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漫画の話です。

「BLACK LAGOON」 「面白さ」を求めたロックは「夕闇」にいられたのかという話

三年の長きに亘って、三巻以上の長きに及んで連載されたロベルタ編が、ようやく終わった。何はともあれ、長かった。なにせ現時点ではあるが、全発売巻数の1/3を越える量だ。果たして連載最後の話でどれほどの話数が費やされるのか、想像するとぞっとする。


ともあれロベルタ編。今回のポイントの一つは、どんどん悪役面が加速していくロックだ。
最初に依頼を持ちかけられたときは

(7巻 p83)
こんな顔をしていたロックが、終盤になれば

(9巻 p44)

(9巻 p190)
こんなあくどい顔をして、ことが全て終わった後には

(9巻 p256)
こんな笑ってない目で笑うようになる。実に悪そうだ。
前々編の日本編で、雪緒はロックを「夕闇に留まっている」と言った。「貴方は結局何も選んでいない」と。それにショックを受けたロックだが、日本編の最後では、自ら「夕闇」に立ち続ける事を死に赴く雪緒に約束した。自刃する雪緒を見届けることで誓う、悲壮極まりない約束だった。
果たしてロベルタ編でのロックの立ち位置は、「夕闇」だったのだろうか。「光」でもなく「闇」でもなく、その両方に身を浸しながらも染まりきらない、中途半端がゆえに便利で、中途半端がゆえに非常に厳しいポジションを守り続けられたのだろうか。

ロベルタ編のロックの言動

悪役面が加速していくロックは、言動もまた尖鋭化していく。
当初、なぜ手助けしてくれるのかとファビオラに問われたロックはこう言う。

そうだな、
「面白そうだ」
――そう思ったのさ。
(7巻 p99)

この言葉はフォビオラを納得させることはなかった。ただ不理解のみを残して、質問は打ち切られる(ベニーだけは味のある表情をしていたが)。
ベニーに「どこまで踏み込むのか」「分水嶺を見極めろ」と言われたロックは、こう切り返す。

…………そう、確かに正しいさ、でも――
分水嶺はもっと先、
激突の瞬間に見る分水嶺は、もっと先だ。
(7巻 p127)

この時ロックが考えていたことは、ラグーン商会の他の人間より射程が長かった。いや、射程が長いというのは違う。別の方向を照準していた。
レヴィの助けを得ることのできたロックは、カードが揃ったことを確信し、ガルシアに言う。

――だが…本当に難しいのは、ロベルタを捕えることじゃない。
彼女が葬ろうとしている者、彼女を葬ろうとしている者、そして――彼女を利用しようとしている者。それを解きほぐしてそれぞれの場所へ収めるんだ。
――それは、賭だ。
……でもそこが――
この案件の、一番面白いところさ。
(7巻 p174)

このセリフを言う時、ロックの口には僅かに笑みが浮かんでいる。「一番面白いところ」。それは彼の本心だ。心底このヤマを面白がっているからこそ、彼はこう言い、笑みも浮かんだ。
シェンホアたちに声をかけ、ロベルタの居場所に踏み込んだロックたちだが、既にそこにはぐつぐつの鉄火場が出来上がっていた。それはもう、ダッチに言われていた「分水嶺」だった。だがロックは言う。

…――引いても状況は戻らない、ただ悪くなっていくだけだ。
ここが分水嶺、ダッチにはここで引き返せと――…
繰り返し言われた。
ガルシア君。決めるのは、君だ。
君が結末を見たいというのなら――
僕は最後まで付き合う。
(8巻 p72,3)

実に真面目だ。実に真摯だ。恐らくこの時のロックもまた、心からこのセリフを言っている。ただ、その言葉の真意を彼自身理解していたのか。
戦闘が始まったことで、張はロックに手を引けという。その問答の最中に、ロックは言い放つ。

――……ミスター・張。俺は誤解してた、
あんたは――
ひとでなしの、くそ野郎だ。
(8巻 p99)

一見、人道的な言葉に思えるその裏側に、どんなロックの思惑があるのか。張はこの事件を「遊戯(ゲーム)」と表現した。それは、ロックにとって実に適切な言葉だったはずだ。それがロックの意識していないところだったとしても。その「遊戯」のチップが人間の命だったとしても。
エダの助言を受け、ラグーン商会を動かしてこの案件を収めるべきだとダッチに進言したロックだが、ダッチは当然首を振る。だが、ロックの一言は、良かれ悪しかれダッチの心を揺さぶった。

じゃあ――こう言い換えよう。
最後の最後で、大騒動の一番面白い出来事を――
俺たちだけが楽しめるんだぜ、ダッチ。
(9巻 p44)

例の悪い顔だ。骨の髄から「面白そうだ」と思っている顔だ。
そして鉄火場が過ぎ去った後に、上で挙げた「眼が笑っていない笑顔」のロックが現れる。

最上の結果だ。予想通りだ、君の主人は正確にことを運んでくれた。
君たちなら絶対にできると思っていた。
俺も、君たちを助けることができて、本当によかったよ。
(9巻 p256)

外形的には、ロックはもう立派なピカロだ。「正しさ」の外側に彼の行動原理はあり、「光」の側の人間にはひどく醜く映る。

「夕闇」と「享楽」

ざっとロックの言動を追ってみた。彼の言動は尖鋭化していくが、ぶれてはいない。「面白そうだ」という考えは、当初から存在していた。この考えと「夕闇」は果たして両立しているのか。


