先日の『アオアシ』最終巻に寄せた記事にて。
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ここでは「想像を超える楽しさ」について書きました。曰く、想像力を持つことで人は成長できるが、その想像の枠を超えることで未知の面白さに辿り着けると。
ですが、ここでは言及していなかったことがあります。
すなわち、想像を超えた先を楽しむには、相応の準備がいるのだと。
バルサユース戦で印象的だった「想像を超えた」人物は、福田監督と栗林です。
福田は、目の当たりにしたバルサユースの実力に世界との差を痛感し、意気消沈しかかりました。
栗林は、バルサユースの猛攻の中、今までずっと一致してきた福田の思考をトレースできず、一瞬困惑しました。
二人とも、自分が今まで「想像」通りにやってきたサッカーの世界で、(作中の現在の時間軸では)初めて想像から外れた事態に見舞われたのです。
でも二人は、現実が自分の想像からずれていったとき、それに置いていかれるわけではありませんでした。
福田は、アシトから「やりたい手がある」と提案を受けたとき、今までになかった戦術(阿久津はリベロ、栗林はゼロトップ、アシトはフリーマンの司令塔)をアシトの発案と同時に思いついていました。
栗林は、アシトが発案し、阿久津も手探りで進めようとしている上記の戦術に、「未知の世界を見せてくれるんだな!?」と理解できないまま嬉々として乗ってきました。
福田にしろ栗林にしろ彼らには、想像の埒外のケースに出くわしても、即座にプランを出したり、対応するだけの能力がありました。そう、想像を超えた先を楽しむには、それに即座にアジャストできるだけの蓄積が必要なのです。
この逆のケースとしては、たとえばアシトや冨樫、大友が初めてAチームの練習に参加したときのこと(12巻)。
ついに認められたと喜び勇んで参加した彼らは、Aの人たちはどんなにすごいもんなんだろうでもきっと食らいついてやるぞ、と自分の想像の中のAチームを基準に練習にへ臨みました。しかし蓋を開けてみれば、自分たちとAチームの能力の差に愕然とするばかり。想像を超えた先にあったものに対応できるほどのなにかが無かったために、練習後の冨樫や大友は俯きっぱなしでした。
そんな中、アシトだけは違いました。持ち前の空間認識能力に加え、Aでの練習以前から習慣にしていた首振りによる状況把握のおかげで、多少なりともAチームについていけたということもありますが、そもそも自分が下手だという思いの強かった彼は、できない自分を素直に受け止められ、その意味で、自分の現状が「想像の外」ではなかったのかもしれません。足下の技術は低くとも、状況把握能力の分だけアシトには想像の先に対応できるものがあったのかもしれないし、そもぞも想像が冨樫や大友よりも広かったのかもしれません。
でも、そんなアシトが船橋学院戦で出会った、トリポネという世界基準のフィジカルを持つプレイヤー。想像を超えてきた彼の圧力は、自分の限界を超えられるかもしれないという自分への期待に酔ってしまったアシトから冷静な思考を奪い、最悪の一つ手前のプレイを選択させたのです(ちなみに最悪のプレイは、怪我をしてもかまわないとつっこむ強引なスライディング)。そのときのアシトには、想像を超えてきたトリポネに対応できるものがありませんでした。
この苦渋を味わったアシトが「あんな惨めな思いは、もうしたくねえ」と「守備の意識をまっさらな状態からやり直す」と意識改革を始めたのは、言い換えれば、今まで「本当に楽し」く試合に臨めていた想像力をいったんぶち壊して、より大きな想像力の枠を作るようにしたということです。
想像力を駆使して臨めるのは楽しい。その想像を超えたものに出くわせるのはもっと楽しい。でもそれを楽しむためには、相応の準備がいる。
ところで話の矛先は変わりますが、この「想像の先の楽しさ」、私の趣味のジャズでも感じるものなんですよね。
『アオアシ』とジャズのアドリブの共通点は以前も記事にしましたが(『アオアシ』サッカーとアドリブの、言語化の先の身体化の話 - ポンコツ山田.com)、アドリブというのはたいていの場合、メインの楽器がソロをとり、それをリズム隊(ドラム、ピアノ、ベース、ギター)が支えるのですが、アドリブ楽器がソロをとっている一方で、リズム隊はただリズムを刻んだりコードを鳴らしたりするのではなく、ソロのフレーズに応じて、ドラムはシンバルを入れたり、ピアノやギターはは合いの手の音を変えたり、ベースはコードラインを変えたり、全体で勢いを盛り上げたり抑えたりしています。
で、それを聴いてまたアドリブ楽器のフレーズは変わっていくのですが、思いもよらなかった(でもかっこいい)合いの手を入れられたりしたときに、そこでキョドってしまってアドリブが散漫になるのか、その面白さを受け取ってよりソロを盛り上げていくのか、それはソロプレイヤーの懐の広さ次第なわけです。
十分な想像力があれば、様々な合いの手にも余裕を持って対応できるし、引き出しが多ければ、想像の外の合いの手にも面白がって新しいフレーズを追うことができる。ここにもまた、想像力と、その先にのために備えるものが必要になります。
まあ正直こんな話は、私のことよりも『BLUE GIANT』シリーズを読んでもらう方がウン百倍も面白く実感してもらえると思うんですがね。
とまれ、想像を超えた先にあるものを楽しめるのか、それもとも打ちひしがれるのか、そういうところを見てみるところで、キャラクターの内面がまた深く読めるんじゃないかなと思いましたですよ。
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