ポンコツ山田.com

漫画の話です。

『逃げ上手の若君』アニメでわかる、漫画にこめられた濃密な情報量の話

 『逃げ上手の若君』のアニメが始まり、連載デビュー作から3作全てがアニメ化という偉業をあっさり成し遂げている松井優征先生、やっばいすね。

 そのアニメを視聴したのですが、1話を見た感想は「丁寧に作っているな」というもの。なんというか、動きやセリフに余白というか間(ま)を感じました。で、その後に原作1話を読んでびっくりしたのは、情報量が濃密だということ。コマの中の絵の密度だったり、セリフ量だったり、展開の速さだったりと、1話50p強を読んでこんなに疲れるものかと思いました。そんな情報量の話をアニメ1話分でやったのだから、余白や間を感じるというものです。
 さて、その情報量、すなわち漫画だからこそ詰め込める情報の密度にもう少し着目してみましょう。
 たとえば、時行が諏訪重行と初めて会うこのシーン。

(逃げ上手の若君 第1話 19p)
 暑苦しいまでの絵の密度もさることながら、

「噂通りの逃げ上手でございますな!!」
「わーっ」
「お初にお目にかかります時行様! 信濃国の神官諏訪頼重と申しまする!!」

 この掛け合いを実際に演技しつつ読み上げてみる(脳内でも可)と分かるように、時行が聞き取れる程度のスピードと十分な間でもって、相手の反応を見ながら頼重のセリフを言おうとすると、思った以上に時間がかかります。漫画(絵)であれば、現に読み上げる以上の速さで読み進められる分量でも、アニメ(音声を含む動画)では、それを現に口にするだけの時間が必ず必要になるのです。

(同上 22p)
 このシーンも、頼重がゴニョゴニョブツブツ呟いてるセリフは、漫画ではその文字の多さ・フォントの小ささも考えれば、読み流し前提のギャグとして書いていることがわかりますが、アニメではちゃんと口にしなければなりません。そこそこ時間がかかる。

 たとえば、稽古を嫌がる時行が指南役から逃げるシーン。

(同上 10p)
 追いすがる手をかいくぐるこのシーン、つまり空間内を三次元的に大きく動き回るシーンを、漫画では効果線を使うことで、1つのコマだけでも「そのような動きをしている」と思わせることができますが、アニメではなまじ絵を動かせるので、時行の逃げ上手を表すため、ひょいひょい逃げ回る彼をその逃げている分の時間を使って表現しています(実際アニメでは、屋根の上を走り回ったり飛び降りたりと、時行は原作以上に縦横無尽に逃げ回ります)。
 頼重が時行を崖から蹴り落した「では死になされ」のシーンや、2話での伯父・五大院との「鬼ごっこ」のシーンも、非常に贅沢に時行を動かしていますね。

 このような、文字で書かれるセリフ、効果線や残像などの漫画表現で表される動作は漫画特有のもので(もちろんアニメでも類似の表現はできますが、使用は限定的になります)、無時間メディアである漫画には、限られたコマの中に現実以上の情報、すなわち音声や動作などの時間の流れを大いにぶち込むことができるのです。
 そして、時間の流れをぎゅっと圧縮して作られた漫画の『逃げ若』を、丁寧に解凍して元の時間に戻しているから、アニメの『逃げ若』には丁寧な余白や間を感じたのでしょう。

 また、実際に時間が流れることで生まれるリアリティとして、時行の兄・邦時が斬首されて首が地面に落ちるシーンは、漫画では感じなかったグロテスクな生々しさがありました。血と舞いながら首が胴から離れ、ごとりと鈍い音を立てて地面にぶつかる生首。想像力だけではブレーキをかけてしまう残虐なシーンも、動いて音がするとそこに「落ちた首」というリアルがまざまざと見せつけられ、一瞬肝が冷えました。

 改めて漫画『逃げ若』(というか、松井優征作品か?)の特徴に気づかされたアニメですが、原作の良さをアニメに還元して作っているなという思いです。

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。