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漫画の話です。

『みちかとまり』と少しだけ神話と構造主義の話

 連載開始時にもレビューをした、田島列島先生の『みちかとまり』の単行本がついに発売されました。

 その時は(一挙掲載だった)1、2話までのレビューでしたが、第8話までの単行本一冊分がまとまったので、今一度つらつらと。
yamada10-07.hateblo.jp
 8歳の少女・まりが竹やぶで出会った、人か人ならざるか定かではない子供・みちか。
 みちかを保護した老婆いわく、「竹やぶに生えていた子供を 神様にするか人間にするか決めるのは 最初に見つけた人間なんだ」とのこと。
 自分でも知らない内にみちかの運命を握らされたまりは、それ以来、不思議なことが盛りだくさん。みちかに連れられ、常識の埒外にある世界へ足を踏みいれてしまうのです。

 あらためて単行本で読んでまず気づいたのが、掲載時はカラーだった第1話の冒頭、みちかとまりが燃えるなにかを見つめているシーン、立ち上る煙を見上げているまり(おそらく)が、そのあとの本編から、髪型はもとより体型まで変化しているんですよね。明らかに胸が膨らんでいるので、第二次性徴が始まっているということ。つまり、本編開始時8歳のまりから、数年単位で時間が経過してからの時系列で、この冒頭は描かれているということになります。
 みちかとまりの出会いは、一夏の幻のようなファンタージではなく、もっと長い期間にわたる交流であることが、物語の最初の最初で示されていたわけです。前2作の連載とも、主なストーリーは数か月間の出来事として描かれていましたから、つい本作もそういう物語かと思っていたのですが、そうではなかったようです。まあ、冒頭の部分は数年後のエピローグかもしれませんが。

 また、以前のレビューでも触れましたが、竹やぶで見つかった少女(みちか)や、冒頭で燃やされた煙を見つめるまりなど、「竹取物語」のオマージュが見て取れるように、神話やおとぎ話の要素をふんだんに盛り込んでいくだろうことが1、2話の時点で予想されていました。
 実際、物語が進むと、みちかと一緒にあの世と思しき場所に入り込んだまりは、そこで供される食べ物や飲み物を口にするなと、みちかから忠告されますが、あの世の食べ物を口にするとあの世のものになってしまうという話は、日本神話のイザナミを思い出させます。
 ついでに言うと、その一連のシーンで登場する、奇妙な顔をした二人組の着る服には「yellow fountain」の文字がありました。「黄色い泉」。すなわち黄泉。あの世ですね。
 この二人組や、もうちょっと後に登場する座敷の奥にいた着物姿のモノたちは、ある共通した「奇妙な顔」を持っているのですが、これもなにか神話的な意味合いがあったりするのかもしれませんね。

 その他、田島列島先生的だなあと思ったのが、第3話でのまりの(おそらく未来の時点から回想している体での)モノローグ、「理解できる言葉をつなげて なんとか世界をつくっていくけど 理解できる言葉以外のものは 世界にありすぎたし 私はコドモすぎた」というもの。
 言葉をつなげて世界をつくるというのは、自分の知っている言葉でもって世界を認識するということ、すなわち、世界を言葉で分節化するということ。
 これは19~20世紀にかけて活躍した言語学者ソシュールに端を発する構造主義的な考え方ですが、田島列島先生の最初の連載『子供はわかってあげない』の記事でも書いたように(『子供はわかってあげない』交換によって生まれる人と社会のつながりの話 - ポンコツ山田.com)、田島列島先生の作品にはレヴィ=ストロースやマルセル・モースなど、構造主義的、人類学的な発想が色濃いのが特徴で、本作でもそれがはっきりと出ています。

 前2作に比べ、神話要素とグロ要素をふんだんに盛り込んでいる本作。物語がどこでどう曲がりくねって、最後にあの冒頭へ連れていかれるのか、そもそもあの冒頭の意味は何なのか。まだまだ見えないところがたくさんです。もう2巻が待ち遠しいぜ。

