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漫画の話です。

『BLACK LAGOON』「信用」と「信頼」の違いと、「頼」るロックの信念の話

 メリークリスマス!!

 閑話休題、先日発売された『BLACK LAGOON』13巻。前巻から2年以上空いていますが、それ以前がよっぽど空いていたので、むしろ早いと思ってしまいますね。不思議不思議。

 さて、そんな13巻では、前巻から始まった〈五本指レ・サンク・ドワ〉編がちょうど終わりました。黒人の大男ばかりを狩るスーツ姿の女五人組、〈五本指〉が起こした事件の中で、ラグーン商会のボスにして知的なタフガイ・ダッチの知られざる過去が仄見えたり、レヴィの意外な面倒見の良さが現れたり、表の世界にシマを広げようとしてるバラライカが苦労したりと、血と硝煙でけぶるロアナプラに、また新たな一面が見えてきました。

 で、そんな事件もケリがつき、〈五本指〉の一人だったルマジュールをロアナプラに引き込んだレヴィ。仲間に見捨てられたルマジュールを生き残らせ、ホテル・モスクワとの和解を仲介し、街での生計や商売道具も見繕ってやるという、普段のガラッパチで刹那的な彼女からは思いもよらない面倒見の良さに、ロックも驚きました。

「随分と彼女の世話を焼くじゃないか。何が気に入った?」
「別に。」
「やっぱり慕われちゃ放っておけないか?」
「……殺しで飯を食ってるからよ。一つ、決めてることがある。
星の廻りで敵味方になるのは運命だが——良くしてくれるやつには良くしてやる。邪険にして無駄に恨まれることはねえ。
正面から撃たれても、背中から撃たれることはねえという—— ちょっとした願い・・だ。」
(13巻 p95,96)

 きったはったの緊張感の中で生きているからこそ、その緊張を緩めて精神を休めさせられる関係性が必要だ。レヴィはそう言うのです。
 彼女のそんな考えにロックは、「孤独じゃないと生きていけないタイプなのかと思ってた」と冗談半分本気半分で軽口をたたきますが、それをレヴィは静かに訂正しました。

何処に居たって孤独は毒だ。
それに――
信用と信頼は似てるが少し違う。頼るのは好かないし、頼られても困る。
(13巻 p97)

 信用と信頼。
 この二つのが違うものであると評するのを私が見たのは、これが二回目です。一度目は、往年のライトノベル無責任艦長タイラー』の中でした。

 C調スペースオペラの優として(ほかに追随した作品があるかは知りませんが)、リブート作品も含め50冊以上、漫画化にアニメ化もされた名作。さすがに30年も前の作品ですので正確にどの巻だったか記憶は定かではないですが、準主人公の一人であるススム・フジが、彼の副長であったミツル・スナガによって、アンドリュー・バーミンガムを紹介されたときのエピソードだったはずです。
 脱法的な輸送任務を依頼するにふさわしい人材として、スナガは悪友であるバーミンガムをススムに紹介するのですが、そのバーミンガムは「ちょろまかしのバーミンガム」とあだ名される、物資横領の常習犯。有能ではあっても遵法意識の極めて低い彼を紹介するときにスナガは、「信頼はしても信用はしない。そんな相手」(大意)と冗談めかして言ったのです。

 信用と信頼の違い。
 当時『タイラー』を読んだ私は、「能力には信をおくが、心根にはおけない」というニュアンスを、幼心に感じ取っていました。
 アウトローな感じ。能力ゆえに素行の悪さが見逃される感じ。悪友同士が軽口をたたき合う気の置けない感じ。そういう諸々もひっくるめてなんかカッケェと思い、いまだに記憶にガッチリ刻み込まれています。

 ですが、レヴィの言わんとしているところは、そんなブロマンス的ハードボイルドさとは違うようです。

「俺はお前を頼るし、頼られたいと思ってる。信頼・・しろよ。」
「おう、信用・・してるよ。」
(13巻 p98)

 ロックの「信頼・・しろよ」という言葉に「信用・・してるよ」と、わざわざ傍点を振って違いを強調して返すのです。ここには、『タイラー』のそれよりだいぶ虚無的で冷血的なものがあるように感じます。
 彼女の言わんとしているところは、まさに「信『用』」と「信『頼』」の違いで、「用いる」というのは自分を主体にして補佐的にあるいはビジネスライクに相手に信を置くこと。それに対して「頼る」というのは、ある場面での主導権を相手に任せた上で信を置くこと。そんな、自分と相手のどちらに主体・主導があるのか、という点に差異があるように思えるのです。
 それはとりもなおさず、このロアナプラという明日をも知れぬ危険な街で、彼女がどう生きてきたか、どう生きていたいかという信念、生き様を表しています。
 一人では生きていけないが、自分や場面の主導権を誰かに握らせてはいけない。「一個きっかり」の命、どうせ死ぬなら後悔しない死に方で、「正面から撃たれ」た方がマシ。
 群れてはいても一匹狼。そんなアウトローの生き方をまざまざと感じさせます。

 レヴィの言葉のの使い分けに、ロックがどう反応をしているのかは描かれていませんが、少なくとも先に「信頼」という言葉を使ったロックは、その言葉を彼女と同様にはとらえていないだろうし、あるいは彼女と同じような信念では生きていない。
 ならばロックの信念は何か。生き方は何か。
 ロベルタ編が終わったときの記事でも書きましたが
yamada10-07.hateblo.jp
yamada10-07.hateblo.jp
 端的にロックは、「面白さを求める」という享楽的な信念のために命を張っています。その命は、自分のものもだし、他人のものも。
 その後も各エピソードが描かれるたび、ロックのそのような面は表現されていますが、本エピソードのエピローグでも、張とカジノでルーレットに興じているときの問答で以下のようなものがあります。

「……依頼人に言われた。俺は——誰かの運命の、その行方・・が見たいんだと。」
「裁くのか? 泰山府君の様に。」
「それは俺の柄じゃない。だが、俺が指を添えることで——その人の運命のその先へ、辿り着くことができるかも。」
(13巻 p126,127)

