中学くらいまでの数学がデキる子っていうのはたいてい、理屈はわからなくてもやるべき作業が適切にできる子のことで、俺は別にそれでいいと思う。
逆にデキない子は、なんでこの作業をするとこういう答えが出てくるのか、ある答えを導き出すためになぜこの作業をするのかということがわからずそこで頭を悩ませてしまい、結果として作業の精度が落ちる、という状況にある場合が多いと思う。
自分がやっている作業はどういう理屈に則っているのか、この作業とあの作業の関係性はどういう風になっているのか、なぜこの作業から導き出されるものはこうなるのか、なんて理屈がわからなくても、中学どころかセンター入試程度までの数学の問題は解ける。
例えば一次関数。受験を控える数学の苦手な中三にとって、かなり鬼門となる分野だ。まず関数とは何かというところから入り、一次関数とはどういう関数なのかを教わる。そして(生徒にとっては唐突に)一次関数がグラフで表せるということを教わり、傾きやら切片やらという概念が一次関数の方程式の中のどの値に相当するかを教わり、逆に一次関数のグラフから方程式を求めることも教わる。ここら辺で、数学ができない生徒はかなりアップアップになるが、さらに一次関数の応用として、距離と時間の関係性、連立方程式との組み合わせなんかも出てくる。ここまでくるともうギブアップ。なにがなんだかわからない。数学キライ。こうなる中学生はけっこういる。
正直な話、俺が関数とグラフの関連性、及び意味に気づいたのは大学に入ってしばらく経ってからだ。それまで、作業として与えられた問題から答えを求めることはできても、それはどういう理屈に則っているのかはいまいちわかっていなかった。それでもセンターはそれなりの点数はとれたし、大学にも受かった。
たぶん中学の俺に、関数とはいかなるもので、その中で一次関数とはこういうもので、それをグラフに表せるとはこのような関係性においてである、と諄々と説いたところで、たぶん上手く理解はできなかっただろう。作業の精度と理屈の理解に、常に相関性があるわけではない。理屈はわからなくても、やるべきことさえわかっていれば、問題を解くことができる。ただ、新たに問題を発掘し、そこに他の諸理屈との法則を見出すことはまず不可能だが。
理屈が理解できないままに作業の精度が鈍る子には、おそらくある種の真面目さがあるのだ。わからないことがあるのが気持ち悪いから、それに気をとられて他のことに手がつかなくなる。この真面目さは勉学に対する集中力とはイコールでなく、むしろ不器用さに近い。わからないことをひとまずカッコに入れて、目の前の問題に取り組む。そんな器用さ、思考の切り替えが、初等教育の数学では必要だ。
理屈がわからなくとも作業が正確にできる子は、理屈よりも現実を優先していると言ってもいいだろう。合理主義というか、効率主義というか。全体像のよくわからない理屈にかかずらわるよりは、まずは作業を適切にこなすことが目の前の問題の解決に直結する。そう(自覚的にせよ無自覚にせよ)割り切れるのだ。
理屈の理解は後からついてくる。作業を正確にこなすことができれば、後々になって理屈に思い当たることができる。逆に言えば、作業を正確にこなせなければ、問いと答えが合致しないために、見つけるべき理屈に整合性がなくなる。論理が論理として成り立たない。
数学の理解には、帰納的な一面がある。この方程式とこのグラフはこういう関係がある。こういう関係を成り立たせる理屈とは、すなわちこういうものだ。このような推論ができるようになることが、数学教育の一つだと言えるのではないだろうか。
数学に限らず何でもそうだが、ものごとには「これはもう理屈とかではなくこういうものになっている」という前提がある。言語教育でも、なんで英語のbe動詞はこう変化するのか、完了形にはhaveを使うのかなどと質問されても、そう決まっているからとしか答えられない。それはもう、そういうものだという前提だ。
学問をより深部まで学んでいけば、その前提の形をどんどんシンプルにしていけるのだが、そこまでたどりつかない内は、前提と言うには少々具体的に過ぎる法則性でも、丸呑みして覚えないことにはどうしようもないところがある。勉強ができない子は、それができない子だったりする。単純に覚えが悪い子もいるけど。