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『さよならミュージアム』描かれる眼と描かれない目の意味の話

 となりのヤングジャンプに掲載された読み切り作品、岩井トーキ先生の『さよならミュージアム』。
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 美術部員の主人公・空木(うつぎ)は人付き合いが悪い。親とも部員とも顧問とも最低限の口しかきかず、ただ、自分がもっとも美しいと信じるもの、すなわち人間の横顔をひたすら描くばかり。そしてそんな彼女が横顔のモデルにしているのは、毎日数分だけ乗り合わせる、同じバスで通う名も知らぬ女生徒。話しかけることもせず、ただ彼女の横顔を美の化身とばかりにこっそり拝むばかり。しかしある日、その彼女に異変が起こって……
 というストーリーの短編作品。
 己の内側に閉じこもり、良くも悪くも己の道を行く空木が、どのような出会いで、どのように殻を破っていくかが一つの見どころなのですが、本作で面白いなと思ったのが、「横顔」を好む空木の心情と、その表現です。

 空木が横顔を好む理由が以下のとおり。

横顔は美しい
何故なら こちらを見ていないからだ
「見ていない」「こちらに関心を持っていない」「干渉しない」「取り繕わない」
つまり――
素の姿という事
素の美しさが現れる横顔を描くことは 私にとっての美術なのだ

 「素の姿」「素の美しさ」を求めるがゆえに、横顔を偏愛する空木。他人から関心を持たれたくない、すなわち他人の素の姿を見たいから他人に対して冷淡なのか、それとも他人に冷淡でい続けた結果自分に干渉してこなくなった他人の横顔に素の美しさを見つけたのか、ニワトリタマゴの話はさて措いて、その心根ゆえに、彼女は人と目を合わせません。
 自分の絵を褒められてもほぼ無視し、帰り際の挨拶すらそっぽを向きながら頭を下げるだけ。生活のレベルを勝手にベリーハードに爆上げてる態度ですがそれはともかく、そのような態度の彼女から見る世界には、彼女に向けられる目が存在しない、正確に言えば、彼女に向けられる目が彼女には見えていません。
 それは明らかに作者による意図的な描写で、顧問も、同じ美術部の部員も、両親さえも、彼や彼女の目が描かれることはほとんどなく、それが描かれるときは、彼や彼女が空木に目を向けていないとき、すなわち、空木を「見ていない」、「関心を持っていない」、「干渉しない」ときの顔、つまりは空木の思う「横顔」です。

(p8)
 それが非常にわかりやすく描かれているページです。

 「目は口ほどに物を言う」の言葉どおり、漫画において、目の表現は非常に重要です。セリフはなくとも、目の描き方如何で感情は雄弁に表せます。英語の顔文字は口で、日本語の顔文字は目で感情を表現するとはよく指摘されることですが、日本語の顔文字の異常なまでの豊富さは、様々な目の表現に由来するのでしょう。
 そしてそれは、裏を返すと、目を描かないことでそのキャラクターの人間性を剥奪できるということです。顔のどのパーツをなくすより、目の省略はキャラクターのキャラクター性を失わせます。
 最近では、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく』で主人公ぼっちの父親が、全身を登場させ声まであてられているにもかかわらず一切目を描かれることがなかったのが印象的でした。主人公たちの女子高生や、ぼっちの母親、妹という女性キャラはなんのさわりもなく描かれているのに、男である父親だけはひたすらに目を描かれない。女の子だけのキャッキャウフフな世界から人格を有する男という存在を排除する、制作サイドの強い意思を感じましたね。
 『さよならミュージアム』の話に戻りますが、空木以外のキャラクターが空木に目を向けているはずのシーンでその目は描かれず、彼女から視線(関心)が外れた時にようやく目が描かれる。つまり、そのときに初めて空木にとって、他の人間たちが自分の意識を向けるに値する(素の美を有する)存在になっていると言えるのです。
 そしてそれは、空木の横顔のモデルになっている少女にも言えることで、彼女の顔には一貫して目が描かれています。空木にとって彼女は、一貫して自分の意識を向けるに値する存在なのです。

