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漫画の話です。

「真に個人的な言葉」を吐くオタクと交話的価値としてのライトオタクの話

オタクは本当に「ライト化」しているのか?−痛いニュース
そもそも「オタク」とはなにか、ってのは「萌え」とならんでずっと考えているんですが、記事の中でこんな話が。

856 : バイヤー(神奈川県):2010/08/21(土) 23:19:23.02 id:OIjHJXnX0
どのへんでニワカ、ガチの境界が別れるのか本当に聞きたい
866 : 芸人(東京都):2010/08/21(土) 23:20:26.29 ID:6kirJThRP
>>856
社交の道具としての便利さを捨てて自分の意見を主張し出したらガチ
872 : 看護師(栃木県):2010/08/21(土) 23:20:39.67 id:umU7v8db0
>>856
人目を気にするかどうか
人の意見を聞きたがるかどうか

ここら辺の意見にふと思いあたるところがあったのが、昨日読み終わった「街場のメディア論」の中のこんな一節。

だから、ほんとうに「どうしても言っておきたいことがある」という人は、言葉を選ぶ。情理を尽くして賛同者を集めない限り、それを理解し、共感し、同意してくれる人はまだいない、、、、、からです。当然ですね。自分がいなくても、自分が黙っても、誰かが自分の変わりに言ってくれるあてがあるなら、それは定義上「自分はどうしても言っておきたい言葉」ではない。「真に個人的な言葉」というのは、ここで語る機会を逸したら、ここで聞き届けられる機会を逸したら、もう誰にも届かず、空中に消えてしまう言葉のことです。そのような言葉だけが語るに値する、聴くに値する言葉だと僕は思います。
(p94,95)

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)

ちょっと長いですが引用しました。
これは「世論と世論に回収されない個人の意見」について語られた話ですが、ライトオタクとオタクの関係性について似ているように思えます。
つまり、オタクは「ここで語る機会を逸したら」自分の言葉・意見が「もう誰にも届かず、空中に消えてしまう」と思い、「言葉を選」んで「情理を尽くして賛同者を集め」ようとする。日頃から抱えていた自分の考えを誰かに共感してもらうためには、そうしなければならないのです。
これをオタクとするからには、翻ってライトオタクは、別に「どうしても言っておきたいこと」はないし、「ここで語る機会を逸し」ても特に困らない。上の本の中で内田樹氏はそのような言説のことを「世論」と呼ぶのですが、それを別の言い方で、

「誰でも言いそうなこと」、つまり、「自分が黙っていてもどうせ誰かが言うのだから、言っても平気なこと、、、、、、、、、、」であり、同時に「自分が黙っていても、どうせ誰かが言うのだから、黙っていても平気なこと、、、、、、、、、、、」です。
(p100)

と表現しています。
ざっくり言ってしまえば「世論」とは、言っても言わなくてもどうでもいいこと、改めて言う必要のないこと、とできます。ですが、それは必ずしも悪いものではありません。私たちは日常的に「改めて言う意味のないこと」を口にします。例えば家を出るときの「いってきます」「いってらっしゃい」であるとか、電話口の「もしもし」であるとかがそうですが、このような、言語内容にそのものに意味はなくても、その場にコミュニケーションが立ち上がったことを示す言語の往還を、交話的コミュニケーションと呼びます。
交話的コミュニケーションについては以前も書きましたが(twitterに見る、呟きが「面白い」人の源泉と、意味性の薄い呟きから発生する快楽の話)、そこの中ではこんな一節を。

この交話的コミュニケーションには、意外な快楽があります。交話的コミュニケーションにより場が形成されるということは、「あなたの存在を私は認めましたよ」と言うことと同義です。大なり小なり自己顕示欲は誰にでもありますが、誰かの存在を認める/誰かに認められることは、その欲望を満たしてくれます。


この欲望が充足されるには、逆説的ですが、postの内容が無意味なら無意味なほどいいのです。なぜなら、postの中身が空っぽであろうともそれに反応するということは、「私はあなたの有用性(役に立つか、面白いか等)とは関係なく、全人格的にあなたを認めます」ということになるからです。

