ポンコツ山田.com

漫画の話です。

『BLACK LAGOON』「信用」と「信頼」の違いと、「頼」るロックの信念の話

 メリークリスマス!!

 閑話休題、先日発売された『BLACK LAGOON』13巻。前巻から2年以上空いていますが、それ以前がよっぽど空いていたので、むしろ早いと思ってしまいますね。不思議不思議。

 さて、そんな13巻では、前巻から始まった〈五本指レ・サンク・ドワ〉編がちょうど終わりました。黒人の大男ばかりを狩るスーツ姿の女五人組、〈五本指〉が起こした事件の中で、ラグーン商会のボスにして知的なタフガイ・ダッチの知られざる過去が仄見えたり、レヴィの意外な面倒見の良さが現れたり、表の世界にシマを広げようとしてるバラライカが苦労したりと、血と硝煙でけぶるロアナプラに、また新たな一面が見えてきました。

 で、そんな事件もケリがつき、〈五本指〉の一人だったルマジュールをロアナプラに引き込んだレヴィ。仲間に見捨てられたルマジュールを生き残らせ、ホテル・モスクワとの和解を仲介し、街での生計や商売道具も見繕ってやるという、普段のガラッパチで刹那的な彼女からは思いもよらない面倒見の良さに、ロックも驚きました。

「随分と彼女の世話を焼くじゃないか。何が気に入った?」
「別に。」
「やっぱり慕われちゃ放っておけないか?」
「……殺しで飯を食ってるからよ。一つ、決めてることがある。
星の廻りで敵味方になるのは運命だが——良くしてくれるやつには良くしてやる。邪険にして無駄に恨まれることはねえ。
正面から撃たれても、背中から撃たれることはねえという—— ちょっとした願い・・だ。」
(13巻 p95,96)

 きったはったの緊張感の中で生きているからこそ、その緊張を緩めて精神を休めさせられる関係性が必要だ。レヴィはそう言うのです。
 彼女のそんな考えにロックは、「孤独じゃないと生きていけないタイプなのかと思ってた」と冗談半分本気半分で軽口をたたきますが、それをレヴィは静かに訂正しました。

何処に居たって孤独は毒だ。
それに――
信用と信頼は似てるが少し違う。頼るのは好かないし、頼られても困る。
(13巻 p97)

 信用と信頼。
 この二つのが違うものであると評するのを私が見たのは、これが二回目です。一度目は、往年のライトノベル無責任艦長タイラー』の中でした。

 C調スペースオペラの優として(ほかに追随した作品があるかは知りませんが)、リブート作品も含め50冊以上、漫画化にアニメ化もされた名作。さすがに30年も前の作品ですので正確にどの巻だったか記憶は定かではないですが、準主人公の一人であるススム・フジが、彼の副長であったミツル・スナガによって、アンドリュー・バーミンガムを紹介されたときのエピソードだったはずです。
 脱法的な輸送任務を依頼するにふさわしい人材として、スナガは悪友であるバーミンガムをススムに紹介するのですが、そのバーミンガムは「ちょろまかしのバーミンガム」とあだ名される、物資横領の常習犯。有能ではあっても遵法意識の極めて低い彼を紹介するときにスナガは、「信頼はしても信用はしない。そんな相手」(大意)と冗談めかして言ったのです。

 信用と信頼の違い。
 当時『タイラー』を読んだ私は、「能力には信をおくが、心根にはおけない」というニュアンスを、幼心に感じ取っていました。
 アウトローな感じ。能力ゆえに素行の悪さが見逃される感じ。悪友同士が軽口をたたき合う気の置けない感じ。そういう諸々もひっくるめてなんかカッケェと思い、いまだに記憶にガッチリ刻み込まれています。

 ですが、レヴィの言わんとしているところは、そんなブロマンス的ハードボイルドさとは違うようです。

「俺はお前を頼るし、頼られたいと思ってる。信頼・・しろよ。」
「おう、信用・・してるよ。」
(13巻 p98)

 ロックの「信頼・・しろよ」という言葉に「信用・・してるよ」と、わざわざ傍点を振って違いを強調して返すのです。ここには、『タイラー』のそれよりだいぶ虚無的で冷血的なものがあるように感じます。
 彼女の言わんとしているところは、まさに「信『用』」と「信『頼』」の違いで、「用いる」というのは自分を主体にして補佐的にあるいはビジネスライクに相手に信を置くこと。それに対して「頼る」というのは、ある場面での主導権を相手に任せた上で信を置くこと。そんな、自分と相手のどちらに主体・主導があるのか、という点に差異があるように思えるのです。
 それはとりもなおさず、このロアナプラという明日をも知れぬ危険な街で、彼女がどう生きてきたか、どう生きていたいかという信念、生き様を表しています。
 一人では生きていけないが、自分や場面の主導権を誰かに握らせてはいけない。「一個きっかり」の命、どうせ死ぬなら後悔しない死に方で、「正面から撃たれ」た方がマシ。
 群れてはいても一匹狼。そんなアウトローの生き方をまざまざと感じさせます。

 レヴィの言葉のの使い分けに、ロックがどう反応をしているのかは描かれていませんが、少なくとも先に「信頼」という言葉を使ったロックは、その言葉を彼女と同様にはとらえていないだろうし、あるいは彼女と同じような信念では生きていない。
 ならばロックの信念は何か。生き方は何か。
 ロベルタ編が終わったときの記事でも書きましたが
yamada10-07.hateblo.jp
yamada10-07.hateblo.jp
 端的にロックは、「面白さを求める」という享楽的な信念のために命を張っています。その命は、自分のものもだし、他人のものも。
 その後も各エピソードが描かれるたび、ロックのそのような面は表現されていますが、本エピソードのエピローグでも、張とカジノでルーレットに興じているときの問答で以下のようなものがあります。

「……依頼人に言われた。俺は——誰かの運命の、その行方・・が見たいんだと。」
「裁くのか? 泰山府君の様に。」
「それは俺の柄じゃない。だが、俺が指を添えることで——その人の運命のその先へ、辿り着くことができるかも。」
(13巻 p126,127)

 ロックの望む「面白さ」とは、誰かの運命の行く末。それがどこにいくか。自分が面白いと思えるところに収まるのか。それを見たい。
 ロックは何でも屋のラグーン商会に属する中で様々なトラブルに首を突っ込み、当事者のどちらにも肩入れせず、あるべきところに収めたい。それが彼の「面白さ」。昼でも夜でもない「夕闇」に立ち続けることでロックは、人の運命の行方を砂かぶりで見ようとするのです。
 でもそれは、非常に危うい立ち位置。

こう考えることはないか? 誰かの運命を変えたら――
お前自身も飲み込まれるかもしれん、傍観者ではなく… その当事者・・・になって。
俺は慎重なタチでな。そういう賭けは好ましくない。
(13巻 p128)

 張の忠告とも警告ともつかない言葉ですが、それにもロックは、例の悪い顔で返すのです。

ミスタ・張。そこまで肉薄しなけりゃ――… 誰かの人生のその先は・・・・・・・・・・見えないんですよ・・・・・・・・
(同上)

 彼自身は当事者になりません。あくまで、運命と対峙している誰かに指を添える傍観者。場の主役は相手に任せたまま、複雑な力場にほんの少し力を加えて状況を動かそうとするもの。
 だから彼は人を頼ります。場の主役は自分じゃなくていいから。
 主役なんてくそくらえ。自分はそれを最前列で楽しめる観客でありたい。
 あくまで自分は傍観者でいる。でもそれは当事者のすぐ隣。他人を呑み込む運命のすぐ隣。一歩踏み外せば簡単に奈落へ転落する際であろうと、そこでなければ楽しめないものがあるなら、自分はそこに立つ。
 それがロックの信念なのです。

 「信用」と「信頼」の違いから、ロックの信念にまで話が脱線していきました。おかしいな…タイラーの話をしてるときはこんな風になるとは思ってなかったんだけど……
 とまれ、また一歩ロアナプラのトラブルバスターにして、地獄の舞台のVIPシートギャラリーに近づいたロック。さあ14巻はいつになるかな……