 で、それら目の描かれ方、目の意味するところを踏まえると、クライマックスに描かれているものと、エピローグ的部分での描写に非常な味わいが生まれるんですよね。これは是非実際に読んでほしいところ。

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『まどろみと生活以外のぜんぶ』rcaの描く、境界が融け合う安らぎと寂しさとエモさの話

 今日は珍しく、というかこのブログで初めてだと思いますが、成年向け作品についてのお話ですので、あんまり生々しい話はしませんが、18歳未満のお子様は回れ右してね。

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『違国日記』47.5話 無音の世界の秘密の話

 先日新刊の発売されたヤマシタトモコ先生の『違国日記』。

 新刊を読んで一番印象に残ったのが、ストーリーではなく、47.5話冒頭の表現。えみりが喫茶店ノイズキャンセリングイヤホンをしながら勉強をしていたところに、しょうこから声をかけられ、イヤホンを外すシーンです。
 イヤホンによりシャットアウトされていた外界の音が、イヤホンを外したことで聞こえてくる。それが、読んでいてまるで我がことのように感じられたのです。
 後日、ヤマシタ先生自身が、そのシーンをかなり意識して描いたことをうかがわせるツイートをしていました。
 まんまとその思惑にはまったわけですが、さて、読んでいても音がシャットアウトされていたかのように感じられるこのシーンには、いったいどのような秘密が隠れているのでしょうか。

 まずは当該のシーンを改めて見てみましょう。




(10巻 p73~76)
 これを見てまず気づくのは、当然ですが、イヤホンが外されるまでの間、音を示す文字表現がないことです。窓にあたる雨も、ノートの上を走るペンも、店内のざわめきも、そこにあるはずの音が一切書かれていません。
 もちろん、書かれていてしかるべき音が書かれないことはしばしばあります。たとえば同じ10巻の47話で、朝が演奏をしているシーンでも、演奏しているバンド、観覧しているオーディエンス、撮影中のスマホと、音があっておかしくない場面でも、何の擬音も台詞も書かれていませんが、不思議とそのシーンでは無音の印象は強くありません。言ってしまえば、単にそういうシーン、というもので、無音であること(擬音等が書かれていないこと)に特段の強い意味はなさそうに感じられます。

 翻って、47.5話で無音性を意識させるのは、つまり擬音等が書かれていないことに強い意味を感じさせるのは、しょうこに話しかけられたえみりがイヤホンを外すと、フェードインするように台詞が始まっている点です。
 「――――んでんの?」というしょうこの台詞とともに、店内のざわめき(「ガヤガヤ」という擬音)や、ちょっとした物音(画像にはありませんが、椅子を引いたのであろう「ガタン」という音がページ下部にあります)が書かれ始めるのです。
 途中から聞こえ始めた、すなわちそれまでは音が聞こえない状態であったことが印象的になるようにフェードインで始まったしょうこの台詞により、読み手は遡及的に、それまでが無音であったことを強く意識するのです。

 それ以外の点も挙げるとすれば、被写体に寄り、かつ視点がバラバラであるカメラアングルが連続している、ということも言えるでしょうか。
 雨に濡れる窓、えみりの横顔、(これは遠景の)店外からのカメラ、手元(ペンケース)のアップ、うつむくえみりの顔、(さらに寄った)雨に濡れる窓、えみりの肩に触れるしょうこの手、えみりの目、(えみりの視点から)見上げるしょうこ、イヤホンを外す手、とアップのパッチワークになっていたカメラの視点が、音の復活と一緒に引きの視点を得て、コマ間に流れが生まれだします。
 それまでのそれぞれのコマの連続性は薄く、えみりがしょうこを待つひと時の瞬間瞬間を脈絡なく切り取ったかのようです。そう、切り取っているのが瞬間だからこそ、そこに音がないのです。
 コマに脈絡(連続性)がないと、コマ間で時間が流れているように感じず、それぞれのコマが独立した一瞬であるかのように思えます。
 そして、音とは空気の振動です。フィルムに写った光を焼き付けた写真とは違い、音が鳴っている時間を無限遠まで縮めて切り出す、すなわち独立した一瞬としてコマを描くと、コマの中には空気が振動をできるだけの時間が存在せず、それゆえ音は鳴りません。鳴っているように感じません。
 このモンタージュ的技法も、漫画の中から音を消し去っている一因でしょう。

