ポンコツ山田.com

漫画の話です。

『タコピーの原罪』タコピーの「原罪」とはなんだったのか、あるいは善悪の意識の萌芽の話

 原罪。それは、祖であるアダムが犯したために、その子孫である人間が生まれながらにして負っている罪。
 
 キリスト教を元とするこの言葉をタイトルに関する問題作が、先ごろ完結巻を刊行しました。

 連載中から更新のたびにネットを沸かせ、ジャンプ+の最多PVも獲得したとかなんとか。
 デフォルメの効いた愛らしい絵柄と裏腹の、いじめや虐待などの苛烈な描写。無知な子供たちが織り成していく破滅への絨毯は、読む者の目を背けさせると同時に次の展開を待ち遠しくさせずにはいられませんでした。

 さて、そんな本作ですが、タイトルにも関されている「原罪」とは何を指すのか、ここには議論の余地があります。作中で「原罪」について直接言及されたことは一度もなく、読者は自身で考えるしかないのです。
 作中でその言葉が登場するのは二度。
 一度目は、第4話の最終ページ。タコピーがまりなをハッピーカメラで撲殺した衝撃でカメラの機能が壊れ、もう時間を戻すことができなくなったとき。
 二度目は、第15話の最終ページ。タコピーが自分の全ハッピー力と引き換えにカメラの機能を一度だけ復活させ、自身の存在を消すとともに、写真を撮ったその時間へ戻ったとき。
 素直に考えれば、この二つのうちいずれか、あるいは両方が示す事柄が、タコピーの「原罪」を指すと言えるでしょう。

 しかし、「原罪」とは冒頭に示したように、人間が生まれながらにして背負っているとされる罪のこと。タコピーが人を殺したこと、あるいは時間を戻せなくなったこと、もしくは自身の消滅と引き換えに時間を戻したこと、という、彼(?)がした行為そのものを指して「生まれながらにして背負っている」と表現するのには違和感が否めません。

 なので、見方を変えてみましょう。「原罪」の主語を、人間でなくアダムで考えてみるのです。
 すなわち、人間が生まれながらにして背負っているものではなく、アダムが楽園を追放される契機となった出来事を考えるのです。
 アダムが楽園を追放されることになったのは、蛇にそそのかされたイブと共に、神から口にすることを禁じられていた知恵の木の実を食べたから。そうして善悪の知識を得たから。
 この、「善悪の知識を得た」という点に着目してみたらどうでしょうか。

 「宇宙にハッピーを広めるために旅をしている」タコピーは、その目的通り、ただひたすら人をハッピーにするためだけに行動していますが、その内面からは暴力的な概念、人を害する意識というものがすっぽり抜け落ちています。いえ、抜け落ちているというより、最初から存在していないのでしょう。

死は等しく平等に定められ 覆す手段は存在しない
いかなる叡智の道具であっても 死者を蘇らせることは適わない
(上巻 p44)

 とあるように、死という生命の不可逆の終りについては知りつつも、

知的生命体”人間”
きみたちの言葉で自ら命を絶つことを
”自殺”というらしい
なぜそんな行為が存在するのか なぜきみが自殺をしてしまったのか ぼくにはわからない
(上巻 p42)

誰かの命を奪うことを
”殺す”というらしい
(上巻 p148)

 とあるように、「自殺」や「殺す」といった概念は、「らしい」という伝聞で表しているように、地球で初めて知るのです。
 この特質はタコピー個人のみならず、ハッピー星人一般に言えることであるようです。第13話で、ハッピー星のハッピーママのセリフ(「殺すってなに…」)や、ハッピーママの手を強く払いのけたタコピーの行為が「強く触る」と非暴力的に表現されていることから、それが推測されます。

 そんなタコピーが、第4話でまりなを殴り殺した時、瞬間的に彼が抱いたのは、まりなを殺したことへの罪悪感というよりも、取り返しのつかないことをしてしまったという焦燥です。まりなを殺したことではなく、ハッピーカメラが壊れたせいでそれがもう不可逆の事象となったことにこそ、恐れを感じているのです。
 この段階では、まだタコピーに善悪の分別はありません。まりなを殺した自身のこと、行為を悪と感じている様子は見られないのです。いえ、しばらく経っても、まだ彼は善悪を理解してはいません。それゆえ、殺したまりなに化けてもぐりこんだまりなの家庭でも、混乱を起こしていました。
 しかし、この出来事、まりな殺しこそ彼の善悪の意識の萌芽でした。