しかし考えてみれば、なぜそうなるかがわからないからそこで悩む、というのは、一見思慮深そうな態度に思えるが、見方を変えれば、今の自分の手持ちの道具だけでものごとを考えようとする、射程の狭い思考態度だというようにも思える。
自分で納得できなければそれを受け入れることはできないというのは、自分の考えに対してよっぽど自信がなければできないことだ。もういい歳した大人になればまあもうそれでもいいかなと諦めにも似た気持ちを持てるが、まだ満足に義務教育も修めていない子どもがそう考えるのは少々危険だ。
例えば、小学生が学校の先生に「今やっていることはどんな役に立つんですか?」と訊いたとする。この質問の裏側には、この授業を受けるメリットを自分にわかるように説明しろ、という考えがあるし、それをもう少し推し進めれば、それで自分が納得できなければ自分はこの授業を受ける気はない、という考えにも辿り着く。まるで市場経済のように、等価交換を前提としている。自分にとってメリットのある授業だから、自分はそれに対して時間を使うのだ、と。
だがこの考えには陥穽がある。果たしてその小学生が納得できるメリットというのは、今後何十年と続くであろう人生の最中に得られるメリットと同一のものなのだろうか。換言すれば、その小学生は小学生が抱ける程度の功利的観点をそのまま大人になってもずっと持ち続けるのか、ということだ。
そんな質問をする小学生に返す最も適切な言葉は、「いいから黙って勉強しろ」だ。勉強がどんな役に立つか、考えるのは大事だ。だが、そこで答えを求めてはいけないし、いわんや答えを確定させるなど愚の骨頂だ。
世界は、社会は過去から続いている連続線の上にある。先人たちの理屈がある。若い人間は、まだその理屈をしらない。知らないままに、自分の理屈を唯一のものとして抱くのは、危険だ。
それが小学生でなく中学生、高校生、大学生になったところで、そこまで変わるものでもない。しばらくの間、自分の理屈は量的に肥大していくだけだ。そして、臨界点は明確にあるものではなく、あるとき不意に気づくのだ。社会は過去からの連続線の上にあるのだと。あるいは、それこそが大人への第一歩と言ってもいいかもしれないが。
もちろん理屈を丸呑みするというのは危険なこともある。カルト宗教なんかを例に出せばわかりやすいが、教義をまるっと信じ込んで、それが他人に、社会に、自分の生活にどんな悪影響を及ぼすか考えることができないのは、実に愚かなことだ。
だが、人間はどこかで理屈や前提の丸呑みはしなければいけない。そしてその時には常にリスクが付きまとっている。なぜって、理屈を丸呑みするという事は、その理屈の正否をとりあえず脇に置いていることに他ならないからだ。そうしなければ丸呑みにならない。英語で一人称主語に“I”を使うことは、もはや正否の問いようがない。それはそういうものであるから、丸呑みするしかないのだ。
現代日本の初等教育における数学も、それほど違いはない。この理屈の意味は、今の自分の手持ちの知識では理解できない。それでも、この理屈(に基づく答えを求める作業)を丸呑みしなければ、問題は解決できない。そういう構造になっている。もう一度繰り返すが、理屈はあとでわかればいいのだ。
稀には理屈からすぐにわかってしまうような才ある子もいるかもしれないが、それは一握り以下でしかなく、そういう子を基準にして義務教育を行うことはできない。まずは理屈、もしくはそれに基づく方法論を丸呑みしてもらうのが、標準的な子にあわせる教育なのだ。
その意味で、教育、特に義務教育は後で効果を発揮するものと言える。大学教授である内田樹氏は、「教育は卒業後何十年かして後で思い出してくれれば御の字だ」と言っていたが、まさにそのとおりだ。作業から帰納的に理屈を取り出すことを自覚的にできはしなくとも、血肉となった教育はそのような思考形式を育てる。いわば、ボトムアップの思考力、凡才の思考力だが、この世のほとんどの人間は凡才だ。その凡才の底上げをするために、義務教育はある。
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