 ロックの望む「面白さ」とは、誰かの運命の行く末。それがどこにいくか。自分が面白いと思えるところに収まるのか。それを見たい。
 ロックは何でも屋のラグーン商会に属する中で様々なトラブルに首を突っ込み、当事者のどちらにも肩入れせず、あるべきところに収めたい。それが彼の「面白さ」。昼でも夜でもない「夕闇」に立ち続けることでロックは、人の運命の行方を砂かぶりで見ようとするのです。
 でもそれは、非常に危うい立ち位置。

こう考えることはないか? 誰かの運命を変えたら――
お前自身も飲み込まれるかもしれん、傍観者ではなく… その当事者・・・になって。
俺は慎重なタチでな。そういう賭けは好ましくない。
(13巻 p128)

 張の忠告とも警告ともつかない言葉ですが、それにもロックは、例の悪い顔で返すのです。

ミスタ・張。そこまで肉薄しなけりゃ――… 誰かの人生のその先は・・・・・・・・・・見えないんですよ・・・・・・・・
(同上)

 彼自身は当事者になりません。あくまで、運命と対峙している誰かに指を添える傍観者。場の主役は相手に任せたまま、複雑な力場にほんの少し力を加えて状況を動かそうとするもの。
 だから彼は人を頼ります。場の主役は自分じゃなくていいから。
 主役なんてくそくらえ。自分はそれを最前列で楽しめる観客でありたい。
 あくまで自分は傍観者でいる。でもそれは当事者のすぐ隣。他人を呑み込む運命のすぐ隣。一歩踏み外せば簡単に奈落へ転落する際であろうと、そこでなければ楽しめないものがあるなら、自分はそこに立つ。
 それがロックの信念なのです。

 「信用」と「信頼」の違いから、ロックの信念にまで話が脱線していきました。おかしいな…タイラーの話をしてるときはこんな風になるとは思ってなかったんだけど……
 とまれ、また一歩ロアナプラのトラブルバスターにして、地獄の舞台のVIPシートギャラリーに近づいたロック。さあ14巻はいつになるかな……

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男児の写真から始まる「夢のような」読後感の物語 『遠い日の陽』の話

 11月の頭と終わりで気温が10度も違いますね。あっという間に冬。
 どうも、御無沙汰してました。

 それはそれとして、今日はモーニングの読み切りで掲載されたこちらの作品の感想です。
comic-days.com
 人生に空虚を感じている高校生が、フリマサイトでたまたま目に留まった、とある男性の子供時代の写真を購入するところから始まる、なんとも玄妙な味わいの物語。何か奇跡が起こるわけでもない、不思議なことが起こるわけでもない、でも読後に心の癒しとささくれを感じるような、えも言われぬ作品なのです。
 一言で言えば、夢のような読後感。
 でもそれは、明るさに満ち溢れた、とか、自分の思いがかなう、とかいうようなポジティブなものではなく、文字通りの意味。すなわち、地に足のつかない落ち着かなさ、ディティールがはっきりしないのに状況がすっかりわかってしまっているような謎の全知感、思い返してあれは何だったのかと首をひねってしまうような不可解さ、そんな、まさに寝ているときに見るあの夢を起きながらにして見たような読後感なのです。

 主人公の男子高校生・青木が、なぜかもわからず男児の写真に猛烈に惹かれること。
 その男児本人(が成長した大人)である出品者・ちひろと、フリマサイト上の売買だけで奇妙なコミュニケーションが成立すること。
 ちひろから写真と一緒に直筆の手紙が送られてくること。
 奇妙なコミュニケーションと写真で、少しだけ青木の生き方が変わったこと。
 ちひろの身に起きていた出来事。
 その出来事の後にまた起こった二人の交流。

 この一連の流れが読み手には、大抵の夢がそうであるように、シーンの状況が限定的にしかわからないのになぜか全体が把握できてる気になったり、シーンとシーンの間が大きく跳ぶのにその間に何が起こっていたのか了解できてる気になったり、そんなこと早々起こらんやろって普通なら思うことでもまああるよねと納得した気になったりという風に受け止められます。
 それはキャラクターの情報が最低限に抑制されている、でも想像させる必要な分は描写されているためなのかもしれません。
 キャラクターの行動に脈絡はなくとも筋は通っているからかもしれません。
 ちひろが一度も直接登場することなく、すべて青木のフィルターを通す形で現れ、すべて青木の独り相撲であるからかもしれません。

 あるいは絵の面で言えば、カケアミが多用され、暗くて重いのに明るくて軽いという相反する絵の印象があり、それもまた、夢のようなどこまでも広がる閉塞感を生み出していると言えるでしょう。線の疎密で濃淡を表すカケアミには、黒い(濃い)部分にも白(何も描かれていないところ)があるため、完全に塗りつぶされていない限り光が含まれています。そのため、色のついている部分でもどこか空気を含んだような軽さがあり、同時に線を描きこまれているが故の重さもあるのです。
 特に、ちひろから手紙をもらった後の青木の夢は、他の人が登場しないこともあり、二人だけの閉じた世界、という印象が強くあります。

 すべてが夢の中のようなふわふわした物語は、そこに喜びや怒りや哀しさや楽しさがあっても、薄膜一枚隔てたようでどこか現実感がありません。でもそれは決して悪い意味ではなく、実生活ではまず味わえない、「漫画を読む」という、物語の鑑賞を通さなくては味わえない類の体験なのです。
 この作品から意識して何か意味を汲み取ろうというのはきっと野暮なことで、まずはこの物語の空気に身を浸し、生身では早々得られない感覚を楽しんでほしいものです。夢と違って、何度でも繰り返し味わえるのが漫画の良いところなのですから。
 でも、きっと何度か読んだ後に、心の中に不思議な癒しと、どこかひっかかるささくれができていることに気が付くと思うのです。私がそうでしたから。

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『好きな子がめがねを忘れた』自信がなくて変化が怖い二人と、「そのままのあなたでいい」と祝福する二人の話

 アニメが始まり、最新刊である11巻も発売された『好きな子がめがねを忘れた』。

 前巻にて晴れて両想いになった小村くんと三重さん。
 つい色々なことを考えてしまう小村くんに、何考えてるんだかわからない三重さんと、一見正反対の二人がこうなるまでもだもだと長い時間がかかりましたが、改めて1巻から読み返してみたら、意外にも二人は似た者同士、そこまで言わなくとも、大きな共通点があることに気づきました。
 それは、二人とも自己肯定感が低いこと、あるいは自分に自信がないこと。そしてそれゆえに、変化を恐れること。
 そしてこの作品は、そんな二人がお互いに祝福を送り合い、自分に自信を持ち、変化を受け容れられるようになる物語でもあったのです。 

