「10巻は?」でおなじみの『BLACK LAGOON』。
- 作者: 広江礼威
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2009/10/19
- メディア: コミック
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それまでのエピソードはラグーン商会、特にロックを中心にキャラクターの行動が描かれており、張(三合会)やバラライカ(ホテル・モスクワ)は、ロックらが活動する舞台のお膳立てをしていました。それは、単に彼/彼女がラグーン商会に仕事を依頼したというだけではなく、彼/彼女によって敷かれている規律に従ってラグーン商会が行動してきたということです。ホテル・モスクワの圧倒的な武力はそれに逆らうことの無意味さを誇示し、ロアナプラという街そのものの存続に心を砕く張は、「現在の
張の言葉を借りれば、張やバラライカが仕事を依頼することで成立した「舞台」の上でロックたちは踊る。ステージプロデューサーの張、バラライカと、演者のロックたち。彼/彼女は依頼した仕事で「舞台」の演目を決め、己らの敷いたルールでステージを律する。そういう関係でした
さて、強大な両者によるこのルール。その強制力は、彼/彼女の行動理念が読めないがゆえに強くなります。そうある理由がわからないルールはひどく理不尽に映り、理不尽なルールには抜け道がありません。なぜそう決まっているかわからないから、グレーゾーンを計れない。ルールからどれだけはずれたらズドンなのかが読めない。ルール間の矛盾を見つけたところで、そこを抜けようとしたら警告なしに風穴が空けられているかもしれない。
ロベルタリベンジ編までは飄々としているように見えた張はまだしも、バラライカは登場当初からずっと血なまぐさく、圧倒的に強く、その有り余る武力で何を求めているのかがわからない。だから、無用にルールを犯す気にはなれない。
でも、そんな彼/彼女の内心は、ロベルタリベンジ編で少しく明らかになりました。張の内心「ロアナプラという街そのもの存続に心を砕く」は、既に書きましたが、これはロベルタリベンジ編で初めて詳らかになったものです。
ミャンマーのアングロ・タウン? またはエル・レイか? それともヨハネスブルク?
それらのどこよりも閉鎖的で、猥雑で、エキサイティングでそして――闇夜の精気が満ちた街。
それが――この街だ。それがロアナプラだ 。俺たちが禍根を乗り越え。相互に協力してきたからこそ――現在のこの繁栄がある。
この街は脆く、そしてか弱い。一度、日なたの者の介入を許してしまえば、我々を擁護する者など誰もいない。
彼らとの直接対決は――最後の瞬間まで避けるべきだ、と俺は考えている。
我々、三合会の立場を述べよう。三合会は、街の存続を基幹として行動する 。
(7巻 p141,142)
ロベルタリベンジ編で、この理念を根底にして張は動き、ロックやバラライカ、ガルシアの行動に介入していきます。
そして張には、別の側面が同時にある。別の側面というよりは、より根源的な本能。それは、ロックと同じ、物事を享楽的に面白がること。
ロアナプラが滅びても、宇宙が滅びるわけじゃない。俺たちはただ、店じまいと、落とし前の準備をして――93年のあの時のように、
また彼女と殺し合いをすりゃいい 。
その後のことなんか知るか。収まるところに、すべては収まる。天地流転して陰陽を成す、てえやつさ。
(中略)
別に肝っ玉なんぞ持っちゃいない。下らねえことを下らねえまま 楽しめる。そういう性分なだけさ。
(9巻 p77,78)
これを考えると、張がロアナプラを護ろうとしたのは、この街が「どこよりも閉鎖的で、猥雑で、エキサイティングでそして――闇夜の精気が満ちた街」、つまりどこよりも彼が楽しめる街だから、と言えるでしょう。享楽的な張がロックに目をかけ、ロベルタリベンジ編のラストで彼に声をかけたというのは、同類としての気心だったのかもしれません。
そしてバラライカ。元軍人であった彼女の目的はなんだったのか。ホテル・モスクワが動く直前の張との会話で、それは鮮やかに浮かび上がります。
「――…それがお前らの生き方か。
軍人として死にたいか ?」
「……張。根っから極道 稼業の貴様にはわかるまい。我々はもはや、軍人でもなければ敗残兵ですらない――軍人崩れ でお前と同じ、ただの無頼者だ。
だが――……ソ連邦に見捨てられ、新生ロシアにも裏切られ、そうしてすべてを失った我々に――唯一残されたものはいったいなんだ?
