去年くらいに「今年中に連載完結」というような言葉を目にしたような気がする『バガボンド』の最新刊が発売されてはや1か月。
- 作者: 井上雄彦,吉川英治
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/10/23
- メディア: コミック
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『バガボンド』で沢庵和尚が言ったこのセリフ、正確に引用すれば
それによると―――― わしの
お前の 生きる道は
これまでも これから先も
天によって完璧に決まっていて それが故に――――
完全に自由だ
(バガボンド 29巻 #256)
自分の道は決まっている。だからこそ自由。まるで正反対のことを言っているとしか思えないこの言葉に、最初は武蔵も首をひねりますが、重ねられる沢庵の言葉に自分の中でも何かが形を成してくることに気づきます。
自分たちの姿に絶望し
「人」の答えなど 見つけて何になる
人を導くなど俺に無理と唾を吐く
吐いた唾は自分に返り 拭い去るためにまた旅をつづけ「人」の答えを探す
そして思い知らされる
天とのつながり無しに生きるは苦ばかりなり
もしも生まれた甲斐があるのだとしたら もうどうなとしてくれ
ただそれを受け容れる
扉が開いた
長いこと閉ざされていたいくつもの扉が一斉に――――
自由とはこれだった 今まで知っていた自由は別のものだった
人は無限だ
それぞれの生きる道は 天によって完璧に決められていて
それでいて完全に自由だ
根っこのところを天に預けている限りは――――――――――
(同 #257)
仏の道を進む沢庵のこの言葉に対して、剣の道を進む武蔵は別の言葉でそれを表現します。
自分でも驚くほどの太刀筋が――――
強くて 速い 剣使いができるときがある
そんなときは……
俺の体の…… 真ん中の奥が光ってる
そんなときなぜか…… 笑いがこみあげてきて……
祈りたくなる
その光のことを あんたは「心に抱く天」と呼ぶんだろう?
「俺は天とつながっている――――」 わかるような気がする
天と
しっかりつながるほど剣は…… そうか 自由で
無限だ
(同 #258)
それに対応する『戦国妖狐』の言葉はこちら。室町幕府13代将軍にして作中きっての剣豪、足利義輝のものです。
時と可能性には無限の揺らぎがあり 選択は常に自由だ
同時に運命も全て決まっていて 決めたのはわし自身だ
(戦国妖狐 9巻 p13)
『戦国妖狐』は、9巻の時点では運命の自由と決定についてこれ以上触れられていませんが、類似性については瞭然かと思います。
ただ、一見似ているようで異なるのは、自分の生きる道=運命を決めたのが誰かということ。『バガボンド』においてそれは「天」であり、『戦国妖狐』においては「わし自身」=人間と、大きな違いがあります。
また、運命の決定と自由の順逆も、『バガボンド』では「完璧に決まっていて」「それが故に自由」であるとし、『戦国妖狐』では「選択は常に自由」でありながら「わし自身」によって「運命は全て決まっている」としています。
ふむん。こう比較してみると、両者は似ているようで実は正反対なのかもしれません。『バガボンド』は己の不自由さを自覚して初めて、天に根っこを預けることでを自由に生きることができると言う。人が不自由な、一個の、有限の人でしかないことを受け容れることで、自由な、超越的な、無限の天を意識することができる。剣を振るうある瞬間に「光」を感じ、それに祈りたくなる武蔵。不自由な、有限の人間でありながら、それを越えたような動きができた一瞬。まるで自由に、無限に手が触れたかのように思える無邪気な喜び。それはきっと、自分が不自由な人間だからこそ感じられるもの。
『戦国妖狐』は己が生まれながらにして自由であっても「こう生きたい」という己の意志でその運命は決定される。生まれる落ちるのはまったくの偶然、だけど、それからどう生きるかは自分が決める。あらゆる選択を繰り返した結果の過去であり今であり未来。その選択が自分の意志によるものであるなら、運命とはすべて自分によって決められている。だからこそ義輝は、自らの散り様としてあのような形を選んだ。
と、こうしてまるで反対のようなこの両者の考え。ここに日本橋ヨヲコ先生の『極東学園天国』で主人公の平賀信号が言ったセリフを考えてみましょう。
引力で石は下に落ちる
自由には限界があって 運命には逆らえないってことじゃねえ?
それなら 楽しんだモン勝ちだね
(極東学園天国 1巻 COLOR.3)
このセリフは『バガボンド』と『戦国妖狐』を媒介するものだと言えそうです。
自分に限界があることを知り、それを受け容れた上でその限界の中で楽しむ道を模索するというのは、自分の有限性、不能性を自覚した上でその先に自由を見つけるという点で『バガボンド』的だし、無限の選択肢の中で有限の自分が(楽しい)道を決めそこを進むという点で『戦国妖狐』的です。
ふむん。そう考えるとやっぱり反対のことというほどでもないのかも。
あんままとまりませんが、気が付いた二作品の繋がりでした。来月発売の『戦国妖狐』10巻ではここらへんがもうちょっと掘り下げられるのかどうか。
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