いまアフタヌーンで一番楽しみな作品こと『メダリスト』。
7巻では、司をケガさせてしまったことからくるイップスを乗り越え、4回転サルコウという唯一無二ともいえる武器を手に入れたいのり。ですが、その過程は簡単なものではありませんでした。4回転ジャンプを手に入れるために、さすらいの釣り師ことジャンプ専門のインストラクター魚淵に教えを乞うたのですが、いくら彼が凄腕の釣り師でも、いくらいのりに司直伝のステップの精度と回転の速度があっても、そう簡単にはいきません。
何度も何度も失敗を繰り返し、限られた時間が刻一刻とすり減っていく中、いのりの頭の中は、悲壮な決意の言葉で塗り潰されていきました。
(7巻 p109)
しかし彼女のこの思考はもはや、アスリートが持つべき成功のための建設的なものではなく、神頼み運頼みに近いものに堕しかけていました。
そんな彼女の頭を冷やしたのは、司の言葉です。
成功を願いすぎちゃだめだ
これは思いの強さで跳べる魔法じゃないんだ
いのりさんに必要なのは ガムシャラになることじゃないよ
(7巻 p110)
願うことの否定。ガムシャラの拒否。
ならば、なにをすべきか。
司はいのりに問いかけます。
「今 頭の中にどんな言葉がある?」
「跳ばなくちゃって… 気持ちが…いっぱいです…」
(同前)
「跳ばなくちゃ」って気持ち。それは強い決意ではありますが、非常に精神的なものであり、具体性からかけ離れたものです。その言葉をいくら煮詰めても、どうすればできるようになるかは出てこず、周りの人間にも彼女からは必死さしか伝わってきません。
そこで司がいのりにしたアドバイスは、その状態を大転換させるもの。抽象から具体に変えるもの。彼女の中にしかなかった感覚を、他人にも共有させるもの。
じゃあ代わりに4回転がどんな感覚が俺に教えようって考えてくれないか?
跳び上がる時どこの筋肉がぎゅっとするか
どんなスピードで光が目の前を通り過ぎるのか
回る時 降りる時 どんな風が頬にかかってくるのか…
成功のためじゃなくて一つでも多く言葉を見つけるために跳んでごらん
どれだけ細かく世界を感じられるかがコントロールの鍵だよ
(7巻 p111)
言葉を見つける。
細かく世界を感じられる。
この司の言葉は、魚淵がいのりにかけた言葉にも通じます。
「…ルッツだってゆっくりだなんて… 跳ぶのやめようだなんて…
全然思ってないのに体がどうして動かせないんだろう」
「多くの子はその無意識の動作のせいでジャンプが跳べないんだよ」
(7巻 p106)
ジャンプに悩む多くのプレイヤーを見てきた魚淵は、無意識の動作がジャンプを阻害すると言います。
ならばどうすればいいか。
簡単に考えるなら、無意識の動作を意識的にすればいい。しかし、無意識でしていることをじゃあ今から意識しなさいと言われても、すぐできるものではありません。それができるなら、無意識ゆえに悩むことはないでしょうから。
じゃあどうすればいいかという答えの一つが、司の言った「言葉を見つける」なのです。
このブログでも何度も何度も書いてますが、というか、まさに直前の記事で、「好き」というクソデカ感情を言葉によって腑分けし初めてその相手を見ることができると書いてますが(『隣のお姉さんが好き』「好き」という名のクソデカ感情と、言葉による感情の腑分けの話 - ポンコツ山田.com)、ある意識や感情、動作に言葉を与えるということは、それに名前を与えるということであり、名前を与えられて初めて人はそれを認識することができるのです。
ジャンプという一連の動作も、その中の各瞬間、各部位、各感覚に言葉を与えることで、その動作を自己の認識下に置き、意識的な動作とすることができます。
それを推し進めて、できる限り細かく意識化できるものを増やしていく、言葉を与える対象を分割していく、すなわち細かく世界を感じるようにすることで、画素を細かくすることで映像がより鮮明になるように、動作も滑らかにビビッドになるのです。
さらに言えば、司の偉大なところは、言葉の見つけ方に具体的な示唆を与えているところです。
筋肉の具体的な緊張具合。
視界の中の光の速さ。
回転中の風の体感。
言葉を見つけろと言われても、やはり、どこにどんな言葉を見つければいいのかわからないものですが、感覚の種類と表現の方向性をうまく例示しているのです。
考え方を具体的なものにするために、指示も具体的なものにする。素晴らしいコーチですね。
これを聞き、さらに膨らませて、「スピードの確認」「氷の音の高さ」「胸の音の速さ」「親指の折りたたみ方」「握る力」「緊張レベルのチェック」と言語化する箇所を自主的に増やすいのりも非常に勘所が分かっているのですが、こうして自分の体、精神、それらを取り巻く環境に言語を与えることで動作を意識化することができた彼女は、ついに初めての4回転ジャンプに成功するのでした。
感覚へ言葉を付与することによる動作の意識化。
より細かく言葉を与えることで感覚や意識をより鮮明にする世界の分節化。
フィギュアスケートに限らず、様々な局面で適応できる考えでしょう。
強力無比な武器を手に入れはしたけれど、ライバルたちも天才と呼ばれてきた猛者ばかり。さあ、いのりは全日本大会でいかなる演技を繰り出すのでしょうか。
To be continued...
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