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漫画の話です。

『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』コミュニケーションが生むドラマと、私が求めた/求めていなかったものの話

 昨日は勢いのままに『シン・ウルトラマン』の感想を書き殴りましたが、端的にまとめれば、「損をしたとは思わないけど、期待していたものではなかった」というものです。
 じゃあその私が期待していたもの、『シン・ゴジラ』は百億万点だけど『シン・ウルトラマン』は60点ちょぼちょぼだった私が観たかったものって何なのか、それを改めて考えたいと思います。

 『シンゴジ』と『シンマン』。どちらも半世紀前後も前に封切られた古典特撮シリーズのリメイクであり、そしてまた、どちらのシリーズも私はほとんど観ていません。リアタイでとかではなく、作品自体を。
 そんな人間がなんでまずシンゴジを見たかと言えば、監督である庵野秀明監督のヱヴァシリーズが面白かったから。特に、一新された使徒との戦闘シーンなど、大規模戦闘の映像があまりにもよく、なにより『ヱヴァQ』と同時上映された「火の七日間」(とは明言されてないんだっけ)がすんばらしすぎたから。
 そう、私、ああいう映像が大好きなんです。
 物理法則も日常的な遠近感も無視して動く巨大な存在。
 崩れ落ちるビル。
 燃え盛る街。
 逃げ惑う人々。
 抗うことのできない圧倒的な破壊。
 まごうことなきカタルシス。そういうやつが。
 あの「火の七日間」に心打たれた人間が、同じ監督が作った怪獣映画があると聞いたら、勇んで駆け込まないわけにはいきません。そして、その中身は期待以上の百億兆点でした。

 『シンゴジ』で良かったのは、その圧倒的な映像はもちろん、破壊の巨大さに反比例したかのような、ゴジラに対する側の人間の個人のドラマの小ささです。
 当時の感想(『シン・ゴジラ』ミニマムな物語とマキシマムな映像の話 - ポンコツ山田.com)でも書いてますが、

およそ2時間の上映時間の中で、人間個人のドラマがほとんどなかった。いっそ絶無と言ってもいいくらい。ゴジラという怪物、生きる災害と対峙する、組織としての人間、集団としての人間、群体としての人間を描き続けていた。

 だったんですよね。当時賛否両論あったこの作劇ですが、それが私にはとても良かったのです。

日本国は、他者の悪意にではなく、意思なき自然災害に対するのと同じように、ゴジラに立ち向かうしかなかった。交渉の余地なく、ただ、全身全霊で抗うしかなかった。その必死さが煮詰められた物語だった。

 生き残るための必死さ。ただ一つの目標に向けた叡智の集中。個による救済ではなく、群による打倒。
 そういう物語が好きなのです。

 と、私にとって『シンゴジ』の魅力は「マキシマムな映像美」と「ミニマムな(個人の)物語」の二つに集約されるのですが、『シンマン』は、個人の物語が増やされた分だけ映像美が削られ、結果的にその両方が私にとって不満足な方向にいってしまったのです。

 ただ、二つの作品の構造を考えると、そうなるのも必然なのかもしれません。
 『シンゴジ』も『シンマン』も、人間たちが巨大な生物(非人間)と対峙するという点は変わりませんが、前者は人間vs怪獣、後者は人間&ウルトラマンvs禍威獣&外星人であり、その違いは、人間が非人間の存在とコミュニケーションをとれるか否かです。
 『シンゴジ』のゴジラは、「怪物」であり「生きる災害」であり、そこにコミュニケーションをとる余地はなく、人間は「意思なき自然災害に対するのと同じように、ゴジラに立ち向かうしかな」かったのです。
 だから人間、就中、当事者国である日本は、それに対してまとまることができた。交渉なんてできないから、力には力で対抗するしかなかった。相手の意図を察することはできないから、落としどころなんて見つけられないから、どうやってゴジラの活動を停止させられるかという、ある意味で効率だけを追い求めればよかったのです。

 でも、『シンマン』はそうではありません、禍威獣はともかく、ウルトラマンをはじめとする外星人と、人間は言葉を交わせます。コミュニケーションが取れます。心理的駆け引きも生まれるし、他の存在(日本にとっては諸外国、外星人にとっては他の外星人)に出し抜かれやしないかというおそれも出てきます。効率だけではすみません。
 心理的駆け引きやおそれには、「個」が出ます。個人の考えです。つまりは心の交錯や葛藤。端的に言えばドラマです。
 人のドラマがつまらないとは言いません。むしろ、多くの物語ではそれが醍醐味でしょう。ですが、少なくとも私にとって、『シンマン』とそれは食い合わせが悪かった。特に、禍特対の面々。
 『シンゴジ』の巨災対のような「はぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児など、ドがつくほどの曲者揃い」を集めた感じを出したかったのでしょうが、巨災対よりも人数が少ないこともあってか、人間ドラマに尺的にも時間を割きやすいこともあってか、各人物へスポットが当たる時間が相対的に長く、さりとてその内面が十分に描かれるほど長くはなく、結果として、中途半端な変人ぷりが浮かび上がり、悪目立ちする結果に終わってしまいました(個人的には、特に浅見(長澤まさみ)の物語への馴染まなさに醒めてしまいました)。
 禍特対のみならず、政治家の面々も、意思決定や対外星人との交渉が褒められるようなものとは描かれず、苦悩する現場と対比される無能な政治家然としていました。というよりは、そういうものを狙った可能性が大なのですが、私にはそれが効果的なものとは捉えられませんでした。上で「個人の物語が増やされた分だけ」と書きましたが、その増えた物語もできの良いものではなかったからでしょう。対比が生まれず、全体的に心の動きが平板な人間たち、という風に映ってしまったのです。

 二時間弱の映画の尺というのは標準的なものですが、映像美とドラマを両立させるには、少し足りないものであったのだろうというのが私の感想です。クライマックスでのゾフィがとウルトラマンが対話するシーンで、説明調の会話ばかり数分続いたのは、そうしないとウルトラマンの内心を説明しきることができなかったからでしょう。TVでの毎週放送とは違う、2時間の映画一本の中でウルトラマンの心情を説明臭くならず視聴者へ伝えるには、圧倒的に時間が足りなかったのです。