 第7話で、今にも壊れそうなまりなの母から悲しみと絶望をぶつけられて、彼女からまりなを奪ったことを実感したタコピーは初めて罪悪感を覚え、まりなの両親、そして自ら殺めたまりな自身に許しを請いました。
 ここで生まれた罪悪感は、確かにタコピーに負の意識を植え付けました。しかしそれはまだ、自分の中にしかない悪。外に悪を見出してはいません。
 彼がはっきりと自分の外に悪を見つけるのは、消された記憶を思い出してから。1回目(2022年)の地球では、しずかではなくまりなと最初に出会い、彼女の願いを聞き届ける形でしずかを殺そうと、大ハッピー時計を使うためにハッピー星へ戻りました。そこで、掟を破ったことを理由にハッピーママから記憶を消され、ハッピー星から追放されたのですが、その記憶を全て取り戻した時、タコピーは自覚したのです。

久世しずかを殺さなきゃ 完膚なきまでに命を壊さなきゃ すべて思い出した
久世しずかのせいで まりなちゃんはパパを 東くんを 大事なママを失った
殺さなきゃ 殺さなきゃ 久世しずかは悪だ
(下巻 p130)

 ここでタコピーは明確に、しずかを悪と断じています。

 時系列を整理すれば、1回目の地球行でまりなと生活していたタコピーがその記憶を失い(第13話)、2回目の地球行で記憶を失ったまままりなを殺し(第4話)、まりなの母とのやり取りで罪悪感を得て(第7話)、一緒に東京に行ったしずかから殺意を向けられたことで記憶を取り戻し(第11話)、しずかこそ殺すべき悪だという意識を持ったのです(第14話)。
 2022年にまりなと別れるときにタコピーが口にした「殺せばいいんだっピね!」には、殺すことに対する罪の意識も悪の意識もかけらも感じられません。そもそも「殺す」の意味を理解していません。「”小4のとき”に”久世しずか”を”殺す”?ってすれば」の「?」を見れば一目瞭然です。
 それが、現に「殺す」ことをし(その対象は、皮肉にも小4のまりなでしたが)、それが引き起こす状況や感情を体感し、それを2022年のまりなに引き起こさせたしずかを「悪」だと断じることとなったのです。

 まりなを殺すことさえなければ、タコピーが悪を心から実感することはなかったでしょう。
 その意味で、まりな殺しこそタコピーが善悪を知った契機。タコピーにとっての原罪なのです。

 そして、悪を、知恵を知ったタコピーの思考はそこに留まりません。

あの時ひどいことをしていたまりなちゃんは あれは悪くなかった? それに
ぼくは? まりなちゃんを殺したぼくは―…
あのとき
ぼくにパンをくれた”しずかちゃん”は――
(下巻 p131、132)

 単に誰かを何かを悪として決めつけるだけではなく、そこに連関する他の事象にまで考えを及ぼし、芽生えたばかりの悪の絶対性に疑問を持ちます。
 悪とは何だ。悪をなされた人間は悪ではありえないのか。悪を罰そうとする自身は悪でありえないのか。悪をなす人間は悪でしかありえないのか。
 相対的な視点。客観的な視点。メタ的な視点。
 それこそ善悪を判断するのに必要なものです。タコピーは悪を知り、その対極としての善を意識し、されにそれらが独立してそれ単体で存在しているわけではないと気づくのです。そのような葛藤こそ、善悪の意識であり倫理の誕生だと言えるでしょう。

 改めて、冒頭の問いに戻りましょう。タコピーの「原罪」とは何か。
 それは、彼が生まれながらにして背負っているものではなく、彼が善悪を知るきっかけとなった出来事。すなわち、まりな殺し。
 その意味で、第4話のラスト、まりなを殺した直後に「タコピーの原罪」とタイトルが大書されていたのは、最初は一旦否定したものの、実はきわめて正しいものだったと言えるのでしょう。
 そして、第15話のラスト、タコピーが全ハッピー力を使ってハッピーカメラを使い時間を巻き戻した直後に書かれた「タコピーの原罪」は、第4話でのそれと比べて、文字がしずかに隠れてよく読めないようになっています。これは、タコピーが善悪を知ることになった契機であるまりなの死をなかったことにし、善悪を知ったタコピーそのものが消滅したことで、彼の原罪もまた世界の裏側へフェードアウトしていったもの、と考えるのはうがちすぎでしょうか。

 以上、『タコピーの原罪』の中のタコピーの「原罪」。それについての試論でした。



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『その着せ替え人形は恋をする』連写ポートレートと五条への同一化の話

 アニメも評判のまま幕を閉じ、新刊も出た『その着せ替え人形は恋をする』。

 9巻では、太った海夢、一眼レフを買った海夢、そのカメラでレイヤーとしてではなくカメコとしてコスイベに行く海夢と、相も変わらず楽しそうです。
 で、その9巻で私が一番ぐっと来たのは、海夢が買ったカメラで五条が彼女を撮るシーン。カメラのあまりの性能の良さにテンションブチアゲた五条が、そのテンションのままに海夢のポートレートを撮りまくるのですが、6ページ、13コマにわたって、会話を続けながら海夢のポートレートをコマ送りのように描く手法が、とても印象的でした。

