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漫画の話です。

笑いの暴力性

「笑い」とは、根本的に誰かを、何かを傷つけるものであると思います。

典型的に、テレビや舞台で見るお笑いの漫才やコントなどは、仮想的に作られた「傷つけられるべき人格」がボケをして、「傷つけるべき人格」がツッコミをします。
ボケはまず何かツッコマれるようなこと(常識の埒から外れるような行為、言動)をして、そこでツッコミがボケを否定(その非常識さの指摘)することで、ウケがとれる。それが基本的なお笑いの構造です。ツッコミ不在のシュール系のものもありますが(ラーメンズなどがその代表でしょうか)、それらもこのような基本路線を踏まえたうえでの踏み外しであるはずです。

これは一般人レベルでも、事情はそう違いません。
普通の人間は日常会話のためにネタあわせなどしませんから、その場で起きる笑いは偶発的なものとなります。この「偶発的」は、場全体の流れからの意味であり、笑いを実際に起こしたもの(多くは何かにツッコミをいれたもの)にとっては、反射的と言うべきものとなります。なにかボケが転がっていたから、すかさずそれをツッコんだ、ということです。これは、相当程度のネタあわせをしている、職業としてのお笑いとは一線を画す点です。
稀に、ツッコミがないまま笑いが起きるということが日常会話でありますが、それは、そのボケがそもそもツッコミを必要としないほどに常識から乖離していると考えられます。ツッコミという明示的な指摘がなくとも、その場の人間がほぼ同一の観念で以って非常識さを感じられる状況。それがツッコミ不在の笑いです。

ツッコミは、前述したように「非常識さの指摘」です。ときにそれは比喩の形をかりて行われ(タカandトシの「欧米か」のように)ますが、そのように非常識な行為を明言することで、ボケを聞いた人間に一定の解釈の道筋を作るのです。
ボケを聞いただけでは、それに対応できない聴衆は、単にその非常識さにそれぞれの漠とした違和感を覚えるだけですが、明言されたツッコミを聞くことで、そのボケの非常識さに共通の解釈が得られるのです。


ボケとツッコミによる笑いのセットは、ツッコミによって一つの流れにオチをつけるわけですが、そこで起こる笑いには二種類あります。つまり、ツッコミがうけたのか、ボケがうけたのか、です。

前者の場合、往々にしてボケは意図せず発露しています。ボケた本人はボケたつもりがないのだけれど、その場の常識に照らし合わせてみると非常識に映ってしまう。そのような時にツッコミを入れると、不意に訪れた意図せざるボケに対して皆が抱いた違和感に、ツッコミが上手く解釈の道を与えてくれるので、ツッコミが評価されるのです。つまり、突っ込んだ人が面白いのだと認識されます(このような意図せざるボケを重ねる人のことは、「天然」などと評されます)。
このときツッコミは、生身のその人間にむかってなされています。意図せずしてボケた人間のボケは、当人にとっては当たり前の行為であり、何で笑われるかが解っていません。ですが、なぜ笑われるかが解っていないにもかかわらず、確かにその行為の主人格はボケた人間であり、ツッコミの対象、つまり、ツッコミが傷つけたのは、そのボケた人間の生身の人格なのです。
それでも、笑われた人間がそのボケに無自覚であれば、ツッコミによって付けられた傷に気づきはしないのです。というか、自分が傷つけられたとは思っていないと言う方が近いのでしょう。
他の人間が自分を笑っている(傷つけている)ようだけど、何で笑われたか(どこを傷付けられたか)よくわからない。
当人としてはこのような感覚なのではないでしょうか。
これはその人間が痛みを感じないのではなく、痛みを感じるポイントが他の人間と異なっているのだと思います。


対して後者の場合、ボケは意図的に発されたものである場合が多いのではないかと思います。
それはつまり、職業的なお笑いの場であるということですが、一般人の世界でも面白いことを言おうとする人は、その成果は置いておいても、少なからずいるはずです。
そのような人間の目論見がダダ滑った時、それは殆どの場合は、そもそもそのボケが面白くないことに起因しますが、ごく稀には、ボケそのものの完成度が高いにもかかわらず、聴衆の解釈が届かないばかりに流されてしまう悲しい事態も起こりうります。つまり、ツッコミの不在による解釈の不一致です。
幸運にも、高度なボケを発した場に高度なツッコミの能力を有する人間がいると、その聴衆の瞬発的な解釈力がボケに釣り合っていなくとも、ツッコミの示した方向性により、ボケの解釈が容易になるのです。

そして、その場合の評価はボケに対して向けられることとなります。聴衆は、ボケの違和感に不理解を抱えてしまう一瞬の思考の空白に、ふっと聞こえるツッコミの解釈でもって、そのボケを理解できるのです。
ツッコミは、ある意味で一時的に聴衆と同じ立ち位置となります。つまり、ボケを解釈する立場に置かれるのは、ボケが発された瞬間では聴衆もツッコミも変わらないのです。
しかもそれが日常会話の場では、その位置関係はより同列におかれます。ですから、ボケに対してツッコミがなされた瞬間のツッコミの立場は、同輩中の主席と言えるのです。同じ次元ではあっても自分より上位にいる(ように見える)人間。それが日常会話の中のツッコミです。
そのようなツッコミに評価を送ることは、裏返せば、自分の解釈能力がツッコミに劣後していることに同意することであり、そのような悔しい感情に陥るぐらいなら、ツッコミの存在を意識せずに、ボケの人間の高度さを賞賛したほうが、自らの精神衛生にとっては有効である。
そのような思考が無意識のうちに聴衆に起こることはそれほど不思議ではないと思います。特に、自身の解釈能力に過剰な自負があり、またツッコミに対して対抗心がある場合は。