 人間と対峙する非人間が、自然災害のごとき意思なき意図なき大怪獣から、言葉の通じる巨大な、強靭な、圧倒的に進んだ科学力を持つ外星人に変わったのが、『シンゴジ』から『シンマン』への変化。そして、『シン』シリーズには、『シン・仮面ライダー』が控えています。
 まだその全貌ははっきりしませんが、原典を踏襲するならば、今度の登場人物はすべて等身大の人間になることでしょう。ライダーも、ショッカーも、怪人もみな、技術もサイズも人間の枠を出ないものに留まることが想像されます。言ってみれば、より、各当事者間でのコミュニケーションをとりやすくなった。言葉を交わしやすくなった。つまり、ドラマを作りやすくなった。
 映画館で予告編を見た時点で、正直かなり見る気力はしぼんでいたのですが、その理由を改めて考えてみれば、まさにおおむねこれまで書いてきたことの通りです。私が求める映像美は減るだろうし、求めないドラマが増えるだろうから。けど、ここまで書いたうえでまた考えてみれば、派手な特撮シーンに割く時間が減れば、その分ドラマを丁寧に描く余裕が生まれるのでは、とも言えそうなので、ちょっと揺れだしたところです。
 『シンゴジ』、『シンマン』とコミュニケーションのハードルは下がりましたが、さらに下がった等身大の物語となることが予想される『シンライダー』。さて、どうしましょう……



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『シン・ウルトラマン』見てきたマンの感想 ドラマと特撮のちょっと残念な塩梅の話

『シン・ウルトラマン』見てきたマンによる感想です。
前提その1:ウルトラマンの谷間世代。リアタイで見てないし、そもそもまともにウルトラマンシリーズは見てない人間。
前提その2:『シン・ゴジラ』が百億点だった人間。
それを踏まえて以下感想。

  • 「シン・ウルトラマン」の題字でいきなりアガった。
    • 赤地に白字であの書体。直接知らないはずなのに、なんであんなに緊張感を掻き立てるんだろう。
    • いい意味で、おどろおどろしさがある。
  • 冒頭のダイジェストあらすじはすごくよかった。ギリギリ文字を読めるくらいのテンポなので必死に画面を追って、緊張感がその意味でいや増した。
    • 最近、人間には情報の摂取の仕方として、①聴覚型、②映像型、③文字型の三種類がいる、という話を見たけど、明らかに③に属する自分としては、高スピードで表れる文字情報には食いつかざるを得ない。他の種類の人にとってはわからないけど。
    • 子供の頃は怪獣と戦う人間すげえって(直接観たわけでもないけど)思ってたけど、大人になって改めて見ると、本作が自衛隊とかの描写をなるべく忠実にやってるおかげで、本当にあのサイズの生物に対して対抗できるのか、ちょっと疑問に思う。
      • 疑問というか、不思議というか。ネガティブな意味でなく、純粋に「できるのかな?」という思い。
      • そういえば、結局禍威獣が日本にしか出現しない理由って直接描かれなかったよね。
        • 後述のメフィラス星人が日本にいたからってことなのかな。
          • あいつ日本に馴染みすぎだろ。
    • TLで見た「シンエヴァっぽい」という感想。わかる。
  • 最初に本格的に描かれた第七号禍威獣ネロンガとの戦闘。
    • シンゴジ大好きっ子としては、この倍の尺を使って禍威獣大暴れをやってくれてよかったんですがね。
      • ミサイルを電気エネルギーで破壊してたけど、効率クッソ悪そう。
    • 禍特対の面々の披露。
      • 正直、本作の最大の不満は人間の役者の演技の棒っぷり。
      • 棒読み的な演技はある意味でシンゴジに似てるんだけど、そのクオリティが段違い。悪い意味で。
        • セリフの専門用語が言葉として馴染んでいないというか、言葉が上滑りしていた感じが強い。なんでだろう。
          • 限られた禍特対の面々しかそういう言葉を使わなかったから、作品全体として言葉がなじんでいなかったのかもしれない。
          • 役者の力量もあるんだろうけど。
      • 禍特対のオーバーアクションが、一般社会に馴染めない尖ったはみ出し者というよりも、ただの演技くさい人という印象に終わってしまっている。
        • シンゴジだと、「はみ出し者」たちの人数が多く、かつ後から召集されたものというイメージを与えることに成功していた気もする。単にそういう設定の人ではなく、ストーリーの流れで存在が許された人というか。
      • 子供を助けに行くのは禍特対ではなく自衛隊員の仕事では?
        • あれを禍特対の人間が行くという不自然さのせいで、神永がこの件でウルトラマンになったのか、それとも元々ウルトラマンだったのか、途中まで確証を持てなかった。
          • まるで、一人になる=ウルトラマンになる為に助けに行ったように見えてしまったのよね。だから疑念が残った。
    • からのウルトラマン初登場。
      • その立ち姿に巨神兵を思いだした。シンゴジの前にやってた方のやつ。
        • 体表がすっごいヌメヌメしてる。
        • 飛び去るあの姿勢、めっちゃ不自然でめっちゃいい。
  • 長澤まさみこと浅見登場。
    • 正直に言います。初めて登場した時、たぐいまれな演技力を持つ個性派女優だろうと思いました。長澤まさみだと思いませんでした。
      • ちょっとかわいいパタリロみたいって思いました。
        • つぶれ饅頭……
          • その上で醒めるほど演技がひどいんだもんなあ……
            • 演技というしかない演技。悪い意味で演技。作り物であることが見え透く演技。悲しい。
    • あきらかに対禍威獣と関係ない本をいきなりデスクに積み上げた神永に、禍特対の面々はもう少し気遣ってやろうよ。
      • 『野生の思考』は果たしてウルトラマンの人間理解に役立ったろうか。
  • 八号禍威獣ガボラ
    • ドリルはロマン。
      • でも、地底を進むのは効率悪いよな。
    • 倒した後抱えて飛んでったけど、どこに持ってたんだろう。
      • 次元の狭間(作中の名称忘れた)だろうか。
  • 外星人二号ザラブ。
    • 偽物のウルトラマンなのに一目でそれとわからないだなんて……もっと釣り目にするとかさ……
    • 都下の上空で行われた巨大生物同士の戦い。都民は気が気じゃなかったろう。
      • もっと壊滅的な破壊をしてくれると俺は楽しかった。
  • 外星人零号メフィラス星人
    • ブランコをこぐ大の大人ってちょっとした都市伝説。
      • 尋常な地球人ではないことがよく伝わるシーンだ。
      • あと、大人になって乗るブランコって怖いぞ。マジで。
    • しかしお前日本に馴染みすぎだろ。
      • 鼓腹撃壌とか捲土重来とか「河岸を変えようか」とか「大将、お愛想」とか、生粋の日本人でもそういわんぞ。
        • 浅草で飲んだ後に、メフィラスが(たぶん)いったんおごろうとして、自分の財布を見て「割り勘にしよう」と提案。IQ一万なら自分の財布の中身くらい把握しとけ。
          • その直後、神永が浅見に電話をかけたとき、「今どこにいるの!」と叫ぶ浅見に、「浅草の飲み屋に来てくれ」「飲み屋で支払う金がない」って絶対言うと思ったのに、言わなかった。とても残念だ。
  • 巨女出現。
    • 私と同世代の諸兄はみな、ウゴウゴルーガのOPを思い出したことでしょうが……

