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漫画の話です。

『ぼっち・ざ・ろっく』下手な演奏を下手に演奏できるアニメの説得力の話

 今更ながら、ABEMAで『ぼっち・ざ・ろっく』のアニメを見てます。
bocchi.rocks
 現時点で9話まで鑑賞。原作を2巻まで読んでからのことなので、ストーリーはすべて承知なんですが、漫画とアニメの表現の違いから生じる印象を色々感じてます。
 その中でも一番大きいのは、やはり演奏シーン。
 漫画からは当然音が聴こえませんので、その点で実際の音を鳴らせるアニメはとても有利。それが(9話時点で)一番うまくいったなと感じたのは8話でのライブシーンです。

 結束バンドの初ライブ1曲目は、台風により観客が少ないことによるモチベーションの悪化もあってか、4人とも集中力が低く、まったくノれてませんでしたが、原作ではそれは、こう表現されていました。

(1巻 p124)
 「ドラムもたついてる」や「息が合ってない」というのは所詮言葉だけであり、そもそも普段の彼女たちの演奏レベルも言葉以上のものを実感できてないのですから、いくら言葉で演奏の具合の説明をしても、彼女らの演奏のノれてなさは説得力をもちえません。
 でもアニメでは、現実に音を鳴らせます。それも、絶妙に聴いてて不安になる音を。
 たしかにぼっちの言うとおり、ドラムはもたついているし、ベースとうまくかみ合わないし、ボーカルの声も飛んでいません。ちゃんと「聴いてられない」演奏になってます。そりゃあファン1号2号も不安な顔になる。
 アニメでは、下手くそな演奏をちゃんと下手くそに演奏することで、結束バンドの不安定さに、はっきりとした説得力が生まれているのです。

 で、これがうまく効いているのは、5話のオーディションでの演奏は、ちゃんと「聴ける」ものだったということです。アマチュア女子高生バンドの初めての人前での演奏がちゃんと「聴ける」ものだったことに、私は、「なるほど、アマチュアの演奏も『聴ける』ものとして構成するのね」と思いました。いくらぼっちがネットで好評を博するギタリストだったとしても、それだけでバンド全体が「聴ける」ものになるというのは考え難いものです。なので、アニメはそういうスタンスで作るのだと。
 でも、それはフリだった。
 オーディションで「聴ける」演奏をしていたからこそ、初ライブでの「勢いが完全になくなってる」演奏が説得力を持って成立するのです。
 たしかに彼女らは、モチベーションも集中力も欠いている。初ライブがこれでは、経験者の虹夏やリョウはともかく、ぼっちと喜多はバンドをいやになってしまうのではないか。
 そう、きちんと視聴者を不安がらせられるのです。
 実際、あのレベルの演奏は、ライブハウスで爆音で聴けば違和感を意識しないくらいにはなるかもしれませんが、それでも「なんかノれないな」という思いはついて回り、オーディエンスが少なく熱狂度が低い状況ではなおのこと感じるでしょう。それが、アニメでの画面越しの演奏となれば、ノれない感じ、いつか止まってしまうんじゃないかという不安はいっそう強く感じてしまいます。

 で、そんな1曲目の不安定さこそ、2曲目冒頭のぼっちの暴走が光ります。

(1巻 p125)
 このシーンも原作では、ぼっちが意を決して空気を変えようとし、それがバンドの皆にも伝染して無事ノリが復活した、ということはわかりますが、それはわかるというだけで、説得力という点ではあまり強くありません。「そういう風に描いてあるからそういうシーンなんだろうな」という、想像というか、主体的な思考が生まれてしまい、ぼっちが場の空気を変えたことが感覚的にわかるわけではありません。
 ですがアニメは、1曲目のチグハグなバンド演奏とは違い、一人でキレのある演奏をするぼっちのギターは、たしかにその場の空気を変えるものであり(もちろんギターの音以外の演出もありますが)、それに引っ張られた2曲目が、1曲目と格段に違う演奏となったことは、文字どおり、聴いてわかる演出となっていました。ドラムのパターンも安定しているし、ベースやギターとのキメも合ってるんですよね。
 視聴者はそれを、考えてわかるのではなく、聴いて感覚的にわかることができるのです。百聞は一聴に如かずとでもいいますか。
 理屈に先んじる理解。それが説得力です。

 現に音を出せることで、しかも実は大変に難しい、わざと下手くそに演奏をすることで、ライブシーンの緊張感と絶望感、そこから一転するカタルシスを巧みに描いたのは、やはりアニメの強みだなと思います。
 丁寧につくられるバンドアニメはいいぜ……
 あと廣井きくり、えっちだぜ……

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オタク愛は拳で語らえ!腐女子JK除霊師『限界煩悩活劇オサム』の話

