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漫画の話です。

『まどろみと生活以外のぜんぶ』rcaの描く、境界が融け合う安らぎと寂しさとエモさの話

 今日は珍しく、というかこのブログで初めてだと思いますが、成年向け作品についてのお話ですので、あんまり生々しい話はしませんが、18歳未満のお子様は回れ右してね。




 先日、rca先生の2冊目の単行本、『まどろみと生活以外のぜんぶ』がFANZAの電子書籍でリリースされました(紙では2月に発売済み)。
 成年向け作品なのでもちろんえちえちな本なのですが、それ以上に登場人物たちの心理描写があまりにも私に刺さりまして、エロい以上にひたすらエモいのです。
 ではそのエモさとはなにか。この作品のどこが私にぶっ刺さったのか。

 まずエッセンスを言えば、不安や欠落を埋め合う若者の安らぎと寂しさ、です。
 彼や彼女が抱える、世界の中での所在なさや、人間関係の中での疎外感を、誰かと肌を重ねることでなくそうとする、でもなくしきれないことはわかっている、でもそうせずにはいられない心の動きが、あまりにも私の心を揺さぶります。

 本作で主役となる人物たちは、正確な年齢設定はないのですが、おそらくすべて、15歳から22歳の間に入ります。
 淫魔でありながら人間社会で生きる女性と、そんな彼女に目をつけられた大学生男子の連作「花蜜と毒」「混毒」。
 今まで性的な目で見たことなんかなかったのに、ふとした拍子で3Pをすることになった男二人女一人の幼馴染たちを描いた「三人」。
 隣同士の家で育ち、お互いで初体験を済ませて以来、なんとなくそういうことをするようになった二人の「アザーサイド」。
 なぜか校内でセックスすることが大好きな彼女に誘われ、何度も学校の中で情事を重ねる「学校の風景」。
 打ち捨てられた工場に勝手に入り込んで、勝手に改装し、二人だけの秘密の遊び場にしている「楽園」。
 お互いの距離感が心地よく、恋人同士ではないけど隙を見てはセックスをしている「ふたりの子午線」。

 淫魔は淫魔なので年齢不詳ですが、それ以外はみな、高校や大学に通っている年齢です。
 高校や大学といった新しい社会に入ることは、今までと違った人間関係や社会構造に放り込まれることであり、新たに出会う人間や事象により、自分自身の個がいよいよ際立っていく過程だと言っていいでしょう。個、あるいは個性とは、自分とは何か、自分には何ができるかという自身の特性のみで出来上がるものではなく、他者とは何か、自分と他者はどこが同じか、似ているか、違うのかという、自他の比較を通して、初めて色鮮やかに生まれるものです。

 しかし、そのような形で個が形成されていく中で、人は時として、寂しさを覚えます。不安を覚えます。自分と世界の、自分と他者の間に線を引き、自分を自分として浮かび上がらせるということは、自分と世界、自分と他者は違うものだと強く意識することに他ならないからです。
 そして、自分が線で囲まれていくとその中身がわかるようになりますが、線で区切られて自分の領域が確定すると、その中にある自分の中身も明確になり、そのとき初めて空恐ろしくなるのです。自分の中身が空っぽなんじゃないか、他の人より貧弱なんじゃないかと。

 自分以外からの疎外。
 自分の中の空虚。
 内に外に孤独を感じるのは、まさにこのくらいの年代だと思うのです。

学校って退屈でさ
友達のこと好きだし 勉強もきらいじゃないけど
なんかぽっかり 埋まらない穴があるような気がしてて
(「学校の風景」より p104)

 心に空虚を抱えている思春期の、象徴的な台詞です。
 他にも「楽園」に登場する「ター坊」は、「なんか嫌なこと」があると、「ハル姉」と作り上げた廃工場の中の一室にやってきていました。
 また、「花蜜と毒」「混毒」に登場する、淫魔の「先輩」は、淫魔ゆえに人間社会で暮らさざるを得ず(人間とセックスをしないと死んでしまうから)、周りの人間とは違う自分に常に疎外を感じていました。

 そんな疎外された者に必要なもの。それは逃避できる場所です。
 アジール。駆け込み寺。セーフティポイント。
 いろいろな形の逃避先はありますが、rca先生の作品では、それは肌を重ねられる相手のいる場所です。

