ついに!
俺たちの!!
田島列島が帰ってきたぞ!!!
というわけで、講談社の月刊モーニング・ツーで、田島列島先生の新連載が始まりました。これを寿がずして何を寿ごう。
題して『みちかとまり』。
「みちか」と「まり」という二人の少女のガール・ミーツ・ガールという触れ込みの本作、以下、内容触れまくりの感想を。未読の方は、まずはリンク先で読むんだ。
今作でまず感じるのは、今までの連載2作品と違う、おとぎばなしや神話のような世界観。私たちの住む世界から膜一つ隔てたところにある異界がこちら側へにじみ出てきたかのように、生と死と精神が見慣れぬ形で顕現するのです。
同級生のボーイミーツガールである『子供はわかってあげない』や、歳の差ボーイミーツレディだった『水は海に向かって流れる』は地に足の着いた設定の物語でしたが、そこからがらっと毛色が変わりました。
なにしろ第1話の巻頭カラーでの惹句が、「幼い少女たちの出会い。それは二人の神話の始まりだった。」です。
この「神話」がどの程度の規模の言葉かはまだわかりませんが、そこに人間の常識を超越したものがあることに疑いはありません。
本編1ページ目のみちかとまりの出会いも、竹やぶに落ちていたみちかをまりが見つけたというもの。近所の老女は「ここの竹やぶはねェ 時々子供が生えてくんのよ」と、見知らぬ少女が竹やぶに落ちていることをさも当然のように言います。私たちからしてみればおかしなことが当たり前に起こる世界。それがこの物語なのです。
みちかは手を握るだけで相手の顔をまね、というより自分と相手の存在を入れ替え、人の目玉を素手で抉り出して噛み潰し、それを目撃していた人間たちの認識を狂わせてその出来事を忘れさせ、目玉の持ち主の記憶を奪い取る。やりたい放題のトリックスターです。そうそう、目玉を抉り出すとか、それを噛み潰すとか、そういう猟奇的な描写もこれまでの作品では見られなかったものですね。
冒頭カラーの惹句に、第2話最後の「竹やぶに生えてた子供を人間にするか神様にするか決めるのは 最初に見つけた人間なんだよ」というみちかを保護している老女のセリフも勘案すれば、本作に神話的観点が持ち込まれているのがわかりますが、さらに言えば、まりがみちかを見つけた竹やぶや、その時につぶやいた「かぐや姫なの?」というセリフも加味すれば、そこに竹取物語の要素も盛り込まれていることも言えるでしょう。
そう考えると、冒頭カラーの、みちかとまりが山奥で何かを燃やして煙が空へと立ち上っていくシーンは、竹取物語のラストシーンが想起されます。
竹取物語のラストは、かぐや姫が月に帰った後、残された帝がかぐや姫が置いていった不死の薬を富士山で焼くエピソードです。帝はかぐや姫のいない世界を嘆き、そんなところで永遠を得ても仕方がないと不死の薬を焼きますが、みちかとまりは、二人で何かを燃やしています。みちかは立ち上る煙を見上げながら。まりは燃える炎を見つめながら。当然、現段階で二人が何を燃やしているのかはわかりませんが、それは月の民ならぬみちかがもたらした永遠を約束する何かなのでしょうか。かぐや姫は月に帰ったけれどみちかはまりの隣にいるということは、二人はずっと一緒なのでしょうか。
まだ、なにもわかりません。
ですが、『子供はわかってあげない』でもレヴィ=ストロースやマルセル=モースなどの文化人類学を下敷きにして作劇をした田島先生ですから、本作でも神話学やナラトロジーを下敷きにしてくるんじゃないでしょうか。そうだといいな。
で、やっぱり田島先生の魅力の一つと言えば、肩の力の抜けたユーモラスで軽妙なセリフ回しですが、本作でもそれは健在。グロテスクさや異界のような恐怖もありながら、かわいらしい絵とふわふわしながら芯を食ったセリフのおかげで深刻さや悲壮さがない。グロテスクさや恐怖が、あるけど当たり前、あっておかしくないように思える。
そういう意味でも神話的な作品ですね。洋の東西を問わず神話には、残忍な事件や下品な逸話や悪辣な神や英雄的な人間が登場しますが、それらは殊更奇矯なものとして扱われることなく、神話の世界ではそれはそういうもの、当たり前のものとして起こり、存在します。
そういう、非常識が当たり前のようにある物語。
新連載で一挙2話公開。今後どういう方向性の物語になるかまだわかりませんが、期待は十分です。
これでいやなことがあってもまた来月まで生きようと思えるぜ…
みんな読むんだ。
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