 ギャルJK・春山カイカは悩んでいた。自分のアパートに出る怨霊があまりにも荒ぶるため、なみいる除霊師たちが軒並みしっぽを巻いて逃げているからだ。藁をもすがる思いで見つけたのは、同じ学校に通うJK除霊師・乾オサムだった。しかし、彼女いわく、自分が除霊できるのは一部の特殊な霊だけだという。それでもカイカから状況を聞くうちに、どうやら自分が対処できる類の怨霊だと判断し、カイカのアパートへ向かうが、怨霊と対峙した瞬間オサムは、それから発された呪いの言葉に、血反吐を吐くほど精神を削られた。果たしてオサムは怨霊を祓うことができるのか……

 ということで、ゲタバ子先生の『限界煩悩活劇オサム』のレビューです。
 上記の1話あらすじだけ読めばホラーバトル物と思えるかもしれませんが、ところがどっこい、ホラーの皮をかぶった、否、まったくかぶりきれていないオタク(腐女子)オカルトコメディです。
 なにしろオサムが除霊できる一部の特殊な霊とは、腐女子が怨霊になったもの。オタク心を拗らせて現世に執着している腐女子怨霊を、自身もズブズブの腐女子であるオサムが、時にオタク愛を語り合い、時にカプ観の相違で拳をぶつけあい、時に協力して非オタを沼に引きずり込むことで怨霊の負の感情を浄化するという、パワフルでソウルフルなスタイルなのです。

(1巻 p35)
 これは除霊中のパワフルでソウルフルな笑顔。逆カプをさげすむあたり、主人公とは思えないばっちさですね。
 このように、オタクを拗らせた熱いぶつかり合いの除霊が面白さの一つで、基本的にオサムも怨霊と同じオタクであり同じ穴の狢、オタクゆえの肩身の狭さに心通じ合うこともあり、オタクゆえの絶対に譲れない価値観(カプ観)でバチボコに殴り合うこともあり、ドタバタと除霊に励むのですが、オサムも怨霊もどちらも根底にあるのはオタク愛。
 怨霊はその愛ゆえに現世に残り、オサムはその愛ゆえに、現世に残ってしまっている怨霊の話を聞かずにはいられない。だって彼女は除霊師だから。オタクを拗らせている怨霊の気持ちをわかってしまうから。彼女が聞かなければ、怨霊の相はもうどこにも届かないから。
 あれ…そう考えると実はいい話なのか……?

(1巻 p26)
 いい話っぽさを感じさせる1コマ。なお3p後にカプ観の相違で血反吐を吐きます。

 とまあ、拗らせたばっちいオタク心と、その根底に流れる作品への愛が、奇跡のようなマリアージュを見せ、9割のコメディと1割のちょっとだけいい話として奇跡の成立を見せています。
 ドタバタコメディとして漫画の作り方とても巧みで、会話やコマのテンポが良く、ぐいぐい読めてしまうんですよね。
 キャラの関係性としても、たとえばバチクソオタクのオサムと、オタクに優しい非実在ギャルのカイカという関係による、オタク愛にあふれた熱さとそういうのがよくわからない困惑による凸凹の緩急あるキャッチボールもあれば、バチクソオタクのオサムとバチクソオタクの怨霊という関係という、オタク愛同士の凸凸の火の玉ストレート投げ合いもあり、そこらへんの塩梅がいいんです。
 対立も対比も、きっちり関係性を作ることで、会話やアクションにメリハリがつくんだなと感じ入る次第。
shonenjumpplus.com
 こいつはいいコメディ。

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俺マン2022の話

 あけましておめでとうございます。昨年はなんだかんだ54本の記事で、平均週1ペース。思ったよりも書いてました。今年も負けずに書いていきたいです。そのためにも、本を読まねば。
 ということで、新年一発目はいつの間にか毎年やるようになってた去年の俺マンのまとめです。
 俺ギュレーションは、2022年の内に作品が発表され、今までノミネートしてなかったもの。
 まずはざっとノミネート作品を。なお順不同。

・ダイヤのA act2/寺嶋裕二
・であいもん/浅野りん
かぐや様は告らせたい/赤坂アカ
・三拍子の娘/町田メロメ
・鍋に弾丸を受けながら(森山慎/青木潤太朗)
・正反対の君と僕/阿賀沢紅茶
女の園の星/和山やま
・隣のお姉さんが好き/藤近小梅
・となりのフィギュア原型師/丸井まお
・ルリドラゴン/眞藤雅興

 以下、簡単にコメント。

 昨年完結した高校野球漫画。少年マガジンは読んでなかったのでずっと視界に入ってなかったのですが、一昨年くらいからコミックDAYSのサブスクで各種雑誌を読むようになり、途中からにもかかわらず毎週追っていたらいつの間にかはまってしまい、コミックスにも手を出していました。
 甲子園を本気で目指す強豪校でエースを目指す主人公とそのライバルを中心に、ガチで高校野球に打ち込む男子高校生をひたすら描くというストイックさに心打たれ続けました。
 2年半しか現役でいられない高校野球という世界。同じ部活内でも最終的にプロを目指せる能力を持つ者と持たざる者がはっきり分かれる残酷さ。各地で青田買いをする強豪校もいれば、生え抜きの部員で勝ち上がる公立校もいるある種いびつな競技社会。
 同じ講談社で言えば『グラゼニ』で描かれるようなプロの世界とは違う、高校野球だからこその面白さが詰め込まれていました。
 本音を言えば、甲子園編、さらに3年生編のact3も読みたかったですが、まあそれは今後の奇跡を願いつつ、完結まで楽しめたことを嬉しく思います。
 ついでに、作者がブルーハーツハイロウズクロマニヨンズ好きなのもお気に入りポイント。

