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漫画の話です。

『君と宇宙を歩くために』『税金で買った本』宇宙の中で自分を繋ぎとめる、言葉という命綱の話

 2023年8月号のアフタヌーンで掲載された、泥ノ田犬彦先生の『君と宇宙を歩くために』。
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 高校生が宇宙を目指す的な『宇宙兄弟』みたいな作品かなと思ったらあにはからんや、「”普通”ができない正反対な2人の友情物語」という惹句にあるように、真面目になるのがダサいと思ってしまうヤンキー気味な小林と、自閉スペクトラム(とは明言されてませんが)の転校生・宇野が出会う、社会とコミュニケーションの物語です。
 予想を裏切られながらもグイッと引き込まれるストーリーで、話の完成度が非常に高く読み切りかと思ったほどなのですが、どうやら2話以降は&sofaに掲載とのこと。追っていきたいですね。

 第一話で心に残るシーンは多くあるのですが、その一つがこれ。

(p43)
 タイトルにも掛かっているこれ。
 「記憶することが得意なのですが 沢山のことを同時に行ったり臨機応変にすることが苦手」という自身の特性に悩む宇野は、上手く対応できない事態に直面して、焦ったり困ったりするときを「一人で宇宙に浮いているみたい」と表現し、「上手にまっすぐ歩けない」と無力感に襲われるのですが、困ったときにすぐ参照できるようにと日常のルーティンを書き留めてあるメモを、無重力空間での命綱である「テザー」とすることで、「宇宙を歩きたい!」と前を向いて生きることを宣言するのです。

 このメモは、物語を駆動させるキーにもなっているのですが、日常のルーティンを書き留める、すなわち行動などのマニュアル化あるいは言語化は、作中で別の形でも現れてきます。
 それは、小林がバイト先で失敗した後に、他のスタッフからアドバイスを受けたシーンです。

(p62)
 マニュアル化とは、連続的な行動について、適切な言葉で適当な単位に分割することですが、そうすることで、実際に行動した時にやり方を忘れてしまっても思い出せるし、途中で止まっても止まったところからやり直せるし、行動について他人と共有することも容易になります。
 宇野とは違う形で、小林は行動のマニュアル化によって救われたのです。

 上で「マニュアル化あるいは言語化」と書いたように、マニュアルとは言語によって作られるものですが、本作では、他にも言語の特性を表している場面があります。それは、上で引用した小林のシーンの少し前、バイト先で、良かれと思ってやったのにそれを失敗してしまっていたことに気づいたシーンです。


あ~辞めてぇ
浮かれてただけじゃん
一個出来るようになったからって何だよ 何も変わんねーじゃんかよ
バカにしやがって…! クソッ…!
ああ いやちがう そうじゃない
《上手にまっすぐ歩けない それを笑われたり怒られたりすると怖くて恥ずかしい気持ちになります》
それだ
これはイラついてるんじゃねえ 怖くて恥ずかしいんだ
宇野もそうだった? お前も俺と同じだったのかな
(p56,57)

 今まで真面目になることから背を向けていた小林が、宇野との出会いを経て、今やっていることに真面目に向き合ってみようとやる気を出したにもかかわらずうまくいかず、かえって余計な仕事を増やしてしまった。
 自分のミスに陰で悪態をつく他のスタッフの会話を聞いて、小林は「バカにしやがって」と怒りを滲ませるのですが、宇野の言葉を思い出して、自分の今の気持ちを落ち着いて整理し、この感情が「イラついてる」のではなく「怖くて恥ずかしい」という気持ちだと理解したのです。
 すなわち、自分の感情の適切な言語化です。苛立ちの解消方法と、恐怖や羞恥の解消方法は別であるように、行動だけでなく、感情も適切な言語化をすることで、問題の解決を容易にするのです。
 