交話的コミュニーケーションは、その中に有用な意味はなくとも、それだけで快楽の源泉になりうるのです。
さて、痛いニュースのなかではこんな書き込みがあります。

174 : ネットワークエンジニア(埼玉県):2010/08/21(土) 22:05:40.89 id:F6idUxHA0
アニメを見たりする本当の目的が、他人とコミュニケーション取る手段になってる人はライト・ニワカ。
(中略)
472 : ネットワークエンジニア(埼玉県):2010/08/21(土) 22:41:45.18 id:F6idUxHA0
ニワカやライトの連中にとってのアニメの価値は「他人と共通の話題になるかどうか」だよ。
485 : 芸人(大阪府):2010/08/21(土) 22:42:35.86 id:vl8vEnb7P
相手との共通の話題としてアニメや漫画を消費してるんだろ
コミュニケーションを図る為の手段であって目的ではないんよ

記事、というか書き込みは否定的なニュアンスで言われていますが、コミュニケーションを立ち上げるためコミュニケーションには、まさに「他人と共通の話題になるかどうか」が大事なのであって、他人と衝突しかねない自分固有の意見なんていらないんです。「誰でも言いそうなこと」だからこそ、コミュニケーションの立ち上げが容易にできるのです。
そういう意味じゃ、「ライトオタク」がそういう話で盛り上がるのは、小中学生が昨日見たテレビ番組で翌日盛り上がるのと変わりはありません。「昨日のアニメのあの演出は監督の前作品のセルフパロディで」だの「昨日のドラマは、数字こそ取っているもののいまだにセカイ系的世界観を引きずっていて、ゼロ年代の若者の進むべき指針とはならない」だの小中学生は普通言いませんし、それを咎めることもしないでしょう。
話を大人に切り替えても、昨日食べに行ったフランス料理のウンチクやシェフの来歴なんか、いちいち言わないでしょう?コミュニケーションの回路を立ち上げ、コミュニケーションの往還をするには「美味しかったね」「またいこうね」で十分ですし、その方が目的に適うのです。


戯画的に表されるオタク像に、空気を読まずに自分の趣味を熱く語って周りの人がドン引き、というのがありますが、これはオタクの言説が交話的コミュニケーションではなく、もっと具体的な内容を伴ったものになっているため、他の人間とコミュニケーションの回路がずれている状況にある、と言えます。相手が熱弁するオタクと同様にある趣味について熱く意見交換をしたいと欲望しているか、あるいは相手がオタクがどんな言説を吐こうともそれになにがしかの反応をすることでコミュニケーションを立ち上げようとしているか。そんな場でなければ、交話的価値を越えた言説に対してコミュニケーションを立ち上げることは難しいのです。で、後者が成立する場は滅多にない、と。熱いトークはそれに応じられる人とするべきですわね。興味ない人、ある分野について交話的以上の価値を見出していない人には遠慮したほうがお互い幸せですよ、と。


私は、ある事柄について熱心に語れる人、「世論」に回収されない「真に個人的な言葉」を語れる人の話は(さすがに程度問題ではありますが)基本的に好きですし、交話的コミュニケーションだけでは物足りないなとも思います。
また、「ライトオタク」が「オタク」を自称して、その話が「世論」の域を出ないものであればガッカリするし、「ケッ口先だけかよ」とも思うでしょう。無駄な期待はさせてほしくないので、ある分野について交話的価値しか見出していないのに「オタク」を自称するのはやめてほしいなあと思います。
しかし、私の交友範囲がごく狭いこともあるでしょうが、「オタク」を自称する人間てのに出会ったことがないですなあ。それってひょっとしたら、非実在青少年なんじゃあ。


※追記
「オタク」と「ライトオタク」について、記事中で地続きのようになってしまっているので、整理・補足の記事を書きました。あわせてどんぞ。
そもそも「オタク」と「ライトオタク」って質的に別物じゃねという話 - ポンコツ山田.com



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