二人の自己評価

 小村くんの自己肯定感の低さ、自信のなさは、折に触れ現れています。
 たとえば、バレンタインで三重さんからチョコをもらえるか思い悩むシーン。

しょうがない… 来年の友チョコに期待しよう…
…来年も 「友」チョコなのか…?
…いや…本命チョコをもらえる気もしないけど…
…あるいは… あるいは俺が三重さんにこ…告白して…受け入れて… もらえたら…

(2巻 p72~74)

 たとえば、文化祭の準備の後に、三重さんのために靴を家までもっていってあげたシーン。

家まで押しかけて 迷惑になったかも 絶対挙動不審だったし お母さんきれだった
ごめん三重さん 俺 明日も元気な三重さんが見たくて

(5巻 p91)

 たとえば、自分の趣味がつまらないものなんじゃないかと思い悩むシーン。

何もないゆったりとした時間にこもるのが好きだ でも唯一の趣味が無になることってなんだ? 三重さんを好きになるまでは気にしてなかったことだけど
絶対に三重さんの隣にいたいのに なのにどうしても自分に自信が持てない

(7巻p79)

 これらはほんの一例ですが、三重さんにかいがいしくお節介を焼くくせに、そんな自分に自信がない小村君です。7巻の例は、非常に象徴的ですね。

 対して三重さん。小村くんから見れば、自分にはない魅力で溢れ輝かんばかりの女神(主観)ですが、その実彼女の内心が描かれるシーンでは、しばしば彼女の自分への自信のなさが漏れています。


だから…いっぱい気を付けて 小村君と皆に迷惑をかけないようにしなきゃ
(4巻 p75)

 こんな感じです。自分は「忘れっぽ」くて「ぼーっとして」て「ばか」だから、「皆に迷惑をかけ」てしまうという自己評価。彼女も自分に自信がないのです。

 このように、意外な共通点が見つかった二人。この自己肯定感の低さの先にある悩みもかなり似通っています。
 自己肯定感が低いと思い悩む人間は、当然それを高くしたいと願いますが、そのために必然的に発生する変化が怖く、その一歩を踏み出せないのです。

変化への恐怖 現状への安住

 三重さんの隣にいるために、よりよい自分になりたいと思う小村くんですが、その一歩を踏み出せません。なぜなら、よい方へ変われる自信がないから。

きっと情けない顔をしてるんだろう そりゃそうだ
嫌われるかもしれないし 今の関係が壊れるかもしれない 不安でいっぱいなんだから
(2巻 p79)

 何かが(具体的には三重さんとの関係が)変わったときに、それがポジティブな方へ変化すると小村くんは思えません。さいころの目はイチが出るにきまってる。まあ自己肯定感が高い人間ならハナからポジティブな変化を期待できるでしょうから、そもそもそれが低い小村くんには当然の意識でしょう。だから、変化が怖い。変わることが不安。変化をもたらす一歩をなかなか踏み出せません。

 三重さんは、上の引用にもあるように、「ちゃんとしようと思」っても他人のやさしさに「甘えて」しまい、変われないタイプ。変わりたいと思っても、今のままでも居心地がいいと思わされてしまって、ついつい変わらないままを選んでしまいます。
 小村くんの言葉を借りれば、「今が幸せで このまま何も変わらなことを祈ってしまいそうになる」(8巻 p99)二人なのです。 
 でも、そんな二人も変わっていきました。変わる勇気を持てました。

変化の覚悟、嫌われる覚悟

 その最初の転換点は、4巻での校外学習です。

「校外学習のとき …ほんとに すごくうれしかった」

(8巻 p98)

 とあるように、それは二人の共通認識なのでしょう。

 その校外学習では、皆の予想通りめがねを忘れた(正確には持ってきた予備の眼鏡が伊達だった)三重さんが、それを隠そうと振舞った結果、結局小村くんに「迷惑」をかけてしまい、思わず彼の前で泣いてしまいました。

……小村くんが私を励ましてくれるたびに 安心しちゃう私がやなの

(4巻 p95)

 上での引用のように、「皆に迷惑をかけないように」と前日布団の中で決心したにもかかわらず、めがねを忘れてしまった三重さん。まずその事実に自己嫌悪し、そんな自分に気を遣ってくれる小村くんに甘えてしまう自分にまた自己嫌悪してしまうという負のスパイラル。
 そして、涙が止まらない三重さんをどうにかして落ち着かせようと小村くんが覚悟を決めて言ったのが、

(4巻 p98)
 この殺し文句。このセリフこそが、変化を恐れずに前に進もうとした小村君の最初の一歩でした。
 なぜってこのセリフ、小村くんは、三重さんとの関係が変わる、有体に言えば三重さんにキモがられて嫌われる覚悟をしたうえで、それでも彼女を慰めようと言ったものだからです。

俺にもあるよ
自分で自分がいやになっちゃうような そんな気持ち

(4巻p97)

 こんな思いを踏まえて発したのが、先のセリフでした。
 「絶対に知られたくなかったし 絶対に話したくなかった」のは、それを言えば三重さんに嫌われると思っていたからです。なんせ、自分を頼ってほしいから日常生活で不便を強いたいってことなんですから、そりゃあ言えませんよ。
 でも、小村くんは言いました。三重さんを安心させるために。今の、三重さんが自分を頼ってくれるなあなあの嬉し恥ずかしな関係が悪い方に変わるかもしれないのに、それでも。
 これは、彼の大きな一歩です。

「そのままのあなたでいい」という祝福

 そして、三重さんにとってもこの出来事が非常に印象深いものになったのは、上記のセリフの後の、「……三重さんの助けになれるのが 嬉しいから」があったからでしょう。
 「助けになれるのが嬉しい」とは、あなたのために何かすることが私の幸いである、を意味する奉仕の言葉であり、また、失敗をするあなたであろうと私にとって特別である、という祝福の言葉です。素晴らしいあなただからこそ、その助けになれるのはとても嬉しいことなのです。
 つまり小村くんはこのとき、自己嫌悪に沈む三重さんを、そのままのあなたでも素晴らしいのだと言ったも同然なのですが、これはとても大事なことだと思うのです。

