『葬送のフリーレン』人との交わりと褒めることの意味の話

前々回、前々々回の続きにあたる、『葬送のフリーレン』の話。

それらの記事で、大人/子供や、交換などについて書いてきましたが、フリーレンがどう変わったか、何をするようになったかについて、もう少し考えてみましょう。

旅の始まり 変化の始まり

そもそもフリーレンは、もともと他人に興味を持たない人間でしたが、ヒンメルの死に際して彼のことを知ろうとしなかったことを悔いたために、「人間をもっと知ろうと思う」と旅に出ました。
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(1巻 p34)
人間を知るためには何をしなければいけないか。当然、人間と交わらなければなりません。1000年以上にわたる長い人生のほとんどの期間、他人とろくすっぽ交わらずに生きてきた彼女ですが、具体的には何をしていくのでしょう。
一つには、以前のブログでも書いたように、借りを返すことです。誰かに受けた借りを返すことは、他人との交換の輪に入っていくことに他なりません。かつての魔王退治の仲間だったハイターとアイゼンのもとに出向いたのはその一環ですし、その結果、彼らの養子(弟子)であったフェルンとシュタルクを自分のパーティーの一員としました。他人との交わりの発生です。
また、どこかへ再訪したり、誰かに再会することもその一つでしょう。80年前に封印した魔王軍の一人クヴァールを改めて討伐しに行ったり。かつて見損ねた新年祭を見に行ったり。勇者の剣を守る里へ定期的に魔物退治へ行ったり。同じ長寿仲間のドワーフの旧友フォル爺に会ったり。
再会を目的としたものはもちろんのこと、再訪についても、その地でフリーレンら魔王退治の一行のことを憶えている者やその話を教えられてきた者がいれば、思い出話などをすることで、交流が生まれます。
その他いろいろあるでしょうが、その中でも特筆すべきこと、作中で何度となく描かれている行為は「他人を褒めること」だと思うのです。

褒めることの意味

褒める行為の意味については、3巻で具体的に言及されています。

俺の成してきた偉業も正義も、知っている奴は皆死に絶えた。
だから俺は死んだら天国で女神さまに褒めて貰うんだ。よく頑張ったクラフト。お前の人生は素晴らしいものだったってな。
わかるだろう、フリーレン。自分の生きてきた軌跡が誰にも覚えられちゃいないってのはあまりにも酷だ。
(3巻 p131)

ここでクラフトが言っているように、褒めるという行為は、誰かの行いや身の上を知ることで初めてできるものです。つまり、誰かと交わり、その人の良いところを知らないとできません。
そして褒められた側からしてみれば、誰かが自分を褒めてくれたということは、誰かに自分の良いところを知ってもらえたということ。この事実は、思った以上にその人を勇気づけるものです。
たとえば、フェルンを褒めて導きたいと言っていたハイター自身がフリーレンに褒めて貰ったときのことです。
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(4巻 p39)
酸いも甘いもかみ分けた老齢のハイターでさえ、誰かに褒められるのはうれしいことでした。
他にもフリーレンは、ザインがフェルンとシュタルクの仲裁をしたときや、混沌花の討伐に活躍したときにも彼を褒めていました。
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(4巻 p145)
またシュタルクが、幼いころに、尊敬する兄から集中力を褒められ構えを指導してもらったことを今でも覚えているのも、褒める行為が相手に与える影響の大きさを物語っています。
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(3巻 p170)

褒められたから、褒めるようになる

フリーレンが誰かを褒めるようになったのは、おそらくはヒンメルの死後、すなわち「人間をもっと知ろう」と決意してからです。褒めるには相手のことをよく知らなければいけませんから、それまで他人に興味を持とうとしなかったフリーレンが、誰かを褒めることはしないでしょうから。
そんな彼女でも、褒められる側には回ることはありました。
たとえばヒンメル。彼は旅の途中、フリーレンの趣味である魔法集めを褒めたことがありました。ほんの些細なことなのかもしれませんが、それが今のフリーレンの旅の目的の一つとなり、またヒンメルの像の周りに彼の故郷の花を咲かせる動機にもなっています。
たとえばハイター。彼は旅の途中、フリーレンが「それこそ人生を懸けたような」「血の滲むような努力」をして魔力を制限していることに気づき、彼女を褒めました。そのときの彼女はきっと、褒められることの価値によく気づいていませんでしたが、このことが、後に他人を褒めるようになったきっかけであることが示唆されています。
こうして、誰かが誰かを褒めることで、その誰かがまた別の誰かを褒めるようになります。
良いことをしてもらったら、自分もしないではいられなくなる。
返報性の原理ってやつです。交換ってやつです。

これが彼女の生きる道

人間をもっと知ろうとしたフリーレンは、人間の交換の輪に入って、かつて自分がそうされたように誰かの良いところを知って褒めてあげて、その人をまた別の交換の輪へと送り出します(現にザインは送り出されました)。そうして輪は増え、広がり、彼女自身が交わる機会も増えていくのです。それが、人の中で生きるということです。

今後、彼女の変化がどのように描かれるのか。その変化がまた周囲にどのような変化をもたらすのか。影響がまた影響を与えていく交換の連環がどう実を結んでいくのか、楽しみに待ちたいと思います。



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『その着せ替え人形は恋をする』自分では気づけぬ思い込み・決めつけの話

