価値の話

 以前も別の読み切りについて感想を書いた横谷加奈子先生の新作読み切り『富めるひと』。
comic-days.com
 9歳のときに余命一週間と突如宣告された自分のため、3億円かかる手術の費用をどうにかして賄おうと貧しい両親が宝くじを買ったらまさかの10億円当籤。無事手術は成功し、両親は余ったお金で投資をして財を成したため、一転勝ち組人生になった主人公・関口真広は、何不自由のない生活を送りながらも虚しさを抱えながら生きていたが、あるとき、引きこもりにならないためにとしていたバイト先で、苦労人の大学生・森谷と出会う…
 というところから始まる物語。
 冒頭3pのキッチュで雑なスピード感のつかみが強くていいのですが、その急展開の後にじりじりじわじわと進んでいく関口の心の動きがいい意味で息苦しく、思わず喘ぎながら読み進めてしまいます。

 さて、そんな本作について回ると感じる言葉が、作中にも登場した「やましさ」です。この言葉は本作のみならず、前作の『遠い日の陽』を読んだときに感じていたけれども言葉にならなかった感覚を表してくれたものでもあります。
comic-days.com
 やましさ。辞書的に言えば、己の振る舞いや在りように対して内心で良心が咎めてくる感覚、とでも言いましょうか。
 道で困ってる人を見て見ぬ振りしちゃったなーとか、今日やるべき仕事に手を付けられなかったなーとか、ダイエットしてるって言ってるのにアイス食べちゃったブヒーとか、人ひとりを破滅させてしまった人間がこんな幸せに生きていいのだろうかとか、やましさを感じたことは誰しもあるでしょう。卑近な例から人生について想い馳せてしまうレベルまで、やましさは様々な次元でついて回ります。

 『富めるひと』でこの言葉は、関口が森谷に対して「やましい興味」を持った、というかたちで使われています。やりたいこともほしいものもないのにお金だけはある関口が、大学を休学してお金をためている苦労人、「自分と同じ年で明るくて真面目で一人暮らしをしてて節約のために野草を採って食べてる人」であるところの森谷に対して抱くのが「やましい興味」なのです。
 ここで彼が単なる興味でなく「やましさ」のある興味を抱いている理由は、容易に想像がつくでしょう。苦労もなくやることもなくただ生きているだけの自分が、苦労をしながらも楽しさを見つけて生きている彼に対して興味を持ってしまうことが申し訳ない、自分みたいな人間がそんな風な思いを持っていいのだろうか、という良心の咎めです。
 でもおそらく、関口がやましさを覚えたのは、森谷に出会ったからではないでしょう。きっと彼は、偶然あたった10億円で自分の命が救われた日から、ずっとなにがしかのやましさを抱いていたのです。

 自分が何か特別なことをしたわけでもないのに命が助かってしまった。命が助かるに足る何かを自分が持っているわけではないのに。なぜ自分が生き残ってしまったかわからない。
 突然余命一週間と宣告され、舌の根も乾かぬうちに高額手術を受けて奇跡的に生還。そして裕福な生活へ。ある種、理不尽もと言える生還劇を潜り抜けてしまったせいで、彼は自分が生きていることそのものに対して、内心で良心が咎めてくるのです。お前はそんなに価値のある人間なのかと。生きているに足る人間なのかと。

 そう思ってしまうのは、彼がまだ年端もいかない子供だったから、というのもあるでしょう。9歳で突然余命一週間と言われてもまるで実感はなく、周りが大騒ぎしているのをまるで他人事のように見ていたら宝くじが当たって手術を受けられることになり、そのまま他人事のように救われてしまった。
 この心の在りようは、彼の両親が宝くじを当てた以降の生活を悠々自適に満喫しているのと対照的です。両親は、我が息子に突然余命を宣告され、それをなんとかするために一縷の望みで宝くじに賭け、それが当たり息子生還、以降も投資で資産を増やし、不自由ない生活で暮らそうと色々動きました。
 そんな能動的、我がこととして動いた両親は、宝くじという天から降ってきた幸運も「なんとかしようと動いた結果だ」と思えたため、そこにやましさを覚えずにいられるのです。息子を救おうとした自分たちの行動の見返り、応報として宝くじ当籤を受け止められたのです。
 自分の行いとその後の出来事に十分釣り合いがとれている。そう感じていれば、人はやましさを覚えません。