 さてこのシーン。最近、他の作品でもよく似たシーンを見た覚えがあります。それがなんの作品かと言えば『税金で買った本』の第56話。
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 この前後編の話は主人公である石平少年の過去編なのですが、その中で、現在の友人である山田との出会いが描かれています。山田が湯本という女生徒にひどいことをしたという噂を不審に思った石平が、山田をとっつかまえて詳しい話を聞こうとするのですが、問い詰めてくる石平に対し山田は噛み合わない返答をするばかり。それでも根気強く(そうか?)話を聞いた石平は、山田の考えていることをこう表現するのです。


(税金で買った本 56話 p15)


(同上 p17)

 この石平の喝破と、小林の気づきが、同質のものだと私は思うのです。
 すなわち、山田と小林二人とも、自分の思考や感情に、適切な言葉を与えられていないのだと。

 日本語には非常に多くの単語がありますが、その単語全てを知っているわけでなく、ましてや使えるわけでなく、日常的に見聞きし使用するのは、その中のほんの一握り。ましてや、まだ若かったりするなどしてボキャブラリーが少ない場合には、幅広い意味を持つ言葉でたいていのことを片付けてしまいます。
 「ヤバイ」「スゴイ」「ダサい」「エモい」「むかつく」「ハンパない」などなど。世代ごとに膾炙する単語の違いはあるでしょうが、いい意味悪い意味両者を含意できる単語がどちらの意味を表しているのか理解するには、非常な文脈読解能力が必要とされます。
 しかし、そのような便利すぎる言葉の多用は、えてして、自分や他人の感情や思考を極めて大雑把にまとめることになってしまいます。
 テストで平均点を越えた嬉しさも、恋人ができた嬉しさも、アイスのあたりが当たった嬉しさも、三年間最後の試合で勝った嬉しさも、せいぜい「超」「鬼」「激」など、程度を表す言葉を加えて量的な差異を表すくらいですべて「ヤバイ」で表してしまうことは、湧き上がった感情の中に含まれている、「嬉しい」以外の他の細かい成分をすべて無視し、すべて同じものとまとめてしまうことになります。
 その結果が、小林や山田のような、自分で自分の感情がよくわかっていない状況なのです。
 小林が、自分では苛立ちだと思っていた感情の下には恐怖や羞恥があり、山田が自分では怒りだと思っていた感情の下には羞恥や屈辱ありました。でも、それらの細かい感情になんと名前を付けていいかわからなかったために、「苛立ち」や「怒り」というラベルを貼ってしまい、苛立ちや怒りを晴らすための振る舞いをとってしまっていました。
 しかし、苛立ちの解消が恐怖や羞恥の解消に、怒りの解消が羞恥や屈辱の解消につながるとも限りません。小林や山田は、解消しようと思っても解消できない鬱屈に悩まされ、それを解消できない無力感が精神を苛んでいきます。
 あるいは、問題を解消できない無力感が、感情や状況に適切なラベルを貼る能力の形成を妨げたという方向もあり得るでしょう。
 小林は、小学校の二桁の割り算で躓いて以来、どうやって理解すればいいかわからず、どうやって教えを請えばいいかもわからず、他人からカッコ悪く思われないように、「バカ」って思われないように、「マジメに授業受けるのが怖くなって フケって逃げてた」のですが、勉強がわからなくなってしまい、自身の問題解決能力の自信を無くしてしまったために、小林は努力しない自分を選び、主体的にサボって、知能的・情緒的な能力の向上を放棄したのです。
 これを、彼らの個人的な問題と片付けてしまうのは簡単ですが、そうしてしまっては何も生みません。学校教育や、家庭環境や、地域社会など、一度躓いた人間をフォローできるセーフティーネットはなにかしらある、あるいはあったはずなのです。もしくは、あるべきだ、と言った方がいいのかもしれませんが。

 ともあれ、『税金で買った本』では、石平が山田に指摘をすることで、山田は自分の感情を前より適切に理解することができました。
 『君と宇宙を歩くために』でも、小林は、宇野の頑張りを思い出し、自分の感情をきちんと腑分けしたうえで冷静になり、他のスタッフにミスを謝罪し、それによって彼らからアドバイスを受けられました。
 心も、行動も、自分でもよく理解できていないままに振舞おうとすると、周囲とうまくかみ合っていればいいですが、いったん齟齬が起きると、途端に世界はぎくしゃくし始め不安定になりますが、それらに適切な言葉をつけられると、不安定な世界に放り出されても、自分の居場所をはっきりさせられたり、安定している場所へ自分を引っ張っていくことができるのです。