 思うに、人が自分を変えようとしたときに、「嫌いな自分」からの斥力をそのエネルギーにしたとして、果たして変わった先の自分を好きなることはできるのでしょうか。変わった自分を肯定的に見ることはできるのでしょうか。
 嫌いな自分を出発点にしたら、そのゴールも結局、嫌いな自分から地続きのものになってしまい、「『嫌いな自分』ではなくなった今の自分」という、嫌いな自分を基準としたものになってしまうのではないでしょうか。
 なので、そうではなく、「今の自分もいいけどこうなった自分はもっといい」というように、今の自分を肯定的に見た上で変化した方が、より健全な変化になるのだと思うのです。

 そのため、今の自分が嫌いな三重さんに、今のあなたは特別である、今のあなたは素晴らしい、というメッセージを小村くんが送ったことで、三重さんはいやなところもある今の自分を受け容れて、その上で変われるようになったのだと思います。
 だから、すぐにはこの言葉の意味がわからず、一晩考えてもなお不明であった三重さんも、翌日にまじまじと見た小村君の表情に、友人であるあすかちゃんにも浮かんでいた恋の色、誰かを特別だと思う色を見て取って、「私 小村くんの特別なのかな そうだったら うれしいな すごく そっか きっと私も」と自分の感情を自覚したのです。

三重さんから小村くんへの祝福

 さて、この三重さんが小村くんからもらった「ありのままのあなたでいい」という祝福のメッセージ。逆に小村くんはもらえたのかと言えば、ちゃんともらえています。
 それは水族館での出来事。自分は三重さんと不釣り合いなんじゃないか、自分は三重さんに比べて、何もなくて空っぽで、劣った人間なんじゃないかと一人悩む小村くん。「唯一の趣味が無になること」である自分に少なからずの絶望を覚えていました。
 そんな中、楽し気に水槽を眺める三重さんに、なぜ魚が好きかと小村君が問うと

基本はこういう… 水槽をゆらゆら~って泳いでるの見るのが好きで…
(中略)
見てるとね… なんかこう… えっとね

(7巻 p85,86)

 と予想外の答えが返ってきました。
 まさか自分の趣味と同じ理由で好きとは思わず、呆然としながら

「…俺が コインゲーム好きなのも 同じ理由…」
「えっ」
「無になれるから…」
「あっ あー! なるほど」

(7巻 p87)

 「一緒だね」。
 この言葉に、どれだけ小村くんは救われたでしょう。「無になること」が趣味である自分でいいのかと思い悩んでいたのに、その趣味がまさか大好きな三重さんと一緒。
 そんな趣味でもよかった。そんな自分でもよかった。
 三重さんは意識していなかったでしょうが、これは間違いなく、今の小村くんはそのままでいいという、彼女からの祝福のメッセージでした。
 祝福された小村くんは、勇気を得て、自分から三重さんの手を握り、


つくづく俺は面倒な奴だと思う 頑張ろうって決めたのに 今度は本当に頑張っていいのか不安になって
でももう大丈夫だ
何もない俺のままでいいって思えたから
(7巻 p92~94)

 と今の自分を強く肯定できたのです。

変化を受け容れる覚悟 現在と未来への祝福

 時は少しずつ流れ、中学卒業、高校進学が意識されだします。三重さんが女子高への進学を希望していることもわかり、「今が幸せで このまま何も変わらなことを祈ってしまいそうにな」っても、そんなことはあり得ないのです。
 でも、今の自分を肯定でき、変化することを恐れなくなった二人には、それは大きな障害とはもうなりません。特に小村くんは、胸を張って言います。

「…怖いのかな なんか… 変わっちゃうのかなって思うと…」
「…俺もそう思ってた
…でも 三重さんと一緒に変わっていけるなら それがいいって思ったんだ」
(中略)
「俺もずっと自信がなくて こんな俺が三重さんと…いいのかなって思ってた
…でも…三重さんが俺に自信をくれて 俺は俺のままでいいって思えたんだ
…俺… そのままの三重さんがいいよ」
(10巻 p138~140)

 改めて小村くんが送る、祝福のメッセージ。そのままのあなたでいい。あなたとなら変わることも怖くない。現在への祝福であり、未来への祝福です。

 変化を恐れていた二人は晴れて恋人同士になりましたが、その未来は常に変わるし、変わり続けていくのだと、気づきました。覚悟しました。

三重さんがめがねを忘れて そうして始まった俺と三重さんの日々が
形を変えて 色を変えて
これからも続いて行くんだ
(11巻 p138,139)

 そのままではいられない今。変わり続ける未来。そんな当たり前のことを、受け入れられたのです。

 改めて読み返して、自分に自信がなく、変化を恐れる中学生の心情の移ろいを、思った以上に丁寧に織り込んでいる作品であったことにびっくりしました。
 10巻で恋人同士になって、11巻の終りで元旦を迎えて、12巻で完結予定。高校入学するあたりでエンディングでしょうか。拙者後日談大好き侍、本編終了後の高校、大学その後のエピソードを見たいと血涙を流しながら望む者にて候。見たい…

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『正しくない先輩』の正しくない物語で描かれる平熱の正しくなさの話

 ジャンプ+にて7/17付で配信された読み切り作品、『正しくない先輩』。攻めた読み切りを数多く配信しているジャンプ+ですが、本作の攻めっぷりはかなりのもの。なにが攻めてるって、まさにその「正しくなさ」。
shonenjumpplus.com
 「先輩」が大学を卒業して以来、二年半ぶりに再会した「私」。カレー屋でマグロとカレーの相性に舌鼓を打ちながら思い出話に花を咲かせようとした矢先、先輩が唐突に告げる自殺宣言。そんなショッキングなスタートを切る本作は、「先輩」が死を選んだ後までを淡々と描き切ります。
 先輩は自殺ようと決心し、本当に死にました。「私」は止めませんでした。「私」は正しくない先輩が好きでした。
 これだけといえば、これだけの物語。でも、本当に「これだけ」でしかないかのように描く平熱の筆致が、この作品の恐るべきところだと思うのです。
 