 とにかく関口は、己の在りようにやましさを覚えていたはずです。でも、詳細は作品に譲りますが、特に「やましい興味」を抱いた森谷と付き合いを深めることで、そのやましさを少しずつ薄れさせ、「虚しさはあまりなくなっていった」という状態まで自分を持っていくことができました。
 そんな森谷との別れが、言えなかった謝罪と、謝礼の言葉だったのは象徴的だなと思いました。なぜって、『遠い日の陽』でも、やましさ(「うしろめたさ」の方がより似つかわしい気がしますが)を抱いていた主人公が、その感情を薄れさせてくれた写真の主・チヒロに、やり取りが途絶えた以降の自分がどうであったかという手紙を送ったのは、「今ならお礼が言えると思」ったからです。
 やましさとは、内心で咎めてくる良心の感覚です。それが薄らいだということは、自分の行いや在りようとその後の出来事の不均衡が解消されたということですが、それは最初の行いや在りようがなくなったということではなく、不均衡をまた水平に近づける何かができたということです。傾いた天秤の皿の片方をいじるのではなく、別の皿を増やす、とでも言いましょうか。前の出来事をなかったことにするのではなく、それを超える価値のあることを新たにできたということ。いわば贖罪。相手が罪の当事者でなかったとしても、むしろ当事者ではないからこそ、因果が巡り巡っていく時間と関係の先で新たな価値を得られたことに、礼を言いたくなるのです。

 なんというか、横谷先生の読み切り2作品からは、誰もが抱えるやましさとその薄れさせ方について深い示唆があるように思います。一度抱えたやましさは、その直接の出来事をなかったことにすることで解消されるのではなく、傾いた天秤をまた元に戻してくれるような価値を別のところから得ることで薄れさせられるのではないでしょうか。
 なんかこの空気感がすごい好きな先生なので、また別の作品読んでみたいですね。

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『好きな子がめがねを忘れた』二人が贈り合った「祝福」の意味とそれが込められた大切なものの話

 ついに最終巻が発売された『好きな子がめがねを忘れた』。

 最後まで口から砂糖を詰め込まれるような甘さに、用法用量を守りつつ少しずつ摂取しましたが、大団円に山田さんもニッコリ。特典小冊子の書き下ろしで更にニッコリです。

 さて最終巻で特にオッと思ったのは、104話以降に登場した「祝福」という言葉。なぜって、11巻発売時に私が、まさにその言葉をキーワードにブログを書いたことがあったから。
yamada10-07.hateblo.jp
 「お、これはひょっとして拙ブログを藤近先生が読んでくださって、その影響でこの言葉を使ったんじゃなかろうかゲッヘッヘ」と思い上がりたい気持ちはグッと抑えて、改めてこの「祝福」について考えてみたいと思います。

小村くんの祝福を受けためがね

 この言葉が初めて登場したのは、上記のとおり最終巻の第104話。

(12巻 p60)
 三重さんが、今自分がかけているめがねを「小村くんの祝福を受けためがね」と表現しているシーンです。
 で、このめがねがどんなめがねかと言えば、三重さんが小村くんから告白されるときにかけていためがね。もっと言えば、告白をされるときに小村くんにかけてもらっためがねです。10巻95話のことですね。
 きちんと顔を見て告白したいからと、日を改めた先のまさにこの日、三重さんは案の定というかなんというか、朝にめがねを壊し、裸眼で登校する羽目になりました。ですが、従前小村くんに予備の眼鏡を預けていたことが幸いし、再度日を改める必要もなく、放課後に予備の眼鏡を受け取って、無事告白と相成りました。
 では、その一連のいったい何が祝福なのでしょう。

「祝福」が贈るメッセージ

 私は上記の記事で「祝福」について、

三重さんが小村くんからもらった「ありのままのあなたでいい」という祝福

『好きな子がめがねを忘れた』自信がなくて変化が怖い二人と、「そのままのあなたでいい」と祝福する二人の話 - ポンコツ山田.com

今の小村くんはそのままでいいという、彼女からの祝福

『好きな子がめがねを忘れた』自信がなくて変化が怖い二人と、「そのままのあなたでいい」と祝福する二人の話 - ポンコツ山田.com

 と書きました。
 端的に言えば、そのままのあなたすべてを肯定するのが祝福である、ということです。いいところがあるから、いいことをしてくれたから、というのではなく、あなたがあなたであることが素晴らしく、あなたがあなたであることをまるごと受け容れる、という全肯定。
 もともと小村くんと三重さんは自己肯定感の低い人間でした。でも、弱いところ、醜いところ、愚かなところも肯定するというメッセージを、お互いがお互いに贈り合ったため、二人は強く惹かれ合ったのです。
 あなたのすべてを肯定するメッセージこそ「祝福」です。