 ポートレートはカメラのファインダー、すなわちそれを覗いている五条の視界と重なっていて、コロコロと変わっていく海夢の奔放で開放的で魅力的な姿を、シャッターを押して切り取っています。五条の目にはシームレスに変転していく海夢の姿が映っていますが、彼がシャッターを切った瞬間、そこにはある一瞬の海夢だけが写っています。
 もとより漫画は、任意のシーンの任意の瞬間を任意の角度で切り取り、それを並べていくものですが、カメラという、まさに「任意のシーンの任意の瞬間を任意の角度で切り取」る道具を構えたキャラクターによって、任意に切り取られた一瞬を13コマ連続で並べることは、読み手をそのキャラクターに強く同一化させます。海夢の表情にときめき、動きに翻弄され、仕草に心揺さぶられる五条に、です。五条が海夢が不意に向けたキス顔に心臓を跳ねさせたのと同様、読み手もまた彼女にキュンときてしまうのです。
 
 また、このシーンでの会話の表現も秀逸で、ここでは会話と言っても読み手から見えるのは海夢のセリフのみであり、五条からのセリフは紙上に一切書かれていません。海夢と五条はたしかに会話をしているはずですが、五条がなんと言ったのか、正確にはわからないのです。
 いわば、ドラクエの主人公状態でしょうか。相手からの言葉に対しレディメイドの返事を当てるのではなく、自らその返答を想像することで、よりキャラクターとの一体感を持たせる手法です。
 一般的に漫画は、読み手は三人称的に物語を読むよう構成されているものですし、常に一人称として読むことを強制されては重層的な物語を作ることが極めて難しくなりますが、たまにピンポイントでこういう手法を、しかも上述の連写ポートレートと併せて使うことで、読み手を一気にキャラクターへの同一化へと引き込むことができるのです。
 他の人の感想でも、このシーンが印象的だったという話はよく目にしましたが、こういう仕掛けがあることが理由の一つではないかと思います。

 9巻のラストでは、まさかのジュジュの再登場。初期に登場した非常にいいキャラでしたので、あれでもお役御免では悲しいな再登場しないかなと思っていたところですので、とても嬉しい。海夢との恋の鞘当ての布石も(妹の心寿も含めて)おかれていましたからね。その方面でも動きがあるかもしれません。
 また、意味ありげに描かれていた、海夢に対する旭の振る舞いも気になるところ。果たしてあれは、いい意味のものなのか、それとも悪い意味のものなのか。
 早くも10巻が待ち遠しいです。



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『メダリスト』『3月のライオン』敗者と勝者のメンタリティの話

 今一番アフタヌーンで推してる作品『メダリスト』。

 最新刊では全日本選手権の予選にあたる、ノービスAの中部ブロック大会に出場します。
 さてこの作品、しばらく前から羽海野チカ先生の『3月のライオン』と似通うところがあるなと思っているんですが、5巻に登場するエピソードで、プレイヤーたちの勝利/敗北に向けた心の描き方について改めて思ったことがあるので、今日はそこを。

 いのりが出場したこの大会は、いのりと同世代の子、すなわち小学校高学年から中学生くらいまでの子供たちが出場していますが、作中で述べられていることには、アイスリンクの上というのは「ツルツルというかもはやヌルヌル」であり、「氷という不安定な物質の上では「絶対の成功」はあり得ない」のだとか。
 その言葉どおりほとんどの選手は、どれだけの練習を重ねてきても、なんらかのミスをしています。ジャンプの後にバランスを崩す程度の小さなものから、完全に転倒し鼻血を出してしまう大きなものまで、大なり小なりミスは起き、事前に練習したとおりのパーフェクトな演技ができることはめったにありません。
 そして当然、今まで血反吐をはくほど練習してきた選手たちに、ミスが起きた瞬間にそれに気づきます。気づいてしまいます。今日の自分の演技はもう完璧ではない。これ以降いくら頑張っても満点にはなりえない。それを悟ってしまうのです。
 しかし、にもかかわらず、選手たちは演技を続けなければいけません。
f:id:yamada10-07:20220323221410j:plain
(5巻 p95)
 この選手たちの心境で思い出したのは、『3月のライオン』の獅子王トーナメントの決勝戦で、島田八段と後藤九段が対局したエピソードです。
 一勝一敗でもつれ込んだ最終戦、学校から将棋会館へと駆け込んだ零を待っていたのは、冷静な様子でインタビューを受ける後藤と、盤の前で俯いている島田でした。知らぬ者から見れば、後藤九段の勝利に終わったように思えますが、あにはからんや、勝ったのは島田八段でした。