 和菓子屋を舞台にしたヒューマンドラマ。なぜ14巻のこのタイミングかと言えば、単純に初めて読んだのが去年だったから。去年はアニメ化もしていたようですね(未視聴)。
 浅野りん先生の作品はある程度読んではいるんですがこれはチェックから漏れてて、たまたま何かの拍子で試し読みしたらどっぷりはまりました。
 京都の和菓子屋・緑松の一人息子として生まれた納野和(いりのなごむ)は、上京して大学を卒業した後はミュージシャンを目指し数年、結局芽の出ないままに実家に帰ると、そこには見知らぬ少女・雪平一果(ゆきひらいつか)が看板娘として両親と一緒に住んでいて……という導入。
 和菓子が好きなのにとある出来事からそこから目を背けてしまった和と、親に半ば捨てられる形で緑松に預けられた一果。和菓子屋を捨てたくせにのこのこと帰ってきた(と思えた)和に、一果はつんけんした態度をとるけど、和の持ち前のおおらかさとまじめさ、そしてどこか父を感じさせる雰囲気に、次第に一果も彼と心通わせるようになっていきます。手作りの和菓子製菓に必要な、丁寧さと、根気と、季節の移ろいに気づく感性と、食べる人のことを思う気遣い。そういうものが、和と一果の心が通じ合う流れとリンクして、とてもいいヒューマンドラマなんですよね。
 主役の二人以外にも、和の両親、祖母、和にギターを教え彼に強い影響を与えた和の高校の先輩、一果を置いていった彼女の父親、元カノでなぜか京都のお茶屋で働くことになった佳乃子、緑松でアルバイトをする女子高生の美弦等、魅力的なキャラクターが彼や彼女のドラマを演じ、物語を織りなしていきます。
 あと、これはこの作者の昔からの強みですが、女性キャラクターがかわいい。特に少女が激烈かわいい。激烈に。一果かわいいよ一果。
comic-walker.com

 こちらも去年大団円を迎えた恋愛コメディー。と思いつつ、途中ではそれから逸脱するようなストーリー展開を見せたりもしましたが、無事大団円で着地。
 理屈というか、設定というか、理論というか、そういうものを下敷きにしてストーリー展開やキャラクターを作り、物語を巧みに作っていったなという印象。  
 最終巻で、各キャラクターのその後などを一話ずつ使って描いているのが、拙者後日談大好き侍にはとっても高評価です。みんな幸せになってくれよ……

 これも、一昨年の大みそかに存在を知り、一昨年の俺マンにはノミネートされなかったため、満を持して去年のノミネートです。
 若い三人姉妹のなんてことない日々の生活。詳しい内容は過去のレビュー(
私たちの日々は強く楽しく軽やかに 『三拍子の娘』の話 - ポンコツ山田.com)を参考にしてほしいですが、特筆すべきはやはり、その軽やかな読み心地。三拍子のワルツを軽快に踏むように、姉妹三人で日々を楽しく過ごしている姿は、何度読んでも心が軽やかになります。
 大変なことや辛いことはあるけど、なにはともあれ生きてると楽しい。
 そういう、人間としての強さがあります。
ebookjapan.yahoo.co.jp

 オツムをやられてしまったせいで目に映る人すべてが美少女にしか見えなくなった原作者(青木潤太朗先生)が旅先で出会った、100点満点で5万点の食べ物を紹介するレポ漫画(美少女(30代男性)が行く世界危険なグルメ旅『鍋に弾丸を受けながら』の話 - ポンコツ山田.com)。
 紹介される食事が、まさにこれは5万点と納得できるほどに美味しそうなのはもとより、アマゾンの奥地のバンガローやディープシカゴ、ドバイなど、その土地の気候や歴史や文化などを下敷きにしているルポが、とても興味深いのですな。特にドバイの、清浄な砂で埋め尽くされているがゆえに形成された、他ではありえない死生観(「死が不潔じゃない」)というのが印象深いです。あと、ドバイの「引くほど・・・・体にイイ」蜜、舐めてみたい……
comic.webnewtype.com

 残りの5作品は、去年末の記事で触れているのでそちらをまるっと参考にしてください。
yamada10-07.hateblo.jp

なお、惜しくも選から漏れた作品として
ゴールデンカムイ/野田サトル
ドミナント/五十嵐純
・出禁のモグラ/江口夏実
あたりがあります。
 ゴールデンカムイは最後までかぐや様と迷いましたが、後日談の差でかぐや様に軍配が上がった形です。

 さあ、今年もまた面白い漫画に出会えますように。

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今から追いつけ!5巻以内のおすすめ漫画5作品 in 2022の話

