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漫画の話です。

「BLACK LAGOON」悪役面のロックは「正しい」人間ではなかったのかという話

ということで、「BLACK LAGOON」のロベルタ編から感じた、「正しさ」の水準について。なにが「ということで」なのかは前記事参照。

キャクストンの信念、ガルシアの信念



そもそもがピカレスクロマンである「BLACK LAGOON」、作中の「常識」が主要な読み手である現代日本のそれと大きく違うので、「常識」やら「倫理」やら「正義」やらの客観的な絶対性などはハナからないも同然だが、ロベルタ編の終盤ではその「客観的な絶対性」のなさが大きな肝となっている。
ラブレス家当主殺害の復讐のために、グレイ・フォックスを殲滅しようとするロベルタ。自国の正義のためにラブレス家当主を爆殺し、「黄金の三角地帯」のシュエ・ヤン将軍を捕縛しようとロアナプラに滞在している「美国人アメリカン」ことグレイ・フォックス。ロベルタを止めようとロアナプラへ赴いたガルシアたち。
ガルシアは銃撃戦の中でグレイ・フォックスに保護されるが、彼らが父を殺したのだということに気づき、銃を向ける。だが、グレイ・フォックスのリーダー・キャクストンの信念に触れ、「復讐もまた正しい動機だ」という彼に向けて引鉄を引くことはできなかった。

人が死ぬことも争い事も止められないのなら…
せめて、無辜の人々が傷つけられることだけは防いでみせる。
ここで起こる罪業の中身を知らない将軍たちや政治家たちがこれを繰り返そうとする時――
ここだけでも、俺が食い止めてみせる。
無辜の人々の守護者となり、祖国の名を汚さぬ戦いを。
たぶんそれが俺の生きる役割なんだろう。
(9巻 p111)

ベトナム戦争の最中、部下達にレイプされそうになった少女を助けるために部下を撃ったキャクストンは、以降その信念に沿って軍務に臨み、最上に近い結果を残してきた。
彼は彼の信念で人を殺す。彼は彼の信念で人を助ける。それが彼にとっての「正しさ」だ。


ガルシアはキャクストンの信念に触れ、悩みぬくことで、彼自身の信念を見つける。

暴力の行使だけが、すべてを解決する手段だからだ。
(中略)
これを使うことは、僕からすべてを奪った――…
「死の舞踏」を踊ることにほかなりません、ならば――…
誰がそんな舞踏に加わってやるものか。
少佐は僕に、「復讐の権利がある」と説きました。
それならば、僕は敢えてその権利を使わない。
自ら踊るのも、誰かに踊らされるのも御免だ。
それが――…
「死の舞踏」への、僕からの抵抗だ。
(9巻 p165,166)

ガルシアは、父の復讐をすることで自分もまた「死の舞踏」のサイクルに囚われてしまうことを拒み、「あなたを殺さない」とキャクストンに言う。最終的に自身の身体を張って、ロベルタがキャクストンを殺すことを彼は防いだ。
彼は彼の信念で人を殺さなかった。彼は彼の信念で人を助けた。それが彼の「正しさ」だ。


殺した者、殺されようとしている者、殺そうとしている者、各々の中に存在している信念(主観的な「正しさ」)の内で、自分の信念を貫ききったガルシアは、ロベルタの矛を収めることに成功する。

悪人面化するロック



この相克する「正しさ」の中で、ガルシアもロアナプラもなんとか助けようとしたロックは、事件が佳境に迫るにつれどんどん悪人面になっていく。
最初は

(7巻 p83)
こんな顔をしていた人間が

(9巻 p44)
こんな顔を経て

(9巻 p256)
こんな顔になるのだから、悪人面万歳だ。
ロベルタ編の中のロック像については前回の記事で書いたので詳しいことは省略するが、ロックのこの悪人面は、読み手に向けて前景化している、相克する「正しさ」の外側にいるがゆえに、「正しくない」=「悪い」という形で造形されている。
ロックの「悪さ」は、事件が片付いたあとのガルシアたちの言葉と表情で印象的に示される。

あんたは、自分の愉しみのために――…
若様に命を張らせたんだ。
最高にスリルのあるギャンブルがしたかっただけなんだ。
それだけならまだ、許せた。
…いや、許せないにしても、ここまで頭にくることはなかった。あんたは――
若様を駒にした「カンボジア式ルーレット」を、善意の人助けだとのたまったんだ。
私の落ち度はそれだ。最後まであんたが悪党なのかどうか、わからなかった。
でも、もうわかった。あんたはこの街一番の――…
くそ野郎だ。
――空砲弾。
こけ脅しの魔法で、紛い物の真鍮だ。

(9巻 p258)

――確かに、
誰もが無傷ではすまなかったけれど――…
僕らは目的を果たした。
――ですが、それがすべてだと言い切る貴方は――…
貴方はもう――
この街の人間だ。

(9巻 p259)

