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漫画の話です。

男児の写真から始まる「夢のような」読後感の物語 『遠い日の陽』の話

 11月の頭と終わりで気温が10度も違いますね。あっという間に冬。
 どうも、御無沙汰してました。

 それはそれとして、今日はモーニングの読み切りで掲載されたこちらの作品の感想です。
comic-days.com
 人生に空虚を感じている高校生が、フリマサイトでたまたま目に留まった、とある男性の子供時代の写真を購入するところから始まる、なんとも玄妙な味わいの物語。何か奇跡が起こるわけでもない、不思議なことが起こるわけでもない、でも読後に心の癒しとささくれを感じるような、えも言われぬ作品なのです。
 一言で言えば、夢のような読後感。
 でもそれは、明るさに満ち溢れた、とか、自分の思いがかなう、とかいうようなポジティブなものではなく、文字通りの意味。すなわち、地に足のつかない落ち着かなさ、ディティールがはっきりしないのに状況がすっかりわかってしまっているような謎の全知感、思い返してあれは何だったのかと首をひねってしまうような不可解さ、そんな、まさに寝ているときに見るあの夢を起きながらにして見たような読後感なのです。

 主人公の男子高校生・青木が、なぜかもわからず男児の写真に猛烈に惹かれること。
 その男児本人(が成長した大人)である出品者・ちひろと、フリマサイト上の売買だけで奇妙なコミュニケーションが成立すること。
 ちひろから写真と一緒に直筆の手紙が送られてくること。
 奇妙なコミュニケーションと写真で、少しだけ青木の生き方が変わったこと。
 ちひろの身に起きていた出来事。
 その出来事の後にまた起こった二人の交流。

 この一連の流れが読み手には、大抵の夢がそうであるように、シーンの状況が限定的にしかわからないのになぜか全体が把握できてる気になったり、シーンとシーンの間が大きく跳ぶのにその間に何が起こっていたのか了解できてる気になったり、そんなこと早々起こらんやろって普通なら思うことでもまああるよねと納得した気になったりという風に受け止められます。
 それはキャラクターの情報が最低限に抑制されている、でも想像させる必要な分は描写されているためなのかもしれません。
 キャラクターの行動に脈絡はなくとも筋は通っているからかもしれません。
 ちひろが一度も直接登場することなく、すべて青木のフィルターを通す形で現れ、すべて青木の独り相撲であるからかもしれません。

 あるいは絵の面で言えば、カケアミが多用され、暗くて重いのに明るくて軽いという相反する絵の印象があり、それもまた、夢のようなどこまでも広がる閉塞感を生み出していると言えるでしょう。線の疎密で濃淡を表すカケアミには、黒い(濃い)部分にも白(何も描かれていないところ)があるため、完全に塗りつぶされていない限り光が含まれています。そのため、色のついている部分でもどこか空気を含んだような軽さがあり、同時に線を描きこまれているが故の重さもあるのです。
 特に、ちひろから手紙をもらった後の青木の夢は、他の人が登場しないこともあり、二人だけの閉じた世界、という印象が強くあります。

 すべてが夢の中のようなふわふわした物語は、そこに喜びや怒りや哀しさや楽しさがあっても、薄膜一枚隔てたようでどこか現実感がありません。でもそれは決して悪い意味ではなく、実生活ではまず味わえない、「漫画を読む」という、物語の鑑賞を通さなくては味わえない類の体験なのです。
 この作品から意識して何か意味を汲み取ろうというのはきっと野暮なことで、まずはこの物語の空気に身を浸し、生身では早々得られない感覚を楽しんでほしいものです。夢と違って、何度でも繰り返し味わえるのが漫画の良いところなのですから。
 でも、きっと何度か読んだ後に、心の中に不思議な癒しと、どこかひっかかるささくれができていることに気が付くと思うのです。私がそうでしたから。

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