ポンコツ山田.com

漫画の話です。

愛したいのか知りたいのか オタクの興味の二つの方向性の話

 昔からオタクってなんやねんというのはずっと考えていて、自分はオタクなのかそうでないのか、友人なんかからはオタクと思われてるだろうけど自分では別にそうは思ってなくて、それって結局はオタクってなんやねんていう、定義が定まってないからなんですよね。
 この記事も別に定義が定まったって話ではないんですけど、オタク的な人、つまりはある対象について一般的な水準を超えて興味を持つような人は、興味の持ち方にどんな方向性があるのか、対象にどういう風に接すると楽しいのか、ということを、友人と雑談してるときに考えたんです。
 で、思いついたのが、二種類の方向性。
 一つは、対象を愛する(愛でる、慈しむ)方向。
 一つは、対象を知る(研究する、考察する)方向。
 大雑把に、この二種類の方向性があるんじゃないかと思ったんです。

 前者は、たとえばいわゆる腐女子のような興味の持ち方。あるキャラクターに興味をもって、そのキャラクター自身についてや、そのキャラクターと他のキャラクターの関係性(絡み)を想像することが楽しいタイプ。
 キャラクターに限らず、ストーリーについて完結後のアフターストーリーやifのストーリー、サイドストーリーなどを考えるのもあてはまるでしょう。二次創作気質とでもいうんでしょうか、想像を作品の外に膨らませるタイプです。

 それに対して後者は考察タイプ。既にいるキャラクターやストーリーについて想像を膨らませるのではなく、その細部を観察し、関係性を考察し、設定を洞察するのが楽しい人。
 このシーンでのこの描写にはどういう意味があるのか、この言葉遣いをするということはそのキャラクターにどんな内心が隠れているのか、このエピソードの構造は同じ作者のた作品のこれと比較してこう言えるのではないか。そんなことを深堀していくのが楽しいタイプです。

 もうちょっと対比的に言うと、前者は興味の対象に描かれていないことまで想像するのが楽しい人。後者は描かれてあることについて細かく考えるのが楽しい人。
 前者は自分の想像力を物語の外に飛び出していくように使うのが好きな人。後者は物語の奥に掘り進むように使うのが好きな人。
 前者は物語を膨らませるのが好きな人。後者は物語を細かく切り刻んでいくのが好きな人。
 同人誌即売会を舞台にすれば、前者は前述したような二次創作をするようなタイプで、後者はきぬた歯科の看板を集めた同人誌を出すようなタイプ。いやまあただのたとえですけど。
 このブログを普段から読んでくださっているような方ならお分かりのように私は圧倒的に後者の成分が強いですが、だからわかるんですよね、興味があることについてカタログ的に網羅したくなる気持ち。情報を一覧化したくなる気持ち。きれいに整頓された情報には、得も言われぬ美しさがあるんです。
 そして私には前者の成分が薄いので、二次創作、すなわちある作品にインスパイアされてそれを膨らませた物語を作りたくなる気持ちは、わかりはしても共感まではできない。
 もちろん、私が好きなある作品があって、それについての二次創作があったとして、その作品を二次創作のモチベーションがない私が楽しむことはできるんですが、それはその作品単体を楽しんでいるのであって、二次創作(一次創作から膨らませられた作品)だから楽しんでいるわけではない。
 マイナー二次創作は供給が少なくて地獄、という話はしばしば小耳にはさみますが、それは供給があると嬉しい、他人の描いた二次創作が読めると嬉しい、物語のより大きく膨らんだ世界が読めると嬉しい、ということの裏返しです。もともとの好きな物語があって、それから派生した物語群があることが嬉しい、という感覚です。
 私は別にそうではない。読んだそれが、面白い物語であるからうれしくて楽しい。それが二次創作であるかどうかは関係ないんです。

 以上の話は基本的に、ある作品(物語)を受容した人間がどう反応するか、どういう方向で興味を持つかという話になっていますが、物語とは直接関係ないとことでもオタクと呼ばれるような人は存在します。オーディオオタクとか、ファッションオタクとか、物に執心する人ですね。そういう人は、上記の分類でいえば、後者の考察タイプになるのでしょう。対象についての情報を集めたくなるタイプ。
 物ということで言うと、キャラグッズなども物ですが、これを集めるのは愛するタイプも考察タイプも両方いるでしょう。前者は、物語のキャラクターに関連する物、キャラクターを想起させる物、キャラクターのイメージを膨らませるものとして、集めます。自分の想像力を膨らませる起爆剤にする感じですか。
 後者は、カタログ的に集める(集めるために集める)こと、あるいは性能などに着目して集める(合目的的、利益追求的に集める)ケースでしょうか。いずれも、物そのものに着目しているのであり、そこからなんらかの物語を展開させるためではありません(そのために買えば、前者になるでしょうけど)。