コタローって私の安全地帯なんだよね
私がめんどくさい世界に押し潰されそうになったとき いつでも逃げ込めて受け入れてくれる おかげで私は生きていけてる
(「アザーサイド」より p96)

ここはいつ来ても陰気でいいなあ
世の中から隔絶されてる感がすごい
(「楽園」より p119)

「ここに来たってことは またなんか嫌なことあったんでしょ このまま帰って大丈夫か?」
「大丈夫 大したことじゃないし それに それを言うなら自分もでしょ」
「まぁね」
「…ハル姉 あの場所さ オレ やさしくて好きだよ」
「あったりまえだ 私の愛で出来てるからな」
(同上 p138)

付き合ってるわけじゃないけど なんかいろいろ凹凸が合って
先輩は関係の線引きにこだわらない その感じが心地いい
(「二人の子午線」より p144)

 また、前作の処女単行本である『ネイキッド・スイーツ』は、本作に比べてカラっとした作風の作品が多いのですが、本作のような陰鬱さのある感情が描かれているものもあります。

入学式の前日 思えば田舎から逃げるような上京だった
家族 知り合い 地元の閉鎖的な空気 いろんなものから逃げ出したかった
そのくせこれから一人で過ごすのは不安で なんとなく外を彷徨って 気づけば迷い込んでいた大学の構内
そこでセンパイと出会った
いろんな話をした 学校のこと 趣味のこと 自分のこと センパイのこと そして私の抱えてるわだかまりも――
不思議だった 初対面の人にこれだけ自分のことを話せるのも
センパイの飄々としてるけど ちょっと憂いを含んだ雰囲気になんとなく慰められてることも
(『ネイキッド・スイーツ』「春宵に続く」より p175、176)

 「安全地帯」。
 「隔絶され」た「やさし」い場所。
 「線引きにこだわらない」「心地いい」関係。
 「なんとなく慰められ」るセンパイの隣。
 どれも、彼や彼女が心安らぐために、必要なものなのです。

 そして、そんな彼や彼女が、安らぐために、己の空虚を埋めるためにすることはなにか。
 線を引いたことで孤立したのなら、その線をなくせばいい。自分と他者の境界を融け合わせて、あやふやにしてしまえばいい。
 肌を重ねて、自他のあわいをあいまいにさせるそんな感覚が、本作には何度となく登場します。

ぐちゃぐちゃになりすぎて 俺と先輩の境界が
わかんなくなって――
(「花蜜と毒」より p20)

おかしいな…普段からベタベタ触りまくってんのに
なんか… いつもの感じと違う…
(「三人」より p60)

 また、学校のいろんな場所で身体を重ねる高校生を描いた「学校の風景」では、女の子が学校でシたがる理由をこう言っています。

セックスってすごいよね 見知った景色の中に混ぜると 一瞬でどこだろうと非日常にできるんだよ
私は退屈な日常を非日常で塗りつぶしたいの
(「学校の風景」より p105)

 この台詞は、上で引用した「ぽっかり埋まらない穴」につづく台詞なのですが、つまり彼女は、学校生活という日常で描かれた線を、セックスという非日常の線で上書きしたいのだと言えます。
 また、『ネイキッド・スイーツ』でも、境界をあやふやにするような描写が散見されます。
 ぼーっとした見た目に反して性に奔放な年上の幼馴染の痴態を思わぬ形で目の当たりにすることになる「ナイショのえっちけんがく」。幼馴染のノノのいたずら心で、彼女の自室の布団の中に隠された「みーくん」は、布団にくるまったまま、目の前で始まったノノと彼女の同級生らによるセックスを見せつけられ、それどころかノノはみーくんの手を握ったり、くるまっている布団ごと彼に抱き着いたりしてくるのです。

ノノの手を通じて…
弛緩したり 急に強く握ってきたり ブルブルしたり 爪を立てたり せわしなくくぱくぱしたり
ノノの感じている快感がどんなものか 手に取るように分かる…!
(ネイキッド・スイーツ「ナイショのえっちけんがく」より p168)