 言葉が生まれたことで、人間は精神世界をより深められるようになり、また莫大な情報を他者に伝達できるようになりました。言葉はあまりにも日常的ですから見過ごしがちですが、まさにこうして言葉にすることで、その重要性を改めて意識できますな、と。

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武士道とは(異世界だろうと)死ぬことと見つけたり 『異世界サムライ』の話

 立身出世に興味なく、器量を活かした女の幸せも興味なく、ただ剣に生き剣に死ぬことを望んだ女侍・月鍔ギンコ。戦場で死に損なってしまった彼女が、己を殺してくれる敵よ来たれりと仏に祈ると、その願いは聞き入れられた。すなわち、怪物が跋扈する異世界に彼女は飛ばされたのだ。
 オーク、バジリスク、ドラゴン、そして勇者。数々の強者が存在する世界で、果たして彼女は満願を成就できるのか……

 ということで、齋藤勁吾先生の新作『異世界サムライ』のレビューです。玉石混交と言える異世界/転生ものですが、ここ最近で一番ビビッときたのがこの作品でした。
 派手なアクション。テンポのいい会話。転がっていくストーリー。そしてなにより、主人公ギンコの人間性。これが本作をとても魅力的なものにしているのです。

 異世界/転生ものと言えば、主人公は前世の心残りを晴らそうとしたり、あるいは前世で苦労したからスローライフを目指そうとするのが多いもので、そのテの主人公は第二の生をポジティブに謳歌しようとするものです。
 しかし、本作の主人公ギンコは、元々いた中世日本で、無双の剣の腕で出世することにも、器量よしで良縁を得ることにも興味はなく、ただ武士として生き武士として死ぬことを望むのみ。戦で死に損なった後は、その望みはいよいよ強まるばかり。
 そう、彼女はとても前向きに望む後ろ向きな願いとして、つまり、よりよく死ぬために、異世界に跳んだのです。

「武士は矢弾飛び交う合戦にて散るが誉
わた…某も そのように死にとうございます
怒涛の如く押しよせる敵兵相手に一騎当千に斬りまくり
そして討たれて死ぬのです あとに残すは骸のみ」
「お前の剣は天才だ 剣の道で成功も名誉も意のままだぞ」
「立身出世興味なし」
「では女として生きるのは? お前は器量もいいし…」
「父上 某 女に非ず 侍に御座候!!」
(1巻 p8~12)

 この宣言どおり、ギンコは関ケ原の合戦に先鋒隊の足軽として参加し、長槍も持たず太刀のみで敵兵を斬り斃していくのですが、鉄砲の弾が鉢金に中り気絶、その間に戦は終わり、他の人間の骸が死屍累々と広がる中、ただ一人生き残ってしまったのでした。
 大戦は終わり時は泰平、武士として死ねた名もなき武士たちを羨み、生き残ってしまった己を恥じ、幽鬼のように諸国を流離っては自分を殺してくれるものを求めて立ち合うのですが、天才と呼ばれた彼女に敵う者はおらず、ただ自分のものではない骸を増やすだけ。
 仏門に帰依し、僧より説法を説かれるもまるで響かず、生き永らえた恥を、罪を深めるばかり。

仏さま 某は…たくさん人を斬りました
地獄で灼かれる覚悟です
某も彼らのように
熱く 戦いの果てに死にたいのです
赦しはいらぬ 敵がほしい
私が鬼なら 悪鬼羅刹のはびこる地獄の世へ いっそ——…
(1巻 p50,51)

 こう祈った時に起こった奇跡は、心の底からの祈りに報いた仏の救いか、それとも人を殺し続けた彼女への罰か。
 次の瞬間、ギンコは怪物が跋扈する異世界にいました。
 ゴブリンが森を走り、オークが街を襲い、ドラゴンが空を駆ける世界。
 人間たちは怪物たちと日々戦っている世界。
 すなわち、戦いが、強敵が、死が身近にある世界。
 こうしてギンコは、己が「熱く 戦いの果てに死」ねる(かもしれない)世界へやってきたのです。

