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漫画の話です。

『みちかとまり』と少しだけ神話と構造主義の話

 連載開始時にもレビューをした、田島列島先生の『みちかとまり』の単行本がついに発売されました。

 その時は(一挙掲載だった)1、2話までのレビューでしたが、第8話までの単行本一冊分がまとまったので、今一度つらつらと。
yamada10-07.hateblo.jp
 8歳の少女・まりが竹やぶで出会った、人か人ならざるか定かではない子供・みちか。
 みちかを保護した老婆いわく、「竹やぶに生えていた子供を 神様にするか人間にするか決めるのは 最初に見つけた人間なんだ」とのこと。
 自分でも知らない内にみちかの運命を握らされたまりは、それ以来、不思議なことが盛りだくさん。みちかに連れられ、常識の埒外にある世界へ足を踏みいれてしまうのです。

 あらためて単行本で読んでまず気づいたのが、掲載時はカラーだった第1話の冒頭、みちかとまりが燃えるなにかを見つめているシーン、立ち上る煙を見上げているまり(おそらく)が、そのあとの本編から、髪型はもとより体型まで変化しているんですよね。明らかに胸が膨らんでいるので、第二次性徴が始まっているということ。つまり、本編開始時8歳のまりから、数年単位で時間が経過してからの時系列で、この冒頭は描かれているということになります。
 みちかとまりの出会いは、一夏の幻のようなファンタージではなく、もっと長い期間にわたる交流であることが、物語の最初の最初で示されていたわけです。前2作の連載とも、主なストーリーは数か月間の出来事として描かれていましたから、つい本作もそういう物語かと思っていたのですが、そうではなかったようです。まあ、冒頭の部分は数年後のエピローグかもしれませんが。

 また、以前のレビューでも触れましたが、竹やぶで見つかった少女(みちか)や、冒頭で燃やされた煙を見つめるまりなど、「竹取物語」のオマージュが見て取れるように、神話やおとぎ話の要素をふんだんに盛り込んでいくだろうことが1、2話の時点で予想されていました。
 実際、物語が進むと、みちかと一緒にあの世と思しき場所に入り込んだまりは、そこで供される食べ物や飲み物を口にするなと、みちかから忠告されますが、あの世の食べ物を口にするとあの世のものになってしまうという話は、日本神話のイザナミを思い出させます。
 ついでに言うと、その一連のシーンで登場する、奇妙な顔をした二人組の着る服には「yellow fountain」の文字がありました。「黄色い泉」。すなわち黄泉。あの世ですね。
 この二人組や、もうちょっと後に登場する座敷の奥にいた着物姿のモノたちは、ある共通した「奇妙な顔」を持っているのですが、これもなにか神話的な意味合いがあったりするのかもしれませんね。

 その他、田島列島先生的だなあと思ったのが、第3話でのまりの(おそらく未来の時点から回想している体での)モノローグ、「理解できる言葉をつなげて なんとか世界をつくっていくけど 理解できる言葉以外のものは 世界にありすぎたし 私はコドモすぎた」というもの。
 言葉をつなげて世界をつくるというのは、自分の知っている言葉でもって世界を認識するということ、すなわち、世界を言葉で分節化するということ。
 これは19~20世紀にかけて活躍した言語学者ソシュールに端を発する構造主義的な考え方ですが、田島列島先生の最初の連載『子供はわかってあげない』の記事でも書いたように(『子供はわかってあげない』交換によって生まれる人と社会のつながりの話 - ポンコツ山田.com)、田島列島先生の作品にはレヴィ=ストロースやマルセル・モースなど、構造主義的、人類学的な発想が色濃いのが特徴で、本作でもそれがはっきりと出ています。

 前2作に比べ、神話要素とグロ要素をふんだんに盛り込んでいる本作。物語がどこでどう曲がりくねって、最後にあの冒頭へ連れていかれるのか、そもそもあの冒頭の意味は何なのか。まだまだ見えないところがたくさんです。もう2巻が待ち遠しいぜ。

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