アニメ化が決定した『その着せ替え人形は恋をする』。やんややんや。

将来頭師*1になることを夢見るインドア系ボッチ・五条新菜(ごじょうわかな)が、オタク趣味全開なアッパー系ギャル・喜多川海夢(きたがわまりん)とひょんなことから出会い、海夢のコスプレ作成を手伝うことになった、というのが物語の始まり。
雛人形製作・雛人形鑑賞・雛人形との会話を趣味とする新菜は、周囲とまるで話が合わないことを自覚してその趣味をひた隠し、高校に入学して以降一人も友人ができないのですが、ひるがえって夢海は、アニメや漫画、ゲームやエロゲといったオタク趣味を、ひけらかしはしないまでも特に隠しもせず、それで周囲の友人には受け入れられている。そんな彼女のことを新菜は、「自分とは真逆の世界で生きている人」と表現するように、非常に対照的な二人なのです。
そんな二人を中心とする物語ですが、この作品にしばしば登場するテーマがあります。それは「自分の思い込み」です。
あの人はこうに違いない。自分がこうしたらああに決まってる。
一人で抱えるネガティブな思い込みも、それはあくまで思い込みに過ぎず、実際に確かめてみないと本当のところはわからない。そんなシーンが何度も登場します。
当然というべきか、その代表的なものは主人公の新菜です。
新菜が他人に自分の趣味を隠すようになったのには、幼少期のショッキングな体験が強く影響していました。「のんちゃん」という少女に、「男の子のくせに女の子のお人形が好き」なことを「気持ち悪い!」と強く罵倒されたことがあったのです。
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(1巻 p1)
以来彼は、自分の趣味、好きなものを、外に漏らさずに生きてきました。男の自分がこんな趣味をもっていることを知られたら、気持ち悪がられるに違いない。みな、のんちゃんのように自分を嫌うにきまってる。そう思っていました。
ところが6巻で、海夢に連れられクラスメートらとカラオケに行った際、海夢によってさらっと、新菜が彼女に化粧をしていること、新菜の家が雛人形製作をしていることをばらされてしまい、彼はひどく狼狽しました。自分がそんな人間だと知られたら、気持ち悪がられるにきまってる、と。
しかし意外なことに、その場にいた誰も新菜のことを気持ち悪がったりせず、普通のこととして受け入れ、それどころか、彼の家業である雛人形製作に畏敬の念すら表明しました。
これに新菜はひどく驚くのです。

……あれ?
なんで誰も気持ち悪いって言わないんだろう…
だって…
だって俺は…
俺は
……——俺
のんちゃんにしか気持ち悪いって言われてない…
ような…
(6巻 p175~178)

新菜は、自分の好きなものをひた隠しにしていた根源が、実は幼少期のたった一度の経験でしかないことに思い当たったのです。
もちろん、幼少期だから、一度しかないからとるに足らないということにはなりませんが、すべての人が幼児ののんちゃんと同じように振舞うということにもなりません。ですが、のんちゃんから受けた傷が、子供だった新菜にはあまりにも大きかったために、彼はその傷を癒すことも出来ぬまま、人形趣味と一緒に隠し続けていたのです。
なのに、高校のクラスメートは、あまりにも軽く、あまりにも当たり前に、新菜の趣味と技能を受け入れました。そのとき彼は初めて、十年近くもわたって自分を縛り続けてきた思い込みを自覚したのです。
思い込みが怖いのは、自分自身では、それが思い込みであると気づけないことです。当人にとっては、自分の主観的な思い込みでなく、客観的に当然の事実としか捉えられません。それは思考の前提であり、疑うという発想さえ起こらないものなのです。
だから、自分の思考にはそれがどっしと横たわり、自分の行動の方向を規定します。自分では、自分の意思で前を見て方向を決めているつもりでも、視線を向けることのない足元には思い込みが根を張って、視線の方向を限定してしまっているのです。
新菜にとって、「男の子が人形好きなのは気持ち悪い」という命題は当為のものとされ、長らく彼の行動様式を縛り続けてきたのでした。

6巻では、この新菜最大の思い込みの自覚の前に、その前振りとなるようなシーンもありました。彼が海夢のバニーコスプレを作っていたとき、どうしてもうまくいかない箇所があったのですが、それについてコスプレ衣装店の店員にアドバイスをもらったら、たちどころに問題は解消されました。アドバイスとあわせて店員さんは言いました。

決めつけたり思い込むと
どうしても視野が狭くなって 気付けることにも気付けなくなるからね
仕方ないよ
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(6巻 p129)

これは、コスプレ製作に悪い意味で慣れてしまった新菜が、それゆえに袋小路に入り込んでしまっていたことを指摘するものですが、半可通による思い込みが方法論を狭めてしまうことを端的に表しています。
また同じく6巻に登場した女装コスプレイヤー・姫野あまねは、かつて恋人ができたときに女装趣味を(新菜がのんちゃんにされたように)全力で否定されて以来、その趣味を他人に言うのが怖くなった時期があったのですが、今回コスイべに初めて参加したところ、新菜や海夢をはじめ、声をかけてくらた人がみな、否定的なことを言わなかったことに、拍子抜けと、安堵と、なにより啓蒙を感じました。

一度言われただけで皆が同じことを言うなんて限らないのに
決めつけて… よくないよね…
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(6巻 p85)

新菜はあまねのこの独白を聞き、その発言に感じ入りつつも、自分自身に思い込みがあることには気づけませんでした。上記のカラオケのシーンでは、このあまねの言葉を思い出しはするのですがね。やはり、それだけ自分の思い込みには目が向きづらいのです。思い込みそのものが思い込みであると指摘されないことには、まず思い当たれません。


さて、そんな新菜周り以外にも、登場人物が自分の思い込みに気づくシーンが出てきます。
謎のコスプレイヤージュジュ編で登場した、ジュジュこと乾紗寿叶(いぬいさじゅな)は、イ●スタに投稿された海夢のコス写真を見て、当初は「本気でコスしてない」と「決めつけていた」ものの、海夢のコスプレのスタンスを聞いたら、彼女が自分の一番好きなタイプのレイヤーであるとわかり、それまでの自分の(嫉妬まじりの)思い込みを悔いました。
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(3巻 p42)
また、彼女の妹の心寿(しんじゅ)は、姉のように自分もコスプレをしたいとずっと思っていましたが、自分がしたいコスプレは自分には似合わないし、そんなコスプレをしたら姉に嫌な思いをさせてしまうと思い込み、だったらしない方がいいと自分の気持ちを押し殺していました。
ですが、話を聞いた新菜は心寿を説得して、彼女のために衣装作成や化粧をし、彼女が満足いくコスプレを作り上げました。そして、後で姉とコスプレ写真を見返しながら会話をしていた心寿は、自分を説得する中で新菜が言ったように、自分の姉が自分の好きを否定するような人間ではなかったとわかりました。

胸の内は目に見えないので
分からないだけで
誰にでも色々あるんですよ
(4巻 p101)