 「先輩」は、「正しくない」ことをします。会社を無断欠勤し、知り合いにスパムを送り付け、賃貸の部屋にペンキをぶちまけ、そして、自殺しました。
 「先輩」は言います。「正しいことばっか言うんじゃねえよ」と。

仕事は出来ないし こうやって逃げてばっかりだし
短絡的で そのくせプライドは高くて
やることなすこと自分でも制御がつかない
迷惑かけるなって? そんなの無理だ
これ以上生きたら 何するか分かったもんじゃないだろ
(p26)

 自分は社会に不適合であると思い、この社会でこれ以上生きていくことが苦痛で、これ以上生きていたらどんなことをするかわからない。だから自殺する。
 そう考え、最後っ屁のように「正しくない」ことをして、仲良くしてくれていた後輩である「私」にこれから自殺することを告げ、いったん怖気づいて諦めながらも、「私」の予想を裏切るようにして本当に死ぬ。
 「先輩」は、「正しくない」まま死にました。

 「私」は、「正しくない」先輩が好きでした。「正しくなくて 不完全で予想外で 面白い」先輩が好きでした。
 「私」は、あの日の自分が「正しくない」とわかっていました。自殺を決心した先輩を止めず、山奥へ消えようとする先輩をただ見送りました。そのまま、自販機でジュースを買って、流れ星に目を奪われました。大好きな先輩が死ぬのを止めませんでした。
 結局先輩は怖気づいて、「私」と一晩語り明かしましたが、実はその日のうちに本当に自殺をしていました。

 先輩の自殺は決行され、「私」はそれを止めませんでした。
 先輩は救われなかったし、「私」は救いませんでした。
 「私」は救われなかったし、先輩は救いませんでした。
 
 自殺をすることが正しいか否か、と問えば、正しくないことでしょう。
 自殺をしようとしている人間を止めないことが正しいか否かと問えば、正しくないことでしょう。
 だからこの物語は、正しくない先輩と、正しくない「私」の、正しくない物語。でも二人は、ほぼずっと平坦でした。
 正しいとか正しくないとか、そういう話をすると、人はすぐにヒートアップします。作中でも、先輩は上司から「正しいことばっか」言われて、作中で唯一と言っていい激情に駆られましたが、またすぐに平静を取り戻しました。
 この冷静さ、別の言い方をすれば日常感が、本作の最も印象的な点です。正しくない自殺を正しくないことを前提としたまま、大きな悲嘆も喜悦もない日常の空気として描き切る。最後の「私」の感情の発露が日常かと言えば審議ですが、それでもそこには、奇妙なほどの冷ややかさがあります。 
 正しくない自殺をここまで抑制的に描いたことで、読後には戸惑いともいえる感触が残ります。
 一度は自殺を止めた先輩が本当に死んでしまった悲しみなのか、「私」の予想が裏切られたおかしみなのか、先輩の生きる苦しみを思う辛さなのか、その程度で死を選ぶなんてと感じる憤りなのか、二人の生前の関係を思う抒情なのか。
 どの感情を選ぶのが「正しい」のか、そんな不安さえ思い浮かぶ結末。平熱のままに描かれたこの「正しくなさ」の物語に、感銘を受けたことですよ。

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『君と宇宙を歩くために』違くて同じ人間の、違うけど同じ感情の話

 今回も、『君と宇宙を歩くために』のお話。
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 主人公の一人である宇野は、作中で明言はされていないものの、自閉スペクトラムと思われる、「ちょっと人と違うところ」のある高校生男子。「記憶することが得意」だけど、「沢山のことを同時に行ったり臨機応変にすることが苦手」で「知らない人が沢山いる所は特に苦手」な性質があります。
 後者の性質が彼の社交を困難なものにしていて、見知らぬクラスメートから突然脈絡のない話題で話しかけられると、途端に恐慌に陥ってしまいます。

(1話 p29)
 大事なメモをいたずら半分の同級生に取り上げられ、「臨機応変に対応することが苦手」な宇野はその場から逃げ出してしまい、あとで小林からそのメモを返してもらい、彼と一緒に自分の家へ帰りました。
 失くしたと思ったメモを学校で探しているときや、小林と同道する帰り道では、普段とあまり変わらない姿の宇野でしたが、家に帰るとこそには、様子を一変させた彼がいました。

(1話 p37)
 声を上げて涙を流しているのです。
 この変わり身の理由は、彼の大事なノートに書かれていました。

(1話 p38)
 《悔しくても泣くのは家に帰ってからにする》
 宇野は、自分の性質をそのまま出すと、社会生活でにおいて不利益を被りやすいことを学び、少しでもマシな生活を送るため、そのようなルールを作ったのでした。

 自分にはわからなくても、自分には見えなくても、それを悔しく思い、悲しく思い、泣きたくなるほど辛い人がいる。
 このシーンは私に、そんな当たり前の事実を強く突きつけてきました。

 人は、自分のわかることしかわかりません。わかることはわかっているから、それについて悩むことはなく、当然のものとして受け入れます。
 わからないことについてとりうる態度は三択です。わかったふりをして受け入れるか。わからないまま受け入れるか。あるいは、わかっていないことに気づかずわかった気になるか、です。
 宇野をからかった同級生は、宇野のことを「ヤバい」やつだと「わかって」いました。彼の性質も何も知らず、ただ自分が変だと思うことをやっているやつだから「ヤバい」やつだと理解し、危険性はないけどイジったら面白そうなヤバいやつ、として宇野をからかいました。
 「ヤバい」宇野は、(ヤバくない)自分とは違う人間。そんな意識が、同級生にはあったでしょう。自分とは違う行動様式の人間だから、物事の受け止め方も自分とは違うし、感情表現や感情の種類も自分とは違う。そんな意識が、あったでしょう。
 いえ、彼だけでなく、同級生の行動を横で見ていた小林にも、多かれ少なかれ似ている、そんな意識があったでしょう。
 でも、そうではありません。宇野の性質が一般的な社交を困難にするものだとしても、喜怒哀楽や羞恥、悔しさ、といった人間の当たり前の感情が、彼にも当たり前にあるのです。そのコントロールの仕方が、他の人とは違うだけなのです。
 からかわれれば恥ずかしい。馬鹿にされれば悔しい。そんな当たり前の感情があるのです。

