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漫画の話です。

『アオアシ』未知との遭遇 初めて気づかされるもの 想像力を超えた先にある楽しさの話

 最終巻となる40巻が発売された『アオアシ』。

 この先を見たい気持ちは起こりつつも、育成をテーマに描くのであればここでこう終わるのがベストだという判断は間違いないところ。当初は描く予定のなかったというプロ練習編も、育成の先を示すものとして、描いて良かったエピソードだと思います。

 さて、作品の最終戦となったエスペリオンvsバルサユースの戦い。終盤になってついに本性を露わにしたデミアン率いるバルサユースの猛攻にエスペリオンの面々が心折れかけ、監督である福田すらも勝ち方でなく終わり方を模索し始めたそのとき、ファウルで試合が止まったタイミングでアシトは福田に問いかけました。

――オッチャン、超えた?
バルサ――... オッチャンの想像…超えた?
(39巻 136p)

 問われた瞬間福田は、その言葉をどう受け取ったでしょう。今までずっと彼を導いてきた自分にすら手に余る、想像すらしていなかった事態。それに困惑していることを見透かされたのか。それを見透かしてしまったアシトの心が折れてしまったのか。しばしの逡巡の後に福田は苦渋と共に肯定しますが、意外なことに、アシトの反応は喜びと感謝でした。

それって…初めてだ。
だって...ずっと、オッチャンに出会ってからずっとオッチャンの世界で、オッチャンの想像の中で…俺サッカーやってきたと思う。
そこから出られた。これが…世界!!
俺は、飛び出せた…!!
ありがとうオッチャン。約束を守ってくれて…!!
(39巻 137、138p)

 アシトの喜悦。それは飛び出せたこと。日本から世界へ。福田の想像の中から枠外へ。

 想像。それは様々な場面で登場する、『アオアシ』を象徴するタームの一つですが、この「想像を超える楽しさ」というのも折に触れ登場します。

 そもそも物語の最初の最初の第1話。たまたま墓参りに行っていた福田はアシトが出場している試合を目にし、その後にふとした気まぐれで、彼にアドバイスをしました。が、数時間やってもアシトはそれを身につけられず、見切りをつけようと福田はアシトに再び話しかけたのですが、そこでのアシトの言葉に度肝を抜かれました。なんとアシトは、その日の試合の最後の得点シーンで、フィールド上のプレイヤーすべての位置を把握していたのです。
 初めはちょっとしたグッドプレイヤー程度としか思わなかったアシトが、実はたぐいまれなる能力を持っていた。自分の想像を超えたアシトに福田は興味を覚え、彼なら世界を目指せるかもしれないとエスペリオンに誘い、物語はそこから始まりました。
 想像を超えたことこそ、この作品の出発点だったのです。

 他にも、プロで活躍するエスペリオンのベテラン司馬。海外でも活躍できたであろう彼は、後進の育成のためにエスペリオンに骨を埋めていますが、そんな彼は言います。

現役20年の俺にとって… 育成において、「至福の瞬間」があった。
何十人、何百人と見てきた中で... その至福の瞬間はごくわずか。
教えてきた選手が、俺の想像を超えてきたときだ。
(30巻 79~81p)

 プロの練習に初参加したアシトが、初日では散々だったにもかかわらず、二日目にはもうプロのやり方にアジャストしてきました。そこまでは司馬の想像の範囲内。今までにもこいつは伸びると思った選手は、アシトのように格上の人間相手にも臆すことなく主張をしてきた。そこまではわかる。そんなやつはこれまでもいた。でもアシトはわずか三日目に、司馬から別のアイデアを引き出した。経験の蓄積と特殊な脳の構造から、考えるまでもなく視るまでもなく、ベストなプレイを選択してきた司馬に、新たな選択肢を選ばせた。
 そんなアシトのプレイと練習後の言葉に、司馬は気づかされました。

俺が教えてると思っていた。
でも本当は、俺の想像を超えていった、あいつらに――
俺は教えられてきたんだ。
(30巻 106、107p)