これがその新菜の言葉です。思い込みの危険性を指摘し、心寿に思い込みの檻から一歩抜け出すよう背中を押せる彼なのですが、一方で、岡目八目というか、頭の上のハエというか、やはり自分の思い込みについてはなかなか見えるもんじゃないんだなというのがここでもわかります。


以上、見てきたように、思い込みや決めつけというのは自分一人で気づくこと、ましてや直すことは非常に難しく、他人からその存在を(意識的にであれ無意識にであれ)摘示されることで初めて自覚できるものです。である以上、思い込みや決めつけから抜け出るためには、他者との交わりが不可欠だと言えるでしょう。まさにその思い込みを原因として、ずっと孤独な日々を過ごしてきて新菜ですが、偶然海夢と交流が始まったことで、人とのつながりが生まれ、ついには自分の思い込みに気づくに至りました。
新菜の言うように、「自分の好きなものややりたい事を人に言うのって怖い」もので「勇気が必要」ですが、それを有り余るほどに持っている海夢が、新菜を孤独の世界から引っ張り出したのには、やはり「好き」という力は強いのだなと思わされます。


最新刊では、具体的なコスプレよりも、新菜の明るくなった学生生活が描かれてすごくいいなと思いました。オタクにやさしい陽キャとか、オタクの夢かよ。
ところで、新菜にはまだのこっている思い込みがあって、それは、海夢が自分と付き合うなんてあるはずがない、というもの。

付き合ってるなんて
絶対ない
俺なんかがそんな
おこがましい
(7巻 p9)

クラスメートから見ればあからさまな海夢の好意ですが、当の新菜はそんなことはあり得ないと頭から否定しています。これもまた彼の思い込みなんですが、果たしていったいどんな形で彼の蒙は啓かれるんですかねぇ(ニチャア
続刊が楽しみです。



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*1:雛人形の頭を作成する職人

『葬送のフリーレン』「交換」と恩返しと連環する人のつながりの話

前回に引き続き、今回も『葬送のフリーレン』のお話。

前回の記事では、同作で描かれている「理想の大人」像について書きました。
yamada10-07.hateblo.jp
その中で私は

ある人間が、自分の知っている他人の中から、「こうありたい」というロールモデルを見つけて、自分もそうあろうとする。その過程にある人間が、きっと大人なのです。

こんなことを書きました。
他人から与えられた、あるいは自らが見て取った大人の在り方を基にして、人はまた自らも大人になろうとするものである、ということです。つまり、ある人の「大人」というロールモデルが他の人に伝播し、そこからまた新たな「大人」が生まれ、人々は、社会は、世界は成熟していくのだと言えます。
誰かが誰かから何か(それがモノであったりあるいは行為であったり)をもらい、それを同じ人に返す、あるいは別の誰かに与える。そんなかたちで、世界の関係性は固定化されることなく、絶えず流動していく。
そんなようなことは、実はだいぶ昔のブログでも書いています。
yamada10-07.hateblo.jp
田島列島先生の『子供はわかってあげない』で、いっそ執拗とさえ言えるほどに描かれていた「交換」の話です。
人間は交換や贈与をすることで、社会を動的な状態に置き、流動性を保とうとする、という人類学的な営為を様々な形で描いていたのが『子供はわかってあげない』でしたが、実は『葬送のフリーレン』も、負けず劣らず「交換」について描いていると思うのです。


たとえば第2話で、さっそくフリーレンがそんなことを口にしています。

それにハイターにはたくさん借りがあるから、
死なれる前に返しに来た。
(1巻 p45)

借りがあるからそれを返す。
文化圏を問わず、広く人間に備わっている返報性の原理です。何かしてもらったら、お返しをしなければなんだか気が済まないという、誰しも一度は感じたことがあるであろう、あの感覚のことです。
そもそも、フリーレンがこのようなことを口にすること自体、かつての彼女を知るものであれば驚天動地に異例なものであると思うでしょう。なにしろ他種族に比べて圧倒的に長寿であるエルフ。他の種族と同じ時間を歩くことができず、必ず皆先にいなくなってしまいます。同じあるエルフの言葉を借りれば、「自分の生きてきた軌跡を誰にも覚えられちゃいない」人生を歩まざるを得ないのです。ですから彼女にとっても、旅の仲間や弟子なんてものは「色々教えても死んじゃう」から「時間の無駄」と言い切ってしまえるものでした。
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(2巻 p12)
なのに、死なれる前に借りを返しに来た。人なんて死んじゃうものなのに。そんなもののために時間を費やすのは無駄なのに。
上の画像のセリフは、魔王退治の旅が終わった直後のものでしたが、それから50年、冒険の仲間であった勇者ヒンメルが死んだとき、彼女は「…人間の寿命は短いってわかっていたのに… …なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう…」と涙を流したのです。ヒンメルらとともに過ごした(彼女主観では)たったの10年は、その真っただ中では気づけなかったけど、ヒンメルが死んで初めて、とても大事なものであったと理解したのです。
と、非社交のかたまりであるフリーレンを皮切りに、他にもいろいろな形での交換が出てきます。
フリーレンのように、借りや恩といった形であれば、ハイターが育てている戦災孤児のフェルンもそうです。

私はあの方に命を救われました。
(中略)
あの方は正しいことをしたのです。救ったことを後悔してほしくない。
魔法使いでもなんでもいい。
一人で生きていく術を身に付けることが私の恩返しなのです。
救ってよかったと、もう大丈夫だと、そう思ってほしいのです。
(1巻 p60,64)

ハイターに救われた恩を返すために彼女は、ハイターが死んだ後も生きていけることを彼が存命の内に示そうと、必死になって魔法を練習します。彼女をフリーレンが弟子として旅に同行させたのも、まさにハイターへの借りを返すためでしたね。
また、現在のフリーレンのパーティーの一人であるシュタルクも、彼の師(そしてフリーレンのかつての仲間)であるアイゼンに対する恩を返そうとしています。

師匠はもう旅ができるような歳じゃない。
そんな師匠が俺を連れてけってお前達に言ったんだ。
だから俺はよ、師匠の代わりにくだらなくて楽しい旅をたくさん経験して、土産話をたっぷりともって帰らないと駄目なんだ。
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(2巻 p97,98)

