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漫画の話です。

『さよならミュージアム』描かれる眼と描かれない目の意味の話

 となりのヤングジャンプに掲載された読み切り作品、岩井トーキ先生の『さよならミュージアム』。
tonarinoyj.jp
 美術部員の主人公・空木(うつぎ)は人付き合いが悪い。親とも部員とも顧問とも最低限の口しかきかず、ただ、自分がもっとも美しいと信じるもの、すなわち人間の横顔をひたすら描くばかり。そしてそんな彼女が横顔のモデルにしているのは、毎日数分だけ乗り合わせる、同じバスで通う名も知らぬ女生徒。話しかけることもせず、ただ彼女の横顔を美の化身とばかりにこっそり拝むばかり。しかしある日、その彼女に異変が起こって……
 というストーリーの短編作品。
 己の内側に閉じこもり、良くも悪くも己の道を行く空木が、どのような出会いで、どのように殻を破っていくかが一つの見どころなのですが、本作で面白いなと思ったのが、「横顔」を好む空木の心情と、その表現です。

 空木が横顔を好む理由が以下のとおり。

横顔は美しい
何故なら こちらを見ていないからだ
「見ていない」「こちらに関心を持っていない」「干渉しない」「取り繕わない」
つまり――
素の姿という事
素の美しさが現れる横顔を描くことは 私にとっての美術なのだ

 「素の姿」「素の美しさ」を求めるがゆえに、横顔を偏愛する空木。他人から関心を持たれたくない、すなわち他人の素の姿を見たいから他人に対して冷淡なのか、それとも他人に冷淡でい続けた結果自分に干渉してこなくなった他人の横顔に素の美しさを見つけたのか、ニワトリタマゴの話はさて措いて、その心根ゆえに、彼女は人と目を合わせません。
 自分の絵を褒められてもほぼ無視し、帰り際の挨拶すらそっぽを向きながら頭を下げるだけ。生活のレベルを勝手にベリーハードに爆上げてる態度ですがそれはともかく、そのような態度の彼女から見る世界には、彼女に向けられる目が存在しない、正確に言えば、彼女に向けられる目が彼女には見えていません。
 それは明らかに作者による意図的な描写で、顧問も、同じ美術部の部員も、両親さえも、彼や彼女の目が描かれることはほとんどなく、それが描かれるときは、彼や彼女が空木に目を向けていないとき、すなわち、空木を「見ていない」、「関心を持っていない」、「干渉しない」ときの顔、つまりは空木の思う「横顔」です。

(p8)
 それが非常にわかりやすく描かれているページです。

 「目は口ほどに物を言う」の言葉どおり、漫画において、目の表現は非常に重要です。セリフはなくとも、目の描き方如何で感情は雄弁に表せます。英語の顔文字は口で、日本語の顔文字は目で感情を表現するとはよく指摘されることですが、日本語の顔文字の異常なまでの豊富さは、様々な目の表現に由来するのでしょう。
 そしてそれは、裏を返すと、目を描かないことでそのキャラクターの人間性を剥奪できるということです。顔のどのパーツをなくすより、目の省略はキャラクターのキャラクター性を失わせます。
 最近では、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく』で主人公ぼっちの父親が、全身を登場させ声まであてられているにもかかわらず一切目を描かれることがなかったのが印象的でした。主人公たちの女子高生や、ぼっちの母親、妹という女性キャラはなんのさわりもなく描かれているのに、男である父親だけはひたすらに目を描かれない。女の子だけのキャッキャウフフな世界から人格を有する男という存在を排除する、制作サイドの強い意思を感じましたね。
 『さよならミュージアム』の話に戻りますが、空木以外のキャラクターが空木に目を向けているはずのシーンでその目は描かれず、彼女から視線(関心)が外れた時にようやく目が描かれる。つまり、そのときに初めて空木にとって、他の人間たちが自分の意識を向けるに値する(素の美を有する)存在になっていると言えるのです。
 そしてそれは、空木の横顔のモデルになっている少女にも言えることで、彼女の顔には一貫して目が描かれています。空木にとって彼女は、一貫して自分の意識を向けるに値する存在なのです。

 で、それら目の描かれ方、目の意味するところを踏まえると、クライマックスに描かれているものと、エピローグ的部分での描写に非常な味わいが生まれるんですよね。これは是非実際に読んでほしいところ。

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