www.youtube.com

    • 長澤まさみの全盛期の時なら、きっと多くの子供たちが性癖を拗らせたんじゃないかなと思う。全盛期の時なら。
    • ウルトラの母が登場しなくてよかった。
      • やっぱり、元のサイズに戻った後の演技がくさくてきっつかったんだよなあ…
  • vsメフィラス星人
    • こういうのをさ、もっと長尺でさ、やってくれていいんだよ!!
  • ゾフィ来襲。
    • こいつはもう来襲よばわりでいいだろ。
    • 言葉を交わせる相手がいとも簡単に対立者の殲滅を選べるって、怖い。とても怖い。
    • 1テラKの熱量を生み出せる殲滅兵器のゼットンを出したけど、本当に確実に地球を消滅させたいなら、もっと効率的に(少ないエネルギーで短時間で)できるものもあるだろうに。
    • ウルトラマンvsゼットン
      • 絶対勝てないことはわかっていたろうに、なぜ立ち向かったんだろう。
        • 一本の映画という尺のせいか、人間と融合したウルトラマンの心、何を考えているかがよくわからない。勝てないことをわかっていながらゼットンに立ち向かうほど地球に、人間に価値を見出していたとは、いまいち思えないんだよな。人間(神永)の心が影響していたとしても、だからといって絶対勝てない相手に立ち向かう理由になるとも思い難い。神永がそれだけ正義感と自己犠牲精神にあふれていた描写もないし。
  • 負けたウルトラマンゼットンがもたらす未来に絶望する人間。
    • 滝がああいう態度をとるのはリアルだろうけど、でもリアリティはなくて、ああいうシーンをぶっきらぼうにいれっちゃったもんだから、全体的に人間ドラマむしろ薄っぺらくなる。
      • リアルとは、現実にそうなる(蓋然性が高い)こと。リアリティとは、現実にそうなるだろうなと受け手に思わせること。現実にはそうなるだろうことでも、そうなるだろうと受け手に思わせられなければ、受け手は納得できない。
      • 何度もシンゴジと比較するのも何なんだけど、シンゴジは全編通して人間がゴジラに対して必死で抗おうとしているので、その抵抗の仕方が現実にはおこりえないようなヒロイックなものだとしても、「彼らならそうできるだろう」と思わせる力(描写)がある。
      • ところで、現実を忘れるにはやはりストゼロなのか。

  • ゼットンとの二度目の対決に赴くウルトラマン
    • 浅見が神永にキスしないでよかった。本当によかった。
    • 君たち、そんなに関係性はぐくんでないよね?
    • 最終形態ゼットン使徒かな?
  • 次元の狭間でのマンとゾフィの対話。
      • その前の、木っ端のように振り回されるマンがかわいい。
    • しかし、セリフで説明してる感が否めないんだよ……説得力がないんだよ……
    • 帰ってきた神永に降り注ぐ浅見の涙。ご褒美感がないのが悲しい。本当に悲しい。
  • エンドロール。
    • 最後に副監督や准監督などが並び、少し間を開けて庵野秀明氏と樋口真嗣氏の名前が出るのは、すごくぐっとくるな。


トータルとしては、損をしたとは思わないけど自分が期待していたものではないし、もう一回見ようという気にはならないな、って感じです。
タイトルの通り、特撮部分が物足りなくて、人間ドラマ部分が余計に感じられた、という印象でした。どっちつかずというかね。たぶん意図的ではあるんだろうけど、シンゴジよりも(個)人を描こうとしていて、で、それが自分にはかえって余計に思えてしまったんですわ。それを表現するなら、もっと腰を据えて、そういう演技のできる人をそういう演技指導の下でやってほしい。もしくは、特撮に全振りしてほしかった。ぬーん。

ちなみにこっちは絶賛してるシンゴジの感想。絶賛。
yamada10-07.hateblo.jp



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君は漫画のために死ねるか!?『これ描いて死ね』の話

 君は漫画のために死ねるか!?
 君は漫画のために殺せるか!?

 面白い漫画は人を生かす。生かされた人は、自分のように誰かを生かすべく面白い漫画を描こうとする。
 しかし、はたと気づく。
 面白い漫画を描くのは、とてもとても難しいと。

 そして必死で描いていくうちに気づく。
 人を生かす漫画は、死ぬつもりで描かれているのだと。殺すつもりで描かれているのだと。

 ある人間の、愛と欲望と努力と苦労と諦めと希望と絶望と救いと殺意と、その他あらゆるもののを煮詰めた先にある、一すくいの上澄み。
 それが漫画。

 そんな漫画に憑りつかれた少女たちと、憑りつかれていた女性。そんな二本の線が交わったのがこの作品、とよ田みのる先生の『これ描いて死ね』です。

 伊豆王島。そこはよく言えば自然にあふれた、悪く言えば文化の威光が弱い、太平洋に浮かぶ島。
 そこで暮らす高校一年生の安海相(やすみあい)。子供の頃から人見知りだった彼女は、島に唯一ある貸本屋の漫画だけを友達に過ごしていましたが、人に話しかける勇気や誰かと仲良くなるための思いやりを漫画から学び、無事友達ができました。
 そんな彼女にとって漫画はバイブル。特にお気に入りは、打ち切り作品ながらもその熱量からカルト人気を誇る『ロボ太とポコ太』。相の人付き合いに大きな影響を与えたポコ太は、彼女のイマジナリーフレンドにすらなっています。
 しかし、相のバイブルを「全部嘘」と切って捨てるのは、彼女の担任教師である手島零。見るからに堅物そうな彼女は、虚構でしかない漫画から得られるものなど何もないと、相を漫画から引き離そうとします。
 
 とはいえ、漫画に救われた相は手島からのダメ出しもどこ吹く風、気にせず漫画をむさぼり読みますが、ふとした拍子に、ずっと筆を置いていた『ロボ太とポコ太』の作者が、コミティアで同作の新刊を出すことを知り、生まれて初めて一人で島から船に乗り東京まで行くことを決心しました。
 初めて行った東京。初めて行った同人誌即売会。今まで味わったことのない空気に相は鮮烈な印象を叩きこまれますが、その日最大の目当てはもちろん『ロボ太とポコ太』の新刊。そしてその作者である☆野0(ほしのれい)。自分を救ってくれた作品を生み出した人間のブースを前に、胸を高鳴らせた彼女が出会ったのは……?