――何度も見て来た… 対局直後のこの光景
負けを悟った側は対局中に最後の一言に向けて心を整理してゆくが
勝つ側は 最後の一瞬まで読み違える事がないよう 張り詰め続ける
3月のライオン 3巻 p180)

 この後藤九段のように、負けを悟った側は案外と冷静になっているもので、それは上で引用した『メダリスト』の選手たちも同様です。もう優勝は無理だと悟った選手たちは、頭の片隅から諦めに染まっていくのですがそれでも、振り付けを叩きこまれた身体は、音楽に合わせて半ば無意識に演技を続けます。そしてなんとか精神を持ち直すのです。たとえ、優勝ができずとも、それでもいままでやってきたことを投げ出すようなことはしないのだと。
f:id:yamada10-07:20220323223135p:plain
(5巻 p97)
 将棋には投了があり、ある段階で敗者が完全に負けを認めることができる点で、既定の演技時間があるフィギュアスケートに比べれば、もっと早い引き際がありえますが、それでも完全に詰みとなるまであがき続け、いつかは自ら負けを認めざるを得ません。
 演技が終わる前からもう勝てないことが分かっていても、それを知りながら最後までやり遂げる。その、ある意味での敗者の心境には、『3月のライオン』で描かれているものと通じるところがあります。

 そして逆に、勝者の側でもそのメンタルには通じるものがあります。
f:id:yamada10-07:20220323224358p:plain
アフタヌーン 2022年4月号 p270)
 これは5巻未収録の話なのでネタバレになってしまいますが、主人公のいのりは、その日まだ他の誰も達成していなかった高難易度&ノーミス演技の最終盤、自らの演技の完成度を自覚し、それゆえに高いプレッシャーにさらされながらも、「最後まで気を抜かない」と自分に言い聞かせて演技を終えます。
 将棋で、「勝つ側は 最後の一瞬まで読み違える事がないよう 張り詰め続ける」ように、フィギュアでもまた、「最後まで気を抜かない」で演技をしきることが必要なのです。
 ま、これはあらゆる競技や勝負事で共通のことではありますが。

さらに付け加えると、今までキスアンドクライに座っていた一位の選手が、後続の選手に追い抜かれて、その座を譲るシーン。
f:id:yamada10-07:20220323224516j:plain
(5巻 p123)
 これもまた、己の負けを素直に認めなくてはいけないものです。
 暫定であろうとトップをとれていれば嬉しいでしょうが、後続の選手の演技を見ていれば、自分より高得点かどうかある程度わかるでしょうし、仮に僅差でその場ではわからなくても、点数は無情に表されますから、自分より高得点が出ればその瞬間に判明します。キスアンドクライは常に不安定で、自分がどれだけいい演技をしようと、自分より後の選手がそれ以上の演技をすれば、それで終わりなのです。優勝は、すべての演技が終わるまで確約されません。負けが分かった瞬間に、その座を明け渡さなければいけません。負けを認めて、なお見苦しくなく振舞わなければいけないのです。
 これもまた、「負けを悟った側は対局中に最後の一言に向けて心を整理してゆく」敗者のメンタリティに通じるものがあるでしょう。

 今日は勝者と敗者のメンタリティという類似点を考えましたが、『メダリスト』と『3月のライオン』には、才能の描き方という点でも相通じるものがあると思っていますので、それがまとまったらまた書きたいと思います。



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

かわいいペットは地球を救う『カワイスギクライシス』の話

 数多の星を支配下に置く帝国アザトス。かの国の矛先は今地球へ向けられ、先遣隊として降り立ったのは、帝国軍きっての俊英、リザ・ルーナ。低レベルな地球の文明に辟易していた彼女だったが、小休止しようと入った猫カフェで、恐ろしいものを目の当たりにする。それは猫。今までの価値観を全て塗り替えられるその愛くるしさに、リザの心も体も完全に屈してしまった。猫。それは地球を救う最強の生き物……

 ということで、城戸みつる先生『カワイスギクライシス』のレビューです。
 かわいいは正義。猫はかわいい。よって猫は正義。あまりにも明白な三段論法によって猫の偉大さが証明されましたが、そんな正義の象徴である猫が、悪辣な宇宙帝国の地球侵略を食い止めるのです。だって猫がかわいすぎるから。そんな作品。そんなギャグ漫画。