 死は恐ろしいものであれど、不退転の覚悟でそれを乗り越え、信念のために戦って死ぬ。それこそが武士の生きざま。尊ぶべき美しいもの。
 まさに理想的な理念ですが、理想的なだけに現実にそれを内面化できている武士は多くなく、実際にそれに殉じて死のうとした(そして死に損なった)ギンコは、元々の日本でも稀有な人間ですが、じゃあそれが日本とは違う異世界にいったからといって、そこではマジョリティになれるかといえばそんなことはありません。日本でも異世界でも、ギンコの死生観・倫理観は非常に奇特なものです。
 弱きを助け強きを挫くといった普遍性のある正義と、戦いのために己の命を平気で投げ出す(そして立ち会った者の命も同様に平気で討ち果たす)破滅的な死生観が、まったく矛盾なく同居しているギンコは、異世界でもやはり異端視されるのです。
 周りの見る目ある者たちからそのように警戒されるギンコは、まるでハンターハンターのゴンか、ドリフターズ島津豊久のよう。

こいつは善悪に頓着がない
(中略)
あるのはただ一つ
単純な好奇心
その結果すごいと思ったものには善悪の区別なく賞賛し 心を開く つまり こいつは
危ういんだ… 言うなれば
目利きが全く通用しない 五分の品……ってとこか
HUNTER×HUNTER 10巻 p91,92)

これが怖いのよ
この時代のニッポンのブシは 同じ笑みで感謝と死が同居してるから!!
ドリフターズ 2巻 p195)

 こんな二人と対比できるような主人公なんですから、魅力的じゃないわけがないんですよね。モンスターに襲われた人間を助ける救世主でありながら、それを知らない人間からは「ドブ川みたいに血の匂いのするヤロー」よばわりされるこの二面性。それがギンコ。
 世界を救うことも、スローライフを送ることも興味なく、ただ戦いの果てに武士らしく死ぬことを望む彼女が、異世界でも異端視されながら、どう生きるのか。そしてどう死ぬのか。
 異世界にいる、「勇者」と呼ばれる強者たちは彼女を味方だと認識してくれるのか。それともギンコにとっての宿願となってくれるのか。
 モンスターは、人間は彼女にとって待ち望んでいた敵なのか。それとも、彼女こそが世界の敵なのか。
 今後物語がどう描かれていくのか、とても楽しみです。
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『みちかとまり』と少しだけ神話と構造主義の話

 連載開始時にもレビューをした、田島列島先生の『みちかとまり』の単行本がついに発売されました。

 その時は(一挙掲載だった)1、2話までのレビューでしたが、第8話までの単行本一冊分がまとまったので、今一度つらつらと。
yamada10-07.hateblo.jp
 8歳の少女・まりが竹やぶで出会った、人か人ならざるか定かではない子供・みちか。
 みちかを保護した老婆いわく、「竹やぶに生えていた子供を 神様にするか人間にするか決めるのは 最初に見つけた人間なんだ」とのこと。
 自分でも知らない内にみちかの運命を握らされたまりは、それ以来、不思議なことが盛りだくさん。みちかに連れられ、常識の埒外にある世界へ足を踏みいれてしまうのです。

 あらためて単行本で読んでまず気づいたのが、掲載時はカラーだった第1話の冒頭、みちかとまりが燃えるなにかを見つめているシーン、立ち上る煙を見上げているまり(おそらく)が、そのあとの本編から、髪型はもとより体型まで変化しているんですよね。明らかに胸が膨らんでいるので、第二次性徴が始まっているということ。つまり、本編開始時8歳のまりから、数年単位で時間が経過してからの時系列で、この冒頭は描かれているということになります。
 みちかとまりの出会いは、一夏の幻のようなファンタージではなく、もっと長い期間にわたる交流であることが、物語の最初の最初で示されていたわけです。前2作の連載とも、主なストーリーは数か月間の出来事として描かれていましたから、つい本作もそういう物語かと思っていたのですが、そうではなかったようです。まあ、冒頭の部分は数年後のエピローグかもしれませんが。