 年の瀬。今年もちょぼちょぼ漫画を読んできました。面白い漫画もあんまりピンとこない漫画もいろいろありましたが、今年読んだ漫画の内、2022年12月現在でまだ5巻以内で連載中のおすすめ漫画を5タイトル、紹介して今年のブログの書き納めにしようと思います。すでにブログで取り上げている作品もありますが、まあそこはあまり気にせず。

『正反対な君と僕』(阿賀沢紅茶)

 陽キャでウェーイなパリピ女子・鈴木と、寡黙で周囲と我関せずなメガネ男子・谷。正反対に見える二人が、その正反対さゆえに惹かれ合う青春ラブストーリー。
 傍から見れば陽キャでウェーイなパリピ女子だろうと、自分の性格や立ち位置や他からどう見えているかその他もろもろウダウダと考えている。
 傍から見れば寡黙で周囲と我関せずなメガネ男子だろうと、そんなパリピ女子から妙に積極的に話しかければ内心ドギマギするしひょっとしたら自分に気があるのかもなんて考えちゃうしでもそんなわけないかと自ら打ち消して自己嫌悪しちゃう。
 人は見かけによらないなんてありきたりな言葉じゃないけど、その人が何考えているかなんて見てるだけじゃわからないし、自分の気持ちは言葉にしなきゃ伝わらない。わかり合うには、通じ合うには気持ちを言葉にしなければいけない。そんなメッセージが伝わってきます。
 主人公の二人だけでなく、彼や彼女の周囲の人間もいろいろ考えているし、その考えが袋小路に陥ったとき、他の誰かに向けて言葉にすることで、意外な糸口をもらったりしている。そこらへんの感情の機微が、高校生らしい稚拙さと誠実な丁寧さの絶妙なブレンド言語化されていて、とても好きです。
 現在2巻まで発売中。
shonenjumpplus.com



『ルリドラゴン』(眞藤雅興)

 ある朝起きたら角が生えていた女子高生のルリ。あまりの現実感のなさに寝ぼけ眼で母親に角を見せるも、「まああんた半分人間じゃないしな」と衝撃の事実をあっさり伝えられる。人間とドラゴンのハーフとしてついに覚醒したルリの人生はどうなるのか……!?
 と思いきや、彼女が世界征服に乗り出すわけでなく、勇者が討伐に現れるわけでなく、なんだか困ったなあと思いながら高校生活を続けていく、ゆるりとした日常コメディです。
 角が生えただけならまだしも、くしゃみのついでに炎を吐き出し前の席の男子の頭を焦がすなんてのはそれなりに大事なんですが、クラスメートも先生も、意外にもそれを受け容れてくれたり、当然というべきか受け容れてくれない人もいたり。誰でもあるような高校生活の悩みが、誰にも起こらないような形で発露してしまったルリを、どこにでもいるような高校生のように描く。その塩梅が、かわいくて、ユーモラスで、つい何度となく手に取ってしまいます。
 現在1巻まで発売中。作者は体調不良で休載中とのことですので、一日も早い回復をお祈りします。
shonenjumpplus.com


女の園の星』(和山やま)

 とある女子高で教師をする星と、その同僚、生徒たちが繰り広げる、女の園のくだらないお話。というテイの、今一番キレッキレのギャグ漫画。コメディとかでなく、ギャグ。
 ギャグは照れや逃げを作らず本気でやらないと面白くないと常々思っているのですが、本作はそれを見事に体現しています。
 基本的に皆まじめ。まじめというか、本気。本気というか、作為がない。少なくともそう感じられる。
 誰かをあえて笑わせてやろうとわざとらしい何かをするのでなく、普通に授業をして、授業を受けて、普通にくだらないことをして、普通に驚いたり悲しんだりして、彼や彼女自身はなんてことない日常を送っているようにしか見えません。
 でも、学校という閉鎖的な空間で繰り広げられるそのなんてことない日常を、まったくの部外者が外から覗き見るとこんなに狂気に満ち満ちているものかと、おそれおののき爆笑してしまう、そんな漫画。
 真顔の狂気。真面目な顔した混沌。普通だからこそ恐ろしい。そしておかしい。
 その白眉の話は2巻の第10話。ある生徒による7ページにわたる狂人がごとき独白をどんな顔して受け止めていいやら戸惑いつつ読み、その狂気の意味がわかった瞬間になんだそりゃ!と膝から崩れ落ちて腹を抱えて笑う。作中のセリフを借りれば、マジで時空が歪んだような感覚。すげえよ。
 現在3巻まで発売中。
shodensha.tameshiyo.me