 まとめれば、モンタージュ的に連続性のない(そして現に擬音等のない)コマを描くことで、読み手に無意識の裡に音の存在を捨象させ、イヤホンを外した瞬間からフェードインしてきた台詞や擬音が書かれることで、そのときになって初めて読み手はそれまでの無音を強く自覚する、という仕組みになっているのです。

 とまあそんな仮説ですが、作者の意図どおりの受け取り方をしちゃうと、すがすがしい笑顔で「してやられたぜ!」って言っちゃいますね。
 ところで新刊で一番好きな台詞は、47.5話のしょうこの「もっといっぱい約束して」です。よろしくお願いします。

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拍手レス

クメイとミコチ11巻の感想を読ませていただきました!服を買う・着るキャラクター達の細かい表情まで見ておられて感嘆致しました。改めて読み返すとそれぞれ本当に楽しそうに選んでいますね。その楽しみ方がまたそれぞれ個性があって!初見時よりもじっくりと物語を堪能出来ました。
新たな視点で読むきっかけをくださり、ありがとうございます! byあるんす

>あるんす さん
 キャラクターたちの楽しそうな感じ、生きていることを肯定している感じ、読めば読むほど物語の世界に入り込める感じ、『ハクメイとミコチ』、いいですよね……
 

『好きな子がめがねを忘れた』光に消えそうな二人と光に祝福される二人の話

 『好きめが』最新刊を読んで口から大量の砂糖を吐瀉した山田です。こんにちは。

 ここ数巻はあまりの糖度の高さに青春の過剰摂取を心配していましたが、最新刊でついにその頂点に辿りつきました。
 小村君……三重ちゃん……おめでとう…………

 頂点の頂点たる95話は、つかみも好きなんですよね。
 「私はどくずです」。
 たぶん三重ちゃん語録で一番汚い言葉。それが告白回の最初のセリフ。つかんでくるぜ。
 で、そのあと、眼鏡をかけてない三重ちゃんの手を小村君が自然にとって、登校する二人。……まだ付き合ってなかったの? そりゃ東くんもいぶかる。
 そして、放課後になってついにその時に至る二人。「ちゃんと俺の顔を見てもらい」たいからと、三重ちゃんから預かっていためがねを、手ずから彼女の顔にかける小村君。これ、実質指輪の交換では? 
 ところで、けっこうフェチズムが強いと思うんですよね、他人の顔にめがねをかけさせるって。眼鏡の掛け心地って日常の快適度に直結しますし、もしレンズを触られ指紋がつけられればどんな温厚な人でもブチギレるというのはめがねあるあるですが、それを他人に任せるというのは、これ、実質セ●クスでは?某平●耕太先生や某小●寺浩二先生あたりはどう思うのでしょう。
 そんな与太はともかく、しっかりとお互いの目を見て、顔を見て、お互いの気持ちを声に出して確認し合おうとする二人。
 放課後の誰もいない秋の教室というのもあって、薄暗い教室と、外からの夕日の光が、二人の顔の上にささやかなコントラストを作り、それがどこか不安定さを生んでいます。もちろんいい意味です。自分の気持ちだって、きっとそうに違いない相手の気持ちだって、実際に言葉にしなければ自分で信じることはできない。だから、自分で言葉にして、言葉にしたものを相手から聞かされて、そこで初めて確かなものと信じられる。
 その言葉を交わし合った後に二人の顔から影が去り光に明るく照らされているのは、確かめることができた安心と安堵と嬉しさと、そのほか世界中の幸福を一身に受けられた証なのかな、と。

