ちょっと前にtwitter上で、三等兵(@santohei)さんと「天才」についての話をした時に、三等兵さんが「「天才を孤立から防ぐのは《友達》と《仲間》」」ということを仰っていて、その言葉からふと考えたのが、バレエ漫画『昴』の主人公・宮本すばるの人間関係です。
- 作者: 曽田正人
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2000/06
- メディア: コミック
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1巻から順に追っていけば、まず登場するのは、すばるの双子の弟である宮本和馬です。わずか8歳で悪性の脳腫瘍を発症し、記憶障害、意識の混濁が日に日に悪化し、病室を一歩も出ることができませんした。そんな彼が記憶や意識を呼び戻せるよう、すばるは毎日何時間も、人や動物、日々のワンシーンを和馬の前で演じ続けていたのですが、一年後、回復することなく彼は亡くなってしまいました。
すばるが和馬を前にするとき、常に彼女は我が身を切られるような切迫感に晒されていました。
どんどんねてる時間が長くなる。
きのうも…おとといも…
もうかずまはあたしのこともわかんないのかも……
もう今日こそ ダメかもしれない…………
(1巻 p29.30)
いつまで生きられるのか/いつ死んでしまうのか。彼女が弟の前で踊るダンスの裏には、そんな恐怖がいつも隠れていたのです。
後述する、すばるの最初の師となる、キャバレー「パレ・ガルニエ」の社長にして、かつては日本トップのバレリーナだった日比野五十鈴は、すばるから聞いた当時の情況を評してこう言いました。
あの子は、すばるはね。自分の踊りをわかってもらえなくなったら、いよいよ弟は、手の届かないところへ行ってしまうと思ってた。
“死”だよ。今日、上手くやり通せても、また明日……
双子の弟さ、自分の分身… 本能的に、己の死に限りなく近い感覚 を感じている毎日だったろう。
サダ、あんたさ、“これで生きるの死ぬの”ってダンスをしたことがあるかい?
(2巻 p154,125)
和馬自身になにか特別な才能があるようには描かれていません。少なくとも描写の上では、彼は「天才」ではありませんでした。ですが彼は、すばるがダンスで多くの人々を魅了するために必要な資質、即ち、生死の縁での集中力を与えました。彼を前にしたすばるの踊りは、日比野五十鈴曰く“最高の環境”だったのです。この「生死の縁での集中力」は、自他の生死を問わず、何度となく彼女の内で顕現します。
さて、続いてはその日比野五十鈴です。一見すればただのキャバレーの社長でしかない彼女は、その実、とんでもない経歴の持ち主でした。彼女がエトワール(オペラ座のバレリーナの頂点)として踊ることを夢見た世界最高峰のバレエ団、パリ・オペラ座は東洋人が入団するなどまずありえなく、それは「歌舞伎の舞台に西欧人が上る」のと同じほどに荒唐無稽なことなのですが、彼女はそのバレエ団に東洋人で初めて、入団試験の受験資格を与えられたというのです。ですが彼女は、実技以前の身体適性検査ではねられてしまいました。“祖母が太っていること。骨格と祖母の体形により、イスズ・ヒビノは30代以降90%以上の確率で、肥満体形になる”という理由で。
日比野五十鈴は、確かに才能がありました。日本最高峰のバレリーナ。「天才」と呼んでも不当でなかったでしょう。ですが彼女は、「祖母の体形」すなわち血筋という「神の視点」からの選別と淘汰に漏れてしまいました。いわば挫折した「天才」、過去の「天才」なのです。
彼女がすばるに教えたのは、バレエの基本もそうですがなにより、「神の視点から選別と淘汰がなされる」バレエという芸術の在り様なのです。
次にすばるの師として登場するのは、若手のバレエの登竜門として名高いローザンヌコンクールで彼女が受賞できるよう、五十鈴に頼まれすばるを教えることになった、元ボリショイ・バレエのトップスター、イワン・ゴーリキーです。五十鈴は、イワンがすばるを彼の愛弟子・カティアに対する当て馬とするべく上達させようとするのを承知で、指導を頼みました。五十鈴の、そしてイワンの思惑通りにすばるは、クラシックのみならず、今まで経験のなかったコンテンポラリーダンスでも著しい成長を見せました。
誰かを「いけにえ」にしてまで、弟子のカティアを成長させようとしたイワンの思惑。それは、自分のベスト・パートナーを作ることでした。
祖国の英雄的芸術家の称号。各国の名門バレエ団に招かれ踊った幸福な日々。私を見て、人は何不足ないダンサー人生だったと言うだろう。
だが…
違う!! 私はキャリアの終焉が近づいた今日まで、ベスト・パートナー恵まれることはなかったのだ!
いつも何かを抑えていた 。私はまだ、全身の血が沸騰するような舞台を知らない!!
ついにこの私を、灰も残らぬ程燃え尽きさせてくれるであろう才能に出会えた………………
カティアよ! 現在16歳……ギリギリだ。神がかり的な成長を遂げたとしても、私のパートナーとして、プリンシパル級のダンサーになるまでに2年……
それでもいい。最後の1年だけ、共に舞台に立てれば……!!