『隣のお姉さんが好き』

 中学2年生の佑と、彼が恋心を抱くお隣さんで高校2年生の心愛。映画が好きな彼女に近づくために、自分も映画が好きと偽って、毎週一緒に映画を観るようになった佑。でも、恋に恋する佑の視野は狭くて、自分に自信のない心愛の情緒は不安定で、二人のコミュニケーションはどうにもちぐはぐで。
 当初は二人のいびつさが、表面上では取り繕われつつも薄氷の下で不穏げに存在していたのが、2巻になって、佑が自分の視野の狭さに気づき、心愛が自分の不安定さに気づき、初めていびつさを自覚して、お互いがお互いをちゃんと見ることができたように思えます。
 薄氷を薄氷と知らずに歩くのは、主観的には安全安心なものですが、そこを薄氷と知っている者からすればとても不安になるもの。でも、そこが薄氷であると知り、その下にある危険さを知ることで、その上にいた者は初めてどうするべきか悩み、慎重に歩もうとできます。
 2巻の今がそういう状況。佑が、「好き」という一言で覆っていた自分の感情を少しずつより細かい言葉で腑分けしだし、それにあてられた心愛も彼の気持ちをまじめに考えようとしだす。いい……
 私もきれいなお隣のお姉さんに稚拙な恋愛感情を燃やしたい人生だった……
 現在2巻まで発売中。
mangacross.jp



『となりのフィギュア原型師』(丸井まお)

 フリーのフィギュア原型師である半藤は、担当からお遣いを頼まれたが、なんとその先は憧れの原型師である滝館おこめの工房だった。なしくずしにそこで一緒に働くことになった半藤。代表であるおこめを筆頭に、一癖も二癖もある同業の原型師たちとの労働は、楽しくもハチャメチャで……
 年末になって、kindle unlimitedに入っていたという理由で偶然読んだ1巻でたいそう気に入り、unlimitedになかった3,4巻を早々に紙で買った本作品。フィギュア原型師たちが登場するストーリー4コマなのですが、会話のテンポといい、キャラクターのかわいらしさといい、普段目にすることのない原型師の世界をのぞき見できる感じといい、とても楽しくかつ気楽に読める作品です。
 どう見ても子供の容姿と性格ながら一線級の原型師である工房代表のおこめ。コミュ障気味でおっぱい星人で筋トレマニアの半藤。恰幅の良い体型(婉曲表現)と幼女趣味(Yesロリータ、Noタッチ)と高度な社会性を持つ斉藤。気が小さいけどおしゃれでマッチョ趣味でグロ趣味の羽喰。
 なによりこの危険な奴らの会話のキレがよい。文脈に対しあさってのことを口にし、それに対して正論で返す、コンパクトにまとまったボケとツッコミ。その応答がキュートにデフォルメされてるキャラでやられているのが楽しいんです。
 あと、回を重ねるごとに性格が悪くなっていく羽喰のキャラがよい。髪型や体型の変更、見た目によらない振る舞いや人脈、他人の色恋に積極にくちばしを突っ込むおせっかいさ、悪辣な発言。作者もだいぶ便利にこのキャラクターで話を回してるなと感じますね。
 疲れた時に一話読んでけらけら笑って気持ちが少し落ち着く、そんな作品。
 現在4巻まで発売中。
manga-time.com


 ということで、今年一年お疲れさまでした。また来年も面白い作品に出会えますように。

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『メダリスト』言葉を与えることによる動作の意識化と、世界の細分化の話

 いまアフタヌーンで一番楽しみな作品こと『メダリスト』。

 7巻では、司をケガさせてしまったことからくるイップスを乗り越え、4回転サルコウという唯一無二ともいえる武器を手に入れたいのり。ですが、その過程は簡単なものではありませんでした。
 4回転ジャンプを手に入れるために、さすらいの釣り師ことジャンプ専門のインストラクター魚淵に教えを乞うたのですが、いくら彼が凄腕の釣り師でも、いくらいのりに司直伝のステップの精度と回転の速度があっても、そう簡単にはいきません。
 何度も何度も失敗を繰り返し、限られた時間が刻一刻とすり減っていく中、いのりの頭の中は、悲壮な決意の言葉で塗り潰されていきました。

(7巻 p109)
 しかし彼女のこの思考はもはや、アスリートが持つべき成功のための建設的なものではなく、神頼み運頼みに近いものに堕しかけていました。
 そんな彼女の頭を冷やしたのは、司の言葉です。

成功を願いすぎちゃだめだ
これは思いの強さで跳べる魔法じゃないんだ
いのりさんに必要なのは ガムシャラになることじゃないよ
(7巻 p110)

 願うことの否定。ガムシャラの拒否。
 ならば、なにをすべきか。
 司はいのりに問いかけます。

「今 頭の中にどんな言葉がある?」
「跳ばなくちゃって… 気持ちが…いっぱいです…」
(同前)

 「跳ばなくちゃ」って気持ち。それは強い決意ではありますが、非常に精神的なものであり、具体性からかけ離れたものです。その言葉をいくら煮詰めても、どうすればできるようになるかは出てこず、周りの人間にも彼女からは必死さしか伝わってきません。
 そこで司がいのりにしたアドバイスは、その状態を大転換させるもの。抽象から具体に変えるもの。彼女の中にしかなかった感覚を、他人にも共有させるもの。

じゃあ代わりに4回転がどんな感覚が俺に教えようって考えてくれないか?
跳び上がる時どこの筋肉がぎゅっとするか
どんなスピードで光が目の前を通り過ぎるのか
回る時 降りる時 どんな風が頬にかかってくるのか…
成功のためじゃなくて一つでも多く言葉を見つけるために跳んでごらん
どれだけ細かく世界を感じられるかがコントロールの鍵だよ
(7巻 p111)