 というところが第1話。
 相が出会ったのが誰かというのは勘の良い人ならマッハで気づくでしょうがそれはともかく、そうして始まった相のまん道です。
 今まで相にとって漫画は読むもの、目の前に差し出されるもの。受け身の存在だったのですが、それがコミティアへ行き、こんなにもたくさんの人が自分で漫画を描いてる、漫画は誰でも描けるものである、自分でも描いていいものであるという、あまりにも当たり前のことに気づき、自分も描いてみたいと思ったのでした。
 偶然島にいた元漫画家を師と仰ぎ、拙いながらも漫画を一本描きあげ、漫画同好会を立ち上げ、同好の士を集め、試行錯誤を重ねてなんとか面白い漫画を生み出そうとするのです。

 相の視点は、言ってみれば漫画づくりの陽の視点。漫画を作りたいと強く思い、実際に着手し、実際に一本描き上げる彼女の姿が、生き生きと描かれています。
 頭の中では誰もが名クリエイターとはしばしば言われることですが、頭の中に素晴らしいアイデアがいくらあっても、それを絵なり文なり音なり物なり動きなり、現実の媒体へと形を与え、一つの作品として完成させるところにまで行きつく人は稀ですし、それが本当に素晴らしい作品となることはもっと稀です。
 でも、相はそれをする。

漫画だって表現です。真摯に気持ちを乗せた表現は人間そのもの。
そこに優劣はありません。
その気持ちは同じ気持ちを持つ誰かの脳を揺らします。
たとえあなたの絵や構成が稚拙でも、気持ちが正しく漫画に乗れば技術を越えて人の脳を揺らすのです。
(1巻 p110,111)

 これは相の師匠が彼女にかけた言葉ですが、『ラブロマ』や『FLIP-FLOP』、『金剛寺さんは面倒臭い』など多くの作品でも繰り返し登場した、とよ田みのる節とでも言うべき、心揺らすこと、心揺らされることの大事さを強く謳っています。

 でも、1巻に収録されている、本作の前日譚にあたる、師匠である元漫画家の話では、陰の視点があります。
 自分も作る側に生きたいと思い大学卒業を控えた時期に漫画を描き始めるも、描いても描いても上手くいく感触はなく、就職もしてない自分に向ける周囲の視線も気になり、ついには何が面白いかもよくわからなくなってしまいます。
 いくら頑張っても、いくら努力しても、いくら自分の人生を込めても、作品の面白さはそれと関係ありません。

「頑張りましたね。」
…と言われたら失敗作。
こちらの苦労が向こう・・・に見えてしまっている。
没頭して笑ったり泣いたりしてもらいたい。
(1巻 p189)

 これは、師匠がデビュー前に編集者に原稿を読んでもらっているときに思ったことです。
 苦労の跡とか、そんなものは読者が漫画を楽しむときの夾雑物。漫画へ没頭することを妨げるお邪魔虫。

 上では師匠が相に、気持ちが人との脳を揺らすと言っていますが、それは一面では正しくあり、また一面では間違っています。
 たとえば学校の音楽の授業などでも、「もっと声に感情をこめて」などと言われた人もいるかと思いますが、感情は声にこめようと思ってこめられるものではありません。感情をこめるにはどう歌えばいいか、という具体的な技術面、客観的な表現面からアプローチをしなければ、聴くものにこめたい感情を届かせることはできないものです。
 このメロディは少しだけためて。
 次のフレーズを盛り上げるためにここは少し声量を抑えて。
 ハーモニーを響かせるために少しだけ音程を下げて。
 感情をこめる(こもっているように聴かせる)には、そんな実際的な検討をしなければいけないのです(木尾士目先生の『はしっこアンサンブル』では、そのあたりが意識的に描かれています)。

 先の引用の師匠のセリフの後には

まあ気持ちが技術を超えるのにも限界はありますから、
あなたのレベルでは届く人がいないかもですね。
(1巻 p112)

 と冗談交じりの続きがありますが、現実にはこれはまったく冗談ではないですし、ここで要求される「レベル」はそれなりに高いのです。少なくとも、より多くの人に届けようと思えば、高くしなくてはいけません。

 創作を始めたばかりの相というアマチュアの第一歩からの視点で、今後の活動と成長に期待をさせ、自身の創作に限界を感じてしまった元師匠という元プロが顧みる視点で、相の行く道に待ち受けている厳しさを感じさせる。そんな第1巻です。
 で、1巻の時点で相には二人の仲間と一人の師匠がいますが、次に必要なのは何か。そう、ライバルですね。
 1巻の最後に登場した、どこかで会ったことのある一人の少女。彼女がどう相に影響を与え、そして与えられるのか、2巻も楽しみですね。
gekkansunday.net



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言葉は剣よりも強いか モンゴルに仇なす奴隷の刃はマルチリンガル『ゾミア』の話

 13世紀。それはモンゴルの世紀とも称されるほど、モンゴル族がおおいに威を振るった時代です。
 世にも有名なチンギス・ハンが初代モンゴル帝国の皇帝となったのが1206年。最盛期においては地球上の陸地の17%を支配したともいわれる強大な帝国ですが、当然、その拡大の過程には多くの暴虐がありました。古今東西、平和裏に進む国家の拡大などなく、元々その地に住まう者との戦火は必至、流れる血潮でもって版図を塗り潰していったようなものです。