私の望みはそれだけ……
(4巻 p49、50)
彼もまた「天才」の一人です。けれどその実感は、彼自身にはありませんでした。どんなに賞賛を浴びようとも、「全身の血が沸騰するような舞台を知らない」自分に、彼は満足していないのです。その満足を得るために、一人の前途有望な人間の未来を潰してしまうことになろうとも、愛弟子カティアの成長に賭けたのですが、それは成就することなく、ついには当て馬だったはずのすばるにこそ、自分の残りのバレエ人生を委ねようとさえ考えたのです。
彼がすばるに教えたこと。それは、フリーのテクニックのみならず、芸術(ダンス)に魅入った/魅入られた者の見せる非人間性でした。すばるが、自分は当て馬として育てられていること(=バレエが、それだけのことをしても賭けたい芸術であること)、自分が生死の境(自他問わず)でも踊ってしまう人間であること、自分にはどうしようもなくバレエしかない人間であること。これらは、イワンと五十鈴の共犯関係で教えられたもので、しかもそう意図したものではなく、偶発的に教えてしまったことですが、イワンと五十鈴という二人でなければ、すばるが知ることはありませんでした。
彼女の師と言い得る存在として、この三人を挙げてみました。面白いのは、すばるがこの三人の誰とも、思いがすれ違ったまま別れてしまったということです。
すばるの弟・和馬。不治の病だった彼に両親は意識を割かれていたため、すばるは割りを食い、和馬のために踊るという献身性を見せながらも、同時に親の愛情を得られない不条理さも感じていました。その鬱憤が爆発し、「かずまなんかいなきゃいいんだッ!!」と叫んでしまった時、もうほとんど目を覚まさなかった和馬がたまたま意識を回復しており、それを聞いてしまっていました。その直後に和馬の容態は急変、最期の最期に意識を回復して、「すばるちゃん、ごめんね」とその場にいなかったすばるに言い残し、亡くなっていきました。本心ではありながらも、絶対言ってはいけなかった言葉。本心ではあっても、絶対認めてはいけなかった言葉。それを和馬に聞かせてしまい、謝ることもできずに永の別れとなったすばるでした。
彼女の師・日比野五十鈴。ローザンヌのために渡欧するすばるを、検査入院から退院した直後の五十鈴は激励しますが、それに対してすばるは言います。
…おばちゃん、一緒だよ。
今までだってあたし、どこかで喜んで迎えられたことなんてなかったよ。
あたしはどこの国の人でもない。だから今までと一緒だよ。
(4巻 p55,56)
覚悟と寂しさを滲ませそう言ったすばるは、空港へと旅立ちますが、その後姿を見て、五十鈴は涙を流します。
今までと一緒…
喜んで迎え入れられたことなどない……か…
なんて哀しいことを言うんだい…… アタシがどれだけアンタのことを……
すばる…
あのしょっちゅう泣いてた子がこんなに…… アンタはもう大丈夫だね。
あんたは強い!
頑張れ!アタシの娘よ!!
(4巻 p57,58)
五十鈴の愛情を拒絶するようなすばるの言葉でしたが、五十鈴はそんなこと関係なく、すばるに我が子のような愛情を抱いていました。
異国の地でバレエを踊るすばるですが、日本では決勝直前に五十鈴が危篤状態に、そのまま持ち直すこともなく急逝しました。それを最悪の(あるいは最高の)タイミングで知ったすばるは、今まで五十鈴から受けた恩義や愛情、これが最期の別れになるとも思わず口にしてしまった言葉を思い出し、絶望的な悲しみに沈むのです。なぜ自分は、生きている五十鈴に感謝を伝えられなかったのか。なぜ退院直後の五十鈴のことをもっと慮れなかったのか。已むことなく後悔しても、死んだ五十鈴にはもうそれを詫びることができないのです。
ローザンヌの師、イワン・ゴーリキー。決勝でのすばるの踊りを見て、彼女に残りのバレエ人生を賭けようとした彼。ですが、コンクールのために五十鈴の状況を意図的に隠蔽し、すばるは「できるのは踊ることだけ」の人間、自分と「同じ種類の人間」だと言ったイワンを許すことができず、すばるは彼と決別しました。
イワンの言葉に怒ったすばるですが、彼の言葉は間違いなく的を射ていました。40℃の高熱を出し朦朧とした意識の中、バレエに見放されることを何よりも恐れた彼女は、「バレエしかない」ことを否定できるわけがないのです。その意味で、イワンはすばるのことをよく理解していました。ですが彼女は、イワンに背を向けました。
空港での別れのシーン、ガラス越しに叫ぶイワンの言葉は、すばるに何一つ届きはしませんでした。すばるのことと、そして勿論自分のことと、両方を考えながら本心からすばるを呼び止めた彼の言葉を、すばるはもう別世界のものとして、顧みなかったのです。
すばるは幼少期から、能力の点でも人格の点でも、「天才」と呼びうるものとして描かれていますが、それでも足りないものは常にあります。自らに不足しているものを与えてくれたもの。師。それは、冒頭に引用した「《友達》と《仲間》」という関係とは異なります。その関係に対して、「天才」であるすばるは、常にすれ違って終わります。「天才」としての能力の違いなのか、人格の違いなのか、世代の違いなのか、濃度の違いなのか(まあ和馬は天才ではないですが)、確かに袖が触れ合い近しいもの・親しいものを感じながらも、最終的には離れて終わっているのです。
師は、「天才」の孤独を埋める存在には当たらない。それでは、「天才」の「《友達》と《仲間》」とはどのようなものなのか、ということを、後編では考えてみたいと思います。
追記;ということで、後編です。
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