高校2年生にして剣道日本一を達成した少年・高砂シン。その大会からの帰り道、快挙の達成とは裏腹に剣道をやめようと決意した彼の目の前に現れたのは、編み笠をかぶった小柄な辻斬りだった……
百鬼夜行。それは、見れば死ぬと言われている妖怪達の大行進。人には恐怖でしかないそれも、当の妖怪達にとってはたまに行われる楽しさしかない大騒ぎ。百年ぶりに行われるそれに参加する妖怪を選抜するために、今、百鬼夜行実行委員会が組織された……
収録作は、剣道に飽きた天才剣道少年ミーツ剣道に飢えた天才剣道少女の『ミナソコ』と、百鬼夜行前夜から当日に至るまで、妖怪達がどうわくわくしているかを描く『百鬼夜行実行委員会』。短編集と言いつつ実質2作品しか収録されていないのはご愛敬ですが、この2作品が、コトヤマ先生の違った方向にある二つの魅力を表した、いい作品なんです。
じゃあその二つの魅力とは何かって話ですが、端的に言えば、思春期の繊細に尖った心と、軽薄そうな楽しさの裏に隠れている心の底からの底抜けで開放的な楽しさ。『ミナソコ』には前者が、『百鬼夜行実行委員会』には後者があります。そして、それらをテンポよく読ませるコミカルさもまた、コトヤマ先生の魅力です。え? 魅力が三つだって? 野暮なことは言いなさんな。
『ミナソコ』では、剣道に倦んだ天才少年と、女だからという理由で強さを認めてもらえない天才少女が剣を交えるのですが、その両者は剣道に対して、まっすぐであるが故にねじれてしまい、本気であるが故に外道に逸れてしまう、そんな危うさがあります。
かたや天才少年は、剣道しかやってこないまま埒外な能力と順当な評価を得て、慢心と表裏一体の空虚を抱いてしまう。
かたや天才少女は、剣道しかやってこないままに埒外な能力と不当な評価を得て、絶望と表裏一体の空虚を抱いてしまう。
互いに埒外な能力を得たまま、それとあわせて得た評価は正反対で、そして抱いた感情は同じもの。
二人とも、剣道が好きには違いない。でも好きすぎて、その思いをうまく練れない、研げない、磨けない。脆いままに尖ってしまう。感情の種類は違えど、そんな狂気さえ孕む心の危うさ、不安定さは、前作『よふかしのうた』でも多く登場しますが、その描き方がいいんですよね。魅力です。
尖った心を剣にして、二人が交わすものは何か。少なくともそれは、言葉ではない。だって二人は剣道しかやってこなかったから。言葉で説明できるものは、二人の剣の間にはない。交わしている本人達も、それが何かよくわからない。
二人が言葉を交わすのは、剣を交えたその後で。じゃあどんな言葉を語るのかと言えば、なんてことない普通の言葉。でもその普通さこそが、尖った気持ちが少し磨かれた証し。張り詰めた、というよりも引き攣れていた二人の間の空気は少し緩んで、空虚はわずかに埋められました。あからさまに過ぎない救いの種が、読後に安堵の芽を出してくれます。
『百鬼夜行実行委員会』は、『ミナソコ』よりずっと馬鹿らしさのあるお話。百年ぶりに開催される百鬼夜行のため、ぬらりひょん、猫娘、座敷童の三人(?)が、実行委員会として百鬼夜行に参加しようとする妖怪達を選抜するのですが、オーディションとは名ばかりで基本的にみんな合格。だってこれはお祭りだから。妖怪達みんな、祭りを楽しむために駆けつけてくれたんだから、それをはねるなんて野暮はできません。
名ばかりオーディションを、面倒くさい大変だと(主に猫娘が)ぶつくさ言いながら6日間かけてこなしていき、そして迎えた百鬼夜行当日。選抜された妖怪達はもとより、シード枠の大妖怪の方々も参加して、山から街から夜っぴいて練り歩くのですが、その絵が圧巻です。がしゃどくろや泥田坊といった巨大な妖怪が闇夜の山から突如として現れる様や、誰もいない都会のど真ん中に一匹のすねこすりがぽつねんとうずくまる様は、ポスターにして飾っておきたくなるほどにぐっとくる絵です。
街を練り歩く妖怪達の馬鹿騒ぎ的な楽しさと、それを遠目に眺める実行委員会として尽力した猫娘と座敷童のやれやれ一息ついたぜといった安堵の楽しさ。無意味なコメディかと思わせる一連のオーディションのシーンから、その無意味な諧謔こそが肝要なのだと気づかされる、開放的で解放的な享楽のシーン。それが最後のページの最後の台詞で、不条理なまでに清々しく幕を引かれる(むしろ帳は開かれるのですが)のがとても気持ちいいんです。
これ一冊でコトヤマ先生の魅力がギュッと詰まっていますので、入門編としてもオススメ。同時発売の『よふかしのうた 楽園編』は、さすがに本編を未読で読むわけにもいかないので、『よふかしのうた』全20巻を読んでからにしてほしいですね。
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