お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

『BLACK LAGOON』理不尽な舞台監督と踊る演者の交代劇と、内面描写の変化の話

「10巻は?」でおなじみの『BLACK LAGOON』。

BLACK LAGOON 9 (サンデーGXコミックス)

BLACK LAGOON 9 (サンデーGXコミックス)

それはともかく、現在の最新刊である9巻で3冊半に亘るロベルタリベンジ編は完結しましたが、それまでのエピソードとは趣の違う点がそこにはありました。当ブログでも何度か触れているように、ロックのあくどい笑顔という形でその一端は表れていますが、(「BLACK LAGOON」 「面白さ」を求めたロックは「夕闇」にいられたのかという話「BLACK LAGOON」悪役面のロックは「正しい」人間ではなかったのかという話セラスとロック 夕闇にいるものの笑顔の話)、それ以外にも、張率いる三合会、そしてバラライカ率いるホテル・モスクワの内面が見えてきた、ということが言えると思います。
それまでのエピソードはラグーン商会、特にロックを中心にキャラクターの行動が描かれており、張(三合会)やバラライカ(ホテル・モスクワ)は、ロックらが活動する舞台のお膳立てをしていました。それは、単に彼/彼女がラグーン商会に仕事を依頼したというだけではなく、彼/彼女によって敷かれている規律に従ってラグーン商会が行動してきたということです。ホテル・モスクワの圧倒的な武力はそれに逆らうことの無意味さを誇示し、ロアナプラという街そのものの存続に心を砕く張は、「現在の海賊共和国リベルタニア」たるロアナプラを護るためならば、テロリストにも世界の超大国にも引かずに策謀を巡らし、制裁も流血も辞しません。ゲームはルールがあるから面白くなるのですが、前門の虎と後門の狼が固める街のルールがあるからこそ、ラグーン商会の仕事ぶりはスリリングなものになります。
張の言葉を借りれば、張やバラライカが仕事を依頼することで成立した「舞台」の上でロックたちは踊る。ステージプロデューサーの張、バラライカと、演者のロックたち。彼/彼女は依頼した仕事で「舞台」の演目を決め、己らの敷いたルールでステージを律する。そういう関係でした
さて、強大な両者によるこのルール。その強制力は、彼/彼女の行動理念が読めないがゆえに強くなります。そうある理由がわからないルールはひどく理不尽に映り、理不尽なルールには抜け道がありません。なぜそう決まっているかわからないから、グレーゾーンを計れない。ルールからどれだけはずれたらズドンなのかが読めない。ルール間の矛盾を見つけたところで、そこを抜けようとしたら警告なしに風穴が空けられているかもしれない。
ロベルタリベンジ編までは飄々としているように見えた張はまだしも、バラライカは登場当初からずっと血なまぐさく、圧倒的に強く、その有り余る武力で何を求めているのかがわからない。だから、無用にルールを犯す気にはなれない。
でも、そんな彼/彼女の内心は、ロベルタリベンジ編で少しく明らかになりました。張の内心「ロアナプラという街そのもの存続に心を砕く」は、既に書きましたが、これはロベルタリベンジ編で初めて詳らかになったものです。

ミャンマーアングロ・タウン? またはエル・レイか? それともヨハネスブルク
それらのどこよりも閉鎖的で、猥雑で、エキサイティングでそして――闇夜の精気が満ちた街。
それが――この街だ。それがロアナプラだ・・・・・・・・・。俺たちが禍根を乗り越え。相互に協力してきたからこそ――現在のこの繁栄がある。
この街は脆く、そしてか弱い。一度、日なたの者の介入を許してしまえば、我々を擁護する者など誰もいない。
彼らとの直接対決は――最後の瞬間まで避けるべきだ、と俺は考えている。
我々、三合会の立場を述べよう。三合会は、街の存続を基幹として行動する・・・・・・・・・・・・・・
(7巻 p141,142)

ロベルタリベンジ編で、この理念を根底にして張は動き、ロックやバラライカ、ガルシアの行動に介入していきます。
そして張には、別の側面が同時にある。別の側面というよりは、より根源的な本能。それは、ロックと同じ、物事を享楽的に面白がること。

ロアナプラが滅びても、宇宙が滅びるわけじゃない。俺たちはただ、店じまいと、落とし前の準備をして――93年のあの時のように、また彼女と殺し合いをすりゃいい・・・・・・・・・・・・・・・
その後のことなんか知るか。収まるところに、すべては収まる。天地流転して陰陽を成す、てえやつさ。
(中略)
別に肝っ玉なんぞ持っちゃいない。下らねえことを下らねえまま・・・・・・・・・・・・・楽しめる。そういう性分なだけさ。
(9巻 p77,78)

これを考えると、張がロアナプラを護ろうとしたのは、この街が「どこよりも閉鎖的で、猥雑で、エキサイティングでそして――闇夜の精気が満ちた街」、つまりどこよりも彼が楽しめる街だから、と言えるでしょう。享楽的な張がロックに目をかけ、ロベルタリベンジ編のラストで彼に声をかけたというのは、同類としての気心だったのかもしれません。
そしてバラライカ。元軍人であった彼女の目的はなんだったのか。ホテル・モスクワが動く直前の張との会話で、それは鮮やかに浮かび上がります。

「――…それがお前らの生き方か。軍人として死にたいか・・・・・・・・・・?」
「……張。根っから極道ヤクザ稼業の貴様にはわかるまい。我々はもはや、軍人でもなければ敗残兵ですらない――軍人崩れエクスミリタリーでお前と同じ、ただの無頼者だ。
だが――……ソ連邦に見捨てられ、新生ロシアにも裏切られ、そうしてすべてを失った我々に――唯一残されたものはいったいなんだ? 
軍旗の名の下で生と死と戦いのすべてを味わってきた――その矜持・・・・だ。黴が生え、古びた碑と成り果てた矜持の残骸・・・・・だ。
私はお前のように、明日なき生を生きること・・・・・・・・・・・は望まない。そして――無為に生をまっとうするだけの人生では犬と同じだ・・・・・
我々が望む死はただ一つ、しかるべき者としかるべき戦いの中で、自分がかつて何者だったかを想い出して・・・・・・・・・・・・・・・・・・死ぬことなんだよ、ミスター・張」
(8巻 p25,26)

そして、彼女のこの気持ちが慟哭となって迸ったのは、それは皮肉か当然か、かつての冷戦時代において仇敵であった米国軍人を助けた時でした。

――本心を言えば、我々は――… 是非に…… 是非に貴軍と一戦・・・・・・・・砲火を交えたかった・・・・・・・・・。それは我々が生者・・であった頃から、アフガニスタンの赤砂の上でのたうち回っていた・・・・・・・・・あの頃から―― 我々が待ちに待った戦争だった。待って待って、恋焦れた・・・・・戦争だった。
(中略)
死人というものは、いつまでも生者が羨ましく・・・・・・・・・・・・・妬ましくて堪らない・・・・・・・・・
(中略)
いつの日か、あなたの国を、あなたの街を、席捲し蹂躙せんがため・・・・・・・・・・――そのためのみに・・・・・・・我々は存在し生き抜いてきた。この身を無頼に堕としてもなお・・・・・・・・・・・・・・、我々は精強さと規律を保ち続けている。――そう記憶して戴きたい、以上であります。
(9巻 p80〜83)