彼のセリフの後にフェルンが見せた表情は、同じ、師に恩を返そうとしているものとしてのシンパシーでしょうか。


他にも、借りや恩という形でなく、誰かをロールモデルとして大人になろうとするように、別の人間の振る舞いを見て、自らもそれに倣うという姿も多く登場します。つ
たとえば、勇者ヒンメルを見習ったハイター。ハイターは、ヒンメルが示した徳性を彼の死後も残そうと、フェルンを救いました。

もう随分前になりますか、古くからの友人を亡くしましてね。
私とは違ってひたすらにまっすぐで、困っている人を決して見捨てないような人間でした。
(中略)
あるときふと気が付いてしまいまして。
私がこのまま死んだら、彼から学んだ勇気や意志や友情や、大切な思い出までこの世から無くなってしまうのではないかと。
(1巻 p61~63)

たとえば、勇者ヒンメルを見習ったフリーレン。フリーレンは、旅の仲間として僧侶ザインを誘うのに、かつて自分を誘ったヒンメルを思い出し、過去に囚われず今を見ろと告げ、冒険者になるよう背中を押しました。
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(3巻 p195)
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(4巻 p6)

「冒険に出ようとしないザインが、魔王討伐に旅立つ前の私とよく似ていて頭にきた。」
「それは構う理由にはならねぇだろう。」
「だからこそ、きっと私はきっかけを与えたかったんだろうね。」
「なんだそりゃ。」
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(4巻 p146,147)

フリーレンはヒンメル達に「旅立つ勇気と、仲間と過ごす楽しさを教えてもらった」からこそ、旅に出られずくすぶっていたザインの背中を押したのです。
たとえば、勇者ヒンメルを見習ったフリーレン。魔王討伐の旅の途中、体調を崩した自分の手を握ってくれていた彼を見習って、フリーレンも寝込んだフェルンの手を握ってあげました(4巻 第36話)。
改めて見ると、ヒンメルの影響力の大きさが際立ちますね。そりゃああのフリーレンでさえ、人間に興味を持つようになるというものです。


このように、誰かが誰かにしてあげたことが、また別の誰かに波及していく。そうして社会の中で人は動き、つながっていきます。エルフのフリーレンもヒンメルの影響を強く受けて、そのつながりに入っていくようになりました。しかし、人ならぬ彼女。寿命の異なる種族が混在する世界で描かれるつながりの描き方は、また他の作品とは違うものがあるでしょう。次の記事では、そんなことを書けたらいいなと思ってます。



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『葬送のフリーレン』「理想の大人」と大人の在り方の話

マンガ大賞2021の大賞に見事輝いた『葬送のフリーレン』。やんややんや。

さて、最新刊の4巻では僧侶のザインをパーティーに加え、一行は4人となりました。超絶長寿のエルフなのに(というか、だからこそ)社交性に乏しいフリーレンに、まだ子供とも言えるような年齢であるフェルンとシュタルクという、対人能力ガッタガタなパーティーに、齢と社交の経験をある程度重ねたザインが加入したことで、パーティーがうまく回るようになりました。

「大人になって人との距離感がわかるようになると、衝突することすら避けるようになる。ああいうのは若者の特権だな。
今まで苦労しただろフリーレン。ガキの世話は大変そうだ。」
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(4巻 p34,35)

途中加入した彼の苦労がしのばれますね。
そんなザインは、彼は幼少のころに出会ったハイターを、「偉大な僧侶」で「優しくて頼りがいのある爺さん」で「理想的な大人」だと表現していますが、その印象は、魔王を倒す旅を共にしたフリーレンにとってはまるで違うもの。彼女にとってハイターは、「酒飲みでよく二日酔いになっていたし、好き嫌い多いし、よく嘘もついた」「ただの生臭坊主」っだたのでした。気安い仲ゆえの軽口ではありますが、たいがいですね。
それでもフリーレンは、ザインの言った「理想的な大人」という言葉に、かつてハイターと交わした会話を思い出しました。

「ハイターって変わったよね、大人っぽくなった。」
「老人相手に何を言っているんですか。
年をとると自然とこうなるんですよ。」
「ふーん。」
「…と言いたいところですが、本当は私の心は子供の頃からほとんど変わっていません。
理想の大人を目指して大人の振りをしてそれを積み重ねてきただけです。きっと私は死ぬまで大人の振りを続けるでしょう。
子供には心の支えになる大人の存在が必要ですから。特にフェルンは努力家です。たくさん褒めて導いてあげないと。」
(4巻 p36,37)

つまり、大人と思われている人間が理想としている大人は、本当に大人なのではなく、大人の振りをしているだけだった、というのです。

ですが、大人とはそういうものなのだと思います。ある人間が、自分の知っている他人の中から、「こうありたい」というロールモデルを見つけて、自分もそうあろうとする。その過程にある人間が、きっと大人なのです。
その意味で、「大人」に画一的な定義はなく、「理想の大人」像をもつ個々人によって異なります。また、自分を大人と思ってはいなかったハイターが理想の大人と思われたように、その人間の内面(内心)も関係ありません。主観的にはともかく、客観的には、大人がするようなことをしているようなことをしている人が大人である、というトートロジーの裡に、大人は存在します。
裏を返せば子供とは、子供のままでいることに安住している者だと言えるでしょう。すなわち、ある他者を理想とすることはしないし、理想がないから当然、今の自分がそれから離れているもの認識していないし、それに近づこうともしない者。あるいは、自分の成長の基準を外に持たない者ともいえるでしょうか。理想とする大人はいなくても、自分を成長させたい、能力を伸ばしたいと思いはするでしょうが、そこに外的な基準(「理想の大人」像)を設定せず、自分にとってどうであるかという内的な基準しかなければ、それは「大人」への変化とは言えません。(身体的なものではなく)精神的な「大人」や「子供」とは、社会の中での関係性において存在するので、外的な(社会の中にある)基準を持ちえないものは、社会の中で大人とはみなされないのです。