「祝福」を贈り合った二人は

 ここで告白のシーンに戻りましょう。二人きりの放課後の教室、小村くんは言いました。

…俺もずっと自信がなくて こんな俺が三重さんと…いいのかなって思ってた
…でも…三重さんが俺に自信をくれて 俺は俺のままでいいって思えたんだ
…俺… そのままの三重さんがいいよ
(10巻 p139,140)

 これまでの色々で三重さんから自信をもらい、「俺は俺のままでいいと思え」るようになった、つまり「祝福」を受けていた小村くんは、それを表明した言葉に重ねて「そのままの三重さんでいいよ」と彼女にも祝福のメッセージを送ります。
 そして、預かっていためがねを彼女に差し出し、「顔 見せて」と告げるのです。

(10巻 p144)
 恥ずかしさと不安に俯いていた三重さんですが、小村くん手ずからめがねをかけてもらい

 顔を上げて、そのめがね越しに小村くんを真っ直ぐ見つめるのです。
 今まであれだけ自己肯定感の低かった小村くんは、自分の目を見てほしい/あなたの目を見たいというメッセージを発せるほどに自信を持つことができ、同時に三重さんも、まったく同じメッセージを返せるくらいの自信を持つことができました。
 自分を肯定してくれた誰かのおかげで自分を好きになれる、自信を持てる。弱いところも醜いところもあっていいと思える。それでもいいと言ってくれるあなたがいるから。それが「祝福」。
 その象徴的な出来事が、小村くんがめがねをかけてあげたことであり、すなわち「小村くんの祝福を受けためがね」だと言えるでしょう。

三重さんの祝福を受けたストラップ

 さて、三重さんは「祝福」を受けた象徴をめがねに見出しましたが、一方小村くんはどうでしょうか。
 彼は自身の受験を前に、お守りとして身に付ける「祝福」として、くらげのストラップを選びました。

(12巻 p78)
 7巻で水族館デートをしたときに、三重さんが買ってくれたものですね。
 なぜこれが「祝福」になるかと言えば、

つくづく俺は面倒な奴だと思う 頑張ろうって決めたのに 今度は本当に頑張っていいのか不安になって
でももう大丈夫だ
何もない俺のままでいいって思えたから
(7巻 p92~94)

 と小村くんが思えたのが、まさにその水族館デート、くらげの水槽の前だったから。
 「無になれる」こと(ゲーセンのコインゲーム等)が趣味という自分に引け目を感じていた小村くんでしたが、三重さんがくらげが好きな理由もまさかの「見てて無になれるから」というもの。その言葉に、自分を卑下しなくもいいのだと救われたから、小村くんは「何もない俺のままでいいって思えた」し、勇気を出して三重さんの手を握ることもできたのです。
 三重さんが意識したものではなくとも、彼女の言葉から「祝福」を受けとった小村くんが、くらげのストラップをお守りに選んだのは当然のことと言えるでしょう。アイスの棒や友チョコの包み紙よりもずっと明確に、肯定のメッセージがあります。



 ということで、「祝福」という言葉を軸に、二人の関係を洗いなおしてみました。
 お互いがどうしてお互いに惹かれたのか。それは、お互いがお互いを「祝福」したから。あなたはあなたのままで素晴らしいのだと肯定してくれたから。
 そりゃあいいカップルになりますよ。特典小冊子の表紙がウェディングドレスになりますよ。末永く爆発してほしいですよ。
 まったく、ハッピーエンドは最高だな!

