『ルックバック』以来、再び長編読み切りを上梓した藤本タツキ先生。
200pオーバーという大ボリュームでありながらページを送る指が止められず、更新された日曜深夜にあっという間に読み切ってしまいました。
さて本作、二転三転するストーリーや、どこまでがリアルでどこまでがフィクション(映画)かわからない構造など、内容面でも語るべきことはたくさんありますが、それは書籍で発売されてからじっくり考えるということで(電書だと腰を据えて読めない古の民)、今日はその演出上の話を。
本作で特徴的なのは、一読して分かる通り、ほとんどのページが同じ形の横長の長方形コマ4つで構成されていることですが、これは冒頭で示されているように、主人公のカメラ越しの視点を表しています。絵がぶれているコマが出てくるのは、手で構えているカメラの手ぶれですね。
この、ある意味では単調でつまらないとも言えるコマ割りですが、むしろ本作においては、このコマ割りこそが、読者の誘因に一役買っていると思うのです。
漫画のコマ割りの歴史を紐解けば、黎明期には本作の大部分と同様に、まったく同じ形のコマを等間隔で並べたものから始まりましたが、読者の視線誘導をしやすいようにコマの形や間隔に変化をつけたり、描きたい絵のために特殊な形にしたり、コマの形自体を表現にしたり、あるいはコマをキャラクターが認識してふるまうことでメタ的な面白さを導入したりと、様々な発展がみられます。
で、本作は上述したように、まるでかつてに戻ったかのように同じ形のコマが同じように続きます。それも、横に長い長方形という制約の大きい形で。
普通ならその単調さは退屈さを催しかねませんが、冒頭から、末期の母親を映像に残すという、ストーリー面のフックと、コマの形の理由を与えて読者を作品にとどめます。そこからさして紙幅をさかないうちに病院の爆発というあまりにも意外な展開で度肝を抜き、さらに今までの話が主人公による映画だったと明かして、読者が無意識に抱いていたストーリーに対する前提(母の死までを追ったドキュメンタリー)を転覆させました。
ここに発生した、読者の予想が裏切られたこととそれによる快。それこそが、単調なコマ割りにもかかわらず、あるいはだからこそページを送らずにはいられない原動力だと思うのです。
連続する単調なコマ割りは、画面上にも、読者の視線移動にも、一定のリズムを作ります。しかし読者は本作を読む中で、そのリズム、言い換えればこのまま続くであろうと予期しているものが簡単に覆されることを、ストーリー面からも、病院の爆発からも、早々に知ってしまっているのです。
それゆえ、ページを繰る内に読者は我知らず思います。またいつかこの予期が裏切られるんじゃないだろうかと。
予想・予期を裏切られること。それは快でもあり不快でもありますが、心に何らかの影響をもたらすことが作品の使命であれば、どちらに心が振れるのであれ、とても重要なことです。
単調なリズムによって刻み込まれる次のページへの予期(構図的な意味で)と、それが裏切られるのではないかというメタ的な予期(展開的な意味で)。さらに、現代の漫画でこの単調さが延々と続くことの違和感。予期と違和のみつどもえのせめぎあいが読者の心に緊張感を生み、その解放の欲しさもあって、ページを繰らずにはいられません。そしてちゃんとどこかで予期は裏切られ、違和も消えるので、緊張感の解放、カタルシスが起こります。それが楽しい、気持ちいい。
また、本作はジャンプ+での発表ということもあり、ネット、とりわけスマホによる読書を強く意識しているのではと思います。
実際にスマホで読めばわかるのですが、画面を指で送っても送っても、ほとどんのページは構成が変わらず、コマの中に描かれているものが変わるだけです。ページをめくるたびに視線が一瞬遮られ、視線もぶれる紙で読むよりも、スワイプだけでサッサッと絵だけが変わっていくスマホ読書では,単調なリズムが圧倒的に生まれやすいのです。電書だと腰を据えて読めない古の民である私でも、これを実感するために、本作はあえて電書でも欲しいなと思ってしまいます(当然紙も買います)。
もちろん、実験的でさえあるこのような手法を200p読み切りという作品で成立させるには、読者を引き込むストーリーや絵の強度など,それ以外の要素も不可欠です。それゆえに、これを成立させた藤本タツキという作者に、驚嘆せずにはいられません。一刻も早く紙書籍で出しやがれください。
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