さて、本作ではまず、前述のザイン→ハイターの例を挙げましたが、「理想の大人」像を、誰かの手本となるもの、と広く解釈すれば、他にも例が出てきます。
たとえば、ハイターに「勇気や意志や友情」を示したヒンメル。
たとえば、シュタルクに戦い方と生き延び方を示したアイゼン。
たとえば、フリーレンに他人とのかかわり方を示したヒンメル。
こうしてみると、勇者であるヒンメルが周囲の人間に強く影響を与えていたのが分かります。彼自身は別に、誰かの模範になるよう意識して振舞っていたわけではないでしょう。おそらくは、彼の中にあった理想像、別の言い方をすれば、このように生きたいという姿に基づいて振舞っていたことが、周囲の人間には手本となるように映っていたのです。こうしてヒンメルはハイターやフリーレンにとって「大人」となり、彼を見習って二人は自分を律したのです。


このような「大人」の在り方、つまり、ある大人を手本にすることで他の人間も大人になっていく、という物語は他にも見られ、たとえば『惑星のさみだれ』はそれを強く意識的に描いていました。

頼れる兄貴分であった東雲半月や、師匠として多くの人間を育ててきた秋谷稲近は、その生きざまで、主人公の雨宮夕日や、彼のライバルで半月の弟である東雲三日月に大きな影響を与え、明確に彼らを手本とするシーンがありました(今、手元に同作がないため、正確な引用ができないのが残念ですが……)。
同作はそれだけでなく、登場人物が属する世代(さみだれの親の世代、半月や朝比奈氷雨白道や風巻の世代、夕日と三日月の世代、昴や雪待、太陽の世代など)で、その上下関係において、上の者が下の者に、大人とはこういうものだ、何度となくメッセージを発していました。
同じ作者の『戦国妖狐』でも、第一部ではまだ未熟な人間として描かれていた真介が、第二部では、千夜から憧れられる大人に成長しているなど、水上先生には、大人の在り方について一言ありそうな感じです。

他にも『それでも町は廻っている』でも、主人公の歩鳥に、静香が大人の何たるかを示すシーンがあったはずです(今、手元に同作がないので以下同文)。

最後にまた『葬送のフリーレン』に話を戻しましょう。長命のエルフであり、実際にほとんどの登場人物よりも年上なのが、主人公のフリーレンですが、それでもその種族的な性質により、他者とのコミュニケーションを最低限にしかしてこなかった彼女には、理想の大人と呼べるような人はいませんでした。ですが、たったの10年(フリーレン基準)の旅を共にしたヒンメルが、彼女にとっての大人となり、しかもそれに気づいたのは、彼が死んでからでした。ザインにとってのハイターがそうであるように、あるいは多くの人にとってそうであるように、フリーレンにとっての理想の大人はもう彼女の記憶の中にしかいません。ヒンメルの死後に出立した彼女の旅は、「人間を知ろうと」する旅なのですが、それは同時に、大人になる旅でもあるのでしょう。


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『違国日記』7巻の感想の話 下

page.34 オーディションの朝 嘘と本当 存在と欠如 悩みの貴賎

  • 何気なく歌っていた歌のうまさを、槙生に褒められ、照れる朝。
    • 「愛されることに屈託はないのに長所を褒められるのは座りが悪い」。なんだか妙に刺さる言葉だった。
      • 愛されることと褒められること。ともにポジティブな感情を投げかけられるものではあるけど、別物。
        • 愛されることは無条件。あなたがあなたであれば、愛される。
        • 褒められることは、褒められる何かがあることが条件。褒める人が認める何かがなければ、褒められない。
      • 褒められる何かとは、一般的にはその人の長所や優れているところであり、言ってみれば「目立つ」ところ。目立つことにためらいや引け目を感じてきた朝にとって、褒められるとは、「目立ってるね」と言われるようなもの。かつて父が言ったように。まだ残っている父の呪縛が座りの悪さなんだろうか。
      • それを踏まえると、愛されることに屈託がないのは、母の呪縛なのかもしれない。母が朝を愛していたのは間違いないのだろうから。
        • 呪縛と言ったら聞こえが悪いけど。ただ、愛とて相手によき影響のみを与えるものではないのだ。
  • 作詞のアドバイスを槙生にもらおうとする朝。
    • 「好きな詩を書き写す」という槙生からのアドバイス。ちょっとわかる。
      • バンドで作詞をしたとき、なんか天啓を得ようとスピッツの歌詞を書き写したりしてた。好きな歌はたいていそらで歌えるけど、それを文字で書き起こしてみると、口にする時とはまた違う感覚が湧いてくる。言葉同士の連なりを、より有機的に感じられるというか。
      • 詞を手で書くのは、口にするのよりスピードが遅い分、脳内での言葉の咀嚼スピードがゆっくりになり、分解の幅や深みも増えるのかもしれない。
  • その流れで、日記について「本当のことを書かなくてもいい」と言われたことの意味を確かめる朝。
    • まず、それを言ったことを覚えていない槙生。言われた方はよく覚えてるけど、言った側は忘れてる。案外そういうものだよな。いい言葉も悪い言葉も。
    • で、「嘘を書いてもいいのか」と問う朝に、「大事なのは何を書くかより、何を書かないかだ」と答える槙生。その言葉に、朝の記憶からよみがえる、「この先 誰があなたに何を言って 誰が何を言わなかったか」という槙生の言葉。
      • ここで思い出したのは、この文脈とは直接リンクしないんだけど、人の知性にとって重要なのは、何を知っているかではなく、何を知らないかを知っていることだ、という話。
        • 知っていることを増やすのは大事だけど、蓄積された知識を自分の中で体系立て、その体系のどこに穴があるか、どこから先がまだ見ぬ世界なのか、その世界はどのようになっていると想像できるか、などのように、自分の知っていることを基にして、自分の知らないことを見つけられるようにしないといけない、という話。
        • 不在の在というか、未知の前景化というか。
      • で、文脈に即したことを考えると、何かを書くということは、何かを書かないという選択をしたわけで、書かれているものの外に、無限ともいえる広さで書かれていない何かが広がっている。母が残した日記に書かれた朝への愛の外に、書かれた愛以外のものがどれだけあるのか。
        • もちろんそのすべてを知ることはできないけど、少なくとも朝は、書かれていない何かが存在することは気づいてしまった。書かないと選択した何かがあるはずだということを。
          • 目に見えるものがすべてではない、自分の知りえないところにも何かがある、と気づくことは、大人の階段の一つなのかもしれない。
      • 「母の日記には真実だけが書いてあると思うか」と、朝が槙生に聞きたかったけど聞けなかったのはなんでなんだろう。どんな返答があるかもわかっていたのに。
        • ああ、そうか。朝は「答えない」という返答をわかっていたけど、答えの外側にも意味があることに気づきかけていたから、聞けなかったのか。回答されないことで、その無言の外側にある、否定の意を自覚したくなかったからか。
    • 悪口から身を守るために、意識的に鈍麻していったら、本当に心が鈍くなっていってしまったという槙生。いいことにも悪いことにも、あまり心が動かない、と。
      • それと創作は別なのだろうかと、素朴に疑問。別の話なのだろうか。
        • 勝手なイメージとしては、たとえば友人らとしゃべっている槙生は喜怒哀楽をはっきり出していて、そのとき感じている感情自体は本当なんだろうけど、その動きは表層的なもので、もっと奥底の方では、マントルの下のマグマのように、重く熱い何かがゆったりと蠢いていそう。
  • 登校途中の電車で、しばらく学校を休んでいた千世に出くわす朝。
    • 朝と千世の会話で、芯は微妙にすれ違ってるけど、二人とも、確固として信じられるものを失っているように感じられる。
      • 朝は、母の残した日記の言葉に。千世は、自分が目指していたものの公正さに。
        • 千世のそれは、次の話を読んでの事後的な感想だけど。
    • 生きている限り悩み続けるのかもしれないけど、悩み続けているということは生きてるということだ。最後のページ、まぶしいね。