 猫のかわいさは全宇宙に知れ渡っている普遍の真理かと思っていたのですが、どうやらこの猫という至高の存在は地球にしか存在しないらしく、今まで地球に来たことのない宇宙帝国の者たちは、それを知らぬまま生きてきたらしいのです。人生の損失ですね。
 ですから、先兵としてやってきたリザが猫に出会えば、あっという間にメロメロ、腰砕け、その場にへたり込んで何もできず語彙を失い忘我の境地に至るのも無理からぬことです。
f:id:yamada10-07:20220320161037p:plain
(1巻 p14)
 猫に初めて出会った宇宙人の一般的な反応。
 彼女らにとって既知であった66兆種超の生物種すべてと比べたところで足下に及ばぬほどのかわいさを有する猫。そんな驚異の存在を帝国軍が知れば、価値観が転覆し、帝国ごと地球の、否、猫様の支配下に置かれかねず、それゆえリザは、地球にとどまり猫の生態を観察し、どうすればこの至高の存在を極力穏当に帝国へと伝えるかを全力で検討するために、地球にとどまり猫の生態を観察するのでした。嘘です。猫とにゃんにゃんしたいだけでした。
 
 まあこの猫のかわいがり方、猫かわいがり方がギャグの真骨頂で、リザをはじめとする宇宙人たちが、猫様にまるで抗することができません。体つきのしなやかさに驚愕し、体毛の柔らかさに慄き、鳴き声に脳を溶かされ、肉球の感触に失神する。全力で甘えてくる姿には下僕のように媚びへつらい、不意に飽きて体を離されると傷心に膝から落ちる。
 そんな宇宙人たちの姿に、すでに猫の存在を知っている地球人からは滑稽さを指摘する声が投げかけられますが、しかし宇宙人たちの名誉のために言えば、地球人だってたいがいです。登場する地球人たちはなにかしらペットを飼っていますが、リザが初めて言葉を交わした、猫カフェ店員の向井も猫を飼っており、彼が猫を飼うその姿は女王に傅く臣下そのもの。明らかに猫を高次の存在とおいています。
f:id:yamada10-07:20220320160704p:plain
(1巻 p70)
 だいぶやべえやつ。

 それだけではありません。コカ・コーラペプシ白い恋人六花亭バターサンド、ポカリとアクエリアス等々、人間の争いに終わりはないものですが猫と同程度の派閥を持つペット界の二大巨頭の片割れ、犬。犬派の人間も登場し、猫派に負けず劣らず飼い主バカ姿をさらします。
 そして、きのこの山たけのこの里の争いにアルフォートルマンドが参戦するように、猫や犬以外にもハムスター、ハリネズミ、ウサギ等、各種愛玩動物の飼い主たちもまた、自分の家族であるペットをなによりも大切にし、他のペットを決して貶めることはせず、己がペットこそ宇宙一の存在とそのかわいさを誇示するのです。なんという平和な世界。

 平和な世界ゆえか、端々で投げつけられるフレーズが光ります。
f:id:yamada10-07:20220320161202p:plain
(1巻 p23)
f:id:yamada10-07:20220320161226p:plain
(1巻 p34)
f:id:yamada10-07:20220320161351p:plain
(1巻 p48)
 狂った人間に対して平静な一言を入れる温度感がすごい好きなんですよね。やはり狂気と平静のあわいにこそ笑いが存在する。
 各種動物がきちんとかわいく描かれているのもとてもポイント高し。全力で甘えてくる猫がかわいいんだまた。
f:id:yamada10-07:20220320162230j:plain
(1巻 p68)
 惚れてまうやろ。
 なんかクサクサしたことがあってもこれを読むと幸せな気分で眠れそうな、そんなギャグ漫画。猫派でもそうでなくても、動物をかわいいと思える感性さえあればとにかく読むんだ。
 現在4巻まで発売中。第1話はこちら。
shonenjumpplus.com



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『2.5次元の誘惑』意識される/目を逸らされる過去の話

 13巻現在で、8名ものヒロインが登場している『2.5次元の誘惑』。

 リリサ。
 みかり。
 まゆら
 753。
 ののぴ。
 アリア。
 まりな。
 夜姫。
 ヒロインというか、ちゃんと内面の描かれた女性キャラクターというかですが、さてこの彼女らをとある基準でカテゴライズしてみると、ざっくり二つに分けられるんじゃないかと思ったので、ちょっと検討してみます。

 グループ1は、アリア、まりな。
 グループ2は、まゆら、753,ののぴ、夜姫。
 このカテゴライズだと例外になるのがリリサとみかり。

 さて、このカテゴライズが何を基準にされているかというと、彼女らの過去です。より具体的には、過去を拒否あるいは過去から目を逸らしているか、過去を後悔しているか、です。

 一人ひとり見ていきましょう。
 アリアは、両親が離婚した時、それを知らないままに父親にひどい言葉を投げつけてしまい、それが最後の言葉となっていたことを悔いていました。
 まりなは、母親の言葉に従い品行方正に生きてきたけれど、オタク趣味を誰にも言えないでいることに、これでいいのだろうかと悩むようになっていました。
 二人とも、自分の過去になした(なしてきた)行為について、ずっと引きずっているのです。

