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漫画の話です。

人間よ、モテたければ生物学を学べ! 『あくまでクジャクの話です。』の話

 男らしくないことがコンプレックスの高校教師・久慈は、まさに「男らしくないから」と恋人に振られたばかり。もののはずみでそれが生徒に広まってしまい、デブ・ガリ・オタの三拍子そろった男子生徒らから「恋愛弱者男子を救う会」の顧問になってくれないかと頼まれる。だが、そこに待ったをかけたのは、校内に留まらず名の知られた女生徒・阿加埜だった。生物「学」部の唯一の部員にして部長の彼女が今、恋愛というものをわかっていない世の愚か者たちを生物学でぶん殴っていく……

 ということで、小出もと貴先生の新作、『あくまでクジャクの話です』のレビューです。
 男らしいとか女らしいとか、そういうことを口にすること自体がナンセンス、どころか多様性に理解のない人非人と消し炭になるまで詰られそうなこのご時世。
 だが待ってほしい。生物とはそもそも種の保存を第一の目的に存在しているのではないか。その目的を無視した口触りの良いおためごかしで恋愛弱者どもをごまかしていいのか。恋をしたいなら、遺伝子を残したいなら、恋愛という戦争で生き残りたいなら生物学を学びやがれこの野郎。
 そんな叫びが聞こえてくるようなコメディです。

 第1話1ページ目からNTR現場を目撃する主人公・久慈というショッキングなスタート。寝取られた、というかそもそも「お前の方が浮気相手だ」と言われた久慈は、昔から男らしくないことがコンプレックスの男性。
 浮気した元カノいわく「最初は色白で清潔感あってユニセックスな久慈くんがいいなって思ったけど… 筋肉質で背も高くて野性味もある元彼と久々に出会ったら「ああ…やっぱりこれが本物の男よね」って思っちゃって…」とのこと。
 もう少しこう何というか、手心というか…
 肌が弱いから化粧水での保湿が欠かせず、体毛が薄いのでわき毛もすね毛も生えず、懸垂が一回もできない程度に華奢で、その上で別に美形ではないという、自称「「男としてイケてない」が切実な男」の久慈。男らしくなくたっていいじゃないかと叫びやすいご時世ではありますが、そう叫ぶことと、男らしくない久慈がモテるかどうかは別の話だし、久慈が男らしさに憧れるかどうかも別の話。

 そう、男らしさ女らしさを声高に主張することが、多様性の名のもとに膺懲の一撃を加えられるような振る舞いだとしても、男らしい男、女らしい女を目指すことは個々人の内心の問題だし、男らしい男、女らしい女を好きになることも個々人の内心の問題なのです。

 モテる人間がいてモテない人間がいる。
 モテる人間像に憧れてそうなろうとする。
 それはどちらも当然のこと。生物学に言わせれば。

 モテに悩める久慈や生徒たちを、生物学部部長にして全国でも有数の学力、スポーツや芸術の8つの分野で賞をとり、モデルもしていてミスコン優勝経験もありSNSのフォロワーもワッサワッサな女子生徒・阿加埜が、生物学の教えでありがたくも導いてくださるのが本作なのです。

 男らしい男がモテるのはメディアにそう刷り込まれたからだと主張する。
 同じ男性を好きになった友人とフェアであろうとして、友人を自分と彼のいるグループに入れてあげる。
 自分が良ければいいじゃんとビッチ戦略をとる。
 そんなのはノンノン。生物学から見ればまったくの筋悪です。

 たとえばクジャクを見ろ。あいつらのオスには長くて派手な尾羽がある。そのせいで飛ぶのは苦手だし、目立つせいで外敵に見つかりやすい。生きる上では実際的な意味は何もない。でも、あいつらにはそれがある。進化の果てに、淘汰の末に、長くて派手な尾羽を獲得している。なぜか。それは、あるやつがないやつよりメスにモテたからだ。なぜメスはそれを好むのか。そんなことはわからない。なぜか好むのだ。だが理由なんか関係ない。それを持つオスがなぜかモテたから、それを持たないオスより多くの遺伝子を残せた。その結果、クジャクのオスの尾羽は役にも立たないのに長くて派手になったのだ。
 それこそが性淘汰。生物学の知見の一つなのだ。