 言葉を見つける。
 細かく世界を感じられる。
 この司の言葉は、魚淵がいのりにかけた言葉にも通じます。

「…ルッツだってゆっくりだなんて… 跳ぶのやめようだなんて…
全然思ってないのに体がどうして動かせないんだろう」
「多くの子はその無意識の動作のせいでジャンプが跳べないんだよ」
(7巻 p106)

 ジャンプに悩む多くのプレイヤーを見てきた魚淵は、無意識の動作がジャンプを阻害すると言います。
 ならばどうすればいいか。
 簡単に考えるなら、無意識の動作を意識的にすればいい。しかし、無意識でしていることをじゃあ今から意識しなさいと言われても、すぐできるものではありません。それができるなら、無意識ゆえに悩むことはないでしょうから。
 じゃあどうすればいいかという答えの一つが、司の言った「言葉を見つける」なのです。
 このブログでも何度も何度も書いてますが、というか、まさに直前の記事で、「好き」というクソデカ感情を言葉によって腑分けし初めてその相手を見ることができると書いてますが(『隣のお姉さんが好き』「好き」という名のクソデカ感情と、言葉による感情の腑分けの話 - ポンコツ山田.com)、ある意識や感情、動作に言葉を与えるということは、それに名前を与えるということであり、名前を与えられて初めて人はそれを認識することができるのです。
 ジャンプという一連の動作も、その中の各瞬間、各部位、各感覚に言葉を与えることで、その動作を自己の認識下に置き、意識的な動作とすることができます。
 それを推し進めて、できる限り細かく意識化できるものを増やしていく、言葉を与える対象を分割していく、すなわち細かく世界を感じるようにすることで、画素を細かくすることで映像がより鮮明になるように、動作も滑らかにビビッドになるのです。

 さらに言えば、司の偉大なところは、言葉の見つけ方に具体的な示唆を与えているところです。
 筋肉の具体的な緊張具合。
 視界の中の光の速さ。
 回転中の風の体感。
 言葉を見つけろと言われても、やはり、どこにどんな言葉を見つければいいのかわからないものですが、感覚の種類と表現の方向性をうまく例示しているのです。
 考え方を具体的なものにするために、指示も具体的なものにする。素晴らしいコーチですね。
 これを聞き、さらに膨らませて、「スピードの確認」「氷の音の高さ」「胸の音の速さ」「親指の折りたたみ方」「握る力」「緊張レベルのチェック」と言語化する箇所を自主的に増やすいのりも非常に勘所が分かっているのですが、こうして自分の体、精神、それらを取り巻く環境に言語を与えることで動作を意識化することができた彼女は、ついに初めての4回転ジャンプに成功するのでした。

 感覚へ言葉を付与することによる動作の意識化。
 より細かく言葉を与えることで感覚や意識をより鮮明にする世界の分節化。
 フィギュアスケートに限らず、様々な局面で適応できる考えでしょう。

 強力無比な武器を手に入れはしたけれど、ライバルたちも天才と呼ばれてきた猛者ばかり。さあ、いのりは全日本大会でいかなる演技を繰り出すのでしょうか。
 To be continued...

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『隣のお姉さんが好き』「好き」という名のクソデカ感情と、言葉による感情の腑分けの話

 2巻発売の『隣のお姉さんが好き』。

 表紙の心愛は、整った笑顔だけどどこか遠さを感じる1巻から、2巻では焦りや動揺がにじむもそれゆえに近さも感じられるものになりました。
 なんというかそれ、いい……ですよね。

 2巻になって一気に面白さにドライブかかってきたなと感じるのは、二人の、特に佑の変化ゆえだと思うんですよ。
 心愛に対してただ「好き」という感情を、そのラベルの中身を吟味しないままド直球で投げつけていた佑が、自分が心愛に向けている感情は何なのか、それは何に由来するのか、「好き」っていったい何なのか、ということを自覚していって、とても苦労しながら、自分の感情を言葉にしていく。そういう少年の変化が、読んでいてドキドキするんです。

 もともと彼は、「映画を観てる心愛さんは どこか遠くを観てて その目が不思議で かっこよくて」というところに一目ぼれをし、その一発fallin' loveゆえに、ただ彼女に対して盲目的に恋心を募らせていきました。あっさり沸点突破したその気持ちは、彼に脈絡なく告白を選ばせますが、彼の口にした「好き」という言葉は、心愛にはあまりにも響きませんでした。
 物語の序盤で佑が心愛に向けていた「好き」は、本当にただの「好き」というか、恋に恋する恋心の「好き」というか、つまりは自分の中で突然膨れ上がった今まで存在しなかった感情に、世間で流通しているそれらしいラベルを貼り付けただけの粗雑なものだったと思うのです。