と問いを立てておいてなんだが、この両者は別に競合しているわけではない。「夕闇」はあくまでロックの立ち位置であり、「面白そうだ」はロックの行動原理だ。「光」でも「闇」でもない場所(世界/立ち位置)から「面白さ(スリルと言い換えてもいい)」を追い求めた男。それがロベルタ編のロックだ。
悪役面して描かれたせいでどうにも、日本編での誓い/覚悟を忘れた男前でない人間のように見えるが、彼は「夕闇」も「面白さ」も忘れておらず、変わってもいないのだ。


そもそも、ロックが日本の大手商社から悪党の巣窟たるロアナプラに移ったのも、「面白さ」を求めたからに他ならない。

俺はお前に誘われた時、何かが吹っ飛んだ感じがした。
ラッシュに揺られ、愛想笑いで頭下げて、勤務成績に命張ってよ。何があっても飲めるところとバッティングセンターがありゃ「世はこともなし」――
そんな全部がどうでもよくなったんだ。
(2巻 p130)

この判断やら価値観をどうこうする意味はまったくの絶無なのでさておいて、ロックにとっては日本の「こともな」き日々より、ロアナプラのラグーン商会の方が刺激的に映ったわけだ。
日本編のロックには、このような享楽主義はなりを潜めている。その理由はおそらくこれだ。

忘れたのか、俺はもう死んでるのさ。
お前と出会った、あの日にな。
ロアナプラが歩く死人の街なら、ここは生者の住む街だ。
余りにも知った光景だったから――――
俺もそいつを忘れかけてた。死人にとっちゃ幻みたいなものだったのにな。
(5巻 p109,110)

ロックは忘れかけていた。自分がもう日本に、「こともな」き日々に見切りをつけていたことを。それは、同時に自分の選んだ道を忘れかけていたということでもある。ロアナプラを選んだことは、享楽主義を選んだことと同義だったはずだ。
コメディ要素も少なく、日本刀による自死という凄惨な結末を持つ日本編は、全巻を通読しても異質な感はあるが、それはロックの享楽主義が現れていないということにも由来する。日本編の彼は雪緒を助けようと奮闘するが、それは雪緒にとってはむしろ嫌悪を掻き立てるものだった。ロックの行動は、根っこのところでは自分本位のもので、それは雪緒に喝破されたとおりだ。つまり、根っこのところでやはりロックは享楽的に動いていた。それを彼は、「雪緒のため」と粉飾していた。それが「闇」を真正面から選んだ雪緒には許せなかった。

読み手の眼は誰の眼か

「光」から「闇」へ進むことを選んだ雪緒はロックを嫌悪し、ロベルタ編を通して、一度「闇」の領域に脚を踏み入れながらも再び「光」に戻ったガルシアとファビオラもロックを嫌悪した。「光」と「闇」を両方知り、かつどちらにいるかを決意したばかりの者に、「夕闇」に立つロックはひどく厭うべき対象として映るらしい。
元警官の張も、「光」から「闇」に入った人間だが、そちらに行って長い張にとってはロックはむしろ「面白い」人間に映る。他のロアナプラの人間も、基本的にはロックに対して「面白い」やつだと思っている。この違いは、興味深い。
その差はどこから出てくるのか。
おそらく、「光」と「闇」を両方知ってはいても時を経ていない人間は、「夕闇」のポジションがいいとこどりのように見え、長く知っている人間は、厄介ごとが倍になると言うことを十分理解しているのだ。
最初に言った「中途半端がゆえに便利で、中途半端がゆえに非常に厳しいポジション」というわけだ。
「夕闇」にいるロックは、どちらにも脚を突っ込んでいるので、さまざまな局面に顔を売れる。その代わりに、さまざまな局面でコウモリ呼ばわりされうる。よかれ悪しかれだ。
実際、「夕闇」に立つロックがいなければ、ロベルタ編でロベルタもガルシアもファビオラも死なない結末は迎えられなかっただろう(代わりに多くの人間が死んではいるが)。これは紛れもない事実だ。ロックの功績だ。それでもロックは、フォビオラたち、「光」に戻る人間と決定的に袂をわかった。もう「光」に戻った彼女らにとって、ロックは「夕闇」ではなく「闇(=この街の人間)」だと言う。彼女らは、不本意ながら「闇」に助けられたというわけだ。ロックにしてみれば、「夕闇」に立ったままで「光」にいるガルシアたちを助けたつもりだろうに。


対象の死という悲劇的結末を迎えた日本編では、「夕闇」に立ったロックはポジティブなもの(男前と言い換えてもよし)として映り、対象の生存というハッピーエンドのはずのロベルタ編では、「夕闇」に立ったロックは嫌悪されるものとして映った。この二編は「夕闇」の二面性を表した、裏表の話だと言える(日本編では享楽主義が薄かったので、まったくの裏表ではないが)。
改めて言う。ロックはぶれていない。「夕闇」の立ち位置も、享楽を求めてロアナプラを選んだその性根も、ロベルタ編を通じてそこかしこで光っている。ただ、それが厭うべきものとして映る者がいて、そんな者たちの視点に読み手は同一化させられていたということなのだ。ロックがどんどん悪人面として描かれていくのは、それが悪人として映るファビオラたちの視線に読み手を近づけていくためなのだ。




ぬう。本来書きたかったのは、ロベルタ編から感じる「正しさ」と「狂っている」の水準の話だったのだが、まずロックについて触れないことにはあまりにも膨大になってしまうので、やむなく予定になかった(つーか考えてもいなかった)ロックの話になってしまった。その件についてはまた後日。


追記;というわけで書いたもの。
「BLACK LAGOON」悪役面のロックは「正しい」人間ではなかったのかという話 - ポンコツ山田.com
結局「狂っている」に関する話はなかった。なぜなら予定は未定だからだ。ロックだけでなく、ガルシアやキャクストンの在り方について触れている。


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