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漫画の話です。

『シン・ゴジラ』『シン・ウルトラマン』コミュニケーションが生むドラマと、私が求めた/求めていなかったものの話

 昨日は勢いのままに『シン・ウルトラマン』の感想を書き殴りましたが、端的にまとめれば、「損をしたとは思わないけど、期待していたものではなかった」というものです。
 じゃあその私が期待していたもの、『シン・ゴジラ』は百億万点だけど『シン・ウルトラマン』は60点ちょぼちょぼだった私が観たかったものって何なのか、それを改めて考えたいと思います。

 『シンゴジ』と『シンマン』。どちらも半世紀前後も前に封切られた古典特撮シリーズのリメイクであり、そしてまた、どちらのシリーズも私はほとんど観ていません。リアタイでとかではなく、作品自体を。
 そんな人間がなんでまずシンゴジを見たかと言えば、監督である庵野秀明監督のヱヴァシリーズが面白かったから。特に、一新された使徒との戦闘シーンなど、大規模戦闘の映像があまりにもよく、なにより『ヱヴァQ』と同時上映された「火の七日間」(とは明言されてないんだっけ)がすんばらしすぎたから。
 そう、私、ああいう映像が大好きなんです。
 物理法則も日常的な遠近感も無視して動く巨大な存在。
 崩れ落ちるビル。
 燃え盛る街。
 逃げ惑う人々。
 抗うことのできない圧倒的な破壊。
 まごうことなきカタルシス。そういうやつが。
 あの「火の七日間」に心打たれた人間が、同じ監督が作った怪獣映画があると聞いたら、勇んで駆け込まないわけにはいきません。そして、その中身は期待以上の百億兆点でした。

 『シンゴジ』で良かったのは、その圧倒的な映像はもちろん、破壊の巨大さに反比例したかのような、ゴジラに対する側の人間の個人のドラマの小ささです。
 当時の感想(『シン・ゴジラ』ミニマムな物語とマキシマムな映像の話 - ポンコツ山田.com)でも書いてますが、

およそ2時間の上映時間の中で、人間個人のドラマがほとんどなかった。いっそ絶無と言ってもいいくらい。ゴジラという怪物、生きる災害と対峙する、組織としての人間、集団としての人間、群体としての人間を描き続けていた。

 だったんですよね。当時賛否両論あったこの作劇ですが、それが私にはとても良かったのです。

日本国は、他者の悪意にではなく、意思なき自然災害に対するのと同じように、ゴジラに立ち向かうしかなかった。交渉の余地なく、ただ、全身全霊で抗うしかなかった。その必死さが煮詰められた物語だった。

 生き残るための必死さ。ただ一つの目標に向けた叡智の集中。個による救済ではなく、群による打倒。
 そういう物語が好きなのです。

 と、私にとって『シンゴジ』の魅力は「マキシマムな映像美」と「ミニマムな(個人の)物語」の二つに集約されるのですが、『シンマン』は、個人の物語が増やされた分だけ映像美が削られ、結果的にその両方が私にとって不満足な方向にいってしまったのです。

 ただ、二つの作品の構造を考えると、そうなるのも必然なのかもしれません。
 『シンゴジ』も『シンマン』も、人間たちが巨大な生物(非人間)と対峙するという点は変わりませんが、前者は人間vs怪獣、後者は人間&ウルトラマンvs禍威獣&外星人であり、その違いは、人間が非人間の存在とコミュニケーションをとれるか否かです。
 『シンゴジ』のゴジラは、「怪物」であり「生きる災害」であり、そこにコミュニケーションをとる余地はなく、人間は「意思なき自然災害に対するのと同じように、ゴジラに立ち向かうしかな」かったのです。
 だから人間、就中、当事者国である日本は、それに対してまとまることができた。交渉なんてできないから、力には力で対抗するしかなかった。相手の意図を察することはできないから、落としどころなんて見つけられないから、どうやってゴジラの活動を停止させられるかという、ある意味で効率だけを追い求めればよかったのです。