「正しさ」を戦わせたガルシアとキャクストンは、同じ嫌悪と侮蔑の目をロックに向ける。「正しさ」を持っていた彼ら/そうでないロック、という構図が出来上がっている。
前回の記事でも書いたが、ロベルタ編の終盤はガルシア周辺の視線が主となり、読み手は特にガルシアの「正しさ」と同一化することになる(また、キャクストンの信念も丁寧に描かれているために、キャクストンの「正しさ」も理解できるようになっている)。読み手はガルシアの「正しさ」を内面化するために、その「正しさ」とまるで接点のない、享楽を糧に事件にかかわるロックが悪役面に映り、逆に、ロックが悪役面で描かれるために、ガルシアたちの「正しさ」を内面化しやすくなる。これは相補的であり、同時的でもある過程だ。
ガルシアの笑顔で事件のフィナーレは飾られたために、なおさらガルシアの「正しさ」はわかりやすく伝えられ、読み手は最終的に「悪役」として片付けられたロックにもやもやしたものを感じることになる。なんだよ、主人公がこんな印象で終わるのかよ、と。


だが待ってほしい。ロックは本当に「悪」かったのか。「正し」くはなかったのか。

「正しさ」がもたらしたもの



改めて考えてみれば、「正しい」とされたガルシアやキャクストンの信念だってずいぶんな結果を生んでいる。
ガルシアはロベルタを助けるためであってもキャクストンは殺さない(代わりに、彼が自分の父を殺したことを決して忘れるなと言うが)が、その信念のために多くのグレイ・フォックスの人間がロベルタに殺されている。もちろん、ロベルタを殺さずに作戦を完遂させようと決定を下したのはキャクストンであるので彼の責任も大きいが、それでもガルシアとファビオラは、キャクストンが信念(「正しさ」)を貫くならロベルタを殺すなと、半ば脅迫に近い形で言う。
ガルシアが殺すことを拒んだのはキャクストンだけで、それ以外のグレイ・フォックスの生死は一切気にしていない。彼らがロベルタに殺されるのはかまわないが、彼らがロベルタを殺すことは許さない。復讐を果たすためにキャクストンを殺すことはしないから、自分は「死の舞踏」には加わらない。でも、その過程でロベルタがグレイ・フォックスを殺したことについて、キャクストンにも復讐を許さない。言ってしまえば、「死の舞踏」の最後の舞台はロベルタのもので、それ以降に加わることを許さないということだ。「こっちサイドが殺して終わり」。そういうことだ。それがガルシアの「正しさ」だ。


キャクストンは合衆国の軍人で、チームのリーダーだ。作戦遂行の責任は彼にあるし、現場でのチームの安全の責任も彼にある。だが彼は、自分の信念のために仲間が殺されることを許す。作戦遂行とチームの安全のためには、ロベルタを発見次第殺害、少なくとも行動不能に陥らせなくてはならないのに、自分の信念のためにそれを躊躇する。
そして最後には、仲間の敵をとろうとした生き残った同僚さえも、自分自身の手で撃ち殺す。
自分の信念は仲間の命より重い。*1それが彼の「正しさ」だ。


ヒロイックな彼らの言動を冷静に見てみれば、それが「正しい」者のすることか、と疑問を投げかけたくなるようなものだったりする。一見人道的に振る舞っているように見える彼らは、生命の価値に平気で序列をつけている。彼ら自身はそれを自らにごまかしてはいないが、読み手はうっかりすればごまかされかねない。
ただ、その「正しさ」を、外側から私たちがどうこう言うことはできない。ガルシアはロベルタを止めるために自分の命を賭けたし、ロベルタの背負ったものを一緒に背負うと誓った。キャクストンは信念を貫くために、自分の命をガルシアの前に差し出した。彼らは彼らの「正しさ」に責を負っている。「正しさ」に殉じている。
「正しさ」という言葉が似つかわしくないなら、「筋が通っている」と言い換えてもいい。彼らは彼ら自身の信念の中でぶれてはいなかった。客観的には不合理だ、正しくないと言われてもおかしくない(事実、レヴィは彼らの信念に終始否定的だ)主観的な筋を通すために、身体を張っている。


だが、それはロックだって同じだ。ロックは自分の「面白さを求める」という信念のために事件で身体を張っていた。彼の所属するラグーン商会も一つの組織であり、組織は組織自身のために自らの安全を求める。ダッチは組織の長として分水嶺を定めるが、ロックの信念はそこを越え、一時はダッチを怒り心頭させるが、最終的には言いくるめてラグーン商会をかかわらせる。ロックはロックの信念のために、自らも含めた人間達の命をベットした。*2ガルシアたちの「正しさ」が客観的に大勢から承認を受けられるものではないのと同様、ロックの「正しさ」も皆が皆笑顔で頷いてくれるものではないが、それでもガルシアたちが自分自身の「正しさ」を信じて行動したように、ロックも自分の「正しさ」を信じている。原理的に、そこに優劣はない。