このように、以前は強大なルール、理不尽なゲームマスターとしてふるまっていた張とバラライカの内面が露わになっていった時、主人公であるロックはどうしていたか。
張からの依頼でガルシアらのロベルタ捜索を手伝っていたロック。だが、一足遅く、狂犬ロベルタは米軍部隊に噛みつき、ロアナプラは戦場となった。もう遅い、ガルシアを見捨てろ、と言い放った張にロックは、「人でなしのクソ野郎・・・・・・・・・」と吠え、手を引かないことを宣言する。ここまでは「正義」「善」の顔をしていたロックが次第にあくどい顔に変わっていったことはご承知の通りですが、それは彼の享楽性、「最後の最後で、大騒動の一番面白い出来事を――俺たちだけが楽しめる・・・・・・・・・・」と言い放てる心根が前景化してくるのと軌を一にしています。
そして、米軍部隊とロベルタとガルシアが踊る舞台は、ロックによってプロデュースされていく。手は打ったのだからあとは野となれ山となれと言った張と、求めた死に場所と張との約束になんとか折り合いを付けたバラライカは舞台から姿を消し、その三者だけが残って黄金の三角地帯の幕が開ける。それまでのステージプロデューサーは引っ込み、代わりに昇格した元演者。そして踊る新たなアクターたち。
メタ的な視点で考えれば、このエピソードでは後にロックがプロデューサーの役に就くために、それまでのプロデューサーであった張やバラライカは、役にいるために必要だった理不尽さ、行動理念の不可解さをまとってる必要がなくなったのだと言えるのではないでしょうか。
後半のロックは、思わせぶりな言動を振りまき、それまでの人の好さからはかけ離れたあくどい顔で内心を読めなくさせていて、その不可解さはまるで張やバラライカのよう。手の内を見せない謀略に、アクターたちはそれがロックの思惑通りだとしても、自分らの信念に則って踊るしかありません。
エピソード内でのプロデューサーのバトンタッチ。それに伴う、各キャラクターの行動・理念描写の変化。張やバラライカは内心をさらけ出し、逆にロックは見えなくなった。人物関係の構造が入れ替わったことで、描写にある種の必然とも言える変化が生まれた。ロベルタリベンジ編には、そんなことが見えるのかなと思います。


というところで、だいぶ長くなったので、黄金の三角地帯で踊るアクターたちの両天秤にいる「悪い」ロックと「正しい」ガルシア、その間で揺れる者たちの話はまた後日にしようかと思います。



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

硝煙たなびき血飛沫飛び散る 悪徳の街は眠らない 『BLACK LAGOON』の話

東南アジアはタイにある、悪党どもが蔓延る街・ロアナプラ。日本の商社員・岡島緑郎は、仕事で近辺を航海中に運び屋ラグーン商会の襲撃を受け荷物を強奪、さらには誘拐までされてしまった。なんとか本社と連絡が取れるも、強奪された荷物は倒産の危機に瀕していた会社が社運をかけて運んでいた違法な物。それが表沙汰になることを恐れた会社は、無情にも緑郎を切り捨てることを通告する。タイの街で孤立無援の身となった緑郎。荷物を取り返すために会社が派遣した傭兵隊が迫りくる中、彼は自分を攫ったラグーン商会の面々と共闘することに。これが、日本商社員岡島緑郎が、ロアナプラの運び屋・ラグーン商会のロックとなる始まりだった……

BLACK LAGOON 1 (サンデーGXコミックス)

BLACK LAGOON 1 (サンデーGXコミックス)

ということで、広江礼威先生『BLACK LAGOON』のレビューです。タイにあるとされる架空の街・ロアナプラを舞台とした、硝煙と血飛沫とイカした科白回しが飛び交うピカレスク・ロマン。平和な一般社会とは一線も二線も画した悪徳の街で、日本商社員から転身した岡島緑郎改めロックとラグーン商会の面々を中心に、スピード感とバタ臭さ溢れる事件が展開されます。
ロアナプラは、表向きは東南アジアの何処にでもありそうな猥雑な街。でも、通りを一本裏に入れば、挨拶代わりに銃をぶっ放し、仕事なら顔見知りだろうと平気で打ち倒し、警察だろうと教会だろうと法とも神とも無縁に好き勝手。神の恩寵なんか微塵も期待できない悪徳の巣窟。にもかかわらず、この街には一定の秩序がある。ロシアンマフィアやチャイニーズマフィアなど各国の組織が置かれ、それぞれの思惑が街に規律を作り、世間から隔絶された社会を生んだ。曰く「現代の海賊共和国リベルタニア」、曰く「穢れた別天地エルスウェア」、曰く「閉鎖的で、猥雑で、エキサイティングで、そして――闇夜の精気が満ちた街」。それがロアナプラです。
主人公ロックはもともと、国立大学を出ていい会社に就職した、何の変哲もない日本の商社員。それが突然、暴力沙汰に巻き込まれる。泣くし喚くし神にも祈る。ゲロだって吐く。でも、バイオレンスの渦中で博打を思いつき、ギリギリのところでそれが成功、見事事態を打開すれば、中指をおったてて「して・・やったぜ」。「何かが吹っ飛んだ」「何かが吹っ切れた」ロックは、「ラッシュに揺られ、愛想笑いで頭下げて、勤務成績に命張って」「何があっても飲める所・・・・バッティングセンター・・・・・・・・・・がありゃ「世はこともなし」」の世界がどうでもよくなって、ロアナプラで、ラグーン商会の一員として生きていくことを決意しました。
腕利き女ガンマンのレヴィ、天才ハッカーのベニー、頭の切れるリーダー・ダッチと、人数は少ないながらも仕事をよくこなし、筋を通すラグーン商会はそれなりの顔で、難解な仕事も飛び込んできます。たいがいのことは銃弾で決着がつく街ですので、銃撃戦はお約束。使われるのは銃だけでなく、爆弾、柳葉刀、チェーンソー、火炎放射器などなど、危険なブツが満載。一度戦闘が始まれば、血煙と硝煙が吹き上がらずにはいられない、デーハーな絵面となります。
さて、この作品の他の魅力は、最初にもちょろっと書いたバタ臭いセリフ回しです。
「信じられねえ。首がもげてねえ。サングラスも無事だ。アーメン・ハレルヤ・ピーナッツバターだ」
勝手にしやがれ自殺志願者共!! 先にオツムの医者にかかれ、順序はそいつ・・・が正解ってもんだ!! ママに言われたことはねェか、頭のネジは腹ン中に落としちまったとよ!!」
「神は留守だよ、休暇取ってベガスに行ってる」
「どうしたダッチ? ロアナプラが核攻撃にでもあってたか?」「そっちのほうがまだマシだ、クソったれ。そういうことなら損をするのは俺だけじゃないからな」
「この街はラリった野郎と飲んだくれとオツムの薬・・・・が必要な奴らで埋まってる。キリストがハミポン通りでどぶの水をがぶがぶ飲んでた・・・・・・・・・・・・・なんて世迷い事を、真剣な目して話すバカタレがごまん・・・といるんだ。プレスリービッグ・Eが世界の創造主だと思えるようなら信じるのも止めねェけどさ」
こんなっすわ。もう大好き。
派手な紙面とバタ臭いセリフ回しがあいまって、アメリカのB級映画(褒め言葉)を見ているようなワクワク感。硬軟取り混ぜたコメディとシリアスのハイブリッド。悪徳が滾る街ゆえに生まれる法外な社会性と、それと対照されることで焙り出される一般社会の臭さ。お腹いっぱいになる満足感です。
小学館のホームページで、第ゼロ話を途中まで読めます。
第ゼロ話 試し読み(50pまで)
ところで、10巻はいつごろの発売に……


お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

セラスとロック 夕闇にいるものの笑顔の話

数日前に書いたこの記事。
平野耕太の笑う主人公の話 - ポンコツ山田.com
コメントで、こんなのをいただきました。

HELLSINGで笑顔に触れるなら
血を吸って正真正銘の吸血鬼になってインテグラに再開した
セラスの天真爛漫な笑顔に触れて欲しいです
セラスは化物でありながらあんな笑顔で笑える
化物の範疇外の存在になったのだから

HELLSING 10 (ヤングキングコミックス)

HELLSING 10 (ヤングキングコミックス)

そう、セラスはベルナドットの血を吸い、アンデルセンからも「おそろしいもの・・・・・・・」「奈落の底のような目」と言われるほどの化物になりました。その一方で、最終話では