 この物語の主人公・ネルグイは、塗り潰された側の人間。宿敵である金を滅ぼさんと軍を進めるモンゴル帝国の征路から生み出された、数多くの難民の一人です。
 1215年、モンゴル帝国と金の戦は一応の和睦を迎え、その地に留まる多くの奴隷と同様、ネルグイは労働に身を窶していました。しかし、彼が他の奴隷と違うのは、その類稀なる言語能力。契丹語、西夏語、ウイグル語、ペルシャ語モンゴル語etc……。当時のモンゴル帝国支配下で使われていた言語の多くを習得していた彼は、その能力から、金支配層と奴隷たち、そして異民族の奴隷間の連絡役を務め、若さにも関わらず金の官僚から優遇されていました。
 「ネルグイ」とはモンゴル語で「名無し」の意。なぜ彼がそんな名前を名乗っているかと言えば、本当の名前を忘れてしまっていたから。自分の本当の名前は、もう死んでしまった父母がつけてしまったそれのみ。もう死んでしまった父母とのつながりも、それのみ。だから、もしいつか本当の名前を思い出した時のために、自分は「名無し」でいい。
 比類なき言語能力に、状況を冷静に観察できる理性。奴隷の身にも関わらず、目をかけてくれた官僚から将来文官に取り立てることさえほのめかされる彼の資質ですが、時代はネルグイに安穏を許しません。
 和睦をしていたはずのモンゴルの裏切り。火計の奇襲により、金は瞬く間に滅びていきました。
 また別の奴隷商のものとなったネルグイ。しかし、以前と違うのは彼の心に灯った黒い炎。
≪殺されたところから生まれよ≫
 これは同じ奴隷だった盟友から教わった言葉。遊牧民であった盟友の部族に伝わる儀式の言葉。モンゴルの再侵攻によって生き別れた盟友から教わった言葉を胸に、ネルグイは再生と再起を誓うのです。

 こうして始まった本作『ゾミア』。13世紀初頭のアジアを舞台に、血と汗と涙と暴力が渦巻く世界で、マルチリンガルを武器に抗う少年ネルグイの半生記です。
 言語とは情報です。この世には数多の言語がありますから、グーグル翻訳もディープラーニングもないこの時代、知っている言語が多いことはすなわち、得られる情報の多さに直結します。
 言語とはコミュニケーションです。能く言語を操るものは、多くの人間と意思疎通でき、異なる言語を使う者同士を取り持つこともできます。知っている言語が多いことはすなわち、他者との交渉の優劣に直結します。
 言語とは思考です。人は必ず言葉でもって思考します。多くの言語を知り多くの言語を操ることは、他者の思考を理解することにつながり、同時に他者に自身の思考を浸透させることにもつながります。
 腕っぷしでも剣戟でも弓矢でも馬術でもなく、言語。いわば舌先三寸で困難を切り抜ける少年。それがネルグイなのです。

 しかし、いくら口先が回ろうとも、ほんの少しの失敗で命を落とすのがこの時代です。
 腐った食べ物。
 野犬による噛み傷。
 農作物の不作。
 疫病の流行。
 一本の流れ矢。
 権力者の機嫌。
 突然の死因はそこら中に転がっています。
 しかし、なればこそ、言語で、理性で、情報で、思考で己が道を切り拓こうとしていくネルグイの姿が、美しくたくましく見えます。再び奴隷になっても、奴隷商や身分を隠す貴人、襲撃してきた兵などを相手取って、その弁舌で窮地を切り抜けていく。いえ、切り抜けていくなんて表現できるほど器用なものではありません。刃先に裸足で立つように、電流流れる高所の鉄骨を安全ロープなしにわたるように、必死の思いで、決死の覚悟で、最善を尽くして死地をこじ開けていくのです。

 命の重さが現在とはまるで違う時代。昨日の敵が今日の友となり、今日の友が明日には骸になる、そんな時代。
 しかしてその時代に生きる中に、異端はいます。
 異端の言語能力。異端の交渉能力。異端の蓄財能力。異端の戦闘能力。
 出る杭は時に打たれ、時に新たな領域を打ち立てる。果たして異端の少年ネルグイが時代に打ち立てるものは何なのでしょう。
yanmaga.jp



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『違国日記』やめる人/やめない人と、やめられない「才能」の話

「才能」に悩む朝と苦しむ槙生の『違国日記』9巻。

 この巻で印象に残ったのは、まさにこの「才能」の話でした。
 部内で誰よりも音楽の才能に恵まれているように見えながらも、音楽は高校で終わりという三森。
 医大受験での女子差別に心折られかけながらも再度医大を目指すこと決意した森本千世。
 自分と比べて両名とも「才能」を持つ者にもかかわらず、一方はやめ、一方はやめない。そんな二人の在りようを見て悩む朝は、小説家などという、「才能」がなければやっていけないと思える仕事をしている槙生に疑問をぶつけました。

やめる人・・・・やめない人・・・・・の違いって何?
(9巻 p78)

 長くその疑問を引きずっていた様子の朝に、わざわざお茶を入れてまで間をとった上で、槙生はこう答えました。

――わたしにとっての「才能」は「やめられないこと」
(中略)
でもわたしよりおもしろいものを書く人にやめる理由が訪れてわたしにないのを……
……
…わたしはわたしの「才能」だと思うことにした
…と いうより諦めた
(9巻 p83,85)

 これがひどく印象に残ったのですが、それは、以前別の作品でも似たような言葉を見たことがあったから。

どんなに才能があっても色んな事情でそれを続けられない人は大勢いる。でも、運がいいのか悪いのか、町蔵君はマンガをやめなかった。
――いや、やめられなかった。
望んだというよりはそう生きるしかなかった。
それこそが「人格」だよ。
(G戦場ヘヴンズドア 3巻 p185)

 日本橋ヨヲコ先生の『G戦場ヘヴンズドア』です。
 これは、主人公町蔵の師匠漫画家である都が、彼に言ったセリフでした。
 セリフ内の「人格」は、作中時間軸の十数年前、まだ漫画家のタマゴだった町蔵が都に、

漫画家に必要なものって何スか? 
才能じゃなかったら、何なんスか?
本物との差を決定的に分ける一線って、いったい何なんですか?
(G戦場ヘヴンズドア 2巻 p156)

 と問うた際に、わずか一言で返された

人格だよ。
(同上 p157)

 を受けているものですが、漫画家を漫画家たらしめているものは、面白い漫画を描く「才能」ではなく、漫画を描かずにはいられない「人格」、換言すれば生き方であると言うのです。槙生の言う「わたしにとっての「才能」は「やめられないこと」」と見事に符合するものだと言えます。

 けれど、両者の言葉のベクトルは真逆だと言っていいでしょう。
 都が町蔵にかけた言葉は、売れない漫画家を続けることに悩む彼に「それでいいのだ」と力を与える言葉。漫画家としてしか生きられないことこそが漫画家である証左なのだと背中を押す言葉。
 翻って槙生の言葉は、自分を縛りつける言葉。「わたしよりおもしろいものを書く人にやめる理由が訪れてわたしにない」ことに悩む自分を、なんとか言い含めようとする言葉。不安定な自らの立ち位置を強引に固定する言葉。悩んでもどうしようもないことなら悩まないようにしようと無理やり自分のこうべを上向かせる言葉。 
 そして槙生は続けて言います。