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

愛を何度も書き直せ! 心情を読解した先にあるもの『超客観的基礎ラブロマンス概論』の話

 ラブレターの書き方教えて。
 高校で現代文を教える教師・通称タナセンのもとに、教え子の女子高生・海堀がやってきて、そう頼み込んだ。突飛な頼みごとに面食らい、面倒ごとはゴメンと即座に断るタナセンだが、若さゆえの粘り腰ですがる彼女に根負けして添削してやることを了承した。
 かつて、ある生徒の内面に踏み込みすぎたあまり、その子を深く傷つけてしまった過去を持つタナセンは、以降生徒への深入りを避け、今回の海堀についてもテキトーにあしらうつもりだった。でも、あまりにもド下手くそな彼女のラブレターはタナセンの国語科教師心に火を着け、何度も書き直しながら惑う彼女の姿はタナセンの教師としての心に火を着けた……
tonarinoyj.jp
 ということで、ココカコ先生原作、犬童燦先生作画の読み切り『超客観的基礎ラブロマンス概論』の感想です。
 自分の中の恋心をどう扱えばいいのかわからない女の子と、かつてのトラウマで教師という職業に希望を見出すことをやめた男。そんな二人のラブレター書き方指南の物語なのですが、コミカルにわちゃわちゃしながら、でもあるポイントを境に一転、自分の心情を読み解いていった先に何があるのか真正面から真直ぐに描かれているのが、とても印象に残る作品です。爽やかさとコミカルさに包まれて終わる読後感。

 作中で好きなのは、タナセンの現代文教師としての文章指南が、学校の現代文授業的なものに留まらず、実生活での対人、あるいは個々人の内省の深化に通じている点です。
 しばしば現代文の授業は「作者の考えてることなんて考えて何になる」などと揶揄されます。ですがそれは極めて皮相的な捉え方*1で、小説に限らず、国語の授業などで物語や文章について真剣に考えるということは、たとえば名詞や動詞など各種単語の使い分けによるニュアンスの違いに敏感になったり、修辞的な技法により意図的に催される感興を適切に言語化したり、文章が意味することを論理的に導きだしたり、読む者に誤解を極力与えない統辞上の配列を身に付けたり、あるいは偉大な先人が生み出し長年にわたって生き残った名作が表す感情のひだを内面化することで自身の精神をより複雑なものにしたりと、精神活動において非常に重要なものとなります。
 かつて灘中学では3年間かけて小説『銀の匙』(中勘助)を読み込む授業をしていたように、名作とはしゃぶればしゃぶるほど味が出て、作品全体からその外側にまでつながるマクロな視点から、語彙や文法や修辞技法、漢字の使い分けのようなミクロな視点まで、そこからいかようにも知見を汲みだせるのです。

 本作でタナセンが徹底的に批判検討をしているのは、偉大な先人の名作ならぬ、現代文が苦手な海堀の書くラブレター。何度も読んでは推敲に次ぐ推敲を重ねていきます。
 初めは、背伸びして考えだした比喩を多用し、何が言いたいかもよくわからないとっちらかった文章を書いていた海堀も、何度も何度もタナセンの批判にさらされる中で、余計な比喩を削ぎ落とし、過剰な表現を身の丈に合ったサイズにまで収めて、「シンプルに素直に丁寧に」書くようにします。
「お前は良い文章を書こうとしすぎなんだよ そのせいでそもそも書きたかったこと見失って中身のない文章になっていくんだ」
 思わず身につまされるセリフですが、タナセンの言うとおり、自分の力量を越えた語彙や表現技法は、自分の文章を振り回し、そもそも何が言いたかったのかを見つめる落ち着きを失わせてしまいます。というより、自分が何を言いたいかわからないときほど自分の手に負えない言葉や表現を使いがち、と言った方が正しいでしょうか。
 もっと突っ込んで言うなら、自分が何を言いたいのか腰を据えて真剣に考えていないときほど、ですね。わーっとした感情のままに突っ走った文章は熱意こそあるでしょうから、似たような感情を持っている人間の共感を得ることはできるかもしれませんが、持っていない人間の理解を得ることはできません。つまりは、片思いの相手にラブレターを送ってもその感情をわかってもらえない、ということです。
 その意味でタナセンの添削講義は、文章的に優れたラブレターを書くためのものではなく、自分は片思い相手をどう思っているのかを海堀に真正面から見つめなおさせるためのものだったと言えるでしょう。自分で書いたものを何度も読み返させ、その言葉の持つ意味やニュアンスを考えさせ、自分の感情を見つめなおし、それにふさわしい言葉や表現を見つけ出す。これは立派な国語の授業です。
 
