笑いについて、過去から現代にいたるまで多くの知の巨人たちがさまざまな論考を残しており、もちろんその大半、どころか1%も読めてはいないだろうけど、その寡聞の中で私は、河合隼雄氏の、何かを対象化し、対象の中に見出したズレを楽しむ、というもの*1が、私の考えに近いのかなと思います。
同氏は、ホッブズやパニョルの「自分が対象に対して「突然の優越」を感じるときに笑いが生じる」という考えを踏まえた上で、「筆者としては「優越感」と言ってしまうのは少し限定が強すぎる感じもする」として、「優越とまでゆかなくても、対象の中に見出した「ズレ」の感じを楽しむ」ものが笑いであると主張しています。
念のため付言しておくと、より正確には、行動である「笑い」ではなく、多くの場合で「笑い」を発生させる元となる「おかしみ」という情動についてではありますが、「おかしみ」を生み出す「ズレ」について、私なりにまとめてみます。
ズレとは
まず、ズレという以上、ずれる前に存在したそもそもの何かがあるわけですが、それが何かというと、日常であったり、世間であったり、想定であったり、常識であったり、文脈であったり、そういうものですが、それらをまとめれば、「ある人が無意識のうちに、無自覚のうちに当たり前と思っていること」です。
ある人の主観の中で、当たり前に思っている状況の中で、それから逸脱することが起こる。それがズレです。思いもよらなかったことが思いもよらなかったところで起こる(存在する)から、おかしみが生まれるのです。
別の言い方をすれば、「(本当は)○○のはずなのに××」という認知が起こると、おかしみが生まれるともできます。
日常の例でいえば、学校の授業中にクラスメートのお腹が鳴るとか、道を歩いていたら前の人が滑って尻もちをつくとか。
前者は、みな真面目に授業を受けるべきときのはずなのに、勉強への集中という状況から外れる、腹ペコを意味する腹の虫の鳴き声が聞こえる。
後者は、通常の歩行をすべきはずの場所なのに、めったに見られない振る舞いが起こる。
いずれにせよ、「○○ではこうあるはず(べき)」という思い込み、当たり前と思っていることから逸脱した出来事が発生することで、おかしみを覚えます。
おかしみを消すもの1
ここで一つ付け加えるべきことは、そのズレが発生したとき、観測者には一定程度の余裕が必要である、という点です。観測者が過度の緊張状態にあったり、危険が迫っていたりすれば、おかしみを感じられる余裕はありません。
上の例でいえば、授業を受けている人間に近々重大なテストが待っていれば、腹の虫に笑うより、授業の邪魔をするなと怒るかもしれません。前を歩く人が突然包丁を振り回して叫びだせば、その行動がどれだけめったに見られない振る舞いであろうと、おかしみどころではなく、恐怖が湧きおこります。
ズレにおかしみを覚えるには、余裕がなければいけないのです。
おかしみを消すもの2
また、そのズレが一定程度を越えて大きい場合にも、おかしみを覚えることはできません。
ズレからおかしみが生まれるのは、観測者の思い込みという土台が十分に強固な状況だからで、そこから適度に外れるたものが出るから面白がれるのですが、もしこれがあまりにも大きなズレであれば、観測者の土台を根底から揺るがしてしまい、安定した精神活動を保つことができません。
たとえばツッコミの少ないシュール系のコント。最初はげらげら笑いながら見ることができていても、それがシュールの色を薄めぬまま進んでいくと、次第に笑いを通り越してうすら恐ろしくなったことはないでしょうか。クラスメートや友人がふざけている様子を、初めのうちは面白がっていたのに、それが長時間続くと、不気味に思えたことはないでしょうか。
自分の常識や日常(つまり思い込み)が安定しているからこそ、誰かや何かの思いもよらない振る舞いを、非常識なもの、非日常なものと面白がれるわけで、その思いもよらない振る舞いが延々と続き、あたかもその振る舞いこそが普通であるかのような思いが兆してしまうと途端に、自分の安定していたはずの常識や日常が不安定なものに感じられてしまうのです。