わたしは逃げられない
呪われて生まれたのなら徹底的につき合うしかないと最悪の方法でやめた知人を見て決めた
(違国日記 9巻 p86)

 そのように生まれたことを「呪い」と表現する槙生。
 どうに生きるか決めることはできても、どうに生まれるかを自分で選ぶことはできませんし、どう生まれたかで生き方の選択肢が大きく変わってしまうことも厳然たる事実です。どう生まれたかでどう生きるかが制限されてしまうのであれば、それはスリーピングビューティーの如き呪いなのかもしれませんし、それを認めて生きるのであれば「諦め」ることも必要なのでしょう。抗えないものには、抗えない。

 しかし、そうとしかあれないと認識することは、無限に広がる人生を閉ざす扉であり、同時に自由に生きるためにくぐらなければいけない扉なのかもしれません。
yamada10-07.hateblo.jp 
 昔、『バガボンド』と『戦国妖狐』、さらに日本橋ヨヲコ先生の『極東学園天国』に絡めてこんな記事を書いていました。

引力で石は下に落ちる
自由には限界があって 運命には逆らえないってことじゃねえ?
それなら 楽しんだモン勝ちだね
極東学園天国 1巻 COLOR.3)

 これは『極東学園天国』内のセリフですが、槙生は「楽しんだモン勝ち」と思うポジティブさを持っているわけではないでしょう。しかし、自由に限界があるからこそ抗う、限界の中で「徹底的につき合う」と決めたのです。

 『違国日記』の第一話では、朝が高3になった春のある夕暮れ時が描かれています。そこにいる朝も槙生も、初めて会った時とも、9巻時点とも、また違います。まだ子供である朝が変化するのは当然ですが、いい大人の槙生もまた、当然変化します。そんな変化もまた書き留められている日々の日記。それが『違国日記』です。



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『さよなら絵梨』単調なコマ割と期待を裏切られるカタルシスの話

『ルックバック』以来、再び長編読み切りを上梓した藤本タツキ先生。

 200pオーバーという大ボリュームでありながらページを送る指が止められず、更新された日曜深夜にあっという間に読み切ってしまいました。

 さて本作、二転三転するストーリーや、どこまでがリアルでどこまでがフィクション(映画)かわからない構造など、内容面でも語るべきことはたくさんありますが、それは書籍で発売されてからじっくり考えるということで(電書だと腰を据えて読めない古の民)、今日はその演出上の話を。

 本作で特徴的なのは、一読して分かる通り、ほとんどのページが同じ形の横長の長方形コマ4つで構成されていることですが、これは冒頭で示されているように、主人公のカメラ越しの視点を表しています。絵がぶれているコマが出てくるのは、手で構えているカメラの手ぶれですね。
 この、ある意味では単調でつまらないとも言えるコマ割りですが、むしろ本作においては、このコマ割りこそが、読者の誘因に一役買っていると思うのです。

 漫画のコマ割りの歴史を紐解けば、黎明期には本作の大部分と同様に、まったく同じ形のコマを等間隔で並べたものから始まりましたが、読者の視線誘導をしやすいようにコマの形や間隔に変化をつけたり、描きたい絵のために特殊な形にしたり、コマの形自体を表現にしたり、あるいはコマをキャラクターが認識してふるまうことでメタ的な面白さを導入したりと、様々な発展がみられます。

 で、本作は上述したように、まるでかつてに戻ったかのように同じ形のコマが同じように続きます。それも、横に長い長方形という制約の大きい形で。
 普通ならその単調さは退屈さを催しかねませんが、冒頭から、末期の母親を映像に残すという、ストーリー面のフックと、コマの形の理由を与えて読者を作品にとどめます。そこからさして紙幅をさかないうちに病院の爆発というあまりにも意外な展開で度肝を抜き、さらに今までの話が主人公による映画だったと明かして、読者が無意識に抱いていたストーリーに対する前提(母の死までを追ったドキュメンタリー)を転覆させました。
 ここに発生した、読者の予想が裏切られたこととそれによる快。それこそが、単調なコマ割りにもかかわらず、あるいはだからこそページを送らずにはいられない原動力だと思うのです。

 連続する単調なコマ割りは、画面上にも、読者の視線移動にも、一定のリズムを作ります。しかし読者は本作を読む中で、そのリズム、言い換えればこのまま続くであろうと予期しているものが簡単に覆されることを、ストーリー面からも、病院の爆発からも、早々に知ってしまっているのです。
 それゆえ、ページを繰る内に読者は我知らず思います。またいつかこの予期が裏切られるんじゃないだろうかと。
 予想・予期を裏切られること。それは快でもあり不快でもありますが、心に何らかの影響をもたらすことが作品の使命であれば、どちらに心が振れるのであれ、とても重要なことです。

 単調なリズムによって刻み込まれる次のページへの予期(構図的な意味で)と、それが裏切られるのではないかというメタ的な予期(展開的な意味で)。さらに、現代の漫画でこの単調さが延々と続くことの違和感。予期と違和のみつどもえのせめぎあいが読者の心に緊張感を生み、その解放の欲しさもあって、ページを繰らずにはいられません。そしてちゃんとどこかで予期は裏切られ、違和も消えるので、緊張感の解放、カタルシスが起こります。それが楽しい、気持ちいい。

 また、本作はジャンプ+での発表ということもあり、ネット、とりわけスマホによる読書を強く意識しているのではと思います。
 実際にスマホで読めばわかるのですが、画面を指で送っても送っても、ほとどんのページは構成が変わらず、コマの中に描かれているものが変わるだけです。ページをめくるたびに視線が一瞬遮られ、視線もぶれる紙で読むよりも、スワイプだけでサッサッと絵だけが変わっていくスマホ読書では,単調なリズムが圧倒的に生まれやすいのです。電書だと腰を据えて読めない古の民である私でも、これを実感するために、本作はあえて電書でも欲しいなと思ってしまいます(当然紙も買います)。

 もちろん、実験的でさえあるこのような手法を200p読み切りという作品で成立させるには、読者を引き込むストーリーや絵の強度など,それ以外の要素も不可欠です。それゆえに、これを成立させた藤本タツキという作者に、驚嘆せずにはいられません。一刻も早く紙書籍で出しやがれください。



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『タコピーの原罪』あなたを一人にしない、ハッピーを生む「おはなし」の話