 また、以前のレビューでも触れましたが、竹やぶで見つかった少女(みちか)や、冒頭で燃やされた煙を見つめるまりなど、「竹取物語」のオマージュが見て取れるように、神話やおとぎ話の要素をふんだんに盛り込んでいくだろうことが1、2話の時点で予想されていました。
 実際、物語が進むと、みちかと一緒にあの世と思しき場所に入り込んだまりは、そこで供される食べ物や飲み物を口にするなと、みちかから忠告されますが、あの世の食べ物を口にするとあの世のものになってしまうという話は、日本神話のイザナミを思い出させます。
 ついでに言うと、その一連のシーンで登場する、奇妙な顔をした二人組の着る服には「yellow fountain」の文字がありました。「黄色い泉」。すなわち黄泉。あの世ですね。
 この二人組や、もうちょっと後に登場する座敷の奥にいた着物姿のモノたちは、ある共通した「奇妙な顔」を持っているのですが、これもなにか神話的な意味合いがあったりするのかもしれませんね。

 その他、田島列島先生的だなあと思ったのが、第3話でのまりの(おそらく未来の時点から回想している体での)モノローグ、「理解できる言葉をつなげて なんとか世界をつくっていくけど 理解できる言葉以外のものは 世界にありすぎたし 私はコドモすぎた」というもの。
 言葉をつなげて世界をつくるというのは、自分の知っている言葉でもって世界を認識するということ、すなわち、世界を言葉で分節化するということ。
 これは19~20世紀にかけて活躍した言語学者ソシュールに端を発する構造主義的な考え方ですが、田島列島先生の最初の連載『子供はわかってあげない』の記事でも書いたように(『子供はわかってあげない』交換によって生まれる人と社会のつながりの話 - ポンコツ山田.com)、田島列島先生の作品にはレヴィ=ストロースやマルセル・モースなど、構造主義的、人類学的な発想が色濃いのが特徴で、本作でもそれがはっきりと出ています。

 前2作に比べ、神話要素とグロ要素をふんだんに盛り込んでいる本作。物語がどこでどう曲がりくねって、最後にあの冒頭へ連れていかれるのか、そもそもあの冒頭の意味は何なのか。まだまだ見えないところがたくさんです。もう2巻が待ち遠しいぜ。

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『さよならミュージアム』描かれる眼と描かれない目の意味の話

 となりのヤングジャンプに掲載された読み切り作品、岩井トーキ先生の『さよならミュージアム』。
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 美術部員の主人公・空木(うつぎ)は人付き合いが悪い。親とも部員とも顧問とも最低限の口しかきかず、ただ、自分がもっとも美しいと信じるもの、すなわち人間の横顔をひたすら描くばかり。そしてそんな彼女が横顔のモデルにしているのは、毎日数分だけ乗り合わせる、同じバスで通う名も知らぬ女生徒。話しかけることもせず、ただ彼女の横顔を美の化身とばかりにこっそり拝むばかり。しかしある日、その彼女に異変が起こって……
 というストーリーの短編作品。
 己の内側に閉じこもり、良くも悪くも己の道を行く空木が、どのような出会いで、どのように殻を破っていくかが一つの見どころなのですが、本作で面白いなと思ったのが、「横顔」を好む空木の心情と、その表現です。

 空木が横顔を好む理由が以下のとおり。

横顔は美しい
何故なら こちらを見ていないからだ
「見ていない」「こちらに関心を持っていない」「干渉しない」「取り繕わない」
つまり――
素の姿という事
素の美しさが現れる横顔を描くことは 私にとっての美術なのだ