HELLSING 10巻 p171)
こんな爛漫な笑顔を浮かべたりもする。化物でありながら、このように笑える彼女はどのような存在であるのかといえば、主であるアーカードが何度か言っています。

だが それもいいのかもしれない
おまえみたく おっかなびっくり夕方を歩く奴がいても
(2巻 p13)

行くぞセラス
せいぜい薄暗がりをおっかなびっくりついてこい
(3巻 p80)

「夕方」「薄暗がり」。この言葉で思い出したのは、広江礼威先生『BLACK LAGOON』の主人公ロックです。

BLACK LAGOON 1 (サンデーGXコミックス)

BLACK LAGOON 1 (サンデーGXコミックス)

彼については以前こんな記事を書きました。
「BLACK LAGOON」 「面白さ」を求めたロックは「夕闇」にいられたのかという話 - ポンコツ山田.com
日本編で故郷の日本に舞い戻ったロックは、敵対する羽目になった鷲峰組組長である雪緒からなじられました。

貴方はそうやって…ずっと夕闇に留まっているから!
だからッ、言えるんです!!
BLACK LAGOON 5巻 p69)

自分では意識できていなかった自身の立ち位置を的確に抉りだしたこの言葉にショックを受けたロックも、日本編の最後には覚悟を持って受け入れられるようになります。

「――一つだけお聞きします。貴方はこれからも―― 宵闇の中に?」
「君のお陰だ。俺はそこで・・・・・すべてを・・・・見届ける。」
(同上 p173)

夕闇にいることを自覚したロックはどうなったか。

BLACK LAGOON 9巻 p44)

(同上 p256)
以前には見られなかった、こんな笑顔を浮かべるようになりました。いやあ悪い笑顔だ。
けれどロックは、こういう笑顔しかできなくなったわけじゃない。ロベルタ復讐編でのロックは確かにあくどい笑顔でしたが、それは上のリンクの記事でも書いたように、光の側にいたガルシアらからは次第にロックが忌むべき側の者として映り、読み手はそれに同調させられたから。同調の度合いが少ない(あるいはロックの享楽的な側面が少ない)ロベルタ復讐編での序盤では、きちんと(?)人畜無害な、悪徳の街・ロアナプラには不似合いな笑顔を浮かべています。

(7巻 p90)
ロックが留まることを決意した「そこ」=「夕闇」。その決意は、日本刀を喉に突き刺して自死する雪緒を見ることでできた「傷」によって刻み込まれましたが、ロックが決意したことはそれだけではありません。彼は同時に、自分が享楽のために生きることも決意していました。バラライカに余計なことを言ったために銃を突き付けられ、死線の縁に足をかけたままの彼は言います。

貴女あなたは一つ勘違いをしてる。
義理じゃない。正義でもない。理由なんてたった一つだ。そいつは――俺の趣味・・だ。
(5巻 p100)

ロアナプラの人間は、趣味では動きません。この街が繁栄を続けられたのは「過去から現在まで、この街に集う全ての者たちの思惑が……一致していた・・・・・・から」であり、その思惑とは「相互利益のため、我々の刺激的な仕事を世間の目から背けるため、または邪な者たちの安息のため」。ロアナプラの人間は、まず仕事で動く。でもロックは、趣味という私的な理由で動く自分を日本編で自覚し、ロベルタ復讐編ではそれが徐々に前面に出ることで、彼の悪い笑顔も表に出てきたのです。
では、ロックとは違う形ではありますが、セラスが己の行く道を決意をしたのは、吸血行為によってです。「血を飲んでしまったらなにかが・・・・終わってしまう気がし」ていたセラスが、死んだばかりのベルナドットに齧りつき、血を吸う。そして、ついに彼女は夜族ミディアンの領域へと踏み込み、「自分の意志で血液を喰らい・・・・・・・・・・・・自分の力で夜を歩く・・・・不死の血族ノーライフキングとなったのです。
けれど、化物になったはずの彼女は、敵に回ったウォルターに対して場違いな別れの挨拶をする。主である化物・夜族ミディアン不死の血族ノーライフキングアーカードとはまるで違う彼女。
あくどい笑顔と人畜無害な笑顔、キてる笑顔と爛漫な笑顔の両方を浮かべられることこそが、ロックとセラスが夕闇、薄暗がりにいる存在である証左だと思うのですな。



お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

「BLACK LAGOON」悪役面のロックは「正しい」人間ではなかったのかという話

ということで、「BLACK LAGOON」のロベルタ編から感じた、「正しさ」の水準について。なにが「ということで」なのかは前記事参照。

キャクストンの信念、ガルシアの信念



そもそもがピカレスクロマンである「BLACK LAGOON」、作中の「常識」が主要な読み手である現代日本のそれと大きく違うので、「常識」やら「倫理」やら「正義」やらの客観的な絶対性などはハナからないも同然だが、ロベルタ編の終盤ではその「客観的な絶対性」のなさが大きな肝となっている。
ラブレス家当主殺害の復讐のために、グレイ・フォックスを殲滅しようとするロベルタ。自国の正義のためにラブレス家当主を爆殺し、「黄金の三角地帯」のシュエ・ヤン将軍を捕縛しようとロアナプラに滞在している「美国人アメリカン」ことグレイ・フォックス。ロベルタを止めようとロアナプラへ赴いたガルシアたち。
ガルシアは銃撃戦の中でグレイ・フォックスに保護されるが、彼らが父を殺したのだということに気づき、銃を向ける。だが、グレイ・フォックスのリーダー・キャクストンの信念に触れ、「復讐もまた正しい動機だ」という彼に向けて引鉄を引くことはできなかった。

人が死ぬことも争い事も止められないのなら…
せめて、無辜の人々が傷つけられることだけは防いでみせる。
ここで起こる罪業の中身を知らない将軍たちや政治家たちがこれを繰り返そうとする時――
ここだけでも、俺が食い止めてみせる。
無辜の人々の守護者となり、祖国の名を汚さぬ戦いを。
たぶんそれが俺の生きる役割なんだろう。
(9巻 p111)

ベトナム戦争の最中、部下達にレイプされそうになった少女を助けるために部下を撃ったキャクストンは、以降その信念に沿って軍務に臨み、最上に近い結果を残してきた。
彼は彼の信念で人を殺す。彼は彼の信念で人を助ける。それが彼にとっての「正しさ」だ。


ガルシアはキャクストンの信念に触れ、悩みぬくことで、彼自身の信念を見つける。

暴力の行使だけが、すべてを解決する手段だからだ。
(中略)
これを使うことは、僕からすべてを奪った――…
「死の舞踏」を踊ることにほかなりません、ならば――…
誰がそんな舞踏に加わってやるものか。
少佐は僕に、「復讐の権利がある」と説きました。
それならば、僕は敢えてその権利を使わない。
自ら踊るのも、誰かに踊らされるのも御免だ。
それが――…
「死の舞踏」への、僕からの抵抗だ。
(9巻 p165,166)

ガルシアは、父の復讐をすることで自分もまた「死の舞踏」のサイクルに囚われてしまうことを拒み、「あなたを殺さない」とキャクストンに言う。最終的に自身の身体を張って、ロベルタがキャクストンを殺すことを彼は防いだ。
彼は彼の信念で人を殺さなかった。彼は彼の信念で人を助けた。それが彼の「正しさ」だ。


殺した者、殺されようとしている者、殺そうとしている者、各々の中に存在している信念(主観的な「正しさ」)の内で、自分の信念を貫ききったガルシアは、ロベルタの矛を収めることに成功する。

悪人面化するロック



この相克する「正しさ」の中で、ガルシアもロアナプラもなんとか助けようとしたロックは、事件が佳境に迫るにつれどんどん悪人面になっていく。
最初は

(7巻 p83)
こんな顔をしていた人間が

(9巻 p44)
こんな顔を経て

(9巻 p256)
こんな顔になるのだから、悪人面万歳だ。
ロベルタ編の中のロック像については前回の記事で書いたので詳しいことは省略するが、ロックのこの悪人面は、読み手に向けて前景化している、相克する「正しさ」の外側にいるがゆえに、「正しくない」=「悪い」という形で造形されている。
ロックの「悪さ」は、事件が片付いたあとのガルシアたちの言葉と表情で印象的に示される。

