最新刊で吸血鬼vs探偵の話も一区切りの『よふかしのうた』。
吸血鬼とはどんな存在なのか、その中でもナズナはどんな吸血鬼なのか、というところに踏み込んだエピソードでした。吸血鬼を敵と憎む探偵・鶯アンコこと、目代キョウコ。
ナズナの初めての友達。
ナズナの初めての眷属候補。
そんな彼女が激情と冷徹な計算の狭間で襲いくる様に、吸血鬼と人間の深い溝を感じましたが、エピソードがひと段落しての彼女とナズナのコミュニケーションには、そんな溝など本当にあるのだろうかとも思いました。
吸血鬼と人間。捕食者と被捕食者。決して相容れない存在であるように思える両者でありますが、その実そんなことないのではないでしょうか。
人間と吸血鬼に限りません。本作では、一見まったくの別物に思えるものも、それらは別次元の隔絶したものではなく同次元の地続きにあるもので、それらが現れる地点が互いに遠く離れているからまったくの別物に見えている、というものが多くあります。
大人と子供
たとえば、大人と子供。
そもそも10巻で回想されたそのシーンで私はこの考えを思いついたのですが、コウが酔っぱらったキョウコの介抱をしているシーンで、彼女の気を紛らわせようとコウは自分の話をします。
俺、学校ではまあまあ優等生だったんですけど まあ、色々あって嫌んなっちゃって今この有様で
夜、いつもみたいに歩いてたら、学校の先生とばったり会っちゃって
その先生、あんまり好きじゃなかったんです でも、夜に会った先生は、先生じゃないみたいで、お酒も飲んでてすごく話しやすかった
最近、本来なら出会うことなかっただろうなって人と知り合えて 色んな大人がいるんだなって 俺、大人ってもっとはっきり子供とは違う生き物なんだって思ってたんです。
ちゃんと俺達の延長にいるんだなあ。
(10巻 p139、140)
このコウの思い出話は4巻第35夜での出来事ですが、このときにコウは、大人も「俺達の延長」にいるんだと気づきました。大人は、子供がある日突然生まれ変わって別の存在になるわけではないのです。
法律上の成人年齢とか、成人式とか、元服とか、人が社会的に大人とみなされるきっかけはありますが、それはまさに大人と「みなされる」ということ。大人という肩書を与えられることにすぎません。その肩書をつけなければいけない場、たとえば法的な権利の行使や、職業としての立場、まさに教師として生徒の前に立つときなどでは、大人としてふるまいますが、その肩書が必要とされない場では、必ずしも「大人」らしくあるわけではないのです。
したたか酒を飲んだ夜の帰り道なんて、そこはもう私人の領域。たまさか生徒と会ったからといって、すぐに教師の、大人の肩書を取り戻せるものでもありあせん。むしろ、時には重苦しささえ感じるその肩書を積極的に外したりもします。
先生だってな 夜は先生じゃないんだよ。
(4巻 p99)
馬鹿言え こんなこと言うの夜だけだよ。
(4巻 p107)
このように、担任教師とコウは夜の公園で、普段学校でお互いが身に付けている教師と生徒、大人と子供という肩書、あるいは関係性を下ろして、思いもよらない会話を繰り広げました。
ただ、コウと教師が出会うシチュエーションは多岐に広がりますが、そのすべてで肩書が外れるわけではありません。
昼間なら。
夜でもほかの人のいる街中なら。
教師が酔っぱらっていなかったら。
状況のグラデーションで、コウと彼の態度はいかように変わったでしょう。
それゆえの、「一見まったくの別物に思えるものも」「同じ地続きにあるもの」なのです。
吸血鬼/人
そもそも、この作品の肝の存在である吸血鬼も、人間とは別物のようでありながら、その実近しい存在です。
たしかに吸血鬼は、歳をとらず、銃で撃たれても死なず、血を吸う、人とはまるで存在の強度が異なる生物ですが、彼や彼女は(真祖とナズナのような例外を除けば)元人間。吸血鬼として活動していくと人間のときの記憶は忘れていくようですが、それは人間としての社会常識や倫理観、あるいは言語を忘れるわけではありません。おそらくエピソード記憶に類するものが消えていくのでしょう。
吸血鬼は人間よりもはるかに強いですが、人間よりもはるかに少数派。それゆえ、人間を捕食しなければ生きていけなくても、人間全体を支配下に置くことができるわけではなく、むしろ吸血鬼の方が人間社会に紛れ込んで生きています。これができるのも、吸血鬼が人間社会で暮らせるだけの常識や倫理を持ち合わせているから。自分たちは人間とって忌避すべきものであり、それゆえ自分たちの異常な特性を隠さなければいけないと理解しているから。