page.36 No one lives for anyone, but I sing for someone

  • この話で何より印象に残っているのは、槙生の言葉。
    • 「他人のためになんか書かないよ …というか …みんなそんなにひとのためにとる行動なんてないでしょ」
      • やたらと私の心に残っている、『クビシメロマンチスト』でいーちゃんが言った「自分のために何かをすることのできる人間って、いつの間にいなくなっちゃったんだろうね」というセリフ。
      • 誰かのためとお題目を唱えて動きたがる人間たち。本当は、結局のところは、自分のための行動なのに。あまりにも凡庸な自分の心の動きに、崇高な何かを糊塗しないではいられないのか。
    • 槙生はそのあとに、「でも そうわかっていてなおすることが尊いんだ」と言っているので、いーちゃんの言葉よりはだいぶ前向きだし、誰かのためという行動理念を否定してもいない。
      • それでも、人間の行動の根底は自分のためというエゴがあるし、そこに公憤やら義憤やら誰かのためやらという、他人に自分の感情の責任を押し付けるようなものは極力塗りたくるべきじゃないと、私は思うのですよ。
  • そんな人間のエゴイスティックとは別に、人間のあらゆる行動がいつかどこかで誰かの世界を少しだけでも変えることはありうるし、その変化の積み重ねは大きなうねりになったりならなかったりする。
    • おまけ描きおろしの、東郷君もそういうことだ。千世の怒りが東郷の世界を少し変えて、世界を変えられた東郷の1ツイートが、さらに誰かの世界を変えるかもしれない変えなかいかもしれない。



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『違国日記』7巻の感想の話 中

  • page.33 目立つこと キャラのこと
    • ボーカルオーディションに出るかどうか悩む朝。
      • 人前で歌うことに怖気づく朝へ、目立つのが嫌なのになぜ軽音に入ったのか、俺はモテるから、と言い放つ同級生の男子部員。
        • バンドをやるとモテるんじゃない、モテる奴はバンドをやってもモテるというだけの話なんだ……
          • などと現在進行形でバンドをやっているけど何のモテる気配もない人間が申しております。
            • モテる奴がモテるだけなんだよ、ロック。だから、この話はここでお終いなんだ……
    • 友人が何の気なしに言った、「いるだけで目立つんだから大人しくしてればいいのに」にひっかかる朝。
      • 別に嫌いじゃないけど、本人のいないところでそういうことを言う感じ。悪意はないんだろう。直接言ってないんだから善意でもないんだけど。
        • じゃあ何かっちゃあ、本当にただ思っただけなんだろうな。「悪目立ちしないほうがいいのにね」って。
          • そういう邪気のない悪というかをさらっと描くのが、ヤマシタ先生の怖さですよ。悪いと思わないでいう人間もいれば、そこにもやもやを感じる人間もいる。何の気なしに発した言葉でも、それが他人にどう届いているのか、しばしば自分にはわからない。怖い怖い。
        • 「きちんと目立つ」という言葉に不可解を覚える朝。私もよくわからない。なんだろう。「きちんと目立つ」。悪目立ちはダメなのか。
    • 記憶の中の両親。楽しかった合唱コンクールの感想を求めたら、母は「負けちゃったのは残念だったね」、父は「なんだか目立ってたね」。
      • 当時の朝は、両親からの芯を食ってない感想に無邪気な怪訝さしか感じなかったけど、今から思い返すに、「楽しかった」という朝に↑のような感想を返す両親から、「呪縛」めいたものを受けていたのだろう。
        • 感想の方向性というより、朝の感想にそぐった返答をしていない、自分本位な感想を言っている、という点で。
    • 槙生ファッションショー。
      • 恥じらいのない下着姿はときめきませんね。
      • 「コミュ障」なのに、サイン会をしたり、結婚式でスピーチしたり、小説家として「妄想書き連ねて世間に発表して」る槙生がどうにも訝しい朝。
        • 目立つって何だろう。いいことなんだろうか悪いことなんだろうか。
      • ボーカルやりたいけど自分のキャラじゃないからためらってしまう、という朝を、即座に切って捨てるもつ。
        • 俺もそんな大人になりたい。多感な頃の悩みをスパッと切って捨てた後にきちんと的を射た答えを言える大人に。
      • で、そんなもつのキャラ不要論。
        • その論自体は巷間よく聞くものだけど、それがpage.32の「なりたい自分になるにはどうすればいいか」にリンクするのがよい。
          • なりたい自分になるには、まずやりたいことやりたくないことを自覚するのが大事だということなんだろう。キャラなんていう他人のためにつくりあげた自分じゃなくて、自分のためにあれしたいこれしたくないを決められる自分になれと。
            • そうか、目立つことが嫌いな父がおそらく言外に非難を込めていた「なんだか目立ってたね」が、それをさせぬよう朝の呪縛になっていたということか。
        • 「こうあれ」と己の枠を定めるという意味で、呪縛もキャラも同類。こうなりたい、と未来に開かれている希望とは別なのだ。
      • 独白で「それに気づいたのはずっとずっと後だった」と、作中で描かれている現在にかぶせて未来完了(あるいは未来から見た過去完了形?)を書く。こういう時間軸の作り方が好きでしてね。
        • アリスと蔵六』とかもね。
        • もともとこの作品、最初の話で高3の朝を描いてるだよね。だから、高3の朝が存在することはすでに確定しているわけで。
          • 描かれつつある朝が積み重なって、page.1の朝に集約していくという物語の在りよう。好き。
    • ひとくさり歌って、オーディションに出ることを決心する朝。照れながら「槙生ちゃんいなかったら軽音とかやんなかったかもてかやんなかった」とこぼすが、こちらは火の玉ストレートで「それはないでしょう」と否定する槙生。
      • この、相手に寄り添わない返答。そのあと否定するにしても、「そうかもね」の一言でもあればよく見る会話になろうに、否定しかしないこの返答よ。
        • もちろん、槙生は心からそう思っているんだろうけどな。
        • 心に浮かんだ両親の返事とは大きく違うけど、実際こう発言したシーンてあったっけ? 実際の過去? 朝の想像?
    • 最後のページ、「歌いまーす」の朝に、同席している誰もキャラ云々を言ってない。
      • 他の登場人物の顔が見えないから、そこらへんの作者の意図(つまり、自分のキャラじゃないというのは、朝が自分にかけていた呪縛でしかなく、周りは別にそんなことを思っていなかった、ということ)は判然としないけど、どうなんだろうな。



