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漫画の話です。

二度美味しい物語の味わい方  〜「情報を抜く」〜

最近買った、鬼頭莫宏先生の短編集「残暑」。タイトル作にしてデビュー作の「残暑」は1987年発表の作品でした。
それが描かれた当時の私はまだ4、5歳。そこから20年を経て、今年で25になる私がこの度初めてこの作品を読みました。
このように、発表された時期と実際に読んだ時期に大きな開きがある場合、その作品を評価することはかなり難しい気がします。

この20年の間に、風俗、世相、社会情勢、思想潮流はそれなりに変化してきました。当時は当たり前だったことが今では変な眼で見られたり、逆に、当時の夢物語は現在の日常風景になっていたりします。
例えばこれは「残暑」の中の1コマですが

このような服装をした若者が現在の街にいれば、奇異の視線を浴びせられるのは避けられないでしょう。
また逆に、今風の格好をした人間が20年前に迷い込めば、後ろ指を差されることを覚悟しなければなりません。

掌に収まるような通信機で遠隔地の人間と会話が出来るなどと言うことは、当時の人間にはドラえもんに頼るべきレベルのことですが、今では小学生でさえ携帯電話を持っています。さすがに、チューブの中を走る電車の登場には、もう少し時間が必要のようですし、アトムもまだ生まれていませんが。

世相にしても、当時は高度経済成長からの押せ押せムードの絶頂であるバブル景気に突入したばかり。ネコも杓子も投資投資で、カネと労働のありがたみが急速に薄れていった時代です。それがバブル崩壊、「失われた10年」とやらの平成不況、ワーキングプアの増加、根を下ろした拝金主義、「格差社会」の出現と、この20年で経済のベクトルはまるで反対になってしまいました。

これらは広く社会的な話ですが、漫画の世界でも技法・画風の変化、世代の交代、出版業界の潮流など、当時からは思いも寄らないことが現在では起こり、また、今では誰もしないようなことも当時は行われていました。

で。
現在「残暑」を読んだ私は、そのような変化の中にいながら成長してきたのです。
もちろんちみっこだった私は、そのような変化に理屈をつけたりできる(=自分に説明させられる)わけもなく、それどころか、変化に自覚的ですらありませんでした。ま、そりゃ当たり前と言えばこの上なく当たり前の話ですが。そんなことに自覚的な小学生なんてイヤ過ぎます。
ですが、自覚的ではなくとも、その潮流の中にいたことは確かであり、その潮流の中にあった漫画を読んで育ってきたのも、紛れもない事実です。

潮流に無自覚に浸って成長したということは、それは漫画のあり方、変化に無批判の状態で読み続けてきたということです。そのような読み方で以って成長期を過ごした以上、私の中で血肉と化している「読み方の構造(construction of thinking how to read)」は、間違いなくその時期の読書体験が基盤になっています。
つまり、「残暑」を発表当時の世相に沿った読み方をする、1987年に今の24歳の自分がいたらどのように読むかと想像するには、現在の自分の「読み方の構造」をいったんまっさらにした上で、改めて発表以前の社会的、漫画的状況を勘案する必要があるのです。

これは、橋本治的に言う「情報を抜く」という技法です。
橋本治先生といえば、高校の国語の便覧で「枕草子 桃尻語訳」の著者として書かれていたと思いますが、名前は知らなくとも、「とめてくれるなおっかさん 背中の銀杏が泣いている 男東大どこへ行く」というコピーのライターだといえば聞き覚えがある人も多いんじゃないでしょうか。
特に「情報を抜く」の詳細については、内田樹先生のこちらのエントリー(情報を抜く)を読んでもらいたいんですが、短くまとめれば、時代、あるいは属性が離れた人間の思考をトレースするには、その時代、人間の情報を得る前に、なによりまず「今の自分」が持っている情報をカッコに入れる必要があるということです。

これが、なまじ自分の手の届くところの人間、時代の作品であると、情報を抜くことが疎かになりがちになってしまいます。
これは自分も知っていることだから。自分も体験したことのあるものだから。
こう考えてしまうと、思考のトレースには大きな歪みが生じてしまいます。
自分が当時知ったことは、体験したことは、今その「そいつ」が知ったこと、体験したことと同一であるとみなしてしまう。これは危険な予断です。人間に身についている思考様式の構造(construction of thinking)は、自分で考えている以上に普遍的なものではなく、環境、時代に大きく依存しているのです。特に、社会の分化が不健全に進展すると、集団の思考様式の均質性が高くなり、「自分の考え方は特殊なのではないか」という疑念が兆しにくくなってしまうのです。


とまあちょっと話が迂回しましたが、こういうことで私は「残暑」の評価に二の足を踏んでしまっているんです。はたして自分はまっとうな情報の抜き方が出来ているのだろうかと。
別に今現在、24歳の自分の感覚で評価を出してしまってもいいっちゃいいのでしょうけど、なんだかそれは申し訳ない気がします。というか、面白さを上手く味わえていない気がしてしまうのです。もし上手いこと情報を抜くことが出来るのなら、今の自分と、当時の自分、二種類味わえて二度美味しいってことになれるじゃないですか。
もうちょっと前から、そういうことに思いを馳せられていたらなぁと、死んだ子の歳を数えずには入られません。

リンクを貼った先の内田先生の授業では、「情報を抜いて五年前の日記を書く」という課題が提出されたそうです。まったく神戸女学院の生徒が羨ましい。





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