 「素の姿」「素の美しさ」を求めるがゆえに、横顔を偏愛する空木。他人から関心を持たれたくない、すなわち他人の素の姿を見たいから他人に対して冷淡なのか、それとも他人に冷淡でい続けた結果自分に干渉してこなくなった他人の横顔に素の美しさを見つけたのか、ニワトリタマゴの話はさて措いて、その心根ゆえに、彼女は人と目を合わせません。
 自分の絵を褒められてもほぼ無視し、帰り際の挨拶すらそっぽを向きながら頭を下げるだけ。生活のレベルを勝手にベリーハードに爆上げてる態度ですがそれはともかく、そのような態度の彼女から見る世界には、彼女に向けられる目が存在しない、正確に言えば、彼女に向けられる目が彼女には見えていません。
 それは明らかに作者による意図的な描写で、顧問も、同じ美術部の部員も、両親さえも、彼や彼女の目が描かれることはほとんどなく、それが描かれるときは、彼や彼女が空木に目を向けていないとき、すなわち、空木を「見ていない」、「関心を持っていない」、「干渉しない」ときの顔、つまりは空木の思う「横顔」です。

(p8)
 それが非常にわかりやすく描かれているページです。

 「目は口ほどに物を言う」の言葉どおり、漫画において、目の表現は非常に重要です。セリフはなくとも、目の描き方如何で感情は雄弁に表せます。英語の顔文字は口で、日本語の顔文字は目で感情を表現するとはよく指摘されることですが、日本語の顔文字の異常なまでの豊富さは、様々な目の表現に由来するのでしょう。
 そしてそれは、裏を返すと、目を描かないことでそのキャラクターの人間性を剥奪できるということです。顔のどのパーツをなくすより、目の省略はキャラクターのキャラクター性を失わせます。
 最近では、アニメ『ぼっち・ざ・ろっく』で主人公ぼっちの父親が、全身を登場させ声まであてられているにもかかわらず一切目を描かれることがなかったのが印象的でした。主人公たちの女子高生や、ぼっちの母親、妹という女性キャラはなんのさわりもなく描かれているのに、男である父親だけはひたすらに目を描かれない。女の子だけのキャッキャウフフな世界から人格を有する男という存在を排除する、制作サイドの強い意思を感じましたね。
 『さよならミュージアム』の話に戻りますが、空木以外のキャラクターが空木に目を向けているはずのシーンでその目は描かれず、彼女から視線(関心)が外れた時にようやく目が描かれる。つまり、そのときに初めて空木にとって、他の人間たちが自分の意識を向けるに値する(素の美を有する)存在になっていると言えるのです。
 そしてそれは、空木の横顔のモデルになっている少女にも言えることで、彼女の顔には一貫して目が描かれています。空木にとって彼女は、一貫して自分の意識を向けるに値する存在なのです。

 で、それら目の描かれ方、目の意味するところを踏まえると、クライマックスに描かれているものと、エピローグ的部分での描写に非常な味わいが生まれるんですよね。これは是非実際に読んでほしいところ。

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『まどろみと生活以外のぜんぶ』rcaの描く、境界が融け合う安らぎと寂しさとエモさの話

 今日は珍しく、というかこのブログで初めてだと思いますが、成年向け作品についてのお話ですので、あんまり生々しい話はしませんが、18歳未満のお子様は回れ右してね。

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『違国日記』47.5話 無音の世界の秘密の話

 先日新刊の発売されたヤマシタトモコ先生の『違国日記』。

 新刊を読んで一番印象に残ったのが、ストーリーではなく、47.5話冒頭の表現。えみりが喫茶店ノイズキャンセリングイヤホンをしながら勉強をしていたところに、しょうこから声をかけられ、イヤホンを外すシーンです。
 イヤホンによりシャットアウトされていた外界の音が、イヤホンを外したことで聞こえてくる。それが、読んでいてまるで我がことのように感じられたのです。
 後日、ヤマシタ先生自身が、そのシーンをかなり意識して描いたことをうかがわせるツイートをしていました。
 まんまとその思惑にはまったわけですが、さて、読んでいても音がシャットアウトされていたかのように感じられるこのシーンには、いったいどのような秘密が隠れているのでしょうか。