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『違国日記』7巻前半の感想の話

  • page.31 私の父親って「誰」?
    • 通り過ぎざまに、ドラマの感想で「空虚なやつだなあ」と吐き捨てる槙生。
      • 実際同居している人間がこうだったらたまらんなあと思う。自分が楽しんでいるものに(悪意でなくとも)これを吐き捨てていくのはたまらん。それが生まれた時から一緒に暮らす家族でないのならなおさら。
        • そういう、「生まれた時から一緒」じゃないもの同士が暮らす生活、異邦人同士の暮らしというのも、この作品で書かれるべきことの一つだと思うけど。
          • それは同時に、「生まれた時から一緒」に暮らす者同士の楽しいことときついことの話の反対側でもある。それまでの朝の暮らしを朝が振り返っているように。
    • 朝の書く、槙生の悪口語録。「浅薄」「邪悪」「厚顔」「短慮」「愚劣」「蒙昧」「卑怯」「蒙昧」「姑息」「陰険」「悪辣」「醜悪」。強い。
      • およそ、口語で使うことのめったにないであろうワーディング。でも、そういう漢語を口頭で使っちゃう気持ち is わかる。普通は言わないことをあえて口にした時の音の感覚って、ちょっと楽しいの。槙生がその感覚で使ってるわけではないだろうけど。
        • 漢語は、和語よりも意味がかっちりする分だけ、誤解を生みにくいのが長所だけど、口頭の発音のみで表現すると漢字が浮かばなかったり同音異義が浮かんでしまったりするのが短所。
          • ちょうど昨日、友人が口頭で「逐電」を使ったけど、言われた人がきょとんとしてたあの感じ。
    • 槙生の言った「空虚」から父を思い出す朝。「からっぽ人間」で連想するのが実の父。
      • 両親は事故で同時に亡くなったのに、「これまで思い出すのはほとんど母のことばっかりだったことに初めて気がついた」 「わたしの父はいったい「誰」だったのだろう」
        • そりゃあこの言葉から「娘に訪れるすべての幸福も災厄も母親に由来する」(HER CASE.4)を思い出しますよね。
      • 思い出の中の父は、えみりの家族と同席しているときでも、頑なに輪に入ろうとしなかった。ずっと顔を伏せ、象徴的なまでに描かれない、眼鏡の奥の彼の目。たぶん、今まで一度も描かれてないはず。
    • ところかわって、えみり母とランチをする槙生。なんだろう、誰かと対等に仲良くしている槙生を見ているだけで、ちょっと楽しくうれしい。
      • 昼間から洋食でビール。最高かよ。
      • 槙生とえみりママの間でも交わされる、朝の父の話。
        • えみりママにとって朝の父は、「品のない物言い」をすれば「なぜこの人を選んだのだろうって何度も思」うような人だった。それは、彼の「社会に関わろうとしない」面が主らしく、その態度は槙生のものとはまた違うという。
          • 槙生の「社会的逸脱」は、なんでしょうね、自分以外の世界の自分と合わないところに、頑として譲ろうとしないところ。社会を弾き、社会から弾かれるという意味での逸脱。
          • それに対して朝の父は、これまでの描写に沿えば、自分と合わない世界から目を逸らしてひたすら閉じこもろうとする人。社会に飲み込まれようとも決してそこに馴染もうとしない、関わりのなさ。
          • 槙生の逸脱には、対決と反発という精神の動性があるけれど、朝の父は、飲み込まれたままじっと動かず逆らわずただやり過ごそうとする静性がある。
    • 朝に浮かんだ、そして尋ねた「誰」という問い。その言葉は、まず知っている人間に向けるものではないだろうと思う違和感に、ヤマシタ先生の言葉のチョイスの妙がある。
      • 「誰」は見ず知らずの人間、存在自体を知らない(知らなかった)人間に向ける言葉のように思える。存在を知ってはいるけど中身をよく知らない人間なら「何」、もっとマイルドに言えば「どんな人」の方が一般的だろう。実の父を対象とする問いとは考え難い。
        • それでも浮かんだ「誰」は、それだけ朝にとって、今まであえて意識に上ることのなかった、存在を意識しなかった相手なのだろうか。同じ家で暮らしていた父なのに。
    • 最後に、槙生と笠町が交わす、自分にかけられている呪縛の話。
      • 笠町は父。槙生は……姉か。
        • なんで槙生もとけつつあるんだろうね。朝と暮らしているからかね。
          • 「自分に呪縛をかけた姉の子」と暮らすことで、とけていく呪縛。ごくごく微量ずつアレルギー物質を取り込むことでアレルギー反応を弱くしていくみたいなものか。
  • page.32 男社会。男の社会。男のいる社会。
    • 高校生たちの意味も取りとめもない会話。
      • 特に若い子同士の現実の会話って、主述やてにをはもあいまいで、文字に起こすと筋がとってるように思えないんだけど、実際に会話をしている当事者にとってはコミュニケーションとして特に問題はなかったりする。
      • たとえば今井哲也先生も『ハックス!』でやってたけど、それを漫画で表現すると、なんだろう、ネガティブな意味でなく、物語の中の空気が漫然として雑然として、がやがやした声を幻聴する。多用されるときついけど、効果的に使われると好き。
    • えみりが男子をふったとき、彼の言った「納得できないから」。
      • 納得は大事だけど、それが理不尽でないのならば、他人に「自分を納得させろ」と要求していいものなのか。いや、要求まではいいと思うけど、強制はできないよな、と。それが対等な関係や、金銭の絡まない関係ならなおさら。