 でも、『シンマン』はそうではありません、禍威獣はともかく、ウルトラマンをはじめとする外星人と、人間は言葉を交わせます。コミュニケーションが取れます。心理的駆け引きも生まれるし、他の存在(日本にとっては諸外国、外星人にとっては他の外星人)に出し抜かれやしないかというおそれも出てきます。効率だけではすみません。
 心理的駆け引きやおそれには、「個」が出ます。個人の考えです。つまりは心の交錯や葛藤。端的に言えばドラマです。
 人のドラマがつまらないとは言いません。むしろ、多くの物語ではそれが醍醐味でしょう。ですが、少なくとも私にとって、『シンマン』とそれは食い合わせが悪かった。特に、禍特対の面々。
 『シンゴジ』の巨災対のような「はぐれ者、一匹狼、変わり者、オタク、問題児、鼻つまみ者、厄介者、学会の異端児など、ドがつくほどの曲者揃い」を集めた感じを出したかったのでしょうが、巨災対よりも人数が少ないこともあってか、人間ドラマに尺的にも時間を割きやすいこともあってか、各人物へスポットが当たる時間が相対的に長く、さりとてその内面が十分に描かれるほど長くはなく、結果として、中途半端な変人ぷりが浮かび上がり、悪目立ちする結果に終わってしまいました(個人的には、特に浅見(長澤まさみ)の物語への馴染まなさに醒めてしまいました)。
 禍特対のみならず、政治家の面々も、意思決定や対外星人との交渉が褒められるようなものとは描かれず、苦悩する現場と対比される無能な政治家然としていました。というよりは、そういうものを狙った可能性が大なのですが、私にはそれが効果的なものとは捉えられませんでした。上で「個人の物語が増やされた分だけ」と書きましたが、その増えた物語もできの良いものではなかったからでしょう。対比が生まれず、全体的に心の動きが平板な人間たち、という風に映ってしまったのです。

 二時間弱の映画の尺というのは標準的なものですが、映像美とドラマを両立させるには、少し足りないものであったのだろうというのが私の感想です。クライマックスでのゾフィがとウルトラマンが対話するシーンで、説明調の会話ばかり数分続いたのは、そうしないとウルトラマンの内心を説明しきることができなかったからでしょう。TVでの毎週放送とは違う、2時間の映画一本の中でウルトラマンの心情を説明臭くならず視聴者へ伝えるには、圧倒的に時間が足りなかったのです。

 人間と対峙する非人間が、自然災害のごとき意思なき意図なき大怪獣から、言葉の通じる巨大な、強靭な、圧倒的に進んだ科学力を持つ外星人に変わったのが、『シンゴジ』から『シンマン』への変化。そして、『シン』シリーズには、『シン・仮面ライダー』が控えています。
 まだその全貌ははっきりしませんが、原典を踏襲するならば、今度の登場人物はすべて等身大の人間になることでしょう。ライダーも、ショッカーも、怪人もみな、技術もサイズも人間の枠を出ないものに留まることが想像されます。言ってみれば、より、各当事者間でのコミュニケーションをとりやすくなった。言葉を交わしやすくなった。つまり、ドラマを作りやすくなった。
 映画館で予告編を見た時点で、正直かなり見る気力はしぼんでいたのですが、その理由を改めて考えてみれば、まさにおおむねこれまで書いてきたことの通りです。私が求める映像美は減るだろうし、求めないドラマが増えるだろうから。けど、ここまで書いたうえでまた考えてみれば、派手な特撮シーンに割く時間が減れば、その分ドラマを丁寧に描く余裕が生まれるのでは、とも言えそうなので、ちょっと揺れだしたところです。
 『シンゴジ』、『シンマン』とコミュニケーションのハードルは下がりましたが、さらに下がった等身大の物語となることが予想される『シンライダー』。さて、どうしましょう……



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