あんたは、自分の愉しみのために――…
若様に命を張らせたんだ。
最高にスリルのあるギャンブルがしたかっただけなんだ。
それだけならまだ、許せた。
…いや、許せないにしても、ここまで頭にくることはなかった。あんたは――
若様を駒にした「カンボジア式ルーレット」を、善意の人助けだとのたまったんだ。
私の落ち度はそれだ。最後まであんたが悪党なのかどうか、わからなかった。
でも、もうわかった。あんたはこの街一番の――…
くそ野郎だ。
――空砲弾。
こけ脅しの魔法で、紛い物の真鍮だ。

(9巻 p258)

――確かに、
誰もが無傷ではすまなかったけれど――…
僕らは目的を果たした。
――ですが、それがすべてだと言い切る貴方は――…
貴方はもう――
この街の人間だ。

(9巻 p259)

「正しさ」を戦わせたガルシアとキャクストンは、同じ嫌悪と侮蔑の目をロックに向ける。「正しさ」を持っていた彼ら/そうでないロック、という構図が出来上がっている。
前回の記事でも書いたが、ロベルタ編の終盤はガルシア周辺の視線が主となり、読み手は特にガルシアの「正しさ」と同一化することになる(また、キャクストンの信念も丁寧に描かれているために、キャクストンの「正しさ」も理解できるようになっている)。読み手はガルシアの「正しさ」を内面化するために、その「正しさ」とまるで接点のない、享楽を糧に事件にかかわるロックが悪役面に映り、逆に、ロックが悪役面で描かれるために、ガルシアたちの「正しさ」を内面化しやすくなる。これは相補的であり、同時的でもある過程だ。
ガルシアの笑顔で事件のフィナーレは飾られたために、なおさらガルシアの「正しさ」はわかりやすく伝えられ、読み手は最終的に「悪役」として片付けられたロックにもやもやしたものを感じることになる。なんだよ、主人公がこんな印象で終わるのかよ、と。


だが待ってほしい。ロックは本当に「悪」かったのか。「正し」くはなかったのか。

「正しさ」がもたらしたもの



改めて考えてみれば、「正しい」とされたガルシアやキャクストンの信念だってずいぶんな結果を生んでいる。
ガルシアはロベルタを助けるためであってもキャクストンは殺さない(代わりに、彼が自分の父を殺したことを決して忘れるなと言うが)が、その信念のために多くのグレイ・フォックスの人間がロベルタに殺されている。もちろん、ロベルタを殺さずに作戦を完遂させようと決定を下したのはキャクストンであるので彼の責任も大きいが、それでもガルシアとファビオラは、キャクストンが信念(「正しさ」)を貫くならロベルタを殺すなと、半ば脅迫に近い形で言う。
ガルシアが殺すことを拒んだのはキャクストンだけで、それ以外のグレイ・フォックスの生死は一切気にしていない。彼らがロベルタに殺されるのはかまわないが、彼らがロベルタを殺すことは許さない。復讐を果たすためにキャクストンを殺すことはしないから、自分は「死の舞踏」には加わらない。でも、その過程でロベルタがグレイ・フォックスを殺したことについて、キャクストンにも復讐を許さない。言ってしまえば、「死の舞踏」の最後の舞台はロベルタのもので、それ以降に加わることを許さないということだ。「こっちサイドが殺して終わり」。そういうことだ。それがガルシアの「正しさ」だ。


キャクストンは合衆国の軍人で、チームのリーダーだ。作戦遂行の責任は彼にあるし、現場でのチームの安全の責任も彼にある。だが彼は、自分の信念のために仲間が殺されることを許す。作戦遂行とチームの安全のためには、ロベルタを発見次第殺害、少なくとも行動不能に陥らせなくてはならないのに、自分の信念のためにそれを躊躇する。
そして最後には、仲間の敵をとろうとした生き残った同僚さえも、自分自身の手で撃ち殺す。
自分の信念は仲間の命より重い。*1それが彼の「正しさ」だ。


ヒロイックな彼らの言動を冷静に見てみれば、それが「正しい」者のすることか、と疑問を投げかけたくなるようなものだったりする。一見人道的に振る舞っているように見える彼らは、生命の価値に平気で序列をつけている。彼ら自身はそれを自らにごまかしてはいないが、読み手はうっかりすればごまかされかねない。
ただ、その「正しさ」を、外側から私たちがどうこう言うことはできない。ガルシアはロベルタを止めるために自分の命を賭けたし、ロベルタの背負ったものを一緒に背負うと誓った。キャクストンは信念を貫くために、自分の命をガルシアの前に差し出した。彼らは彼らの「正しさ」に責を負っている。「正しさ」に殉じている。
「正しさ」という言葉が似つかわしくないなら、「筋が通っている」と言い換えてもいい。彼らは彼ら自身の信念の中でぶれてはいなかった。客観的には不合理だ、正しくないと言われてもおかしくない(事実、レヴィは彼らの信念に終始否定的だ)主観的な筋を通すために、身体を張っている。


だが、それはロックだって同じだ。ロックは自分の「面白さを求める」という信念のために事件で身体を張っていた。彼の所属するラグーン商会も一つの組織であり、組織は組織自身のために自らの安全を求める。ダッチは組織の長として分水嶺を定めるが、ロックの信念はそこを越え、一時はダッチを怒り心頭させるが、最終的には言いくるめてラグーン商会をかかわらせる。ロックはロックの信念のために、自らも含めた人間達の命をベットした。*2ガルシアたちの「正しさ」が客観的に大勢から承認を受けられるものではないのと同様、ロックの「正しさ」も皆が皆笑顔で頷いてくれるものではないが、それでもガルシアたちが自分自身の「正しさ」を信じて行動したように、ロックも自分の「正しさ」を信じている。原理的に、そこに優劣はない。

「正しさ」の優劣の天秤 支点(視点)はどこにあるか



自らの信念のために命を賭ける。
その点において、ロックとガルシアやキャクストンに違いはない。
ではなぜロックが「悪役」になったのか、天秤がガルシアたちの側に傾いたのかといえば、上でも書いたように、読み手がガルシアたちに同一化するようつくられているからだ。
ガルシアたちは、自分以外の誰かのために動いた。ガルシアはロベルタのために。ファビオラはガルシアとロベルタのために。キャクストンはガルシアたちのために。
だが、ロックは徹頭徹尾自分のためだ。ロックがガルシアたちにかかわったのは「『面白そうだ』――そう思った」からだ。
おそらくそれが、ガルシアたちには受け入れられなかった。彼らには、自分のためにしか動かないロックは、「この街の人間」としか思えなかった。「あなたはこの街の人間だ」。この発言は勿論、「だから僕たちとは違う」という裏側がセットになっている。そんなことはないし、そんなことはある。ロックもガルシアたちも同じだし、ロックとガルシアたちは違う。信念からぶれない点では同じだし、誰のために動くのかという点で決定的に違う。
ガルシアたちがロックを嫌悪するのはいい。それは彼らの自由だ。だが、助けてもらったことに対する礼儀を忘れるいわれはない。ロックはロックで、命を賭けていた。ロックが鉄火場へ突っ込むことがなければ、間違いなくロベルタが彼らの元に戻るシナリオは訪れなかった。本来なら、ダッチの厳命によりラグーン商会は事件から手を引いていたのだから。
見方を変えれば、即ち、ガルシアたちの視点で事件を見なければ、ロックの行動も充分ヒロイックに映ったはずだ。身体を張って依頼を遂行した彼は、もっと感謝されていい。そのロックに、礼の代わりに空砲とは言え銃弾を打ち込むファビオラは、レヴィにしこたま殴られてもおかしくはなかった。彼女のやったことはそれくらいひどいことだ(個人的には、彼女こそロベルタ編で一番のやらかしちゃんだ。殺さなくてもいい人間を殺さなくてもいい局面で殺し、先達の支持は聞かず、恩人には空砲弾を撃ち込む。)。
それでもなおロックが悪役として映るのは、視点の違いに他ならない。読み手の眼はガルシアたちの眼だった。