 私の漫画史で最高の告白シーンは、『子供はわかってあげない』のサクタとモジ君だったのですが、小村君と三重ちゃんもそれに匹敵するものとなりました。

 『子供はわかってあげない』の告白が、夏の屋上、汗と涙と緊張ゆえの笑いにまみれた、ポカリスエットのような青春の甘酸っぱさだとすれば、『好きめが』は、やさしくやさしく砂糖をぶちこみ、口の中でホロホロと崩れるマカロンのようなお菓子の甘さ。
 どちらも、いい大人になったって「こんな記憶を抱いて死にたかった……!」と思ってしまうとても素敵な告白シーンです。
 おめでとう…おめでとう……

 さて、10巻の頂点はもちろん95話での告白シーンなわけですが、それ以外にもいいなと思うシーンがいくつもありました。
 たとえば89話(10巻1話目)の、早起きした二人が早朝に登校するシーン。誰もいない通学路を歩く二人は、朝の白々した光に包まれ、まるで「世界に二人だけみたい」。目を眩ませる秋の早朝の太陽は、世界を白い光に染め上げ、存在の輪郭を淡く薄めていました。
 光に溶け込むようにして歩く二人の姿は、美しくもあり、儚くもあり、この気持ちを声に出したらすべてが消えてしまうんじゃないかと不安がる小村君の、そして三重ちゃんの思いにも似て、もう少しこのままでとつい思ってしまう小村君の気持ちもわかってしまうようです。
 ところでこのシーンで思い出したのは、市川春子先生の短編『25時のバカンス』(同名の短編集に収録)のラストでした。

「普通」の人間の枠から少しはみ出てしまった弟とだいぶはみ出てしまった姉、その二人が二人、昇る朝日(あるいは沈む夕日)をバックに、強い逆光に消えるようになりながら、冗談めいた、告白めいた言葉を交わす、愛しさともおかしさとも恐ろしさともつかない曰く言い難いラストシーン。このシーンの印象が蘇ってきたからこそ、『好きめが』のこのシーンでも、美しさと、儚さと、そして消えてしまいそうな不安を抱いたのかもしれません。
 その複雑な印象が、とてもいいんだ……

 他にも、イケメン東君に恋の相談をされる小村君の想像力豊かさゆえの気持ち悪さ、いいですよね。まあ小村君は三重ちゃんのことを思ってるときはたいていちょっと気持ち悪いんですけど、中学生男子なんて多かれ少なかれ気持ち悪い生き物ですから。
 あと、東くんもこれ、「隣のお姉さんが好き」なんですよね。

マンガクロスのあっちとは関係性というか二人の属性が違いますけど、男の子が女の子に相手にされないという点では同じで、でもあっちのほうは心愛さんが気にするようになってきて、はたしてイケメン東くんはすっぽん小村君の相談で朝姉に意識してもらえるようになるのか。

 他に細かいところだと、91話の二人の私服(裏表紙の格好)で、三重ちゃんは細いストラップのポーチをコートの上から斜め掛けてしている(しかもストラップが肩に掛かっている部分はコートの大きな襟で隠れてる)けど、太いベルトのバッグの小村君はブルゾンの下に掛けているところは、服のラインを壊さないようこだわってるのかな、と感じました。
 小村君みたくベルトの太いバッグを薄手のアウターの上から掛けると、肩に触れてる部分で生地がよれたり、バッグがアウターを押さえちゃうので、シルエットが崩れやすいんですよね。数年前から、小さいバッグをアウターの下で掛けるのを見るようになりました。三重ちゃんの場合は、ポーチが小さいこと、コートの生地が厚手に見えること、ストラップが細いため肩にあたる部分でも生地がよれづらいことなどから、コートの上から掛けてもシルエットの乱れは出づらいんですけど。
 ファッションに自信のない(自称)小村君がわかってててそれをやってるのか、あるいは他の人がやっているのを真似ているというテイなのか、それとも作者が無意識のうちにそう描いているのか、確証はありませんが、なんとなく一番最後のがありそうかな、という気がします。