ノノと一体になったみたい…
この気持ちいい感覚が ノノのなのか 俺のなのか
全身の感覚がドロドロに溶けて…
もう… わけ… わかんない…
(同上 p172)

 手を密着させることで伝わる相手の感覚。「一体になったみたい」に、「全身の感覚が溶け」たみたいに、自分と相手の境界が消えてなくなる感覚。これは確実に、新刊へとつながってくるものです。

 彼や彼女は、線をあいまいにし、境界を融け合わせることで、さびしさを、むなしさを、空虚を埋めようとします。ですが、そのような形では、欠落は決して埋まりきらないのです。
 なぜなら、自他の境界が融け合って精神が入り混じり、自分の中身が何か増えたような気がしても、それは一時しのぎの代替品でしかないからです。また肌が離れれば、すなわち線が引きなおされればそこに残ったものは、自分が何か手ごたえをもって得たものではなく、誰かから与えられたもの。それだけでは、自分の自信になりません。
 誰かと触れ合いはしても、それだけでは隙間風はやまず、まだちょっと寒さが残る。ちょっとさびしい。
 それでも、たしかにさっきよりはあたたかい。それは事実。誰かと肌を重ねて得たほのかなあたたかさは、それですべてを癒してはくれなくても、もう少し世界を生きていくよすがになる。
 そんな、どこかはりぼてめいた、偽物めいた安らぎに慰撫される青春。それが、rca先生の作品から匂いたつ空気であり、私の心をぐわんぐわんに揺さぶるものなのです。

 誰かとの場所が、一時的なアジールであるとか、仮初の宿であるとか。安らぎが刹那的とすら思えるのですが、それでも決して破滅的ではない。その安らぎは、肌を重ねた二人をたしかに慰安してくれますし、本作の書き下ろしである「二人の子午線」では、そこに前向きな視線も見出せます。

 そもそも、「二人の子午線」は、人間関係の「線」について多く言語化していて、rca先生自身、本文章で言及していることにある程度自覚的であるように思えます。
 上の引用もそうですし、他にも

人が集まって 人の世界ができると いろんな線が引かれる
線を引かなきゃ始まりも終わりもないのにな
先輩とふたりだけだったら ずっとあいまいな関係でいられんのにな~
(「二人の子午線」より p154)

…朝が来てしまった
こんな感じに正月も終わって 線引きのある世界が帰ってくる
私たちはお互いになんでもない 先輩が誰かと付き合ったりしても… …ん-ちょっと嫌かも
でも…線をはっきりさせたくない 我ながらわがままだ
(同上 p159)

 線を引くから関係がはっきりしてしまう。線がはっきりしない関係だから、あいまいなままで、変化しない(変化を変化とみなせない)ままでいられる。
 そんな「わがまま」なことを思ってしまいます。
 でも、線は決して悪いものじゃない、最初に言ったように、そもそも自分の輪郭に線を引くからこそ、自分自身が浮かび上がり、個が生まれるのです。ただ、その中身が伴わない内は、空虚を感じてしまいがちだというもので。
 なので彼女は、この「あいまいな関係」に、勇気をもって線を引こうとするのです。

ありものの線を借りながらでも 自分たちに合う形に引き直せる はず ……
(「二人の子午線」より p160)

 線は自他の境界であり、同時に自他をフィットさせる接着面でもあります。一度引いたら二度と引き直せないものではなく、いろいろなものと出会うことで、線は何度でも、自分の意識の内にも無意識の内にも変わっていきます。
 目の前の先輩とより心地よい関係を作るために、彼女は「ありものの線」、すなわち恋人同士という線を引こうとするのです。

 このように、線をあいまいにすること、境界をあやふやにすることの気持ちよさを強く描いてきながら、最後の書き下ろしで、線を引くこと、境界を確定させることのウキウキを描いたのは、すごく前向きなことですし、これが「大人」になることの儀礼の一つなのだとすら思えます。

 まあそんな感じのrca先生評でした。
 ちなみに私の一番好きな台詞は、「楽園」の中の、「ガラクタじゃないって言ってんだろ 私の愛を受けた宝物たちだ 全部新品より美しいぞ 愛してやれば一度ダメになってもまた輝けるんだよ」です。
 このエモさ、多くの人に届いてほしい……!

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