        • でも、納得したいという気持ちは大事だし、対等な関係だからこそ、納得させてほしい(実際に納得できるかは別として)というのもわかる。
    • 偶然昼食を一緒にとることになった笠町と塔野。
      • 知人以上友人未満の人間と一緒に食事をとることって、それだけで私には難易度が高いな。
        • 男社会から降りてもそれはできるのか。
          • まあ「男」社会は関係ないか。
      • 「空気の読めないガリ勉」だったから、「男社会の洗礼」とは比較的縁遠くいられた、と塔野。
        • 高校大学そして卒業後も体育会系ではない世界で生きてきたので、「おれの酒が飲めないのか」のような「男社会」とは縁遠く生きてこられた私。けど、もしそういう世界で生きていたら、やり過ごしつつ過ごしても、たぶんどっかで精神が決壊しただろうなという感覚はある。
      • 塔野の告白の後に挿入されている、数ページずつの短いエピソード。
        • 誰もいない教室で猥談をしていたら女子が急に入ってきたから黙りこくった男子たち。
        • 先輩からの理不尽な暴力に耐えきれず部活をやめようとする男子と、それを咎める友人。
        • 医大が女子受験者の点数操作をしていたことに憤慨して学校に行けなくなった医大志望の女子。
        • これらはきっと、「男社会」の例なんだろう。性的な話題を、その対象のカテゴリーに入る人間の耳に入れようとしない。男子が男子であるというだけで不当な扱いを受ける。女子が女子であるというだけで不当な扱いを受ける。そんな特徴を持つ社会。
          • たしかに「男」社会の話ではあるけど、これが「女」社会の例を書いたとしても、程度の差はあれ似たような、その社会ゆえの特徴や不当不公平な取り扱いがあるのだろう。
      • 笠町は食事のシェアや「俺の酒が飲めねえのか」を男社会の特徴として挙げたけど、口にするものを共有することは、性は特に関係ない、共同体構築のためのある種の儀礼なのではないかと思う。「俺の酒が飲めねえのか」はともかく、食事のシェアは女性同士、あるいは家族や仲のいい人間同士でもするものだと思うし(塔野のように苦手な人ももちろんいるけど)。
        • まあ、単にそれをすることではなく、過剰に強制することが、笠町の感じる〇〇社会の嫌さなんだろう。
      • さらに笠町が列挙する、男社会を悪い方から見た点。
        • より危ないことをしたやつが勝ち
        • より女の子をモノ扱いできるやつが勝ち
        • より楽をしていい目を見たやつが勝ち
          • 気になるのは、最終的な価値基準が「勝ち」であること。勝ち負けがつくものであるとされていること。順位序列がつくものとされていること。実際に男社会がそうであるかはともかく、笠町はそういう構造になっている社会に生きることが心の底からいやになり、そこから降りて逃げて、やっと「人間」になれ余裕ができた、と。
            • 笠町の言う男社会に馴染み、その中でも余裕をもって「人間」でいられる者もいるだろうけど、笠町にはそれができなかった。
            • 別に、「男」であれば「人間」ではない、ということではないだろう。「人間」らしい余裕をその社会で持てるかどうか、なのだと思う。
              • 意図的かどうか、男社会的なものはかなり悪しざまに描かれていますがね。
              • 同程度には、女社会的なものも醜く描いていますが。
                • どんな社会も歪んでいて、まっすぐなだけの社会なんてないんですよ。
      • 朝が塔野に聞いたという、「なりたい自分になるにはどうすればよいか」という問い。塔野は「何を言っているのかわからなかったので「何を言っているのかわかりません」」と答えたという。
        • 馬鹿正直か。
        • 自分が中高生からそんなことを聞かれたらなんて答えるだろう。
          • 青春のにおいに心の中でニコニコクラクラしながら、「まずはなりたい自分が何なのか、それをしっかり自覚するところからじゃないかな」と大人らしくキメ顔で言ってあげたい。
        • でも、塔野が朝のその問いに「何を言っているのかわからなかった」というのはどういうことなんだろうな。
          • 「なりたい自分」という言葉の趣旨がつかめなかったのか、「なりたい自分になる」という言葉の趣旨がつかめなかったのか。
            • 「空気の読めないガリ勉」で、「勉強をすること」で「初めての違う国に連れていって」もらえるような気分になれることを知っていた塔野にとっては、なりたい自分、ありたい自分というのはもう通り過ぎてきたもので、こうある自分、こうなった自分を、既に感得しているのではないか。
            • ここにいれば、こうしていれば自分が自分として落ち着いていられることを知っている人間にとっては、「なりたい」という、希望や未来形で表される、まだ見ぬ理想の自分像は不要なのかもしれない。
              • どんな社会や環境に身を置こうとも、すでに得ている現在形あるいは完了形の自分像を基準に、そこにいることを望む望まない、その道へ進むことを望む望まないということを判断できるのだ。
              • 「泰然自若」とは、そういう判断基準を身に着けた人間なのかしらね。
    • 最後に朝が漏らした、「お父さんがあたしをあいしていたのか知りたい」という思い。
      • 母が愛してくれていたことについては、ある程度自覚できているんだろうな。

後半はまた次回。



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