 まずは当該のシーンを改めて見てみましょう。




(10巻 p73~76)
 これを見てまず気づくのは、当然ですが、イヤホンが外されるまでの間、音を示す文字表現がないことです。窓にあたる雨も、ノートの上を走るペンも、店内のざわめきも、そこにあるはずの音が一切書かれていません。
 もちろん、書かれていてしかるべき音が書かれないことはしばしばあります。たとえば同じ10巻の47話で、朝が演奏をしているシーンでも、演奏しているバンド、観覧しているオーディエンス、撮影中のスマホと、音があっておかしくない場面でも、何の擬音も台詞も書かれていませんが、不思議とそのシーンでは無音の印象は強くありません。言ってしまえば、単にそういうシーン、というもので、無音であること(擬音等が書かれていないこと)に特段の強い意味はなさそうに感じられます。

 翻って、47.5話で無音性を意識させるのは、つまり擬音等が書かれていないことに強い意味を感じさせるのは、しょうこに話しかけられたえみりがイヤホンを外すと、フェードインするように台詞が始まっている点です。
 「――――んでんの?」というしょうこの台詞とともに、店内のざわめき(「ガヤガヤ」という擬音)や、ちょっとした物音(画像にはありませんが、椅子を引いたのであろう「ガタン」という音がページ下部にあります)が書かれ始めるのです。
 途中から聞こえ始めた、すなわちそれまでは音が聞こえない状態であったことが印象的になるようにフェードインで始まったしょうこの台詞により、読み手は遡及的に、それまでが無音であったことを強く意識するのです。

 それ以外の点も挙げるとすれば、被写体に寄り、かつ視点がバラバラであるカメラアングルが連続している、ということも言えるでしょうか。
 雨に濡れる窓、えみりの横顔、(これは遠景の)店外からのカメラ、手元(ペンケース)のアップ、うつむくえみりの顔、(さらに寄った)雨に濡れる窓、えみりの肩に触れるしょうこの手、えみりの目、(えみりの視点から)見上げるしょうこ、イヤホンを外す手、とアップのパッチワークになっていたカメラの視点が、音の復活と一緒に引きの視点を得て、コマ間に流れが生まれだします。
 それまでのそれぞれのコマの連続性は薄く、えみりがしょうこを待つひと時の瞬間瞬間を脈絡なく切り取ったかのようです。そう、切り取っているのが瞬間だからこそ、そこに音がないのです。
 コマに脈絡(連続性)がないと、コマ間で時間が流れているように感じず、それぞれのコマが独立した一瞬であるかのように思えます。
 そして、音とは空気の振動です。フィルムに写った光を焼き付けた写真とは違い、音が鳴っている時間を無限遠まで縮めて切り出す、すなわち独立した一瞬としてコマを描くと、コマの中には空気が振動をできるだけの時間が存在せず、それゆえ音は鳴りません。鳴っているように感じません。
 このモンタージュ的技法も、漫画の中から音を消し去っている一因でしょう。

 まとめれば、モンタージュ的に連続性のない(そして現に擬音等のない)コマを描くことで、読み手に無意識の裡に音の存在を捨象させ、イヤホンを外した瞬間からフェードインしてきた台詞や擬音が書かれることで、そのときになって初めて読み手はそれまでの無音を強く自覚する、という仕組みになっているのです。

 とまあそんな仮説ですが、作者の意図どおりの受け取り方をしちゃうと、すがすがしい笑顔で「してやられたぜ!」って言っちゃいますね。
 ところで新刊で一番好きな台詞は、47.5話のしょうこの「もっといっぱい約束して」です。よろしくお願いします。

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拍手レス

クメイとミコチ11巻の感想を読ませていただきました!服を買う・着るキャラクター達の細かい表情まで見ておられて感嘆致しました。改めて読み返すとそれぞれ本当に楽しそうに選んでいますね。その楽しみ方がまたそれぞれ個性があって!初見時よりもじっくりと物語を堪能出来ました。
新たな視点で読むきっかけをくださり、ありがとうございます! byあるんす

>あるんす さん
 キャラクターたちの楽しそうな感じ、生きていることを肯定している感じ、読めば読むほど物語の世界に入り込める感じ、『ハクメイとミコチ』、いいですよね……