 もう一つのグループも見てみましょう。
 まずまゆらは、好きでやっていたはずの過激なコスプレを「恥ずかしくて世間に言えないようなこと」と思い、大学卒業と同時に辞め、以降封印してきました。
 753は、ただコスプレをすること自体が楽しかったはずなのに、有名になってそれでプロとしてそれで食べていくようになると、「幸せな時間をずっと続けるために」「夥しい苦労と葛藤と悪意と戦わなきゃいけな」くなって、「自分を守るために心を殺」し、かつてそうだった自分も含めて、コスプレをしている人間を憎むようになっていました。
 ののぴは、自分の話したい事しか話さない身勝手なトークを友人に否定されて以来、そんな失敗をした自分を直視できず目を逸らしたまま、やみくもに同じ趣味の友人を欲しがっていました。
 夜姫は、自分が否定された事実を受け止められず、自ら悪役としてふるまうことで、それ以上の傷を負うことを防ごうとしましたが、同時にコスプレが好きだと言う自分の心を遠ざけてきました。
 彼女らはみな、自分の過去を拒否した、あるいは目を逸らしてきました。

 過去の後悔と拒否。
 この違いは、過去の問題を解消したいと自覚的であるか否かです。前者の二人は、問題に自覚的であり、それをどうにかしようと自ら行動に移しました。アリアは父のかつての作品のコスプレをし、まりなは皆の前でコスプレを披露しましたね。
 後者の四人は、問題に無自覚、あるいは目を逸らしていたため、主体的にそれを解消しようとはしていませんでした。リリサや奥村との出会いによって問題をあぶりだされ、ある意味で偶発的に解消されたのです。
 
 まだ過去の問題らしい問題(後悔)が出てきていないリリサや、登場時点で奥村好き好きが行動の軸として存在していたみかりんは、このカテゴライズにはそぐわなくなります。例外の人数と片方のグループの人数が同じってのもダサい感じですが、まあまあ。

 あるキャラクターの過去について、そのキャラクター自身がどういう態度であるかという点で、作劇上の違いが考えられそうですが、ひとまず今日のところは備忘録的にこの辺で。



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『2.5次元の誘惑』夜姫とののぴ 過去の受容と未来への一歩の話

 最新13巻で、冬コミ編も一段落した『2.5次元の誘惑』。

 冬コミ編で本格的に登場したコスプレ四天王の一人である夜姫ですが、当初は炎上上等の承認欲求拗らせウーマンかと思われましたが、いやそれ自体はなんら間違ってないんですが、その奥の方にあるキャラクターへの愛、コスプレへの愛がリリサによって暴かれました。
 夜姫の殻を破ろうとしているとき。リリサはこう叫びました。

一生誤解されたまま 叩かれ続けていいんですか?
今の本当の自分を見て欲しいって 思わないんですか?
(13巻 p38)

 その問いに対する夜姫の回答は、リリサの問い自体を無効化するものでした。

過去の自分を見られることは 本当に誤解か?
「何が」私の真の姿だ?
(13巻 p38,39)

 「本当の自分」とはなんのことだ。真の姿とはなんのことだ。
 観測される人は一人でも、どう観測されたかという結果は、観測する人間の数だけある。「人は相手を見たいようにしか見ない」から、過去に炎上の一つもあればおもしろおかしく吹聴し、以降その人を見る目は「炎上した人間」というフィルターを通すことになる。そう見た人間にとっては、以降たとえ彼女が変わろうとも、「愛のないコスプレをして炎上したクソコスプレイヤー」というのが夜姫の真の姿になるのだ。
 「本当の自分」なんてちゃんちゃらおかしいと、夜姫は哂います。
 でも、それを自認したうえでなお、夜姫はこう宣言します。

一度作った過去は消えない 過去の自分だけ切り離せやしないんだ
「本当の自分」ってのは 「最新の自分」とイコールじゃない
変わる前の自分も 一生 自分の影だ
一生を 一生背負って生きていくんだよ
(13巻 p40,41)

 四天王まで上り詰めた夜姫の、諦念と覚悟を刻み込んだ言葉でした。

 で、このエピソードを読んでふと思ったのが、実は夜姫、そのありようがののぴと似てるんじゃないかってことです。
 本作屈指のゆるキャラとして、web掲載時には要所要所で局部を隠すことに大活躍のののぴ。気弱な性格にあばらが浮き出た身体と、心身ともに夜姫とはまるで違うような彼女ですが、でも、彼女がリリサらと出会ったジャンプフェスでのエピソードを思い返すと、たしかに共通点があるのです。
 それがどこかといえば、自らの過去の過ちを認めて、前に進もうとしたこと。