「正しさ」は正しいか



「正しさ」を貫いたガルシアだが、それが客観的に正しいとは限らないのと同様に、それが幸せに繋がるともまた限らない。「正しさ」は必ずしも人を救うわけではないというのは、張の最後のセリフが端的に表している。

お前は賭に勝ち、ラブレスの当主もその目的を果たした。
だが――…
連中が幸せをつかんだとでも?
冗談じゃない、ラブレスに待っているのは茨の道だけさ。
紛れもなくあの子は善人で勇敢だが――
正しいことが、幸せな結末にいたれるとは限らない。
これからの人生は長い、彼にとっちゃ長すぎる。
(9巻 p265)

「正しさ」を貫いたところで、それがハッピーエンドなのかというとまた別の話だ。
ロックにとっては間違いなくハッピーエンドであったはずだが、フォアビオラとガルシアによりその思いは萎みきってしまった。「夕闇」に立つロックは、「光」と「闇」、どちらにも口を出せる代わりに、どちらからの罵言でも傷つきうる。「闇」にどっぷりのレヴィにとって、ファビオラの言葉は最終的に噴飯ものでしかなく、逆もまた然りだ。常識を共有しないものに罵声は届かない。だが、ロックは律儀に両者から傷つけられる。それが「夕闇」の辛さだ。




一応まとめよう。
ロベルタ編の主要人物は、みな「正しい」。みな筋が通っている。そしてみな等しく、他の側から見れば狂っている。それでもなお、その「正しさ」の優劣が読み手において画一的につけられてしまうのは、他のある「正しさ」を嫌悪しているキャラクターの見方に読み手が同一化されているからだ。ロックの「悪さ」は、ガルシアたちの感じている嫌悪に由来している。
だが、最後の張のセリフで、ガルシアたちの「正しさ」が幸せに結びつくとは限らないことが仄めかされる。「夕闇」に立つロック同様、彼らの未来も白黒はっきりつけられるものではない。事件が終わったから薔薇色というわけでは決してないのだ。この張のおかげで、ガルシアたちの「正しさ」が客観的にも「正しい」わけではないということが示唆されている。
ロベルタ編は、「正しさ」の決着をつけながらも、それが絶対的、客観的なものではないことを、主人公・ロックから感じるもやもやを通して読み手に突きつけた。「夕闇」に立つ者のピカレスク・ロマンとして、描かずにはいられない一つの結末の形なのだろう。




もしかしたら、そもそも「光」と「闇」とは何か、そして「夕闇」とはどのような状態なのかということについて、後日書く。かも。


追記;トラックバックをいただいたARRさんの記事
BLACK LAGOON 9巻とロックの「正しさ」の在り処の話 - それはロックじゃない
も、また違った切り口でロックの「正しさ」について書かれています。とても面白く興味深い内容ですので、是非ご一読ください。


お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

*1:ただ、公平を期すために付け加えれば、彼は自分の信念のためにガルシアに殺されることも厭わなかった。正確には、彼の信念は、彼自身の命より重い

*2:事件にかかわることをボスであるダッチが承諾しているのだから、その段階でロックの信念もラグーン商会と一致することになる。

「BLACK LAGOON」 「面白さ」を求めたロックは「夕闇」にいられたのかという話

三年の長きに亘って、三巻以上の長きに及んで連載されたロベルタ編が、ようやく終わった。何はともあれ、長かった。なにせ現時点ではあるが、全発売巻数の1/3を越える量だ。果たして連載最後の話でどれほどの話数が費やされるのか、想像するとぞっとする。


ともあれロベルタ編。今回のポイントの一つは、どんどん悪役面が加速していくロックだ。
最初に依頼を持ちかけられたときは

(7巻 p83)
こんな顔をしていたロックが、終盤になれば

(9巻 p44)

(9巻 p190)
こんなあくどい顔をして、ことが全て終わった後には

(9巻 p256)
こんな笑ってない目で笑うようになる。実に悪そうだ。
前々編の日本編で、雪緒はロックを「夕闇に留まっている」と言った。「貴方は結局何も選んでいない」と。それにショックを受けたロックだが、日本編の最後では、自ら「夕闇」に立ち続ける事を死に赴く雪緒に約束した。自刃する雪緒を見届けることで誓う、悲壮極まりない約束だった。
果たしてロベルタ編でのロックの立ち位置は、「夕闇」だったのだろうか。「光」でもなく「闇」でもなく、その両方に身を浸しながらも染まりきらない、中途半端がゆえに便利で、中途半端がゆえに非常に厳しいポジションを守り続けられたのだろうか。

ロベルタ編のロックの言動

悪役面が加速していくロックは、言動もまた尖鋭化していく。
当初、なぜ手助けしてくれるのかとファビオラに問われたロックはこう言う。

そうだな、
「面白そうだ」
――そう思ったのさ。
(7巻 p99)

この言葉はフォビオラを納得させることはなかった。ただ不理解のみを残して、質問は打ち切られる(ベニーだけは味のある表情をしていたが)。
ベニーに「どこまで踏み込むのか」「分水嶺を見極めろ」と言われたロックは、こう切り返す。

…………そう、確かに正しいさ、でも――
分水嶺はもっと先、
激突の瞬間に見る分水嶺は、もっと先だ。
(7巻 p127)

この時ロックが考えていたことは、ラグーン商会の他の人間より射程が長かった。いや、射程が長いというのは違う。別の方向を照準していた。
レヴィの助けを得ることのできたロックは、カードが揃ったことを確信し、ガルシアに言う。

――だが…本当に難しいのは、ロベルタを捕えることじゃない。
彼女が葬ろうとしている者、彼女を葬ろうとしている者、そして――彼女を利用しようとしている者。それを解きほぐしてそれぞれの場所へ収めるんだ。
――それは、賭だ。
……でもそこが――
この案件の、一番面白いところさ。
(7巻 p174)

このセリフを言う時、ロックの口には僅かに笑みが浮かんでいる。「一番面白いところ」。それは彼の本心だ。心底このヤマを面白がっているからこそ、彼はこう言い、笑みも浮かんだ。
シェンホアたちに声をかけ、ロベルタの居場所に踏み込んだロックたちだが、既にそこにはぐつぐつの鉄火場が出来上がっていた。それはもう、ダッチに言われていた「分水嶺」だった。だがロックは言う。

…――引いても状況は戻らない、ただ悪くなっていくだけだ。
ここが分水嶺、ダッチにはここで引き返せと――…
繰り返し言われた。
ガルシア君。決めるのは、君だ。
君が結末を見たいというのなら――
僕は最後まで付き合う。
(8巻 p72,3)

実に真面目だ。実に真摯だ。恐らくこの時のロックもまた、心からこのセリフを言っている。ただ、その言葉の真意を彼自身理解していたのか。
戦闘が始まったことで、張はロックに手を引けという。その問答の最中に、ロックは言い放つ。

――……ミスター・張。俺は誤解してた、
あんたは――
ひとでなしの、くそ野郎だ。
(8巻 p99)

一見、人道的な言葉に思えるその裏側に、どんなロックの思惑があるのか。張はこの事件を「遊戯(ゲーム)」と表現した。それは、ロックにとって実に適切な言葉だったはずだ。それがロックの意識していないところだったとしても。その「遊戯」のチップが人間の命だったとしても。
エダの助言を受け、ラグーン商会を動かしてこの案件を収めるべきだとダッチに進言したロックだが、ダッチは当然首を振る。だが、ロックの一言は、良かれ悪しかれダッチの心を揺さぶった。

じゃあ――こう言い換えよう。
最後の最後で、大騒動の一番面白い出来事を――
俺たちだけが楽しめるんだぜ、ダッチ。
(9巻 p44)

