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漫画の話です。

くたばり損ない同士、最初で最後の恋『束の間の一花』の話

 高2の春、私こと千田原一花は余命2年だと宣告された。人にはそれを言わないと決めた。私自身も病気を気にしないように努めた。不思議と、あまり怖くも悲しくもなかった。
 親に無理を言って、普通に大学受験をして、合格したら大学に通うようにした。宣告された2年は過ぎ、病気は着実に進行していっても、私はまだ死ななかった。ちょっとしたくたばり損ないだけど、それはひょっとしたら、萬木先生のおかげかもしれない。
 大学生初日、萬木先生に助けられた私は、先生に恋をした。先生の講義を履修した。先生の研究室へお邪魔した。先生が好きだった。先生が生きる希望だった。
 でも、大学2年に進級するとき、先生が学校を辞めていたことを知った。私は何も知らされていなかった。気づけば、余命宣告の年は1年前に過ぎていた。
 失意に始まった進級から3か月。私は偶然、先生を駅で見かけた。これを逃してなるものかと、慌てて先生の後を追って、久しぶりの会話をした。先生は先生のままだと思った。変わらず優しかった。でも、変わらぬ優しい顔で、先生は言った。
「突然やめて悪かったね…学校 もう続けられなかったんだ 病気で… くたばり損ないってやつなんだ――」
 どうやら、くたばり損ないの私が好きな人も、くたばり損ないだったらしい――

 ということで、タダノなつ先生『束の間の一花』のレビューです。
 完結巻が1年前にでている本作をなぜ今レビューなのかと言えば、まさかのドラマ化の報に接したから。
natalie.mu
 完結当時にレビューを書く機を逸してしまっていたので、今回改めて書いてみようかという次第です。

 冒頭に書いたあらすじのとおり、本作は、大学生の少女・一花と、大学の哲学講師・萬木(ゆるぎ)とのラブストーリーです。そして、どうあがいても引っかからざるを得ないのは、一花も萬木も、余命幾許もない人間だということです。
 だからこれは、余命宣告の年から1年が過ぎた少女と、もう長くはないことを告げられた青年。くたばり損ない同士、いつ死んでもおかしくない二人の、神様も奇跡も登場しない物語なのです。

 本作の見どころはなんといっても、自分の死を覚悟している二人の心の描写です。
 もう自分は長くないと知っている人間が恋をしたとき、どうするのか。
 そして自分が好きなその人も長くないと知ったとき、どうするのか。
 そんな二人の恋の先には何があるのか。二人の恋には意味があるのか。
 生きる意味。恋する意味。
 それを、身を刻むような痛みと一緒に考えざるを得ない二人の姿に、心揺さぶられるのです。
 
 かたや、能天気ともアホウとも言える一花。若くしても余命宣告をされても、彼女は不思議なほどに動じるところを見せません。

「…みんな そんなに悲しまないで 2年なんてあっという間じゃない…」
「あっという間じゃ困るでしょうが!!」
(1巻 p4)

 これは余命宣告された直後の、一花と家族の会話です。もちろん最初の発話者が一花。
 能天気やアホウといった自己評価では済まないような一花ですが、「余命数か月と言われて何十年も生きる人もいるし…考えたって楽しくない」と、諦めなのかポジティブなのかわからないスタンスを信条としています。
 だから、余命宣告をされようと恋をするし、恋をした人のところに押しかけるし、なるべくハッピーでいようと心がけている。

 かたや、もう長くないことを医者に告げられてからは、淡々と後始末を始める萬木。
 もともと勉強好きだった彼でしたが、大学在学中に祖母が死に、両親が死に、若くして天涯孤独になってしまい、ただ「先生になる」という夢だけが残りました。そして26歳の時の哲学の講師となり夢はかない、学生のショーペンハウアーハイデガーなどの死の哲学を教えていましたが、ほどなくして病気も発覚。中身をなくした夢の抜け殻のように、機械的に身辺整理をして、ただ死を待つのみの身となっていました。

 死を前にして、生を謳歌しようとする少女と、生を静かにたたんでいこうとする青年。対照的な二人ですが、一花の熱烈なアタックにより、冷たく凝っていた萬木の心もほころび、二人とも幸せを感じるようになっていきました。
 でも、死が近づけば近づくほど二人は同じ思いに駆られるようになります。
 それは、この恋に意味はあるのか、という問い。

 人は誰でも死にます。誰もそれから逃れることはできません。
 でも、人は幸せになろうとするし、恋だってします。それは、いつ死ぬかわからないからです。1年後かもしれないし、10年後かもしれないし、明日死ぬかもしれない。それがいつ来るか知れないないからこそ、人は死から目を逸らすことができるのです。
 じゃあ、それがもうわかっている人だったら。明確にいつとはわからなくても、せいぜいが1年かそこらの内に、確実に死んでしまうことがわかっているなら。

 意味がないことはありません。生きているうちは、幸せなら楽しいです。嬉しいです。でも、すぐそこに死が見え隠れしているときに、果たしてその幸せを手放しで喜べるでしょうか。「どうせもうすぐ死ぬのに」という暗い思いが頭をもたげてくることを止められるでしょうか。死が近づけば近づくほど、あるいは幸せが大きければ大きいほど、幸せに差す影は濃く、暗く、大きくなるのではないでしょうか。

 物語の中で二人が近づけば近づくほど、二人の幸せは大きくなります。そして同時に感じてしまうのです。思ってしまうのです。この恋に意味はあるのだろうかと。この恋は私を、そして目の前の人を救えないのだろうかと。

 この物語の結末は最初から決まっています。どうとは言いませんが、決まっているのです。
 でも、結末が大事なのではありません。そこに至るまでに二人が何をして、何を思ったのか、それを目に焼き付けてほしいのです。

 この物語を読み終わると、ハッピーエンドとは何か、ということを考えます。
 ハッピーエンド。幸せな結末。
 物語には必ず終わりがありますし、人にも必ず終わりがあります。では、物語がハッピーに終わることはあっても、人がハッピーに終わることはあるのでしょうか。
 若人の死は不幸なのでしょうか。
 不慮の死は不幸なのでしょうか。
 余命を宣告された死は不幸なのでしょうか。
 誰にも必ず訪れる死は不幸なのでしょうか。
 死ぬ前に恋をした二人は、不幸だったのでしょうか?

「未来はないけど! 今があります!!」
 これは作中のセリフです。
「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」
 これはハイデガーの言葉です。
 死を思い知った二人が実感している今という名の生を、どうか最後まで見てほしいのです。
comic.pixiv.net

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