わからないことがある時は一人でも宇宙に浮いてるみたいです
聞いても教えてもらえない時もあります
上手にまっすぐ歩けない
それを笑われたり怒られたりすると 怖くて恥ずかしい気持ちになります
(1話 p42)

 この宇野の言葉を聞いた小林が、「ああ…何かわかるな 俺もバイト先でいつもそんな気分になる」と思ったように、宇野も小林も、違う人間だけど、同じ人間なのです。

 そして、このシーンが私に強く突き付けられたということは、私自身、「そんな意識」があったのでしょう。自分とは行動様式が違う人間は、自分とは違う感情で動いている。感情の湧き方が自分とは違う。そんなことを無意識の裡に思っていたのでしょう。
 でも、そんなことはない。なくはないこともあるだろうけど、そんなことはない方が圧倒的に多いはずです。

 わかったものしかわからない私たちにとって、私たちがわかっているものは、本当にわかっているものなのか、それともわかっている気になっているだけで本当はわかっていないものなのか、その両者を区別することは原理的に困難です。
 そして、優秀な物語は、その困難なことに気づくきっかけを、時に強烈に、時に優しく与えてくれます。今回は、けっこう強烈でした。家に帰ってからの宇野の嗚咽と、彼のメモの中身は、非常なインパクトでもって、わかったつもりになっていた私の全然わかっていなかったところを、蹴っ飛ばしてくれました。

 また、宇野のメモの中身の、《→何が悪かったか考えてみる ①お姉ちゃんに聞いたり相談してみる ②自分で調べてみる ③(判読不能)》の部分もインパクトがあります。
 これを己にルールで課しているということは、宇野は自分が周囲の世界のルールを理解していないことを理解している、ということです。
 自分にはその意味が理解できないけど、何か悔しく辛い気持ちになる理不尽な目に自分は遭った。そこにはなにか、「悪かった」ことがあるはずだ、と宇野は考えています。その「悪かった」ことは、彼自身が周囲のルールを破った「悪」なのか、それとも周囲の人間の悪意などの「悪」なのか、どちらもありえます。ただ、そのどちらであれ、宇野自身にはその場でそれがどういう「悪」だったかがわかりません。ただ、「悪かった」ことによって悔しさを覚えたので、その「悪」がなんだったのかを理解する、そうやって周囲のルールを少しずつ理解していく、そうやって自分の生活を少しずつより良いものにしていく。
 そんな当たり前なこと、当たり前すぎてみんな意識しないようなことを彼はしているわけで、それはとりもなおさず、彼の生活がそれだけ辛いものだという証左です。
 いってみれば、ルールのわからないスポーツをいきなりやらされたようなもの。野球は日本ではメジャーなスポーツで、なんとなく程度でもルールを知っている人は多いですが、全然知らない人から見ると、複雑怪奇極まりないものなようです。
 キャッチャーが捕ったボールがストライクとボールで何が違うのか。ファールグラウンドに飛んだボールがファールなのかフェアなのか。なんでランナーは勧めたり進めなかったりするのか。
野球の概要 - Wikipedia
 これを読んでみると、サッカーやバスケに比べて圧倒的にルールが煩雑なことがわかりますよ。
 宇野は、いきなりバットを忘れてバッターボックスに立たされるようなもの。
 このバットで何をするのか。どうやら投げられたボールを打てばいい。打ったら右側にあるベースに向かって走ればいい。次のバッターが打ったらピッチャーの後方にあるベースに走ればいい……
 そんなことを、少しずつ少しずつ、学んでいきます。
 宇野は本人の特性ゆえにルールを覚えるのが他の人より遅く、周りの人間がおおむね覚えた段階で、彼はようやくルールの存在に気づいたくらいのものです。だから、自分にわからないルールに出くわしたときは、誰かに聞いたり、自分で調べたりしなければいけない。そしてそれを忘れないように、あとで参照できるように、メモに残している。
 それは、彼が「宇宙を歩きたい」と強く願っているから。「わからないことがある時」でも、安心して生きられるようになりたいから。
 
 そんな強さが、彼のメモの文字から浮かび上がってくるようでした。

 さっそく第2話の前半が公開されています。
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 比喩の話だけかと思ったら、天文としての宇宙の話もちょろっとでてきました。これからどんな物語になるんだろう。わくわくしますね。

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『君と宇宙を歩くために』『税金で買った本』宇宙の中で自分を繋ぎとめる、言葉という命綱の話

 2023年8月号のアフタヌーンで掲載された、泥ノ田犬彦先生の『君と宇宙を歩くために』。
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 高校生が宇宙を目指す的な『宇宙兄弟』みたいな作品かなと思ったらあにはからんや、「”普通”ができない正反対な2人の友情物語」という惹句にあるように、真面目になるのがダサいと思ってしまうヤンキー気味な小林と、自閉スペクトラム(とは明言されてませんが)の転校生・宇野が出会う、社会とコミュニケーションの物語です。
 予想を裏切られながらもグイッと引き込まれるストーリーで、話の完成度が非常に高く読み切りかと思ったほどなのですが、どうやら2話以降は&sofaに掲載とのこと。追っていきたいですね。

 第一話で心に残るシーンは多くあるのですが、その一つがこれ。

(p43)
 タイトルにも掛かっているこれ。
 「記憶することが得意なのですが 沢山のことを同時に行ったり臨機応変にすることが苦手」という自身の特性に悩む宇野は、上手く対応できない事態に直面して、焦ったり困ったりするときを「一人で宇宙に浮いているみたい」と表現し、「上手にまっすぐ歩けない」と無力感に襲われるのですが、困ったときにすぐ参照できるようにと日常のルーティンを書き留めてあるメモを、無重力空間での命綱である「テザー」とすることで、「宇宙を歩きたい!」と前を向いて生きることを宣言するのです。

 このメモは、物語を駆動させるキーにもなっているのですが、日常のルーティンを書き留める、すなわち行動などのマニュアル化あるいは言語化は、作中で別の形でも現れてきます。
 それは、小林がバイト先で失敗した後に、他のスタッフからアドバイスを受けたシーンです。

(p62)
 マニュアル化とは、連続的な行動について、適切な言葉で適当な単位に分割することですが、そうすることで、実際に行動した時にやり方を忘れてしまっても思い出せるし、途中で止まっても止まったところからやり直せるし、行動について他人と共有することも容易になります。
 宇野とは違う形で、小林は行動のマニュアル化によって救われたのです。