 再び『タコピーの原罪』。今日は「おはなし」についてのお話。

 この物語のトリガーにして傍観者であるところのタコピー。この者が何のために地球に来たのかと言えば「宇宙にハッピーを広めるため」。そのために、ハッピーママから渡されたハッピー道具を携えているのですが、地球で出会ったしずかに、ハッピー道具の威光は届きませんでした。それもそのはず、しずかが何にどう感じているのかもわからないタコピーでは、どうすれば彼女を笑顔に、ハッピーにできるのか、わかりようがありません。
 タコピーが地球人の心を理解できない内にしずかは自殺してしまいますが、それを目の当たりにして、タコピーは言います。

知的生命体”人間” きみたちの言葉で自ら命を絶つことを
”自殺”と いうらしい
なぜそんな行為が存在するのか なぜきみが自殺してしまったのか ぼくにはわからない
でも わからないから聞きたいっピ たくさんおはなしして もっときみを知って
きみが死んじゃわなくて済む未来を いっしょに考えたいっピ
(上巻 p46,47)

 タコピーがここで口にした「おはなし」。これは別のところでも登場します。

仲直りの秘訣は
ちゃんとおはなしすることだっピよ おはなしがハッピーを生むんだっピ
(上巻 p62,63)

 「おはなし」。実はこれ、この物語の中で、けっこうなキーワードであると思うのですが、こう言いながらもこの作品の登場人物たちは、ほとんど「おはなし」をすることがありません。

 たとえばタコピー。
 1話で、しずかを探すまりな達が、いじめの成果を語り合う陰湿な会話を耳にして、タコピーは「楽しそうだっピね」で見当はずれのことを言いますが、それに対してうつろな表情で「そうなんじゃない?」と答えるしずかの顔にも言葉の意味するところにも気付くことなく、新しいハッピー道具を披露します。
 2話で、トイレでまりなから隠れているしずかに、上でも引用した「おはなしがハッピーを生むんだっピ」と無思慮に言い放ちます。
 7話では、殺したまりなに化けて、彼女の家族の輪に交じりますが、そこで繰り広げられているまりな両親の醜い言い争いをまるで理解せず、酔っぱらって心にもないことを口走ったまりな父に、その言葉の意味を取り違えたまま「行きたいっピ パパのところ!!」と返事をして、まりな母の神経を逆撫でます。
 このようにタコピーは、「おはなしがハッピーを生む」と言いながら、その場でどんな話題が出ているのか、相手が何を言っているのか、相手が何を思っているのか、そんなことを一切斟酌せずに、自分の思ったことを反射的に口走っているだけなのです。

 これは他のキャラクターも同様です。
 たとえばしずか。
 日々に絶望している彼女は、助けたタコピーの言葉にもほとんど取り合わず、機械的に返事をしているのがほとんどです。
 また、衝撃的なシチュエーションの直後ということも差っ引かなければいけないのかもしれませんが、タコピーがしずかを殴り殺した直後、タコピーに対し、彼の言い分をほとんど聞かずに、しずかを殴り殺したタコピーを称賛し、その帰り道で東に出会ったときも、彼が理解できているかどうかを気にかけず、淡々と状況を説明し、咎める東の言葉も心に響かず、ただ自分の思うことだけを口にしています。

 たとえばまりな。
 しずかに話しかけている彼女が、しずかと「おはなし」をしようとしているのではないのは明白ですが、2022年、高校一年生の彼女も、話しかけてくるタコピーに対して基本的に邪険に扱い、まともな会話をしていません。母との会話も、彼女と言葉を交わそうとしているのではなく、ただ彼女を激高させずにやり過ごそうと言葉を並べているだけです。

 たとえば東。
 母から認められることを切望する彼は、自らをいい子であろうと強く律し、クラスのいじめられっ子であるしずかへ(母の面影を感じるしずかへの恋心もあって)積極的に話しかけますが、まりなが殺されるまで彼の言葉がしずかに届くことはなく、彼の独り相撲のようなものでした。

 以上のように主要キャラクターたちは、言葉を交わしていても、それが「おはなし」と呼べるような対話ではないことがしばしばです。
 「ハッピーを生む」ような「おはなし」とは、別にそこで大事なことが語られる必要はありません。誰かの心を強く動かす必要もありません。ただ、相手の話を聞き、その話を受けて自分の言葉を返し、そしてまた相手がその言葉を受けて話をする。そのような、自分の言葉に対して相手が反応してくれる、自分の言葉を相手が聞いてくれる、そんな実感を得られる言葉の応酬。それが対話であり、「おはなし」です。
 話の中身ではなく、私はあなたが今そこにいることを認めていますよ、一人の人間として見ていますよ、あなたを一人にはしませんよ、と伝えられるメッセージによって、「おはなしがハッピーを生む」のです。
 なのに、彼らには、そのような「おはなし」がないのでした。
 「ハッピーを広める」ことを目的とした者から始まる物語にもかかわらず、「おはなし」がないためにここにはハッピーがなく、彼女や彼は孤独に苛まれているのでした。

 しかし、これをまだ未成熟な彼女や彼だけの責に帰するのは無体なことでしょう。なにしろ彼女や彼は、一番身近な人間であるところの親から、まともな「おはなし」をされていないからです。

 しずかと共に暮らす母が登場するのは、チャッピーが保健所に連れ去られた直後のほんの数カットですが、そこでの彼女は、おざなりな嘘と、別れた元夫に対する愚痴と、同伴相手(=まりなの父)への体面を鬱陶しそうに口にするだけで、我が娘の顔に浮かぶ絶望にはまるで気づきませんでした。
 まりなの母は、夫がキャバクラ(=しずかの母の職場)に通い詰めるようになったからか、もともとの性質もあったのか、精神の平衡を崩し、自身の感情のはけ口をまりなに求めていました。「ママのおはなし 聞いてくれるよね…?」と言いながら、彼女と「おはなし」をする様子はなく、ただ己の言いたいことを吐き出すだけになっています(それは、2022年の彼女の姿からもわかります)。
 東の母は、兄である潤也と同じくらい東が優秀であれと、彼に懲罰的な教育を施し、テストで満点をとれなければおやつをあげず、彼の罪悪感を煽り、同時に彼の自尊心を削り取るような言葉遣いで、自覚的にか無自覚にか、東を責めていました。

 親の因果が子に報い、ではありませんが、コミュニケーションのロールモデルとしての親がこのような態度であれば、彼女や彼の「おはなし」が不全であることもしょうがないのかもしれません。

