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漫画の話です。

言葉は剣よりも強いか モンゴルに仇なす奴隷の刃はマルチリンガル『ゾミア』の話

 13世紀。それはモンゴルの世紀とも称されるほど、モンゴル族がおおいに威を振るった時代です。
 世にも有名なチンギス・ハンが初代モンゴル帝国の皇帝となったのが1206年。最盛期においては地球上の陸地の17%を支配したともいわれる強大な帝国ですが、当然、その拡大の過程には多くの暴虐がありました。古今東西、平和裏に進む国家の拡大などなく、元々その地に住まう者との戦火は必至、流れる血潮でもって版図を塗り潰していったようなものです。

 この物語の主人公・ネルグイは、塗り潰された側の人間。宿敵である金を滅ぼさんと軍を進めるモンゴル帝国の征路から生み出された、数多くの難民の一人です。
 1215年、モンゴル帝国と金の戦は一応の和睦を迎え、その地に留まる多くの奴隷と同様、ネルグイは労働に身を窶していました。しかし、彼が他の奴隷と違うのは、その類稀なる言語能力。契丹語、西夏語、ウイグル語、ペルシャ語モンゴル語etc……。当時のモンゴル帝国支配下で使われていた言語の多くを習得していた彼は、その能力から、金支配層と奴隷たち、そして異民族の奴隷間の連絡役を務め、若さにも関わらず金の官僚から優遇されていました。
 「ネルグイ」とはモンゴル語で「名無し」の意。なぜ彼がそんな名前を名乗っているかと言えば、本当の名前を忘れてしまっていたから。自分の本当の名前は、もう死んでしまった父母がつけてしまったそれのみ。もう死んでしまった父母とのつながりも、それのみ。だから、もしいつか本当の名前を思い出した時のために、自分は「名無し」でいい。
 比類なき言語能力に、状況を冷静に観察できる理性。奴隷の身にも関わらず、目をかけてくれた官僚から将来文官に取り立てることさえほのめかされる彼の資質ですが、時代はネルグイに安穏を許しません。
 和睦をしていたはずのモンゴルの裏切り。火計の奇襲により、金は瞬く間に滅びていきました。
 また別の奴隷商のものとなったネルグイ。しかし、以前と違うのは彼の心に灯った黒い炎。
≪殺されたところから生まれよ≫
 これは同じ奴隷だった盟友から教わった言葉。遊牧民であった盟友の部族に伝わる儀式の言葉。モンゴルの再侵攻によって生き別れた盟友から教わった言葉を胸に、ネルグイは再生と再起を誓うのです。

 こうして始まった本作『ゾミア』。13世紀初頭のアジアを舞台に、血と汗と涙と暴力が渦巻く世界で、マルチリンガルを武器に抗う少年ネルグイの半生記です。
 言語とは情報です。この世には数多の言語がありますから、グーグル翻訳もディープラーニングもないこの時代、知っている言語が多いことはすなわち、得られる情報の多さに直結します。
 言語とはコミュニケーションです。能く言語を操るものは、多くの人間と意思疎通でき、異なる言語を使う者同士を取り持つこともできます。知っている言語が多いことはすなわち、他者との交渉の優劣に直結します。
 言語とは思考です。人は必ず言葉でもって思考します。多くの言語を知り多くの言語を操ることは、他者の思考を理解することにつながり、同時に他者に自身の思考を浸透させることにもつながります。
 腕っぷしでも剣戟でも弓矢でも馬術でもなく、言語。いわば舌先三寸で困難を切り抜ける少年。それがネルグイなのです。

 しかし、いくら口先が回ろうとも、ほんの少しの失敗で命を落とすのがこの時代です。
 腐った食べ物。
 野犬による噛み傷。
 農作物の不作。
 疫病の流行。
 一本の流れ矢。
 権力者の機嫌。
 突然の死因はそこら中に転がっています。
 しかし、なればこそ、言語で、理性で、情報で、思考で己が道を切り拓こうとしていくネルグイの姿が、美しくたくましく見えます。再び奴隷になっても、奴隷商や身分を隠す貴人、襲撃してきた兵などを相手取って、その弁舌で窮地を切り抜けていく。いえ、切り抜けていくなんて表現できるほど器用なものではありません。刃先に裸足で立つように、電流流れる高所の鉄骨を安全ロープなしにわたるように、必死の思いで、決死の覚悟で、最善を尽くして死地をこじ開けていくのです。

 命の重さが現在とはまるで違う時代。昨日の敵が今日の友となり、今日の友が明日には骸になる、そんな時代。
 しかしてその時代に生きる中に、異端はいます。
 異端の言語能力。異端の交渉能力。異端の蓄財能力。異端の戦闘能力。
 出る杭は時に打たれ、時に新たな領域を打ち立てる。果たして異端の少年ネルグイが時代に打ち立てるものは何なのでしょう。
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