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漫画の話です。

『アオアシ』セリフ内のカッコ書きによる、没入感の消失の話

 新刊が出てやっぱり面白い『アオアシ』。ゲームの中で挫折と成長を重ねていく姿は見ていてワクワクしますね。昨日もつい既刊を読み返してしまい、寝不足気味です。

 さて、面白い作品とはいえ、読んでて少々気になる点があるのもまた事実。それがなにかといえば、セリフの中に稀に登場するカッコ書きの箇所です。

(16巻 p81)
 こういうのとか

(24巻 p67)
 こういうのですね。
 このテの表現が出てくると、それまでの没入感が途端に薄れてスンとしちゃうんですよね。

 そも、漫画に没入するとは何か。
 説明の仕方はいろいろあるでしょうが、あたかも自分がその漫画の世界に入り込んでいるかのように錯覚すること、と一つに言えるでしょう。漫画に対して、「読む」という客体的な認識でかかわるのではなく、自分自身がその漫画の世界に存在しているように感じる、登場人物の内面と一体化する、などのように、主体としてかかわって作品を鑑賞している状態です。
 読み手が能動的に「読む」という行為で情報を認識するのではなく、作品の方が能動的に情報を発して、読み手は受動的にそれを味わうかのよう、と言ってもいいでしょう。
 人間が作品に引っぱられる。ページをめくる手が止まらないというやつです。

 ですから、漫画に没入している状態であれば、文字として書かれているキャラクターのセリフを読んでも(すなわち読み手の能動的な行為として文字を認識しても)、キャラクターが実際に発声している(すなわちキャラクターが発した声を受動的に聞いている)と脳内では認識しています。目ではなく耳。視覚ではなく聴覚。
 文字で書かれたセリフは、キャラクターが発した声であったり、本来余人にはうかがい知れない内心のモノローグであったりしますが、読み手はそれを無意識のうちに自身の立場を切り替えることで、発されたセリフの声を物語世界内の第三者として聞いたり、独白する主体として、あるいは内心をうかがい知れる神の視点としてモノローグを知ったりします。いずれの場合でも、読み手の意識は物語世界内に存在しています。

 このように、フキダシの中の文字は、実際に発された声として読み手は認識するのですが、そのフキダシの中にカッコ書きの文字が入っていたらどうでしょう。
 カッコ書きというのは、メインの文章に対して補足的に何かを示すために使うもので、当然、人がなにか言うときに、ある言葉だけカッコに入れて発声するなんて器用なことはできません。
 漫画においてフキダシ内のセリフは、キャラクターの発声を表すものと扱われますが、カッコ書きの言葉は本来的に文章表現のみで使うものですので、書き文字とはいえ声として扱われるフキダシのセリフ内にそれが登場しては、果たしてどう認識したものかと処理に一瞬まごついてしまいます。その結果、せっかくの没入感が途切れ、その世界に「存在している」という主体的な認識から、「読んでいる」という客体的な認識に引きずり戻されてしまうのです。

 本作では、試合中の選手間のコーチングシーンでフキダシ内のカッコ書きが見られます。これは、状況が目まぐるしく変化する試合中に言葉数多くコーチングをするのは現実的に不自然ですので、リアリティを持たせるためにセリフは極力削りたい、でもリアリティのあるセリフでは状況をうまく読み手に伝えられない、という判断から、苦肉の策として、選手は声にしてない(作品内でほかのキャラクターには聞こえていない)けど読み手には伝えたい情報を表すため、フキダシ内のカッコ書きを生み出したのだと考えられます。
 けれど、同じフキダシの中の文章にもかかわらず、作中のキャラクターに向けたものと読み手に向けたものでセリフの宛先を分けられては、(作中キャラクターと違い)カッコ書きを読める読み手は「自分は作中の存在ではない」と突きつけられたようなものですので、簡単に没入感を失ってしまいます。
 先述のように、読み手はセリフとモノローグで自分の立ち位置を無意識のうちに切り替えて没入を維持していますが、それはセリフとモノローグが明確に別の箇所・形式で書かれているからで*1、一つのフキダシの中で他のキャラ用と読み手用でセリフを分けられると、切り替えがおっつかないのです。


 少し皮肉だなと思うのが、『アオアシ』はことあるごとに「言語化」という言葉を使って、非言語的な感覚を言語化することでプレイの精度を上げていく、という成長の仕方を描いていることです。
 非言語的なものを言語化するというのは、まさにこのフキダシ内のカッコ書きで、本来であれば絵という非言語的なもので表現すべきところを、それができないから状況を言語化することでわかりやすくしているわけです。でもそれは、結果的に漫画としての没入感を失わせることになっています。セリフ内のカッコ書きに頼らず状況がわかるように絵で表現する、あるいはもっと別の言語表現を見つけられればいいのでしょうが。
 なまじ『アオアシ』が没入感の高い作品なだけに、それを損なう瞬間か惜しいんですよね。没入感を特徴とせずに面白い作品なら、たぶんさほど気にならないんですよ。意識には登っても引っかかりはしないというか。
 たとえば、特に近刊の『HUNTER×HUNTER』なんかは、没入ではなく理解によって面白味を覚えます。漫画を読むという客体的な認識のまま、対象を理解しようとする面白さです。没入の面白さは共感の面白さですから、理解とは対比的なんですよね。

 漫画に限らず、アニメでも実写作品でも舞台でも、なんなら言葉だけのメディアである小説でも朗読でも、過剰な言葉は作品への没入感を損ないます。過剰な言葉とは過剰な説明。それ以外の媒体で表すべき情報を表せなかったから言葉に頼って説明するというのは、表現としては忸怩たるものでしょう。まあ冗長になりがちな私の文章への自戒もこめてですが。

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*1:フキダシの形を変えたり、フキダシ外に書いたりなどで違いを見せられます