以前、『よつばと!』についての記事で、漫画におけるコマ送り技法について書きました。
「よつばと!」に見るコマ送り技法のニュアンスの話
そこでは、「「地」を動かさずに特定のキャラだけを大きく動かす、いわゆる「コマ送り」の方法は、子どもであるよつばの動作の分解を際立たせるには、とても都合がよ」く、「世界を新鮮な目で見るよつばに読み手が同調する効果的な手法」と書きましたが、記事の最後で、それとはまた趣を異にするコマ送りの使い方についても触れました。すなわち、よつばの行動を細かく分解するためではなく、ギャグのためのコマ送りです。書くだけ書いて保留にしたままずっと塩漬けになっていたのですが、最近ばらスィー先生の『苺ましまろ』を読み返したら、この方向性のコマ送りが多用されていたため、そちらから考えてみようと思います。
- 作者: ばらスィー
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2009/02/27
- メディア: コミック
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(5巻 p19)
(5巻 p92)
(6巻 p7)
(6巻 p55)
このように、背景=地=視点をほとんど動かすことなく、キャラクターのみを動かすことで、ある種の面白味を生んでいます。では、それはどのような面白味なのか。一言で言ってしまえば、シュールな面白味、などといった掴み所のない言葉に回収されかねないのでもうちょっと考えてみます。
皆さんの手元にある漫画を読めばわかるとおり、漫画はコマが移動するごとに視点が移動するのが一般的で、それがなぜかといえば、視点が固定され続けるとキャラクターの移動、会話劇、画面の奥行き、場面転換など、様々な面で不都合が生じるからです。ギャグシーンでもそれは例外ではなく、ボケ→ツッコミ(周りの反応)の流れの中で、特に発話の順番やその場に居合わせたキャラクターの反応を適切に描くために、視点の移動は行われます。
(弾丸ティアドロップ 1巻 p61)
この例では、最初の2コマは視点を動かしていませんが、以降のコマでは頻繁にカメラが動き、会話進行のスムーズさ、キャラクターの反応の描写につなげています。
ということは、裏を返せば、視点を動かさないギャグの流れには、コマ内での新たな情報の増加(キャラクター登場/退場、場面の移動など)がほとんど見られず、会話進行、キャラクターの動作にパターン化が生まれるという事になります。『苺ましまろ』の例を見ればわかるように、会話の進行や動作に明確なパターンが発生しています。
パターンの発生。それはリズムの発生と同義です。音楽の場合リズムは、経時的に並べられた音の集合の反復と言えます。エイトビートやサンバのリズムなどがそれで、一音だけではリズムは生まれず、また集合一つだけでもリズムとは呼びがたい。ある集合が連続して繰り返されることで、それはリズムと認識されます。漫画の場合、コマ一つが音の集合一つに相当しますが、上で挙げた『苺ましまろ』の例はほぼ同じ構造を持ったコマが連続して並んでいるために、そこにリズムがあると言いえるのです。
コマの構図というリズムの中に存在する、絵やセリフというメロディ。コマ送りの中ではそのメロディの変化が非常に小さく、あたかもミニマル・ミュージックの如き様相を呈します。
一定のリズムが続いている中でのメロディの微細な変化は、その微細さゆえに受け手の意識を強く惹きます。受け手に強くひっかかるのは、大袈裟な変化よりもむしろ、他がほとんど変わらない中での小さな変化なのです。繰り返し変奏されるメロディは、その中に潜む異質さを増大させます。コマ送り的に進行するギャグのやり取りは、受け手の虚を突く形から、瞬間的・突発的な勢いを持つ一般的な笑いとは違って、反復の中の微細な異質さ・ゆがみを増幅させ、波の共振のように、次第に盛り上がる中でふっと臨界点を越えるような笑いを引き起こすのです。それがこの場合の「シュールさ」と言えるのではないでしょうか。
また、このようなリズミカルなギャグは、いわゆる「てんどん」ネタとの類似性を考えることもできるでしょう。いつの間にやら市民権を得た感のある「てんどん」、これは、同じボケを何度も繰り返すことで受け手に次のボケの反復を予測(期待)させ、それが実際に起こることで、送り手と受け手の間にある種の笑いの共犯関係を立ち上げるものですが、これを成功させるにはボケを繰り返すリズムが肝要です。受け手が次のボケを予測する→実現する、の流れがテンポよく行かないことには、共犯関係は成り立ちません。反復性が重要となる形式では、その反復が到来するリズムが受け手にすんなり馴染まなくてはいけないのです。
コマ送りによる笑いには、もちろん長所と短所があります。長所とは、一般的なギャグとは違う笑いの生じ方により生まれるコメディの緩急、そしてコマ送り自体のリズムによる読み手の体感的な引き込みです。後者は、音楽のリズムと同じ効果ですね。
そして短所は、まさにコマ送りの根幹であるリズムの一定性に由来するのですが、多用することによるリズムへの慣れ、すなわちマンネリ化です。リズミカルとマンネリズムは、実は非常に近しいものです。なにしろリズムはある形式の反復なのですから、慣れが容易に生まれてしまいます。一つの話の中で多用することは、危険です。
また、リズミカルなコマ割をすると、その一連のコマの中に入れられる情報が非常に限られたものになります。コマの流れでリズムを生むには、何度も書いているように、そのコマ内の構造を同一のものとしなければなりません。そのため、コマ内の情報は、最初に描かれたコマとどれも大差なくならざるを得ないのです。より多くの情報を入れようと思えば、コマ内の構造に変化を来たし、リズムが薄くなってしまいます。つまり、限られた紙幅でストーリーを進めなくてはいけなく、一つのコマあたりの情報量が非常に多い漫画というメディアにおいて、コマ送りの多用は、ストーリーの停滞に繋がりかねないのです。
世界を新鮮な眼差しで眺める子どもに同調するためのコマ送りと、一定のリズムを作ることである種のシュールさを生み出すコマ送り。他に効果があってもおかしくありません。漫画の表現とは、なんとも奥深いものですね。
ということで、わりと久しぶりな「コマ割」についての記事でした。すっかり忘れていた二年前の宿題を果たせたぜい。「シュールさ」というものに一つの形を与えられたのはよかったですまる
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