 そもそも恋心なんて、というか人間のクソデカ感情なんて綺麗に整理できるものではありませんが、それでも彼が「好き」というラベルを貼り付けた感情はあまりにも無垢。悪い意味で。それがどんなものか自分でも直視していないから正体はさっぱりわからず、感情を向けられた相手も戸惑ってしまうものです。つまりは、こいつ好きなんて言ってるけど、わたしのこと何にも見ないで言ってるな、と。
 ある感情を理解するためには、感情そのものと同時に、その感情を惹起させたものも見つめなくてはいけません。本人がまるで直視してない感情をぶつけられるということは、その本人がぶつけた相手をまるで直視していないということになるからです。

 感情の直視。その変化は、実は1巻の最終話にはもうありました。それは、『若おかみは小学生』の感想を、なんとかひねり出した佑の姿です。
 そもそも彼が映画の感想をまともに口にするのはこれが初めてなのですが、なにしろ今まで彼が見てきた心愛チョイスの映画は、中2の彼には少々小難しかったようで、もともと映画を口実に心愛に会いに行っていたとはいえ、それでも映画に全然集中できず心愛の横顔ばっかり見ていたくらいですから。
 ですが、アニメ映画の『若おかみは小学生』は今まで見てきた作品に比べればずっとキャッチーで(たぶん)、彼にしてみればようやく心愛の横で集中して観られた映画だったのです。
 で、佑が居住まいを正し正座をしてまでひねり出したその感想は
「……あの……おっこ…が…あの人を…許したのは 良かったですね…」
「あの…最後のシーンもなんかよかったし…」
「おっこは色々大変なのに…ちゃんと頑張っててすごいなと思いました」
 というものでした。
 中2男子が映画を観た直後に言う感想がこれというのが、拙いのかこんなもんなのかはわかりませんが、少なくともこれは彼にとってとても大きな一歩。なにしろ、映画を通じて自分の中に湧きおこった感情に、どんな言葉が適切か自分なりに選ぶという、初めての行為だったのですから。
 自分の感情に言葉を当てはめるのは、並大抵のことではありません。言葉は感情に対して常に多すぎるか少なすぎるものであり、100%バッチリ言葉をあてはめられることはありえないと言っていいでしょう。
 悲しみしかないと思ってもどこか滑稽さがあったり、喜び満点のようでいてどこか不安があったりと、人の感情には揺らぎや濃淡があり、その揺らぎや濃淡に逐一適切な言葉を当てはめるのは不可能で、言葉をいくら多く費やしてもその感情そのものにはなりえません。それは、テレビの画素をいくら細かくしても、その映像は映し出されているそれそのものにはなりえないとの一緒です。
 ですから、佑が初めて本気でやってみたその作業、つまり、自分の感情に言葉を当てはめるということにひどく苦労し、それで出てきた感想もざっくりした言葉だったこともしょうがないことなのです。100%にはならなくてもなるべく近い言葉を見つけたいものですが、それができなければ、ざっくりした大雑把な言葉に頼らざるを得ないのですから。頻出する3点リーダは、彼が適切な言葉を見つけられず苦渋の決断で腰の入ってない言葉を使うしかなかったことの、なによりの証左です。
 ですが、自分の言語能力の不如意さにいくら苦しもうとも、そうやって自分の言葉を感情に当てはめていかないことには、自分の心はわかりません。対象のこともわかりません。
 いわば言葉による感情の腑分け。この部分はこの言葉、あの部分はあの言葉と、感情を細かく分けて、言葉を当てはめて、感情全体を見通せるようにする。上述のように、100%見通せる、100%整合しているものにはならないけれど、それを受け容れたうえで。
 そうして、初めて自分も、対象もわかるのです。

 そんな彼も、彼の兄である紡の「好きなものなら感想書きやすい」というアドバイスどおり、『アイアンマン』からドはまりしたMCUシリーズで自分の感想を口にすることに慣れていきます。自分の感情に言葉を与えることに慣れだすのです。
 そしてその対象は、映画以外にも広がっていきます。つまりは、心愛を彼女を観たときの感情へと。
 2巻の23話で佑は心愛に、彼がしばらく書き留めていた心愛の観察日記を見せました。その中身はとても赤裸々なものですが、彼が心愛をしっかりと観ていたことがありありとわかる内容になっています。当初の、自分の感情も観ず、心愛自身も観ず、ただクソデカ感情にラベルを貼っただけのやみくもな「好き」とは違う、佑自身の言葉があり、その必死にひねり出された言葉たちの一番上に「好き」が貼られているのです。
 それに加えて、心愛から尋ねられた「私の好きなとこばっか書いてる ……じゃあ嫌いなとこは?」という意地悪な問いにも、佑は「……すぐ逃げるとこ… ちょっと難しいとこ… うーん…あとは…たまにひどいこと言うこと…?」と、考え考え、思い出し思い出し、自分の言葉で答えました。
 これには自己肯定感の低い心愛もニッコリ。自分の外面だけを見た上っ面の「好き」ではない、自分の嫌いなところも言葉にできるくらい感じた上で、それを吞み込んだうえで「好き」と言ってくれた佑には、心愛もつい「ありがと」と嬉しそうにお礼を言うのでした。
 なんていうか、うん、いい…よね。適切な言葉を見つけられないくらい。