 上で「マニュアル化あるいは言語化」と書いたように、マニュアルとは言語によって作られるものですが、本作では、他にも言語の特性を表している場面があります。それは、上で引用した小林のシーンの少し前、バイト先で、良かれと思ってやったのにそれを失敗してしまっていたことに気づいたシーンです。


あ~辞めてぇ
浮かれてただけじゃん
一個出来るようになったからって何だよ 何も変わんねーじゃんかよ
バカにしやがって…! クソッ…!
ああ いやちがう そうじゃない
《上手にまっすぐ歩けない それを笑われたり怒られたりすると怖くて恥ずかしい気持ちになります》
それだ
これはイラついてるんじゃねえ 怖くて恥ずかしいんだ
宇野もそうだった? お前も俺と同じだったのかな
(p56,57)

 今まで真面目になることから背を向けていた小林が、宇野との出会いを経て、今やっていることに真面目に向き合ってみようとやる気を出したにもかかわらずうまくいかず、かえって余計な仕事を増やしてしまった。
 自分のミスに陰で悪態をつく他のスタッフの会話を聞いて、小林は「バカにしやがって」と怒りを滲ませるのですが、宇野の言葉を思い出して、自分の今の気持ちを落ち着いて整理し、この感情が「イラついてる」のではなく「怖くて恥ずかしい」という気持ちだと理解したのです。
 すなわち、自分の感情の適切な言語化です。苛立ちの解消方法と、恐怖や羞恥の解消方法は別であるように、行動だけでなく、感情も適切な言語化をすることで、問題の解決を容易にするのです。
 
 さてこのシーン。最近、他の作品でもよく似たシーンを見た覚えがあります。それがなんの作品かと言えば『税金で買った本』の第56話。
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 この前後編の話は主人公である石平少年の過去編なのですが、その中で、現在の友人である山田との出会いが描かれています。山田が湯本という女生徒にひどいことをしたという噂を不審に思った石平が、山田をとっつかまえて詳しい話を聞こうとするのですが、問い詰めてくる石平に対し山田は噛み合わない返答をするばかり。それでも根気強く(そうか?)話を聞いた石平は、山田の考えていることをこう表現するのです。


(税金で買った本 56話 p15)


(同上 p17)

 この石平の喝破と、小林の気づきが、同質のものだと私は思うのです。
 すなわち、山田と小林二人とも、自分の思考や感情に、適切な言葉を与えられていないのだと。

 日本語には非常に多くの単語がありますが、その単語全てを知っているわけでなく、ましてや使えるわけでなく、日常的に見聞きし使用するのは、その中のほんの一握り。ましてや、まだ若かったりするなどしてボキャブラリーが少ない場合には、幅広い意味を持つ言葉でたいていのことを片付けてしまいます。
 「ヤバイ」「スゴイ」「ダサい」「エモい」「むかつく」「ハンパない」などなど。世代ごとに膾炙する単語の違いはあるでしょうが、いい意味悪い意味両者を含意できる単語がどちらの意味を表しているのか理解するには、非常な文脈読解能力が必要とされます。
 しかし、そのような便利すぎる言葉の多用は、えてして、自分や他人の感情や思考を極めて大雑把にまとめることになってしまいます。
 テストで平均点を越えた嬉しさも、恋人ができた嬉しさも、アイスのあたりが当たった嬉しさも、三年間最後の試合で勝った嬉しさも、せいぜい「超」「鬼」「激」など、程度を表す言葉を加えて量的な差異を表すくらいですべて「ヤバイ」で表してしまうことは、湧き上がった感情の中に含まれている、「嬉しい」以外の他の細かい成分をすべて無視し、すべて同じものとまとめてしまうことになります。
 その結果が、小林や山田のような、自分で自分の感情がよくわかっていない状況なのです。
 小林が、自分では苛立ちだと思っていた感情の下には恐怖や羞恥があり、山田が自分では怒りだと思っていた感情の下には羞恥や屈辱ありました。でも、それらの細かい感情になんと名前を付けていいかわからなかったために、「苛立ち」や「怒り」というラベルを貼ってしまい、苛立ちや怒りを晴らすための振る舞いをとってしまっていました。
 しかし、苛立ちの解消が恐怖や羞恥の解消に、怒りの解消が羞恥や屈辱の解消につながるとも限りません。小林や山田は、解消しようと思っても解消できない鬱屈に悩まされ、それを解消できない無力感が精神を苛んでいきます。
 あるいは、問題を解消できない無力感が、感情や状況に適切なラベルを貼る能力の形成を妨げたという方向もあり得るでしょう。
 小林は、小学校の二桁の割り算で躓いて以来、どうやって理解すればいいかわからず、どうやって教えを請えばいいかもわからず、他人からカッコ悪く思われないように、「バカ」って思われないように、「マジメに授業受けるのが怖くなって フケって逃げてた」のですが、勉強がわからなくなってしまい、自身の問題解決能力の自信を無くしてしまったために、小林は努力しない自分を選び、主体的にサボって、知能的・情緒的な能力の向上を放棄したのです。
 これを、彼らの個人的な問題と片付けてしまうのは簡単ですが、そうしてしまっては何も生みません。学校教育や、家庭環境や、地域社会など、一度躓いた人間をフォローできるセーフティーネットはなにかしらある、あるいはあったはずなのです。もしくは、あるべきだ、と言った方がいいのかもしれませんが。

 ともあれ、『税金で買った本』では、石平が山田に指摘をすることで、山田は自分の感情を前より適切に理解することができました。
 『君と宇宙を歩くために』でも、小林は、宇野の頑張りを思い出し、自分の感情をきちんと腑分けしたうえで冷静になり、他のスタッフにミスを謝罪し、それによって彼らからアドバイスを受けられました。
 心も、行動も、自分でもよく理解できていないままに振舞おうとすると、周囲とうまくかみ合っていればいいですが、いったん齟齬が起きると、途端に世界はぎくしゃくし始め不安定になりますが、それらに適切な言葉をつけられると、不安定な世界に放り出されても、自分の居場所をはっきりさせられたり、安定している場所へ自分を引っ張っていくことができるのです。