 あと、93話で久しぶりに出ましたね、三重ちゃんのウォーリアー語彙。「さては謀ったでしょ」。なかなか中学生は言えないぜ。

 とまあ10巻読んで感じたことを縷々述べてみました。
 なんとアニメ化も決まった『好きめが』。三重ちゃん目の悪さ(視界)の表現はアニメでやったら面白いだろうなと常々思っていましたので、これはとても朗報。観たいぜ。
 無事両想いを確認できた二人ですが、以降ではどんなお話になるのでしょうか。とてもきれいにいったんまとまったので、今後はある意味での後日談になりそうですが、そもそも拙者後日談大好き侍なのでそれは大いにウェルカム。後日談という言い方が適切でなくとも、物語としてもまだまだ見たい!
 楽しみです。

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『ハクメイとミコチ』好きなモノを好きと言い、身にまとうことの嬉しさ楽しさの話

 年に一度、毎年1月のお楽しみといえば、そう、『ハクメイとミコチ』の新刊発売。

 巻を重ねるごとに、登場人物やエピソードも重なっていって、面白さも重層的になっていく本作。たとえば最新刊では、10巻に登場した甲羅木組へハクメイが加入したエピソードから始まりますが、彼女が甲羅木組として家の修繕をする流れの中でも、加入まではせずとも顔を出して縁を作っていた石貫會の面々に手伝いを頼んでいました。物語の重なりを感じさせますね。

 さて、本作では、大工のハクメイ、料理人のミコチを筆頭に、何かを作ったり、その身や技術で生計を立てているキャラクターが多く登場します。機械のほとんどない世界なので、当然と言えば当然なのですが、そんな世界だけあってか、モノに対する視線がとても優しく、愛用しているものを修繕などして長く使おうとしたり、他人が作り出した逸品に強い敬意を払ったりしています。
 11巻で言えば、前述の、作られた当時の意図を汲んで修繕しようとする甲羅木組がそうですし、すでに故人となった製作者の想いがこもったぐい呑みの話もあります。

 で、そんな多くのモノに関するエピソード群で、私が特に好きなのが、古着屋のトレモが登場するなのです。
 それは、私自身が服が好きというのも大きいのですが、彼の登場するエピソードでは、手に取った服をキャラクターたちが、時に少し恥ずかしがりながらも、素直な心持でそれらを気に入り、実に嬉しそうに、楽しそうに袖を通しているのです。その屈託のない姿に、読んでいるだけでニコニコしてしまいます。
 11巻ではトレモ自身が主役となり、店を訪れる客に、彼らによく似合う、気に入るに違いない服を紹介していき、実際彼や彼女は、着飾ることに慣れていようといまいと、お気に入りの一着を選び、洋々と買っていくのです。トカゲの旋毛丸にサングラスを紹介し、セールストークを展開しようとしますが、旋毛丸の言った言葉は「おだてる前に 値段を言え」です。普段はけんかっ早い彼も、いや、彼だからこそ、気に入ったものは四の五の言わず手に入れたいのでしょう。
 旋毛丸とトレモが初めて出会った8巻のエピソードでは、トレモが選んだ服ではないですが、自分で見つけたトカゲ用のコートを、同行人を尻目に早々と購入しようとしています。
 気に入ったものは、手に入れたい。だって、そうすると気分がいいから。

