以前も別の読み切りについて感想を書いた横谷加奈子先生の新作読み切り『富めるひと』。
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9歳のときに余命一週間と突如宣告された自分のため、3億円かかる手術の費用をどうにかして賄おうと貧しい両親が宝くじを買ったらまさかの10億円当籤。無事手術は成功し、両親は余ったお金で投資をして財を成したため、一転勝ち組人生になった主人公・関口真広は、何不自由のない生活を送りながらも虚しさを抱えながら生きていたが、あるとき、引きこもりにならないためにとしていたバイト先で、苦労人の大学生・森谷と出会う…
というところから始まる物語。
冒頭3pのキッチュで雑なスピード感のつかみが強くていいのですが、その急展開の後にじりじりじわじわと進んでいく関口の心の動きがいい意味で息苦しく、思わず喘ぎながら読み進めてしまいます。
さて、そんな本作について回ると感じる言葉が、作中にも登場した「やましさ」です。この言葉は本作のみならず、前作の『遠い日の陽』を読んだときに感じていたけれども言葉にならなかった感覚を表してくれたものでもあります。
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やましさ。辞書的に言えば、己の振る舞いや在りように対して内心で良心が咎めてくる感覚、とでも言いましょうか。
道で困ってる人を見て見ぬ振りしちゃったなーとか、今日やるべき仕事に手を付けられなかったなーとか、ダイエットしてるって言ってるのにアイス食べちゃったブヒーとか、人ひとりを破滅させてしまった人間がこんな幸せに生きていいのだろうかとか、やましさを感じたことは誰しもあるでしょう。卑近な例から人生について想い馳せてしまうレベルまで、やましさは様々な次元でついて回ります。
『富めるひと』でこの言葉は、関口が森谷に対して「やましい興味」を持った、というかたちで使われています。やりたいこともほしいものもないのにお金だけはある関口が、大学を休学してお金をためている苦労人、「自分と同じ年で明るくて真面目で一人暮らしをしてて節約のために野草を採って食べてる人」であるところの森谷に対して抱くのが「やましい興味」なのです。
ここで彼が単なる興味でなく「やましさ」のある興味を抱いている理由は、容易に想像がつくでしょう。苦労もなくやることもなくただ生きているだけの自分が、苦労をしながらも楽しさを見つけて生きている彼に対して興味を持ってしまうことが申し訳ない、自分みたいな人間がそんな風な思いを持っていいのだろうか、という良心の咎めです。
でもおそらく、関口がやましさを覚えたのは、森谷に出会ったからではないでしょう。きっと彼は、偶然あたった10億円で自分の命が救われた日から、ずっとなにがしかのやましさを抱いていたのです。
自分が何か特別なことをしたわけでもないのに命が助かってしまった。命が助かるに足る何かを自分が持っているわけではないのに。なぜ自分が生き残ってしまったかわからない。
突然余命一週間と宣告され、舌の根も乾かぬうちに高額手術を受けて奇跡的に生還。そして裕福な生活へ。ある種、理不尽もと言える生還劇を潜り抜けてしまったせいで、彼は自分が生きていることそのものに対して、内心で良心が咎めてくるのです。お前はそんなに価値のある人間なのかと。生きているに足る人間なのかと。
そう思ってしまうのは、彼がまだ年端もいかない子供だったから、というのもあるでしょう。9歳で突然余命一週間と言われてもまるで実感はなく、周りが大騒ぎしているのをまるで他人事のように見ていたら宝くじが当たって手術を受けられることになり、そのまま他人事のように救われてしまった。
この心の在りようは、彼の両親が宝くじを当てた以降の生活を悠々自適に満喫しているのと対照的です。両親は、我が息子に突然余命を宣告され、それをなんとかするために一縷の望みで宝くじに賭け、それが当たり息子生還、以降も投資で資産を増やし、不自由ない生活で暮らそうと色々動きました。
そんな能動的、我がこととして動いた両親は、宝くじという天から降ってきた幸運も「なんとかしようと動いた結果だ」と思えたため、そこにやましさを覚えずにいられるのです。息子を救おうとした自分たちの行動の見返り、応報として宝くじ当籤を受け止められたのです。
自分の行いとその後の出来事に十分釣り合いがとれている。そう感じていれば、人はやましさを覚えません。
とにかく関口は、己の在りようにやましさを覚えていたはずです。でも、詳細は作品に譲りますが、特に「やましい興味」を抱いた森谷と付き合いを深めることで、そのやましさを少しずつ薄れさせ、「虚しさはあまりなくなっていった」という状態まで自分を持っていくことができました。
そんな森谷との別れが、言えなかった謝罪と、謝礼の言葉だったのは象徴的だなと思いました。なぜって、『遠い日の陽』でも、やましさ(「うしろめたさ」の方がより似つかわしい気がしますが)を抱いていた主人公が、その感情を薄れさせてくれた写真の主・チヒロに、やり取りが途絶えた以降の自分がどうであったかという手紙を送ったのは、「今ならお礼が言えると思」ったからです。
やましさとは、内心で咎めてくる良心の感覚です。それが薄らいだということは、自分の行いや在りようとその後の出来事の不均衡が解消されたということですが、それは最初の行いや在りようがなくなったということではなく、不均衡をまた水平に近づける何かができたということです。傾いた天秤の皿の片方をいじるのではなく、別の皿を増やす、とでも言いましょうか。前の出来事をなかったことにするのではなく、それを超える価値のあることを新たにできたということ。いわば贖罪。相手が罪の当事者でなかったとしても、むしろ当事者ではないからこそ、因果が巡り巡っていく時間と関係の先で新たな価値を得られたことに、礼を言いたくなるのです。
なんというか、横谷先生の読み切り2作品からは、誰もが抱えるやましさとその薄れさせ方について深い示唆があるように思います。一度抱えたやましさは、その直接の出来事をなかったことにすることで解消されるのではなく、傾いた天秤をまた元に戻してくれるような価値を別のところから得ることで薄れさせられるのではないでしょうか。
なんかこの空気感がすごい好きな先生なので、また別の作品読んでみたいですね。
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