ま、それは穿ちすぎかもしれませんが、笑いはボケの解釈に成功して初めて起こるものなので、笑ったときにまず念頭にあるのは、ツッコミという解釈(の方向性)単体ではなく、解釈とセットになったボケであるはずですから、笑いの評価をボケが持っていくことになるのはごく自然であるといえます。

さて、このときのツッコミは、職業的なお笑いと同様、仮想的に構築されたボケ人格に向かってなされています。ボケた側は突っ込まれることに自覚的ですが(むしろ突っ込まれることを待ち望むわけですが)、そのツッコミが向かう先は仮想人格であり、生身の人格には傷一つ付けられていません(それは、ボケが「ボケ」であるという了解がその場で得られれば、という留保がつきますが)。ゆえに、いくらツッコミによって傷を付けられても、ボケている本人(自覚的にボケた人間)は痛痒さえ感じないのです。


さてさて、ではこのような幸運な場が出来上がっているとしましょう。高度なボケの人間と、高度なツッコミの人間。プラスするところの聴衆。ボケがどんなに無茶振りをしても、すぐさま突っ込んで解釈のよすがを与えてくれるツッコミ。それでうける聴衆。和気藹々とした楽しい空間です。
ですが、このときボケ側が話に出た何か、あるいは自分自身ではなく、その場の人間を直接的に傷つけるようなボケをしたとしたらどうでしょう。その場の人間の(意図するとしまいと)言動を指摘して笑いに変えようとした状況です。
もしツッコミが何も言わなければ、それはもしかしたらただの誹謗中傷で終わってしまうかもしれません。ただのちょっとした言い間違えや勘違いに過ぎないものをあえて論うことで笑いを取ろうとしても、それがボケとしてどれだけ高度で、あるいは面白かろうとも、聴衆の解釈が追いつかなければ、ただの粘着質な発言、で終わってしまいます。ですが、ここでツッコミがその解釈をその人間ではなく他の何か(現実にあるがこの場には関係ないものであれ、仮想的にしつらえた架空のものであれ)に向ければ、そのボケはその場の誰かを傷つけることなく笑いで以ってオチを付けられるわけです。

ではさらに状況を捻ってみましょう。
ボケが、ツッコミの言動を拾ってボケとしたらどうか。
ツッコミのできることは二通りです。解釈を他に逸らすか、自ら受け止めるか。
楽なほうは明らかに後者です。元々自身に関することを拾われたのだから、その言動が自覚的ではなかったとしても、後から気づくのは容易です。気づいた後に、素直に自分に突っ込むか、新たに解釈の矛先を作ったうえで解釈の道を示すか、どちらが簡単かは明らかでしょう。
日常会話でそんなボケをやられれば、よっぽど高度なツッコミ能力(それはもはや、本職以上の能力と言っても過言ではないでしょう)を有していない限り、ボケとツッコミで何よりも大事なテンポを優先するために、自分自身に向けてツッコミを行う羽目になります。

これで笑いが取れれば、場としては恙無くオチを向かえたと言っていいでしょう。
ですが、ツッコミの内心としては、それは素直に喜べることではないでしょう。
なにしろ、自分自身をツッコミの対象としたということは、自分自身を傷つけたということに他ならないのですから。
前出した「意図しないボケ」の場合では、突っ込まれた人間は傷ついたとは思わない、と書きました。それは、自らのボケに無自覚であるからです。生身の人格に傷を付けられたにもかかわらず、傷の感じ方が異なるために、傷を傷として認識しないのです。
ですが、この場合、ツッコミが自分自身を対象とするということは、ツッコミが自分自身の意図していなかったボケに自覚的にならざるを得ないのです。つまり、生身の人格に付けられる傷を認識できる、認識せざるを得ないということになります。

言ってみれば、このときのツッコミは我が身を削ってボケを成立させているわけです。
比喩的に言えば、ボケはナイフを突き刺す箇所にマーキングすることで、ツッコミは実際にナイフを突き刺す行為となります。ボケはツッコミの身体に丸を描いて、ツッコミは自ら身体にナイフを突き立てるのです。

勿論自らナイフを突き立てるということは、不意に刺されるのではない以上、それなりの覚悟は出来ます。
「覚悟があればどんな痛みにだって耐えられる」と言ったのは、「グラップラー刃牙」の猪狩完至だったでしょうか。それにしたって、「痛みに耐えられる」は「痛くない」とイコールではありませんし、「傷ついていない」とイコールでもありません。痛くなさそうなのはそうやせ我慢しているだけで、流れる血は見えないようにしているに過ぎないのです。いくら流血を隠しても、それが積もり積もれば出血多量でお陀仏にだってなりうるのです。


笑いというのは、それがもたらす肯定的な結果の印象からは程遠い、かなり暴力的なものであると思います。
笑いの影には、傷つけられている何か、誰かがある。それが架空のもの、仮想的なものであるならいいけれど、実際にその場にいる人間の生身の人格である場合に、笑いがその流血を隠蔽して、付けられた傷に他の人間が気づかないこともありえます。
とはいえ、笑っている真っ最中にそんなことに気を回す必要はありません。それはボケを潰す行為であり、同時に身を削った何か、誰かの痛みを無為にすることとなってしまうからです。
大事なのは、ボケる側こそが、「もしかしたらこれは、誰かに必要以上の傷を強いてしまうボケなのではないか」という配慮をすることです。
笑って終われば全て丸く収まるといえるほど、人間の心は簡単に出来ていません。人の心は、プラスとマイナスが単純に相殺できるようにはなっていないのです。

笑いの暴力性。笑うことは常に何かを傷つけているというのだということを、ふとしたときに考えてみてもいいかもしれません。






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