 こう説く阿加埜は、「恋愛弱者男子を救う会」を立ち上げようとした、外見や性格に十分な資本が投下されていない男子生徒たちに、「生まれつき外見が悪いだけで… 何も悪いことはしてないのに… 彼女が作れない人生確定何ですか?」と詰め寄られます。まったく、彼らにしてみれば青春の絶望の中で縋った「多様性」という名の蜘蛛の糸をズタズタにされたのですが、阿加野は言うのです。

「(生物学的には)そうだ」

 と。
 「な…なんて冷酷な女だ」と、人生最初のステ振りに失敗した男子生徒たち(と久慈)は慄くのですが、それに続く阿加埜の言葉は一つの真実ではあります。すなわち

いかなる倫理や道徳…正論を振りかざしても 「好き」という感情までは動かすことができない
(p39)

 「倫理や道徳」「正論」というものは、社会の中から生まれてくるものです。それらが、平等で公平で公正な社会を運営するために必要なことは確かです。ですが、人には感情があります。それは「好き」であったり「嫌い」であったり「こうなりたい」という憧れであったり。それらは、社会で身につく後天的な倫理や道徳、正論などを無視するように、ごく個人的なものとして本能の奥底から湧き出てくるのです(もちろん、正論などに沿った形で現れもしますが)。
 そのプリミティブな感情、感情に基づいた行動は、多くの生物で見られ、それらを研究する学問こそが生物学。
 すなわち生物学を学べば生物の本能が分かる。本能の第一義である生殖もわかる。つまり、モテもわかる。だから、モテる! 嗚呼、生物学に栄光あれ!!

 ……といけばいいのですが、あいにくと生物は、まさに「多様」な性質をもつことで単一の理由による滅亡を回避して、種として生き延びてきました。例外的な振舞いをするものが一定数いることで、群れごと崖から飛び降りるレミングスのような事態を防いでいるのです(レミングスのそれは俗説のようですが)。
 ただでさえ、なまじ知性や精神が複雑化してしまった人間、例外の総数やバリエーションは増え、生物学的知見に従わない例は、それがマジョリティにはならずとも、無視できないくらいには存在するのです。
 なものだから、ヒロインである阿加埜も困ってしまうのです。久慈が全然自分になびいてくれないものだから。
 アプローチがどう見てもポンコツな阿加埜も悪いのですが、教師と生徒という社会的身分に囚われている久慈は、いくらグイグイいっても好意を持ってくれないし、過去にあったはずの自分との接点を全然思い出してもくれない。自分が恋愛の当事者になってはどう生物学を適用していいかわからずアタフタ。かわいいね。
 そう、この作品は、生物学の無茶苦茶な理屈で各種問題をバッタバッタとなぎ倒すコメディであり、生物学でモテの講釈を垂れてくださるくせに自分はからっきし、そんなポンコツ阿加埜のラブコメでもあるのです。

 あとは、他人を罵倒する言葉のチョイスも好きなんですよね。
「こんなしょうもない末代男子」だの。
「お前のようなバカ丸出しは淘汰されて当然だ 恋のライバルをグルチャに招くなど「私は世にも珍しい逆NTR好きの女です」と告白してるようなものだ」だの(それに対する「そんなバカな」というのもなんか間抜けで好き)。
「黙って聞いてりゃさっきからファブルみたいな気の抜けた喋り方で下らんことをペラペラと…」だの。
 好き。
 恋愛やモテの問題を滔々と語る生物学でむりやり解決していくその剛腕は、読んでてとっても愉快。8割の笑いと2割の「なくはないかな…?」の思いで楽しく読めちゃいます。
 第一話はこちら。
comic-days.com
 
 ところでこれは最後に言っておかなければいけないことですが。

※この物語はあくまでフィクションです。
作品に登場する生物学用語は実在しますが、その解釈はあくまで作品独自のものです。
(1巻 カバー折り返し)

 用法用量には十分注意してお読みください。あくまでクジャクの話ですから……

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