酷い事を言われた けど 私も間違っていた
たったそれだけのことを認めたくなくて 都合の良いトラウマにして逃げてきた
いいんだ 今日の私が間違っても
変わっていけばいい 明日の私へ
(6巻 p85,86)

 自分を馬鹿にしてきた友人をひどいやつ、性格の悪いやつと決めつけて、人の話を聞かずに自分の話ばっかりしていた自分自身を棚に上げていたののぴ。けれど、リリサや奥村との交流を通じて、棚に上げていた自分を見直すことができ、自分はただの無垢な被害者じゃない、「酷い事を言われたけど」「間違って」もいた、と認めることができました。
 そのうえで、間違ってもいい、失敗してもいい、その上でその過ちを正せるよう明日へ向かって変わっていけばいいのだと思えたのです。
 
 このののぴの認識は、言葉の強さこそ違えど、夜姫の言葉と非常によく似ています。
 過去の自分、過ちを犯した自分を今の自分から切り離し、今の自分は間違っていない、正しいと思いこむことは簡単ですが、そうしてしまっては、過去の失敗を反省しそれを活かすことができません。
 勉強でも同じですが、間違えたところを再び間違えないようにするためには、自分がどこを間違えたかを把握する必要があります。数学で言えば、使う公式が間違っていたのか、そもそも公式を覚え違いをしていたのか、あるいは単なる計算ミスなのか。それを理解せず、明日の自分は大丈夫と無根拠に胸を張っていても、また同じ失敗を繰り返してしまうことは想像に難くありません。
 人生の失敗はたいていの場合、数学のテストの失敗どころではないでしょう。
 あのときああしてしまったから。
 あのときあんなことをしなかったら。
 人はいくらでも後悔をしますが、その後悔を次につなげるためには、失敗をした自分を見つめなおさねばなりません。そのためには、失敗をした自分をわが物と受け入れなければなりません。「変わる前の自分も一生自分の影」であり、それを「一生背負って生きて」いかなくてはならないし、それを背負っているからこそ、「今日の私が間違っても」「変わってい」くことができるのです。

 さらに言えば夜姫もののぴも、過去にあった嫌なことから自分を守るために、自分で作り上げた殻に閉じこもっていた、という共通点がありました。

貴方は誰より傷つきやすくて 自分が否定された事実を受け止めきれなくて 自分を悪役として正当化した
…対外的にはね
(13巻 p35)

 という753による夜姫評は、

…そうだよね 君は悪くない
私がもう傷つかないように 嫌なこともずっと覚えてて 守ろうとしてくれてたんだよね
(6巻 p84

 という、ののぴ自身によるイマジナリーののぴの説明と同種のものです。
 悪役という悪口に違うと言って抵抗するくらいなら「そうだ悪役だよ」と振舞った方が傷は少なくてすむ。そうすれば、たとえ傷はつくにしても、どこが傷つくかわかるかいくぶん耐えやすい。そんな、自ら被った悪役という殻
 他人に近づいて拒絶されるくらいなら、初めから遠ざけて孤独のままの方が楽。だってそうすれば、結果は同じ独りでも、拒絶されたという過程がない分傷は浅く済む。そんな、自ら被った孤高という殻。
 二人ともよく似た殻をかぶっていたのです。

 ということで、夜姫とののぴの意外な共通点のお話でした。
 13巻発売をきっかけにまた最初から読み直して、本作のヒロインたち+奥村を改めて考えてみたら、物語のキャラクターが解決するべき過去について二つに大別できるのかな、というアイデアも湧きましたので、そのうちそれについても書きたいと思います。



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

新たな出会いと別れ ダイが世界に与える感動の予感『BLUE GIANT EXPLORER』5巻の感想の話

 人懐こいピアニスト・アントニオとの出会いと、なんちゃってエージェント・ジェイソンとの別れ。孤独のドライブと、レッスンの生徒たち。
 一人でアメリカに来たダイは、また新たに出会いと別れを得ました。そんな5巻。

 子供の頃からジャズクラブに出入りして、多くのプレイヤーに教えを乞うたりセッションをしたりと、積極的に他人から吸収しようとしてきたアントニオ。
 「一人でも多くのプレーヤーと合わせて学ぶ。俺にはそれしかなかった。」という彼は、「一人で吹いてたオレと真逆だ」というダイ自身の言葉どおり、今までの道のりだけでなくプレイスタイルも真逆。多くのプレイヤーから様々なものを吸収してきたアントニオは、その引き出しの多さゆえに、初めて合わせたダイのシリアスなソロにも難なくついていき、冷静にダイの音を聴きながらなおソロを下支えし、自身のソロもダイのプレイに合わせてシリアスなものに仕上げていきます。