「正しさ」の優劣の天秤 支点(視点)はどこにあるか



自らの信念のために命を賭ける。
その点において、ロックとガルシアやキャクストンに違いはない。
ではなぜロックが「悪役」になったのか、天秤がガルシアたちの側に傾いたのかといえば、上でも書いたように、読み手がガルシアたちに同一化するようつくられているからだ。
ガルシアたちは、自分以外の誰かのために動いた。ガルシアはロベルタのために。ファビオラはガルシアとロベルタのために。キャクストンはガルシアたちのために。
だが、ロックは徹頭徹尾自分のためだ。ロックがガルシアたちにかかわったのは「『面白そうだ』――そう思った」からだ。
おそらくそれが、ガルシアたちには受け入れられなかった。彼らには、自分のためにしか動かないロックは、「この街の人間」としか思えなかった。「あなたはこの街の人間だ」。この発言は勿論、「だから僕たちとは違う」という裏側がセットになっている。そんなことはないし、そんなことはある。ロックもガルシアたちも同じだし、ロックとガルシアたちは違う。信念からぶれない点では同じだし、誰のために動くのかという点で決定的に違う。
ガルシアたちがロックを嫌悪するのはいい。それは彼らの自由だ。だが、助けてもらったことに対する礼儀を忘れるいわれはない。ロックはロックで、命を賭けていた。ロックが鉄火場へ突っ込むことがなければ、間違いなくロベルタが彼らの元に戻るシナリオは訪れなかった。本来なら、ダッチの厳命によりラグーン商会は事件から手を引いていたのだから。
見方を変えれば、即ち、ガルシアたちの視点で事件を見なければ、ロックの行動も充分ヒロイックに映ったはずだ。身体を張って依頼を遂行した彼は、もっと感謝されていい。そのロックに、礼の代わりに空砲とは言え銃弾を打ち込むファビオラは、レヴィにしこたま殴られてもおかしくはなかった。彼女のやったことはそれくらいひどいことだ(個人的には、彼女こそロベルタ編で一番のやらかしちゃんだ。殺さなくてもいい人間を殺さなくてもいい局面で殺し、先達の支持は聞かず、恩人には空砲弾を撃ち込む。)。
それでもなおロックが悪役として映るのは、視点の違いに他ならない。読み手の眼はガルシアたちの眼だった。

「正しさ」は正しいか



「正しさ」を貫いたガルシアだが、それが客観的に正しいとは限らないのと同様に、それが幸せに繋がるともまた限らない。「正しさ」は必ずしも人を救うわけではないというのは、張の最後のセリフが端的に表している。

お前は賭に勝ち、ラブレスの当主もその目的を果たした。
だが――…
連中が幸せをつかんだとでも?
冗談じゃない、ラブレスに待っているのは茨の道だけさ。
紛れもなくあの子は善人で勇敢だが――
正しいことが、幸せな結末にいたれるとは限らない。
これからの人生は長い、彼にとっちゃ長すぎる。
(9巻 p265)

「正しさ」を貫いたところで、それがハッピーエンドなのかというとまた別の話だ。
ロックにとっては間違いなくハッピーエンドであったはずだが、フォアビオラとガルシアによりその思いは萎みきってしまった。「夕闇」に立つロックは、「光」と「闇」、どちらにも口を出せる代わりに、どちらからの罵言でも傷つきうる。「闇」にどっぷりのレヴィにとって、ファビオラの言葉は最終的に噴飯ものでしかなく、逆もまた然りだ。常識を共有しないものに罵声は届かない。だが、ロックは律儀に両者から傷つけられる。それが「夕闇」の辛さだ。




一応まとめよう。
ロベルタ編の主要人物は、みな「正しい」。みな筋が通っている。そしてみな等しく、他の側から見れば狂っている。それでもなお、その「正しさ」の優劣が読み手において画一的につけられてしまうのは、他のある「正しさ」を嫌悪しているキャラクターの見方に読み手が同一化されているからだ。ロックの「悪さ」は、ガルシアたちの感じている嫌悪に由来している。
だが、最後の張のセリフで、ガルシアたちの「正しさ」が幸せに結びつくとは限らないことが仄めかされる。「夕闇」に立つロック同様、彼らの未来も白黒はっきりつけられるものではない。事件が終わったから薔薇色というわけでは決してないのだ。この張のおかげで、ガルシアたちの「正しさ」が客観的にも「正しい」わけではないということが示唆されている。
ロベルタ編は、「正しさ」の決着をつけながらも、それが絶対的、客観的なものではないことを、主人公・ロックから感じるもやもやを通して読み手に突きつけた。「夕闇」に立つ者のピカレスク・ロマンとして、描かずにはいられない一つの結末の形なのだろう。




もしかしたら、そもそも「光」と「闇」とは何か、そして「夕闇」とはどのような状態なのかということについて、後日書く。かも。


追記;トラックバックをいただいたARRさんの記事
BLACK LAGOON 9巻とロックの「正しさ」の在り処の話 - それはロックじゃない
も、また違った切り口でロックの「正しさ」について書かれています。とても面白く興味深い内容ですので、是非ご一読ください。


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一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

*1:ただ、公平を期すために付け加えれば、彼は自分の信念のためにガルシアに殺されることも厭わなかった。正確には、彼の信念は、彼自身の命より重い

*2:事件にかかわることをボスであるダッチが承諾しているのだから、その段階でロックの信念もラグーン商会と一致することになる。