生物としての吸血鬼と人間はまるで別物であっても、(互いの同意の上ではなくとも)同じ街で共存できるくらいには、同じ社会的地平に属するものなのです。
また、人間時代の自分の血を吸うことで記憶を保持しているカブラや、同じ吸血鬼からも異端視されているキクがいるように、吸血鬼の中でも個々の在りように差があります。それは、人間個々人の在りように差があるのと同じことです。
人間が、人間というカテゴリーの中で広く分布しているように、吸血鬼は吸血鬼というカテゴリーの中で広く分布する。ならば、そのはじっこ同士の差はいかほどのものなのでしょう。
夜/昼
本作は、学校に行けなくなったコウが夜の世界に足を踏み入れたことから始まりますが、その夜と昼の差も、考えている以上に明確ではありません。
もちろん日の出日の入りというわかりやすい境目はあります。ですがそれは所詮定義の話。日の出直後の朝はまだ暗く、日の入り直後の夜はほの明るい。朝にもまだ夜は居残り、夜にも昼は浸食しています。
自然現象の上での明るさだけでなく、人間社会ゆえの明るさや人の流れも、夜と昼で明確に分かれるわけではありません。都会と田舎(これすら地続きの概念んですが)で夜の深さは違いますし、大みそかやお祭り、あるいは大規模なスポーツの大会などの祝祭によっては真夜中にすらその静けさはありません。
コウが「ここには僕しかいない」と「そんな錯覚」(1巻p12)できるような夜は、いつもそうだとは限らないのです。
上で、人間と吸血鬼の、カテゴリー同士のはじっこの差と言いましたが、考え方はそれと近しいものです。人間と吸血鬼が生物として明確に違うように、昼と夜も日の出日の入りで明確に線は引けますが、その引いた線のあたりにはぼんやりとしたあいまいな領域が広がっているのです。
恋/友情
さらに言えば、コウが吸血鬼になるためにナズナに恋をしなければいけないという条件がありますが、この恋とはどのような感情なのでしょう。
恋愛と友情は同時に成立しないという話は巷間に流布していますし、そうするとその二つは相反的なもののように思えます。現に、コウはナズナに対して強い友情を覚えているようですが、ナズナに血を吸われても吸血鬼になっていない以上、恋をしているわけではないようです。
しかし、10巻で登場したプルチックの感情の輪。
(感情の一覧 - Wikipedia-Plutchikの感情の輪 作成者:Doomdorm64)
8種類の基本感情と24種類の応用感情がありますが、この中に「愛」はあっても恋や友情はありません。それはおそらく、恋も友情も、「恋愛」や「友愛」という言葉で表せるように、愛の一形態だからなのではないでしょうか。
それゆえ、恋愛と友愛で表出した形が別ものであっても、その根源には共に愛があり、それがどこで分かたれたものか、明確に指摘することはできませんし、現に現れているその中にも、恋愛の中に友愛が、あるいはその逆が入っていないとも限らないのです。いえ、共に同じ愛だというのなら、一切入っていないという方がむしろ不自然なのではないでしょうか。
現に、セリと、彼女の眷属となったメンヘ…あっくんの関係は、元々友達から始まったものでしたが、「友情が恋慕に変わる事は珍しくない」(4巻 p5)というように、感情が変化していきました。
人が吸血鬼になるためにいかなる恋をしなければいけないのか。なれるものとなれない者がいる以上、そこには明確に違いはあるのでしょう。しかし、その違いがどこにあるのか、外からこれだとはっきり言えるものではないと思うのです。吸血鬼になった後で事後的に、「いろいろなことがあったけど、君はわたしに恋をしたんだね」と、恋愛の情を持ったことが判明するものなのではないでしょうか。
おまとめ
以上、いろいろと例を挙げてきましたが、普段私たちが別物と認識しているものは、まったく別次元に存在しているというわけではなく、同じ次元の遠い場所に存在しているものだと言えるのでしょう。
人と吸血鬼は、子供と大人は、恋と友情は、昼と夜は、間の壁を乗り越えるものではなく、知らずの内に変わっていくもの。いつの間にかそうなっているもの。TPOで変わりうるもの。
世界はソリッドに分かれているように私たちはつい思ってしまいますが、もっとずっとシームレスで、ぼんやりしてて、明確な境界線がありそうでない世界に生きているのです。
たぶんそれは、敵と味方もそう。普通と異常もそう。
本作は、夜と昼を、人と吸血鬼を行き来するコウの目で、それを見せられる作品なのかもしれません。
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