軍旗の名の下で生と死と戦いのすべてを味わってきた――その矜持 だ。黴が生え、古びた碑と成り果てた矜持の残骸 だ。
私はお前のように、明日なき生を生きること は望まない。そして――無為に生をまっとうするだけの人生では犬と同じだ 。
我々が望む死はただ一つ、しかるべき者としかるべき戦いの中で、自分がかつて何者だったかを想い出して 死ぬことなんだよ、ミスター・張」
(8巻 p25,26)
そして、彼女のこの気持ちが慟哭となって迸ったのは、それは皮肉か当然か、かつての冷戦時代において仇敵であった米国軍人を助けた時でした。
――本心を言えば、我々は――… 是非に……
是非に貴軍と一戦 、砲火を交えたかった 。それは我々が生者 であった頃から、アフガニスタンの赤砂の上でのたうち回っていた あの頃から―― 我々が待ちに待った戦争だった。待って待って、恋焦れた 戦争だった。
(中略)
死人というものは、いつまでも生者が羨ましく 、妬ましくて堪らない 。
(中略)
いつの日か、あなたの国を、あなたの街を、席捲し蹂躙せんがため ――そのためのみに 我々は存在し生き抜いてきた。この身を無頼に堕としてもなお 、我々は精強さと規律を保ち続けている。――そう記憶して戴きたい、以上であります。
(9巻 p80〜83)
このように、以前は強大なルール、理不尽なゲームマスターとしてふるまっていた張とバラライカの内面が露わになっていった時、主人公であるロックはどうしていたか。
張からの依頼でガルシアらのロベルタ捜索を手伝っていたロック。だが、一足遅く、狂犬ロベルタは米軍部隊に噛みつき、ロアナプラは戦場となった。もう遅い、ガルシアを見捨てろ、と言い放った張にロックは、「
そして、米軍部隊とロベルタとガルシアが踊る舞台は、ロックによってプロデュースされていく。手は打ったのだからあとは野となれ山となれと言った張と、求めた死に場所と張との約束になんとか折り合いを付けたバラライカは舞台から姿を消し、その三者だけが残って黄金の三角地帯の幕が開ける。それまでのステージプロデューサーは引っ込み、代わりに昇格した元演者。そして踊る新たなアクターたち。
メタ的な視点で考えれば、このエピソードでは後にロックがプロデューサーの役に就くために、それまでのプロデューサーであった張やバラライカは、役にいるために必要だった理不尽さ、行動理念の不可解さをまとってる必要がなくなったのだと言えるのではないでしょうか。
後半のロックは、思わせぶりな言動を振りまき、それまでの人の好さからはかけ離れたあくどい顔で内心を読めなくさせていて、その不可解さはまるで張やバラライカのよう。手の内を見せない謀略に、アクターたちはそれがロックの思惑通りだとしても、自分らの信念に則って踊るしかありません。
エピソード内でのプロデューサーのバトンタッチ。それに伴う、各キャラクターの行動・理念描写の変化。張やバラライカは内心をさらけ出し、逆にロックは見えなくなった。人物関係の構造が入れ替わったことで、描写にある種の必然とも言える変化が生まれた。ロベルタリベンジ編には、そんなことが見えるのかなと思います。
というところで、だいぶ長くなったので、黄金の三角地帯で踊るアクターたちの両天秤にいる「悪い」ロックと「正しい」ガルシア、その間で揺れる者たちの話はまた後日にしようかと思います。
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