今まで自分が正常な側で異常なものを笑っていたはずなのに、ひょっとしたら自分こそが異常の側なのではないか。そう思えてしまったら、もう笑うことはできません(ちなみに、ズレた状況が続いても、自身の安定に脅威を感じない場合には、単純にそのズレに飽きが出てしまい、別の意味でおかしみを感じなくなります)。
個々人に拠るズレ
さて、「○○なのに××」の、「○○」にしろ「××」にしろ、それらの解釈は常にだれからも同一というわけではありません。「○○」が、観測者にとっての日常であったり、世間であったり、想定であったり、常識であったり、文脈であったりするわけですが、上述したように、それはどこまでいっても思い込み。もう少し穏当な言い方をすれば、主観でしかありません。もちろん「○○」に対する間主観的な一致は、日常のほとんどのシーンで見られますが、それはあくまで、すぐには問題が発生しない程度の一致に過ぎず、細大余すところなく完璧な一致ということはあり得ません。
個々人には知識や経験に差がありますから、同じモノやコトを観測しても、それそのものに対する、及びそれの周縁に付随する意味情報も少しずつ異なってきます。少し前にネットで見かけたイラストで、同じリンゴを見ても、「赤い」や「甘酸っぱい」としか思わない人もいれば、「Apple music」「椎名林檎」「青森県」「白雪姫」など、より多くの連想を働かせる人もいる、というものがありましたが、そんな具合です。
ですから、同じある状況に出くわしても、何らおかしくない普通の状況だと思う人もいれば、そこにズレを見出す人もいます。一般的には、ある状況やモノ・コトから、複数の解釈を導き出せる人の方が、おかしみを感じやすいと言えるでしょう。解釈に幅(選択肢)があれば、ズレを生じさせる解釈を見つけ出せる可能性が高まるからです。
たとえば『へうげもの』で、古田織部が和睦を進める羽柴の使者として徳川の歓待を受けるシーンがあります(4巻 第三十六席)。織部を連れた使者として宴席に同席した織田長益は、武辺者の徳川方よりも、数寄者の羽柴方に価値観を同じくしていたため、野暮な徳川方の歓待の仕方を苦々しく見ていたところ、織部は、途中までは長益同様、否、それどころか怒りさえ感じていたのですが、途中で腹を抱えた笑いに転じました。
彼は徳川方の振る舞いを「ただ阿呆になって騒いでおるのが滑稽なのではなく……余裕をひけらかさんと命懸けでひょうげているのがおかしいのだ」と分析します。そして「この笑いの質は斜めに見ずばわからぬもの」と内心でつぶやいていますが、「斜めに見る」とは、通常とは異なる解釈をするということです。つまり織部は、その場に負の感情を抱いていた、同じ羽柴方の長益とは異なる解釈を得たことで、おかしみを生じさせたのです。
笑いの攻撃性
ところで、笑いには攻撃性があるということはしばしば指摘されますが、それを、ズレがおかしみを生じるという観点からまとめてみます。
上述のように、観測者の思い込みからズレた事象を認知することでおかしみは生まれますが、それは、何かがあるべき状態から逸脱すると捉える、ということです。
あるべき状態。つまりは、正しい状態。正常な状態。そこから逸脱したということは、ズレたものは、正しくない状態、異常な状態に陥ったということです。
そして、当然、何かが異常な状態に陥ったと判断する側、すなわち観測者(=おかしみを感じる者)は、構造的に、正常な側にいることになります。少なくとも主観的には。
他者を異常と疎外し、自身を正常の側へ置くことは、自身を有利なポジションに置くことであり、おかしみを感じた対象を相対的に不利なポジションへ置くことになります。
つまり、何かを笑う(おかしみを覚える)ということは、正常な自身を優位に立たせ対象を異常と低める精神活動であり、その意味で、本質的に攻撃的であると言えるでしょう。ですから私は、冒頭で述べたホッブズやパニョルの「優越感」という意見も、おかしみの一側面を表しているものであると考えます。
とりあえずこんなところで。
*1:対話する生と死(1992)「笑いの心理」