 言葉が生まれたことで、人間は精神世界をより深められるようになり、また莫大な情報を他者に伝達できるようになりました。言葉はあまりにも日常的ですから見過ごしがちですが、まさにこうして言葉にすることで、その重要性を改めて意識できますな、と。

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武士道とは(異世界だろうと)死ぬことと見つけたり 『異世界サムライ』の話

 立身出世に興味なく、器量を活かした女の幸せも興味なく、ただ剣に生き剣に死ぬことを望んだ女侍・月鍔ギンコ。戦場で死に損なってしまった彼女が、己を殺してくれる敵よ来たれりと仏に祈ると、その願いは聞き入れられた。すなわち、怪物が跋扈する異世界に彼女は飛ばされたのだ。
 オーク、バジリスク、ドラゴン、そして勇者。数々の強者が存在する世界で、果たして彼女は満願を成就できるのか……

 ということで、齋藤勁吾先生の新作『異世界サムライ』のレビューです。玉石混交と言える異世界/転生ものですが、ここ最近で一番ビビッときたのがこの作品でした。
 派手なアクション。テンポのいい会話。転がっていくストーリー。そしてなにより、主人公ギンコの人間性。これが本作をとても魅力的なものにしているのです。

 異世界/転生ものと言えば、主人公は前世の心残りを晴らそうとしたり、あるいは前世で苦労したからスローライフを目指そうとするのが多いもので、そのテの主人公は第二の生をポジティブに謳歌しようとするものです。
 しかし、本作の主人公ギンコは、元々いた中世日本で、無双の剣の腕で出世することにも、器量よしで良縁を得ることにも興味はなく、ただ武士として生き武士として死ぬことを望むのみ。戦で死に損なった後は、その望みはいよいよ強まるばかり。
 そう、彼女はとても前向きに望む後ろ向きな願いとして、つまり、よりよく死ぬために、異世界に跳んだのです。

「武士は矢弾飛び交う合戦にて散るが誉
わた…某も そのように死にとうございます
怒涛の如く押しよせる敵兵相手に一騎当千に斬りまくり
そして討たれて死ぬのです あとに残すは骸のみ」
「お前の剣は天才だ 剣の道で成功も名誉も意のままだぞ」
「立身出世興味なし」
「では女として生きるのは? お前は器量もいいし…」
「父上 某 女に非ず 侍に御座候!!」
(1巻 p8~12)

 この宣言どおり、ギンコは関ケ原の合戦に先鋒隊の足軽として参加し、長槍も持たず太刀のみで敵兵を斬り斃していくのですが、鉄砲の弾が鉢金に中り気絶、その間に戦は終わり、他の人間の骸が死屍累々と広がる中、ただ一人生き残ってしまったのでした。
 大戦は終わり時は泰平、武士として死ねた名もなき武士たちを羨み、生き残ってしまった己を恥じ、幽鬼のように諸国を流離っては自分を殺してくれるものを求めて立ち合うのですが、天才と呼ばれた彼女に敵う者はおらず、ただ自分のものではない骸を増やすだけ。
 仏門に帰依し、僧より説法を説かれるもまるで響かず、生き永らえた恥を、罪を深めるばかり。

仏さま 某は…たくさん人を斬りました
地獄で灼かれる覚悟です
某も彼らのように
熱く 戦いの果てに死にたいのです
赦しはいらぬ 敵がほしい
私が鬼なら 悪鬼羅刹のはびこる地獄の世へ いっそ——…
(1巻 p50,51)

 こう祈った時に起こった奇跡は、心の底からの祈りに報いた仏の救いか、それとも人を殺し続けた彼女への罰か。
 次の瞬間、ギンコは怪物が跋扈する異世界にいました。
 ゴブリンが森を走り、オークが街を襲い、ドラゴンが空を駆ける世界。
 人間たちは怪物たちと日々戦っている世界。
 すなわち、戦いが、強敵が、死が身近にある世界。
 こうしてギンコは、己が「熱く 戦いの果てに死」ねる(かもしれない)世界へやってきたのです。

 死は恐ろしいものであれど、不退転の覚悟でそれを乗り越え、信念のために戦って死ぬ。それこそが武士の生きざま。尊ぶべき美しいもの。
 まさに理想的な理念ですが、理想的なだけに現実にそれを内面化できている武士は多くなく、実際にそれに殉じて死のうとした(そして死に損なった)ギンコは、元々の日本でも稀有な人間ですが、じゃあそれが日本とは違う異世界にいったからといって、そこではマジョリティになれるかといえばそんなことはありません。日本でも異世界でも、ギンコの死生観・倫理観は非常に奇特なものです。
 弱きを助け強きを挫くといった普遍性のある正義と、戦いのために己の命を平気で投げ出す(そして立ち会った者の命も同様に平気で討ち果たす)破滅的な死生観が、まったく矛盾なく同居しているギンコは、異世界でもやはり異端視されるのです。
 周りの見る目ある者たちからそのように警戒されるギンコは、まるでハンターハンターのゴンか、ドリフターズ島津豊久のよう。

こいつは善悪に頓着がない
(中略)
あるのはただ一つ
単純な好奇心
その結果すごいと思ったものには善悪の区別なく賞賛し 心を開く つまり こいつは
危ういんだ… 言うなれば
目利きが全く通用しない 五分の品……ってとこか
HUNTER×HUNTER 10巻 p91,92)

これが怖いのよ
この時代のニッポンのブシは 同じ笑みで感謝と死が同居してるから!!
ドリフターズ 2巻 p195)

 こんな二人と対比できるような主人公なんですから、魅力的じゃないわけがないんですよね。モンスターに襲われた人間を助ける救世主でありながら、それを知らない人間からは「ドブ川みたいに血の匂いのするヤロー」よばわりされるこの二面性。それがギンコ。
 世界を救うことも、スローライフを送ることも興味なく、ただ戦いの果てに武士らしく死ぬことを望む彼女が、異世界でも異端視されながら、どう生きるのか。そしてどう死ぬのか。
 異世界にいる、「勇者」と呼ばれる強者たちは彼女を味方だと認識してくれるのか。それともギンコにとっての宿願となってくれるのか。
 モンスターは、人間は彼女にとって待ち望んでいた敵なのか。それとも、彼女こそが世界の敵なのか。
 今後物語がどう描かれていくのか、とても楽しみです。
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