例の悪い顔だ。骨の髄から「面白そうだ」と思っている顔だ。
そして鉄火場が過ぎ去った後に、上で挙げた「眼が笑っていない笑顔」のロックが現れる。

最上の結果だ。予想通りだ、君の主人は正確にことを運んでくれた。
君たちなら絶対にできると思っていた。
俺も、君たちを助けることができて、本当によかったよ。
(9巻 p256)

外形的には、ロックはもう立派なピカロだ。「正しさ」の外側に彼の行動原理はあり、「光」の側の人間にはひどく醜く映る。

「夕闇」と「享楽」

ざっとロックの言動を追ってみた。彼の言動は尖鋭化していくが、ぶれてはいない。「面白そうだ」という考えは、当初から存在していた。この考えと「夕闇」は果たして両立しているのか。


と問いを立てておいてなんだが、この両者は別に競合しているわけではない。「夕闇」はあくまでロックの立ち位置であり、「面白そうだ」はロックの行動原理だ。「光」でも「闇」でもない場所(世界/立ち位置)から「面白さ(スリルと言い換えてもいい)」を追い求めた男。それがロベルタ編のロックだ。
悪役面して描かれたせいでどうにも、日本編での誓い/覚悟を忘れた男前でない人間のように見えるが、彼は「夕闇」も「面白さ」も忘れておらず、変わってもいないのだ。


そもそも、ロックが日本の大手商社から悪党の巣窟たるロアナプラに移ったのも、「面白さ」を求めたからに他ならない。

俺はお前に誘われた時、何かが吹っ飛んだ感じがした。
ラッシュに揺られ、愛想笑いで頭下げて、勤務成績に命張ってよ。何があっても飲めるところとバッティングセンターがありゃ「世はこともなし」――
そんな全部がどうでもよくなったんだ。
(2巻 p130)

この判断やら価値観をどうこうする意味はまったくの絶無なのでさておいて、ロックにとっては日本の「こともな」き日々より、ロアナプラのラグーン商会の方が刺激的に映ったわけだ。
日本編のロックには、このような享楽主義はなりを潜めている。その理由はおそらくこれだ。

忘れたのか、俺はもう死んでるのさ。
お前と出会った、あの日にな。
ロアナプラが歩く死人の街なら、ここは生者の住む街だ。
余りにも知った光景だったから――――
俺もそいつを忘れかけてた。死人にとっちゃ幻みたいなものだったのにな。
(5巻 p109,110)

ロックは忘れかけていた。自分がもう日本に、「こともな」き日々に見切りをつけていたことを。それは、同時に自分の選んだ道を忘れかけていたということでもある。ロアナプラを選んだことは、享楽主義を選んだことと同義だったはずだ。
コメディ要素も少なく、日本刀による自死という凄惨な結末を持つ日本編は、全巻を通読しても異質な感はあるが、それはロックの享楽主義が現れていないということにも由来する。日本編の彼は雪緒を助けようと奮闘するが、それは雪緒にとってはむしろ嫌悪を掻き立てるものだった。ロックの行動は、根っこのところでは自分本位のもので、それは雪緒に喝破されたとおりだ。つまり、根っこのところでやはりロックは享楽的に動いていた。それを彼は、「雪緒のため」と粉飾していた。それが「闇」を真正面から選んだ雪緒には許せなかった。

読み手の眼は誰の眼か

「光」から「闇」へ進むことを選んだ雪緒はロックを嫌悪し、ロベルタ編を通して、一度「闇」の領域に脚を踏み入れながらも再び「光」に戻ったガルシアとファビオラもロックを嫌悪した。「光」と「闇」を両方知り、かつどちらにいるかを決意したばかりの者に、「夕闇」に立つロックはひどく厭うべき対象として映るらしい。
元警官の張も、「光」から「闇」に入った人間だが、そちらに行って長い張にとってはロックはむしろ「面白い」人間に映る。他のロアナプラの人間も、基本的にはロックに対して「面白い」やつだと思っている。この違いは、興味深い。
その差はどこから出てくるのか。
おそらく、「光」と「闇」を両方知ってはいても時を経ていない人間は、「夕闇」のポジションがいいとこどりのように見え、長く知っている人間は、厄介ごとが倍になると言うことを十分理解しているのだ。
最初に言った「中途半端がゆえに便利で、中途半端がゆえに非常に厳しいポジション」というわけだ。
「夕闇」にいるロックは、どちらにも脚を突っ込んでいるので、さまざまな局面に顔を売れる。その代わりに、さまざまな局面でコウモリ呼ばわりされうる。よかれ悪しかれだ。
実際、「夕闇」に立つロックがいなければ、ロベルタ編でロベルタもガルシアもファビオラも死なない結末は迎えられなかっただろう(代わりに多くの人間が死んではいるが)。これは紛れもない事実だ。ロックの功績だ。それでもロックは、フォビオラたち、「光」に戻る人間と決定的に袂をわかった。もう「光」に戻った彼女らにとって、ロックは「夕闇」ではなく「闇(=この街の人間)」だと言う。彼女らは、不本意ながら「闇」に助けられたというわけだ。ロックにしてみれば、「夕闇」に立ったままで「光」にいるガルシアたちを助けたつもりだろうに。


対象の死という悲劇的結末を迎えた日本編では、「夕闇」に立ったロックはポジティブなもの(男前と言い換えてもよし)として映り、対象の生存というハッピーエンドのはずのロベルタ編では、「夕闇」に立ったロックは嫌悪されるものとして映った。この二編は「夕闇」の二面性を表した、裏表の話だと言える(日本編では享楽主義が薄かったので、まったくの裏表ではないが)。
改めて言う。ロックはぶれていない。「夕闇」の立ち位置も、享楽を求めてロアナプラを選んだその性根も、ロベルタ編を通じてそこかしこで光っている。ただ、それが厭うべきものとして映る者がいて、そんな者たちの視点に読み手は同一化させられていたということなのだ。ロックがどんどん悪人面として描かれていくのは、それが悪人として映るファビオラたちの視線に読み手を近づけていくためなのだ。




ぬう。本来書きたかったのは、ロベルタ編から感じる「正しさ」と「狂っている」の水準の話だったのだが、まずロックについて触れないことにはあまりにも膨大になってしまうので、やむなく予定になかった(つーか考えてもいなかった)ロックの話になってしまった。その件についてはまた後日。


追記;というわけで書いたもの。
「BLACK LAGOON」悪役面のロックは「正しい」人間ではなかったのかという話 - ポンコツ山田.com
結局「狂っている」に関する話はなかった。なぜなら予定は未定だからだ。ロックだけでなく、ガルシアやキャクストンの在り方について触れている。


お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。

「BLACK LAGOON」に見る、映画的な漫画構成 後編

BLACK LAGOON 8 (サンデーGXコミックス)

BLACK LAGOON 8 (サンデーGXコミックス)

昨日の続きです。
「BLACK LAGOON」に見る、映画的な漫画構成 前編 - ポンコツ山田.com

コマの重なりについて




BLACK LAGOON 五巻 p76)
このコマの複層ぶりは凶悪です。左上のコマが右のコマの上にかぶっていますが、絵自体は右のコマが上に来ている。左下のコマは3コマのうち一番下の層なんですが、絵は左上のコマにかぶっている。エッシャーの「上昇と下降」のように、あるいはテープを使わずに底が抜けないようにする段ボール箱の閉じ方のように、どれが一番上なのかわからない構成になっています。
これも、昨日の「コマの形について。」で触れたように、カメラの視点の移り変わりの急激さを表していると思われます。昨日の例では、モザイクのピースのようではあるもののページのスペース内にきっちり収められていましたが、この例では、絵とコマがそれぞれに交錯して配置されており、特にコマ(絵)が縦長、横長であるので、読み手の視線の移動が右下から右上(人の顔があるので、右上より先にまずそこに視線が行くはず)、右上から左上、左上から左下と渦を巻くように行われるはずです。
例えば交通事故に遭う瞬間など、その瞬間の映像の記憶の時系列がごっちゃになったりするという話を聞きますが、この絵とコマの重なりもそれに近い効果をもたらすのではないでしょうか。
日本の漫画は