 これに気づいた司馬は引退を撤回し、現役の続行を決めたのです。想像を超えたアシトのプレイが、司馬にサッカーの楽しさを再び燃え上がらせました。

 また、高校生でありながらプロの試合に参加し、エスペリオンユースの中でも隔絶した存在感を放つ栗林。彼にとって同年代のプレイヤーのほとんどは相手にならず、プレイもやりたいことも見透かすことができました。見透かせるということは、想像の範疇だということ。日本のユースでのプレイは自分の想像の枠を超えない。そう達観していたも栗林も、日本を離れたバルサ相手ではそうもいかず、たとえ一対一では負けなくとも、11人対11人のサッカーというゲームで勝てるとは限らない。実際、バルサ戦の後半、デミアンに引っ張り上げられたバルサメンバーの猛攻になす術がありませんでした。
 打開策も想像できず、敗北という想像がリアルに頭をよぎりだしたそのとき、福田から届いた指示は、栗林の想像の埒外、そうするとなにがどうなるのか、さっぱりわからないものだったのです。

初めて… 福田さんと思考が一致しなかった…!!
なんだ…!? 一体どんなサッカーをしようというんだ。青井…阿久津!?
(39巻 19p)

 今まで福田の指導の下で成長してきた栗林は、その過程で福田の思考を追えるようになり、作戦も十分に理解して試合に臨むことができていました。しかしこのとき初めて追えなくなった福田の思考。アシトと阿久津はそれに同調できているのに。
 栗林だけでなく、敵も味方も、アシトと阿久津以外のすべてが混乱した状態で阿久津がゴールを決めて一点差。混沌未だ続く中で、その困惑を承知の阿久津からの目の訴えに栗林は何を思ったのか。

『そんな顔すんじゃねえよ、栗。こっちも手探りなんだよ。
だが、乗ってくれ。お前が乗らねえと、全員が乗らねえと、バルサの野郎どもを仕留め切れねえ。
理解できねえと思ってもこの作戦… 俺と青井にのってくれや。栗…!!』
「喜んで。」
(39巻 86~88p)

 自分の想像を超えた試合。それを味わえる戦術に、栗林は嬉々として乗っかりました。

違ったものが見れるんだな!?阿久津、青井、お前達が見せてくれるんだな!?
あいつじゃなく… 同じチームのお前らが、未知の世界を見せてくれるんだな!?
(39巻 91p)

 今までずっと栗林は、自分が世界のトップで活躍するところを想像して、それを逆算するように練習も試合もそれ以外の日常生活も取り組んできました。ある意味で、すべてが未来に通じる想像の中。でも、それから外れるものを仲間が見せてくれる。知らなかった自分の力を引き出してくれる。それが、とても楽しく思えた。

 想像力とは力です。
 監督はそれがあるから、試合の戦術を事前に立て、それに基づいてメンバーを決め、試合中に修正できます。
 指導者はそれがあるから、教え子達にあった指導をして伸ばし、あるいは限界と判断すればそれを通告できます。
 選手はそれがあるから、相手の裏をかき、相手の行動を阻み、周りを動かし、試合を作ることができます。
 想像力が強ければ強いほど、それらがより適切に行えますが、想像から外れたことを見ることが少なくなります。
 すべてが想像の内。それは物事が思い通りに行く楽しさでもあり、同時に物事が思ったとおりにしか行かないつまらなさでもある。だから、それが裏切られることもまた楽しい。自分の知らないことに出会える。思いも寄らなかったことを味わえる。未知との遭遇は恐怖であり、同時に愉悦。

 想像することの強さ。そしてそれを超えることの楽しさ。ある面でそれは、「育成」の要でもあるものです。想像するから監督は指導ができるし、選手は成長できる。想像を超えるから、監督も選手も、それまでの枠を超えたものを得ることができる。
 アシトも福田も栗林も、想像を超えたものに出くわしたとき、身を震わすほどの喜びを得ていました。彼らはその先に、今まで出会ったことのない何かがあることを知っているから。

 漫画のカタルシスも、想像力の先にあるものです。この展開はどうなるのか、ハラハラしながら読み進め、たとえ結末をなんらか想像していようとも、そこに至るまでの道のりに心を奪われていれば、そこはもう想像の外側の世界。
 そういうものを味わわせてくれる漫画というのは、とてもとても、すばらしいものです。

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