 ですが、この作品の中でも、少ないながらも、「おはなし」が成立したと言いえるシーンがあります。
 たとえば1話。地球に来て六日目の夜、ハッピー道具が全然役に立たずいまだ自らの手で彼女を笑顔にできないで困っていたタコピーは(チャッピーと一緒の時は笑顔になっていたしずかを見ていたからなおさら)、それでもなんとかしようと必死に言葉を重ねていました。ハッピー星に招待する、もっといろいろなハッピー道具を見せてあげる、そんな言葉はしずかには響きませんでしたが、「しずかちゃんをものすごい笑顔にしてみせるピ!」という言葉だけは彼女の琴線に触れたようで、タコピーは初めて彼女から柔らかな笑顔を向けられたのでした。
 おそらくこれは、ハッピー星やハッピー道具というものについては「魔法」と表現したようにありえないものと切って捨てていたしずかでしたが、そんな彼女を誘う甘言のようなものよりも、ただ「ものすごい笑顔にする」という強い言葉自体に、彼女に向けられた思いを感じ取ったのではないかと思います。そこのタコピーの言葉に、自分を笑顔にしてくれようとしている、自分を認めてくれている、という感覚を得て、しずかは少し笑顔に、ハッピーになったのではないでしょうか。

 また、まりな殺害から死体発見までの短い蜜月の間、タコピー、しずか、東の三名は、まるで普通の子供のように、普通の友達のように遊び、夏休みの計画を話し、笑顔で過ごしていました。この時の三名の会話は、なんてことのないものです。でも、その会話は、相手の話を聞いて、それに反応して、という「おはなし」として成り立っています。

 そして、本作最大の「おはなし」のシーンは、本作で最も真人間と思しき、東の兄・潤也によるものでしょう。
 9話のラストで、しずかから自分の代わりに自首してくれるよう頼まれた東が呆然自失としたまま家に帰り、翌早朝から家を出ようとしたところで、潤也に見つかりました。続く10話冒頭、東の想像の中の潤也は、東を見下し、罵り、詰り、追い詰めますが、現実の潤也は東と視線を合わせ、「何でも聞くから」と優しく笑いかけるのでした。初めはその言葉を信じられず、自分の妄想に閉じこもろうとした東でしたが、「俺がいるだろ」から続く潤也からまっすぐ自分に向けられた優しくも強い言葉に、心の殻も崩れ、今の状況を告白しました。
 しっかりと弟の目を見て、「何でも聞くから」「俺がいるだろ」と、私はあなたを認識しています、あなたのことを受け容れます、というメッセージを発した潤也。この直後に東によってなされた告白を最後まで聞き取ったことこそ、この物語でもっとも象徴的な「おはなし」だと言えるでしょう。

 潤也との「おはなし」によって対話を知った東は14話で、しずかとまりなに向ける感情で葛藤するタコピーの話を聞いたうえで、タコピーに対して感謝とを述べました。

3人で遊べて楽しかった 生まれて初めてあんなに学校が楽しみに思えた それは
友達だったからだ お前は能天気で馬鹿でゴミだけど優しい
(下巻 p140,141)

 これが最後の対話となるであろうことを予期して、タコピーに対して心からの言葉を伝えた東でした。

 そしてしずか。
 東京で行方をくらまし、一年近くを経て北海道に帰ってきた彼女はタコピーを見つけて、正論を吐く彼を無視し、溜めに溜めた心の澱を、精神的にも物理的にもぶつけました。

一体どうすればよかったって お前言ってんだよ!
(下巻 p159)

 それに対してタコピーの言葉は「わかんないっピ…」。まったく役に立たない回答です。当然しずかはそれを否定しますが、それでもタコピーは必死に言葉を紡ぎます。

ごめんね ごめんねしずかちゃん 何もしてあげられなくてごめんっピ
でもいっつも何かしようとしてごめんっピ しずかちゃんのきもち ぼく全然わかんなかったのに ぼく…
いっつもおはなしきかなくてごめんっぴ 何もわかろうとしなくてごめんっピ しずかちゃん
一人にして ごめんっピ
(下巻 p161,162)

 気持ちをわからなかったこと。話を聞かなかったこと。何もわかろうとしないまま何かをしようとしたこと。そして、しずかを一人にしたこと。
 タコピーは、今まで自分がさんざん「おはなし」をしたいと言っていたのに、その「おはなし」に必要なことを全然していなかったことに気づいて、それを詫びるのでした。それらがあってこその「おはなし」であり、それらこそが「ハッピーを生」むのです。
 それに気づいたタコピーがしずかに謝罪をし、改めて「おはなし」をしようと告げたのでした。

 すべてのハッピー力を費やしてもう一度だけハッピーカメラを使い、時を戻したタコピー。そこはもう彼の姿がない、元のままの2016年でした。
 しかし、そこには変化がありました。
 東は兄と「おはなし」をするようになり、(兄にか母にかはわかりませんが)度の合わなかった眼鏡を買い換えてもらえるようになりました。
 そしてしずかとまりな。しずかがまりなに虐げられる構図は変わりませんが、なぜかノートに描かれていたちゃちなタコピーの落書き。それを目にした二人は、存在しないはずの記憶を二人して思い出し、存在しないはずのものについて言い合います。

「…壊滅的にバカっぽい 何もできなそう ごみくそ… ごみくそってかんじ」
「でも… 何かしそう いっつもなんか… ついてきそう」
「それでさ ずーっと話しかけてくる 絶対帰んないの バカなのに」
「何もしてくれないのに 喋ってばっかで… だって おはなしが ハッピーを生むんだっピ」
(下巻 p187,188)

 しずかはまりなの言葉を聞き、まりなはしずかの言葉を聞き、いもしないはずの何かを共通の話題にして言葉を重ねていく。

「え 何泣いてんのおまえ きも」
「まりなちゃんこそ」
「何 なんだよこれ」
「わかんないよ…」
(下巻 p189)

 わけのわからない喪失感の共有。彼女たちは、お互いしか知らないものをお互いに確かめ合うように、「おはなし」をしたのでした。

 二度目の2022年。そこには、気のおけない友達としてどうでもいい会話をしているしずかとまりながいました。なんてことのない、日常の「おはなし」。それこそが、「もう一人じゃない”きみたち”が きっと大人になれるように」とタコピーが遺したものだったのです。

 ということで、『タコピーの原罪』の「おはなし」についてのお話でした。
 「おはなし」がハッピーを生む。そして、「おはなし」は相手を一人にしないこと。相手をしっかり認めること。とすれば、ハッピーの第一歩とは、誰かから自分を認められることなのでしょう。



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