  1. 右→左
  2. 上→下

という約束事の元、読まれますが、コマがぴったり隣り合うのではなく重なり合ったり、それどころか絵がそのコマの重なりの上下を無視して描かれたりするのは、確かに見づらいものではありますが、緊急時の視界の交錯、記憶の錯綜というものを想起させ、状況の急迫した感じをいや増すことができるのでしょう。前回の「コマの形について。」も合わせて、逆説的ですが、「見づらいからこそ切羽詰っているのがわかる」ということです。


コマの重なりについて、別の観点からも考えてみましょう。



(同書 p92,93)
ちょっと見づらくて申し訳ありませんが、「#33 Fujiyama Gangsta Paradise PT.12」の最後のページ見開きです。
とりあえず左側の斜めにカットされたコマ列は置いといて、全体の右側3/4を見てください。重なったコマのうち、一番下なのは中央のコマ、それに重なるように上下右のコマが配置され、さらに上のコマは右のコマにも重なっています。そして、「ジャカッ!」という擬音が上のコマから下のコマまで縦断していますが、これはこの縦3コマが同時に起こったことを意味します。同じ瞬間を三つのカメラが捉えた形なのです。鳴った音は一つ、それが三つのコマ全てにかかっているということは、そう考えるのが妥当でしょう。右のコマにはかかっていませんが、上下のコマと同様、中央のコマに重なっていることを考えれば、右のコマも同じ瞬間を捉えたもう一つのカメラと考えてもよさそうです。
この話を読みすすんでこの見開きに到達した時、最初の瞬間こそ上に書いた約束事どおりまず右のコマに目をやるでしょうが、視点が落ち着く先は中央のコマのはずです。なぜなら、そのコマが重なり合った中で一番下だから。バランスとして、一番下というのが一番安定しているのです。だからこそ、中央のコマに銃の向いた先についてもっとも俯瞰的に描かれた絵が配置されているのでしょう。このコマが一番視線が落ち着きやすいからこそ、全体の構図がすっきりするのです。もし中央のコマが一番上に来ていたら、上下右のコマが中央のコマの下にあったら、どのコマに視点を落ち着けていいか迷ってしまう、据わりの良くない見開きになってしまったのではないでしょうか。
視点の落ち着く先を作っておいて、改めて見開き全体を見渡してみれば、全てのコマに銃・銃・銃。誰もが誰かに銃を向けられているという、素晴らしく緊張感溢れる見開きです。そして最後の台詞は「私を見ろ」。ここで次回へ続くんですから、ボルテージは否が応でも高められます。

このように、視点が落ち着く先を決めるために、コマを重ねることがあるともいえるのではないでしょうか。まあこの観点は、あんまり映画っぽさと関係ないのが本当のとこなんですけどね。好きなスピードでページをめくれる漫画ならではだといえるでしょう。これが最後のページなわけですし。

台詞について。



映画の台詞は音声として耳に聞こえますが、漫画の台詞はあくまで文字なので、脳内で再生されることはあっても、実際に鼓膜を震わせるわけではありません。当然の話です。ですが、この当然の話が漫画の制約として意外に大きいのです。
声が聞こえないということは、その台詞を誰が発したのか、台詞単体では判別が難しい時があるのです。映画なら、カメラが発話者を直接写していなくても(回想シーンや、カメラが別のキャラを追っているときなど)、声でその台詞を誰が発しているか判別がつきますが、漫画では台詞の内容や言葉遣い、ストーリーの流れなどで判別しなければならず、発話者を特定するための要素、それも重大なヤツが映画よりも少ないのです。
ですから、複数人の発話者がいる時に、漫画のフキダシには発話者を特定するための「しっぽ」がついているのです。

ヨルムンガンド 五巻 p43)
コマの中には三人いて、フキダシは二つ。いったい誰と誰の台詞なのか、あるいは一人が二回喋ったのか。内容を見ればわかるものではありますが、その認識を容易にするために、フキダシには「しっぽ」がつけられているのです。
このように、「台詞の書かれたフキダシが誰のものかわからない」という状況は漫画にとって非常に好ましくないので、意識的にでも無意識にでも、漫画はそのような構成を避けるのです。
ですが、この画像を見てください。

BLACK LAGOON 五巻 p61)
この画像の中のフキダシの発話者は、一番下で見切れている少女です(正確には、この画像の前のコマから発話は続いているんですが)。フキダシがかぶっている積み重なったコマは、彼女の回想であり。そのコマの誰かが発声したわけではありません。回想シーンに台詞をかぶせるという、映画なら普通に行えるが漫画では忌避されやすいテクニックをあえて使っているのです。
この台詞を誰が発したかということについて、迷う読み手はいないはずです。前のコマからの流れははっきりしていますし、積み重なったコマが回想だということも理解しやすいですから。しっかり構成を練れば、誰が発話したのかということを特定させるのは難しいことではないのですが、漫画ではあまり使われません。やはり、声で判別ができない、という漫画ゆえの制約は強く及ぼされるのでしょう。そこをあえて使うのが、「BLACK LAGOON」の映画っぽさなのです。


もちろん他の作品で使われないということではありません。例えば例に出している「ヨルムンガンド」でも、こんなシーンがあります。


ヨルムンガンド 五巻 p136,137)
この台詞の発話者は、最初のしっぽつきの台詞を発している彼女ですが、以降の台詞は各カットの上に配置され、流れを考えず単体で見た場合には、発話者を特定できないものになっています。ですが、そこに流れをきちんと作ることで、発話者の顔を出さなくても誰が喋ったのかしっかりわかるようにしてあるのです。
また、漫画史上トップレベルの長尺台詞に、「HELLSING」四巻「D?」の中の少佐の戦争演説があります(こちらのサイトに全文が載っています。「戦争!戦争!戦争!」のシュプレヒコールまで、彼は一人で喋り続けているのです。カギカッコのもの以外は、全て彼の台詞です)。実に5p、14コマの長きに亘って一人で喋っているのですが、その途中にはやはり彼が映っていないコマがいくつもあります。ですが、「この台詞は全て彼が喋っているものである」という認識を共有できるように構成してあるので、読み手は発話者の特定に混乱をきたすことがないのです。

まとめ。



昨日から書いてきたことをまとめれば

  • コマを線のみで区切ることで、コマの関係性を密にする=カットの移動の急激さを表す
  • コマをモザイクのピース状に割ることで、カメラの動きを表す
  • コマを重ねることで、カメラの動きの激しさを表す
  • 台詞を発話者から離すことで、台詞の「声」の印象を強める=映画的なカメラワークに近づける

となります。
こうしてまとめるとよくわかりますが、「BLACK LAGOON」の映画らしさとは、カメラワークを強く意識した紙面構成に由来するのです。
もちろん、映画的手法をそっくりそのまま漫画にもってくることはできません。映画と漫画には、表現上に大きく隔たりがあるからです。まず大きいのは、映画は(原則として)自分で見るスピードを決めることはできませんが、漫画は好きなスピードで読み進められる点です。映画は同時に見ている人間全員が同じスピードで見ることが鉄則であり、個人の都合で「ちょっと巻き戻して」などと要求できるわけではありません。それが映画館なら100%無理です。
また、映画には音声がありますが、漫画には視覚情報しかありません。音声情報すら視覚上で表現するしかないのが漫画なのです。
映画から参考になる点は多々あると思いますが、それを漫画的に表現するには、一度自分で噛み砕いてから新たに練り直さなければならないのです。「BLACK LAGOON」は、広江先生の解釈による手法でもって、存分に映画らしさを発揮していると思います。

この前GXをちらっと読んだら、まだロベルタ編をやっていました。ずいぶん引っ張るなとは思いますが、さすがにそろそろ終わるのかな。まだいくらでも展開を膨らませられる作品だと思うので、是非もっと巻を重ねていってほしいです。








お気に召しましたらお願いいたします。励みになります。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。