 私も中学生の頃に少し年上のめんどくさいお姉さんに性癖を拗らせられたい人生だった……

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キュートな祟り神とハチャメチャなきょうだいのホラー&コメディ&エロス 『令和のダラさん』の話

 日本のとある片田舎。そこには、ある山神の言い伝えがあった。見れば障り、穢せば祟るその荒魂が住まうとされる山には、緑濃い山にはふさわしからぬ金網と鉄条網に囲まれた一角があり、そこには地域の誰も近寄ろうとはしなかった。
 その山のふもとに暮らす三十木谷(みそぎや)家の二人の子供、日向と薫は、豪雨に襲われた山の様子を見に行った祖父を心配し、金網の前までならいいだろうと、彼の後を追って山に入った。雨の降りしきる夜の山中、二人が見たのは、地滑りで倒れた金網と、何かに怯えて叫び去る祖父の背中、そして闇の奥から這い出てきた、三対の腕と蛇の下半身を持つ異形の女の姿だった。屋跨斑やまたぎまだらを名乗るその異形に魅入られた二人は……

 ということで、ともつか治臣先生の『令和のダラさん』のレビューです。ネット怪談をベースにしたホラーと、そのホラーをぶっくらかえすコメディ、そして性癖を拗らせかねない数々のエロス。お得な三点セットの作品となっています。

 表紙に登場しているいかにもおどろおどろしい表情をしているのが屋跨斑。通称ダラさん。この通称を与えられた時点で、どんな異形をしていようと、どんな神威を振るえようと、神の威厳もホラーの恐怖も保てないのは必定ですが、それを与えたのが、表紙手前の二人、三十木谷日向と薫の二人です。
 この2人がまあ恐れない。生まれて初めて目にしたはずの異形に平気でタメ口を聞き、小学生男児の前で全裸(下半身は蛇)であるこに苦言を呈する始末。「ここにおる神様なんやろ? 爺ちゃんからおるって聞いてたし…」でその存在を受け容れる様は、当の屋跨斑でなくとも「胆力ぅ…」と慄きたくもなります。何の衒いもなく再会を約して明るく去りますしね。
 とまあそんな感じで、人々に恐れを振りまくはずの屋跨斑、通称ダラさんと三十木谷姉弟の、存在の垣根を超えた触れ合いを描くハートフルコメディなわけですよ。そんないいもんじゃないけど。
 いいですよね、「イキったアホが儂の縄張りでヤンチャしたのとかを死なん程度に祟りビームでキャン言わせてる」とか「禁足地で超常現象呼び出すとか本来死亡フラグなんじゃからな?」とか言ってくれるラフな怪異。

 さて、上で日向と薫を姉弟と書きましたが、誤記ではないです。向かって右のボーイッシュなショートヘアーが姉の薫で、左の金髪碧眼三つ編みそばかすが弟の薫です。薫はロングスカート履いてますが、弟です。
 田舎の風習や家系の因習で、性別を偽って育てるというのもしばしばオカルトでは聞く話ですが、この2人は別にそういうのじゃありません。ひらひらした服が嫌いな日向が着なかった服を、服に頓着がなかった薫が親の言うがままに着ているだけです(本人も特に嫌がる素振りなし)。言ってしまえば、ただの趣味。
 つまり、半裸半人半蛇のナイスバディ巨女に、金髪碧眼男の娘、ボーイッシュ少女と、性癖をこじってくるキャラクターが登場するってことです。回を追うと、男の娘が水着になったり、サキュバスコスプレしたり、男性向け同人誌を描く地味顔ドスケベボディなお姉さんや目つき悪パンクロック丸眼鏡巫女さんが登場したりと、さらに性癖の範囲を広げてきます。いいぞもっとやれ。
 恐怖と性的興奮は、吊り橋効果のように近しいところにあるものですが、デフォルメの効いたコミカルさの割に生々しい肉感を描かれると、ちょっとドキドキしちゃいますね。デュフフフ。

 ホラー、コメディ、エロスときてまたホラーに話は戻りますが、この物語でいいのは、各話の冒頭にダラさんがなぜ屋跨斑なる怪異になったのか、その過去を数ページずつ描いているところです。まだ人々が自然への畏怖を強く持っていた時代、自然と人間をとりもつ巫覡が今よりも多くいた時代、そんな過去に起きた悲惨で陰惨な屋跨斑誕生秘話が、本編現代のスチャラカ感とうまく対比され、物語の深みを与えています。
comic-walker.com
 まずは第一話を読んでスチャラカ感を楽しんでほしいと思います。
 

 余談ですが本作はネット怪談の類を下敷きにしてるわけですが、登場する怪物が、金網に囲まれた祠に祭られていた、三対の腕と蛇形の下半身を持つ半人半蛇の女性、名乗りが「やまたぎまだら」とくれば、ピンと来る人も多いはず。
xn--u9jv84l7ea468b.com
 洒落怖の名作の一つと名高い「姦姦蛇螺」をベースにしていることは確実でしょう。
 最近はめっきり新しい怪談も減ってしまいましたが、好きな人は常に一定数存在するジャンルなので、細々と残ってほしいものですね。

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