先日新刊の発売されたヤマシタトモコ先生の『違国日記』。
新刊を読んで一番印象に残ったのが、ストーリーではなく、47.5話冒頭の表現。えみりが喫茶店でノイズキャンセリングイヤホンをしながら勉強をしていたところに、しょうこから声をかけられ、イヤホンを外すシーンです。イヤホンによりシャットアウトされていた外界の音が、イヤホンを外したことで聞こえてくる。それが、読んでいてまるで我がことのように感じられたのです。
後日、ヤマシタ先生自身が、そのシーンをかなり意識して描いたことをうかがわせるツイートをしていました。
ノイキャンイヤホンの感じが伝わるといいなというところが描いてて楽しかった47.5話です
— ヤマシタトモコ (@animal_protein) 2023年2月12日
まんまとその思惑にはまったわけですが、さて、読んでいても音がシャットアウトされていたかのように感じられるこのシーンには、いったいどのような秘密が隠れているのでしょうか。
まずは当該のシーンを改めて見てみましょう。
(10巻 p73~76)
これを見てまず気づくのは、当然ですが、イヤホンが外されるまでの間、音を示す文字表現がないことです。窓にあたる雨も、ノートの上を走るペンも、店内のざわめきも、そこにあるはずの音が一切書かれていません。
もちろん、書かれていてしかるべき音が書かれないことはしばしばあります。たとえば同じ10巻の47話で、朝が演奏をしているシーンでも、演奏しているバンド、観覧しているオーディエンス、撮影中のスマホと、音があっておかしくない場面でも、何の擬音も台詞も書かれていませんが、不思議とそのシーンでは無音の印象は強くありません。言ってしまえば、単にそういうシーン、というもので、無音であること(擬音等が書かれていないこと)に特段の強い意味はなさそうに感じられます。
翻って、47.5話で無音性を意識させるのは、つまり擬音等が書かれていないことに強い意味を感じさせるのは、しょうこに話しかけられたえみりがイヤホンを外すと、フェードインするように台詞が始まっている点です。
「――――んでんの?」というしょうこの台詞とともに、店内のざわめき(「ガヤガヤ」という擬音)や、ちょっとした物音(画像にはありませんが、椅子を引いたのであろう「ガタン」という音がページ下部にあります)が書かれ始めるのです。
途中から聞こえ始めた、すなわちそれまでは音が聞こえない状態であったことが印象的になるようにフェードインで始まったしょうこの台詞により、読み手は遡及的に、それまでが無音であったことを強く意識するのです。
それ以外の点も挙げるとすれば、被写体に寄り、かつ視点がバラバラであるカメラアングルが連続している、ということも言えるでしょうか。
雨に濡れる窓、えみりの横顔、(これは遠景の)店外からのカメラ、手元(ペンケース)のアップ、うつむくえみりの顔、(さらに寄った)雨に濡れる窓、えみりの肩に触れるしょうこの手、えみりの目、(えみりの視点から)見上げるしょうこ、イヤホンを外す手、とアップのパッチワークになっていたカメラの視点が、音の復活と一緒に引きの視点を得て、コマ間に流れが生まれだします。
それまでのそれぞれのコマの連続性は薄く、えみりがしょうこを待つひと時の瞬間瞬間を脈絡なく切り取ったかのようです。そう、切り取っているのが瞬間だからこそ、そこに音がないのです。
コマに脈絡(連続性)がないと、コマ間で時間が流れているように感じず、それぞれのコマが独立した一瞬であるかのように思えます。
そして、音とは空気の振動です。フィルムに写った光を焼き付けた写真とは違い、音が鳴っている時間を無限遠まで縮めて切り出す、すなわち独立した一瞬としてコマを描くと、コマの中には空気が振動をできるだけの時間が存在せず、それゆえ音は鳴りません。鳴っているように感じません。
このモンタージュ的技法も、漫画の中から音を消し去っている一因でしょう。
まとめれば、モンタージュ的に連続性のない(そして現に擬音等のない)コマを描くことで、読み手に無意識の裡に音の存在を捨象させ、イヤホンを外した瞬間からフェードインしてきた台詞や擬音が書かれることで、そのときになって初めて読み手はそれまでの無音を強く自覚する、という仕組みになっているのです。
とまあそんな仮説ですが、作者の意図どおりの受け取り方をしちゃうと、すがすがしい笑顔で「してやられたぜ!」って言っちゃいますね。
ところで新刊で一番好きな台詞は、47.5話のしょうこの「もっといっぱい約束して」です。よろしくお願いします。
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