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漫画の話です。

『隣のお姉さんが好き』「好き」という名のクソデカ感情と、言葉による感情の腑分けの話

 2巻発売の『隣のお姉さんが好き』。

 表紙の心愛は、整った笑顔だけどどこか遠さを感じる1巻から、2巻では焦りや動揺がにじむもそれゆえに近さも感じられるものになりました。
 なんというかそれ、いい……ですよね。

 2巻になって一気に面白さにドライブかかってきたなと感じるのは、二人の、特に佑の変化ゆえだと思うんですよ。
 心愛に対してただ「好き」という感情を、そのラベルの中身を吟味しないままド直球で投げつけていた佑が、自分が心愛に向けている感情は何なのか、それは何に由来するのか、「好き」っていったい何なのか、ということを自覚していって、とても苦労しながら、自分の感情を言葉にしていく。そういう少年の変化が、読んでいてドキドキするんです。

 もともと彼は、「映画を観てる心愛さんは どこか遠くを観てて その目が不思議で かっこよくて」というところに一目ぼれをし、その一発fallin' loveゆえに、ただ彼女に対して盲目的に恋心を募らせていきました。あっさり沸点突破したその気持ちは、彼に脈絡なく告白を選ばせますが、彼の口にした「好き」という言葉は、心愛にはあまりにも響きませんでした。
 物語の序盤で佑が心愛に向けていた「好き」は、本当にただの「好き」というか、恋に恋する恋心の「好き」というか、つまりは自分の中で突然膨れ上がった今まで存在しなかった感情に、世間で流通しているそれらしいラベルを貼り付けただけの粗雑なものだったと思うのです。

 そもそも恋心なんて、というか人間のクソデカ感情なんて綺麗に整理できるものではありませんが、それでも彼が「好き」というラベルを貼り付けた感情はあまりにも無垢。悪い意味で。それがどんなものか自分でも直視していないから正体はさっぱりわからず、感情を向けられた相手も戸惑ってしまうものです。つまりは、こいつ好きなんて言ってるけど、わたしのこと何にも見ないで言ってるな、と。
 ある感情を理解するためには、感情そのものと同時に、その感情を惹起させたものも見つめなくてはいけません。本人がまるで直視してない感情をぶつけられるということは、その本人がぶつけた相手をまるで直視していないということになるからです。

 感情の直視。その変化は、実は1巻の最終話にはもうありました。それは、『若おかみは小学生』の感想を、なんとかひねり出した佑の姿です。
 そもそも彼が映画の感想をまともに口にするのはこれが初めてなのですが、なにしろ今まで彼が見てきた心愛チョイスの映画は、中2の彼には少々小難しかったようで、もともと映画を口実に心愛に会いに行っていたとはいえ、それでも映画に全然集中できず心愛の横顔ばっかり見ていたくらいですから。
 ですが、アニメ映画の『若おかみは小学生』は今まで見てきた作品に比べればずっとキャッチーで(たぶん)、彼にしてみればようやく心愛の横で集中して観られた映画だったのです。
 で、佑が居住まいを正し正座をしてまでひねり出したその感想は
「……あの……おっこ…が…あの人を…許したのは 良かったですね…」
「あの…最後のシーンもなんかよかったし…」
「おっこは色々大変なのに…ちゃんと頑張っててすごいなと思いました」
 というものでした。
 中2男子が映画を観た直後に言う感想がこれというのが、拙いのかこんなもんなのかはわかりませんが、少なくともこれは彼にとってとても大きな一歩。なにしろ、映画を通じて自分の中に湧きおこった感情に、どんな言葉が適切か自分なりに選ぶという、初めての行為だったのですから。
 自分の感情に言葉を当てはめるのは、並大抵のことではありません。言葉は感情に対して常に多すぎるか少なすぎるものであり、100%バッチリ言葉をあてはめられることはありえないと言っていいでしょう。
 悲しみしかないと思ってもどこか滑稽さがあったり、喜び満点のようでいてどこか不安があったりと、人の感情には揺らぎや濃淡があり、その揺らぎや濃淡に逐一適切な言葉を当てはめるのは不可能で、言葉をいくら多く費やしてもその感情そのものにはなりえません。それは、テレビの画素をいくら細かくしても、その映像は映し出されているそれそのものにはなりえないとの一緒です。
 ですから、佑が初めて本気でやってみたその作業、つまり、自分の感情に言葉を当てはめるということにひどく苦労し、それで出てきた感想もざっくりした言葉だったこともしょうがないことなのです。100%にはならなくてもなるべく近い言葉を見つけたいものですが、それができなければ、ざっくりした大雑把な言葉に頼らざるを得ないのですから。頻出する3点リーダは、彼が適切な言葉を見つけられず苦渋の決断で腰の入ってない言葉を使うしかなかったことの、なによりの証左です。
 ですが、自分の言語能力の不如意さにいくら苦しもうとも、そうやって自分の言葉を感情に当てはめていかないことには、自分の心はわかりません。対象のこともわかりません。
 いわば言葉による感情の腑分け。この部分はこの言葉、あの部分はあの言葉と、感情を細かく分けて、言葉を当てはめて、感情全体を見通せるようにする。上述のように、100%見通せる、100%整合しているものにはならないけれど、それを受け容れたうえで。
 そうして、初めて自分も、対象もわかるのです。

 そんな彼も、彼の兄である紡の「好きなものなら感想書きやすい」というアドバイスどおり、『アイアンマン』からドはまりしたMCUシリーズで自分の感想を口にすることに慣れていきます。自分の感情に言葉を与えることに慣れだすのです。
 そしてその対象は、映画以外にも広がっていきます。つまりは、心愛を彼女を観たときの感情へと。
 2巻の23話で佑は心愛に、彼がしばらく書き留めていた心愛の観察日記を見せました。その中身はとても赤裸々なものですが、彼が心愛をしっかりと観ていたことがありありとわかる内容になっています。当初の、自分の感情も観ず、心愛自身も観ず、ただクソデカ感情にラベルを貼っただけのやみくもな「好き」とは違う、佑自身の言葉があり、その必死にひねり出された言葉たちの一番上に「好き」が貼られているのです。
 それに加えて、心愛から尋ねられた「私の好きなとこばっか書いてる ……じゃあ嫌いなとこは?」という意地悪な問いにも、佑は「……すぐ逃げるとこ… ちょっと難しいとこ… うーん…あとは…たまにひどいこと言うこと…?」と、考え考え、思い出し思い出し、自分の言葉で答えました。
 これには自己肯定感の低い心愛もニッコリ。自分の外面だけを見た上っ面の「好き」ではない、自分の嫌いなところも言葉にできるくらい感じた上で、それを吞み込んだうえで「好き」と言ってくれた佑には、心愛もつい「ありがと」と嬉しそうにお礼を言うのでした。
 なんていうか、うん、いい…よね。適切な言葉を見つけられないくらい。

 私も中学生の頃に少し年上のめんどくさいお姉さんに性癖を拗らせられたい人生だった……

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