 書き直せば書き直すほど、自分の心を見つめれば見つめるほど不安が募り、ついには告白をやめると言い出す海堀。自分の心を直視し、見たくないものを見すぎたあまりに不安定になってしまうことは、自分の過去を思い返せば心当たりがある人も多いのではないかと思いますが、そうなってしまった彼女の心に、タナセンは一本筋を通すのです。「超客観的基礎ラブロマンス概論」の講義でもって。
「不安に飲み込まれてしまわずに ちゃんと自分の心を見つめろ 不安の奥にあるお前の心情を読み解け」
 タナセンのする「概論」の講義は、「いつもやっていること」と同じ。「人物の心情を読解して 生徒に解説する ちゃんと伝わるように ちゃんと理解してもらえるように 丁寧に丁寧に」。
 この講義の教材は既存の作品ではありません。目の前の海堀その人の心。それを「読解して」「ちゃんと伝わるように ちゃんと理解してもらえるように 丁寧に丁寧に」「解説する」。
 この彼の姿は、かつてのトラウマから、生徒の内面に踏み込むことをやめた教師のものではありません。「いつでも辞めれる いつでも辞めてやる」と自分に言い聞かせながら教鞭をとっている冷淡でドライな今の姿ではなく、「愛」や「理想」がまだ心の中で燃えていたあの頃のよう。
 そう、彼は海堀の「心情を読解して」「解説する」のと同時に、自分の心情をも読解し、自分の心の中にどんな感情がくすぶっているのか、理解したのです。
 ラブレター指南と「概論」講義を通じて、教え教えられていた二人。その二人が自分の中の感情に真摯に向き合えた姿は、美しく、清々しい。きっとその姿は、ラブに溢れてる。

 いい作品だぜ。

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

*1:というより、国語の授業が嫌いだった人たちが集合的に作り上げたストローマンとしての国語の授業で、実際に「作者の気持ち」が国語の授業で問われたことはほとんどなかったのではなかったかと思います(あるとすれば、登場人物の気持ち)

元神様で今は弁当売り 『邪神の弁当屋さん』の話

 彼女の名はレイニー。元神の現弁当屋さん。30年前に彼女が原因で戦争が起きたことの罰にと、彼女は人間になってお弁当を売ることにしたのだ。今日も彼女はお弁当を作り、売る。愚かな人の営みを面白いと思いながら…
yanmaga.jp
 ということで、ヤンマガwebの1話目連載コンペの一作品、イシコ先生の『邪神の弁当屋さん』の感想です。
 元Twitterのおすすめで流れてきて試しに読んでみたら、とても私好みの作品でした。意外に元Twitterのおすすめは侮れない。

 物語の始まりは冒頭のとおり。実りと死を司る神ソランジェとして北の国で崇拝されていた彼女でしたが、その怪しげな見た目のせいで他国では邪神として恐れられており、それが原因で戦争が起こってしまったのです。戦争は終わったものの、それを引き起こして罰として彼女は、レイニーという名の人間となり、再び神に戻るまで善行を積むことにしたのです。
 人間として生きるために選んだ職業は弁当屋さん。なぜそれか。いわく「隙間を埋めるのです 色んな形の食べ物を 詰めて詰めて 同じ型にきれいに納めるのが良いのです」。
 このわかるようなわからないような説明。これが私の心にヒットしました。なぜって、すごく神様っぽいじゃないですか。人間には計り知れない理由で面白がるこの感じ。
 そもそも物語が、「高さを出す事 隙間を埋める事 丸い形も歪な形も 型に入れば同じ事」という彼女なりのお弁当作りのポリシーから始まります。ほら、もうわかるようなわからないような。
 話を読んでいけば、これが彼女の人間観からきているであろうことがわかるのですが、「隙間を埋める」や「型に入れば同じ」というのが、彼女が人をモノとして見ているというか、人間味を感じなくて、ああ彼女は元神様なんだなと思えるのです。

 人を超えた存在が人の営みを観察しながら、「一日一善をモットー」に人として生きる。言ってみれば、上からの視線と地上からの視線で同時に見ているように彼女は暮らしているので、その目線で語られる物語にウェットさがなく、クールな乾きがあります。要は私がそういう空気の作品が好きってことなんですよね。他人のことは所詮他人事、元神として面白がる対象でしかない、とでも言いますか、彼女が何を考えているかがよくわからなくても、それが不快じゃない。

 デフォルメの効いたシンプルな絵なのも、乾いたポップさがあって作風に合いますね。特にレイニーが基本的に簡素な笑顔で、ほとんどそれしかないから逆に無表情。ちゃんと感情を顔に表す生まれながらの人間たちと対比が生まれます。

 上でも書いたように、この作品は1話目連載コンペの対象作品なので、掲載話の中には、現時点ではただ置かれているだけの布石がいくつも登場します。レイニーの同居人とは誰なのかとか、レイニーは神様の前は何だったのかとか。
 連載化すればそんな布石たちもちゃんと活きてくるんだろうなと思うと、ぜひ連載を勝ち取ってほしいですね。推したい。

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。