 己を曲げられないダイの愚直でシリアスなスタイルとは真逆の柔軟性であり、様々な引出しを作った末に見いだした自分自身のスタイルも「根底から明るいサウンド」。やはりダイのシリアスさとは真逆と言えるでしょう。
 そんな二人を評したジェイソンの言葉は印象的でした。

なんだろう、この2人… 何かが少し似てて、何かがまるで違う感じがする…
色で例えるなら… 2人とも同系色………青は青だが…
アントニオは明るいターコイズブルーで、
ダイは濃く深いネイビーブルーか――――
(5巻 p24)

 本作は、ふとした時に挟まれる鮮烈な比喩が印象的なんですよね。
 音を出しようのない漫画というメディア、その上で二人のプレイをどう差別化するかというときに、ただ音楽のスタイルの違いだけでなく、楽しいとかシリアスとかいう言葉だけでなく、色というまったく違う観点からの比喩を用いる。
 明るいターコイズブルーと、濃く深いネイビーブルー。
 カリブの海を思わせるような底抜けの明るさと、宇宙まで沈んでいく夜の空のような遠い深み。
 中米出身のアントニオのらしさと、この巻で登場するシーンであるところの夜空を一人見上げたダイのらしさ。両名のキャラクターと非常にマッチしている比喩だと思うのです。

 で、そのダイが夜空を見上げたシーンもいいんですよね。
 延々と一人荒野を走る中、キャンプスペースで空腹を抱えて、焚火の横に寝っ転がって、見上げる満天の星空。
 まずダイは、人差し指と親指でわっかを作り、そこから星空をのぞきこみます。

オレがあの星だとしたら、
今まで知り合った人間とか、これから知り合ってく人間を集めても、多分この丸の中の数くらいだろうな…
(5巻 p70)

 自分の勝手さ。自分の矮小さ。未来の見えなさ。
 不安を抱えて大自然の中にただ一人でいると、ただでさえ育っている孤独が一斉にがのしかかってくるようです。
 でも、ダイはその孤独を飲みこんでつぶやきます。

まあ、いっか。
金もねえ、仲間もいねえ、何もかも置き去りで。――でも、
オレは前に進んでる。それしかないけど、それでいいべ。
アントニオあいつにシリアスすぎるって言われたのは、正直、ちょっと考えなきゃとは思うけど…
あとのことはみんないいべ。みんなを置いてきたけど、許してくれ。オレはこの空の感動も必ず持ち帰るから。
(5巻 p71)

 そう独りごちたあとの、視界いっぱいに広がる星空。ダイの指のわっかとは比べ物にならないくらいに、たくさんの星が彼の目の前にはばらまかれています。
 まるでそれは彼の将来を示すかのよう。
 ダイが生涯で会える人は指のわっかに収まる程度の数かもしれないけれど、彼の音に感動する人はきっと数え切れないくらい、それこそ星の数ほどの人を感動させることを予感させるシーンです。
 ネイビーブルーのダイのように深い夜空と、それを背景に輝く星々。とても象徴的です。

 5巻の後半では、辿りついたアルバカーキでサックスレッスンの代理講師の職を得ました。
 生意気な少年、未亡人、のんだくれのおっさん、まじめな少女。タイプの違う四人へのレッスンでダイは彼や彼女に音楽の楽しさを与えますが、同時にダイもまた彼や彼女から音楽の与えられました。
 ダイの初めてのレッスン。誰かに教えることは自分の理解を深めることにもつながるとはよく言われることですが、どう教えれば生徒が上達できるのか考えるダイにはその言葉が似つかわしく見えました。
 レッスンの休憩時間、生徒である未亡人・キャロルはダイに向かってこう言いました。

アナタはGiver与える人ね。
こんな言葉、聞いたことあるかしら。
If you give all,全てを捧げてる人には、you are given some.何かが与えられる。
アナタにはきっと、何かが与えられるんだわ。
(5巻 p163)

 このキャロルの「全てを捧げてる人」という言葉には、4巻でやったL.A.でのライブで、すべての力を振り絞った結果、演奏終了時にはステージの上で平伏するようにして疲れ果てていたダイの姿が思い出されます。
 スムースジャズが幅を利かせるL.A.の、それもロックのライブハウス。かつてはヨーロッパ最大級のフェスでも演奏したダイが、なんとか集めた20人にも満たないわずかな観客の前で、倒れこむくらいの渾身の演奏をしたその姿は、「全てを捧げる人」にふさわしい。
 そんな彼が与えられるものは何か。きっとそれは、言葉にすれば野暮なもの。少なくとも今はまだ。


 と、今巻も見せ場の多い本作です。
 心を揺さぶられ知らず涙がこぼれるようなエピソードはありませんでしたが、アントニオとの出会いやレッスン生徒の出会いなど、BONUS TRACKも含めてニコニコしちゃう巻でしたね。いとおもしろ。



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。