 また、トレモが初登場する3巻のエピソードでは、ハクメイ・ミコチと一緒に偶然彼の店に立ち寄ったイワシが、「寡作の針姫」と名高いブランド「ナイトスネイル」の服をトレモから勧められました。思った以上にお高いそのお値段に怯むイワシでしたが、トレモの言った「まるで体に吸い付いたようだぜ 服がアンタを選んだのさ」の殺し文句に、値切りはしつつも、結局購入しました。
 「アイツ商売上手だな」なんてぶつくさ言っていたイワシでしたが、以降、休日の外出では好んでそれを着ており、上記の旋毛丸がコートを買ったエピソードに彼もいたのですが、結局何も買わなかったイワシに対して友人が「よかったのか?」と尋ねると、「俺はたまにしか服着ねえからな こいつを着る機会が減っちまうだろ 気に入ってんだよ これ」と、まさに今着ているナイトスネイルの服を嬉しそうに示すのです。
 気に入ったものは、多く身に付けたい。だって、そうすると気分がいいから。

 現実では、着飾る、ファッショに凝るということにどこか気恥ずかしさがつきまといます。実際、道行く誰かが自分の服装を注視するものでもないですが、どこか自分の心の奥の方から、「そんな格好つけるんじゃないよ」「自意識過剰かよ」「それホントに似合ってると思ってる?」などと卑屈な自意識が、大なり小なり声をかけてくるのです。
 でも、『ハクメイとミコチ』に登場する彼や彼女のように、自分が直感的に気に入ったものに、素直に「気に入った!」と表明し、それを身に付けるだけで気分がウキウキする。そんな屈託のない欲望の肯定は、きっと人生を華やかなものにしてくれます。

でもお洒落する理由って 単に取り繕うだけじゃないっすから
人によるんすけどね たとえば
ビシッと決めて気分を高揚させたり 作り手の意図を慈しんだり 自分自身と他人や文化とを繋いだり 内面の変化を生むきっかけになったりね ただただモテたい!とかさ
(11巻 p156,157)

 このトレモのセリフのように、お洒落する、気に入ったものを身にまとうことは、人生を豊かにするのです。

 以前、池辺葵先生の『ブランチライン』を読んだ際にも、似たようなことを書きました。
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自分の好きなものに衒いのない月子の姿はとても軽やかで、他人の目とか今後の不安とか、そういう余計なものを脱ぎ捨てたかのような素朴な美しさを感じさせます。

『ブランチライン』欲望の素直な肯定と身軽で気軽な姿の話 - ポンコツ山田.com

『ブランチライン』に限らず、池辺葵先生の作品を読むと、自分の欲望に素直になっていいんだなと思えます。自分の欲しいものを手に入れたら素直に喜んでいい。自分のしたいことをできたら素朴に嬉しがっていい。ともすると、別にどこにもない世間の目なんてやつを気にして湧き上がる感情を抑えようとしてしまったりすることもありますが、そんなことしないでいいんだ、自然に喜びに身を任せればいいんだと思えるのです。そうする姿は、月子のようにとっても身軽。

『ブランチライン』欲望の素直な肯定と身軽で気軽な姿の話 - ポンコツ山田.com

 『ブランチライン』では、服に限らず、他人に贈る愛にまで話を広げて、何かをしたい欲望、何かを欲しがる欲望を、素直に、素朴に、屈託なく認めていいんだ、ということを書いていました。両手じゃ抱えきれなく、ドキドキするような、家から遠く離れてもなんとかやっていけるような、そんな欲。もしくは夢。

 『ハクメイとミコチ』は先にちらっと書いたように、文明程度で言えばあまり高くない、まだまだ手作業メインの世界。ほとんどのキャラクターの日々は仕事に忙殺されています。でも、だからこそ、たまの休みは心の洗濯、羽を大きく伸ばすために、お気に入りの場所に行ったり、お気に入りの物を食べたり、お気に入りのものを身に付けたりしているのです。
 そのメリハリというか、オンオフというか、何が正しいかは知らなくても何が楽しいかは知っているような、そんな生活。それをそっくりまねることはできませんが、何が好きか、楽しいかは忘れないような生活はしていきたいなと、本作を読むと思わされますね。

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