 当然ですが、この二つの方向性は二律背反、トレードオフのものではありません。片方のグラフが伸びればもう片方が引っ込むものではなく、どちらも無関係に増減するものです。細かい考察するのも二次創作するのも両方好きという人だって、当然いるでしょう。興味のあるものの分野によって変わりもするでしょう。
 それでも、オタク的興味の持ち方にこの二つの軸を導入すると、今までオタクとは何だ、自分はオタクなのか、などといった益体もない考えに、少し補助線が引けたような気がします。
 対象への興味の程度がある程度以上に甚だしければオタクで、そのオタク的気質には二つの方向性がある、と考えると、まあ自分もオタクってことでいいかなと。



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私たちの日々は強く楽しく軽やかに 『三拍子の娘』の話

 母の四十九日が終わってすぐ、父は旅に出ると言った。ピアノを弾いて世界中を回るのだと。
 私は言った。残された私たち姉妹はどうなるの、と。私は受験生だし、妹たちはまだ小学生なんだよ、と。
 父は言った。大丈夫だよ、伯母さんにはもう話はつけてあるから、と。
 次の日には、まるで散歩に出るような気楽さで、家を出て行った。
 以来10年、父はいまだに帰ってこないし、私たち姉妹は日々を面白く暮らしてる……

 ということで、町田メロメ先生の『三拍子の娘』です。
 「このマンガがすごい!2022」オンナ編で第14位にランクインし、「THE BEST MANGA 2022 このマンガを読め!」で第20位にランクインした本作。そんな前評判も知らないまま、去年の大みそかになんとなくkindleを見てたらおすすめされて、なんの虫の知らせか発作的に購入、その面白さをいっぺんに気に入り、わざわざ紙でも買いなおしたのが、私と本作の出会いです。

 この作品の魅力は、なんといってもその軽やかな筆致。
 主人公は三姉妹。自由業のふじ。会社勤めのとら。高校生のふじ。早くに母が亡くなり、その四十九日が終わったところで父が「ピアノを弾いて世界中を旅してくる」と言って失踪。子供たちは非常にハードな人生に放り込まれたにもかかわらず、それから10年後の姉妹の生活は実に楽しげ。
 日々の労働や学業、当番制の家事、母の命日やお土産の争奪戦といったちょっとしたイベントなど、私たちが生きる中で当たり前のようにこなしていることを彼女らも当たり前のようにこなしています。幸せは3人で分け合って3倍に。不幸せは分け合って1/3に。小さな幸せと小さな不幸せをステップを踏むようにして楽しんでいます。

 彼女らの生活は本当になんでもないことばかりなんですよ。大事件なんて別に起きない。
 たとえば、高笑いとともに帰ってきたとらが、ふじに見せつけたのはお土産のマ●セイバターサンド。ふじは平身低頭して食事当番の交代を自ら願い出て、お相伴にあずかり、二人で無我夢中の内に食べつくします。一息ついた後に、バターサンドを食べられなかったすみの怒りを想像したふじは慄きますが、そこは用意周到なとら、食べた残骸をすべててかたしておき、代わりにミ●ービスケットをすみに献上する。何も知らないすみは、ただ●レービスケットをもらえたことに大喜び。
 これだけといえば、本当にこれだけの話。でも、これだけの話を、姉妹たちがあまりにも楽しそうに動き、しゃべり、笑うものだから、読んでいるこちらも楽しくなってきて、軽やかな気分になります。

 軽やかさ。
 重くないということです。リズムがいいということです。テンポがいいということです。思わず鼻歌なんか歌いながらターンしたくなるような、いい気分ということです。

 私の好きな、姉妹それぞれの軽やかシーンはこちら。
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(1巻 p158)
 買いおきの卵を誤ってすべて割ってしまい、意気消沈しているすみに、部屋から出てきたばかりで状況を知らないふじが思ったままに一言。
「あ、ホットケーキ大会?」
 この一言で、割れた卵が元に戻るわけではないけれど、割れかけていたすみの心はたちまちに元通り。卵を無駄に割ってしまったという失敗は、ホットケーキ大会の準備に早変わりしました。救われますよね。
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(1巻 p163)
 残業帰りに居酒屋に駆け込んだとらが、あいさつ代わりのジョッキ生を飲み干して
「おはようございます!」
 あまりに気持ちのいい飲みっぷりに、その言葉の意味のわからなさも忘れかけますが、とらが言うには「仕事が夢でここからが現実でしょ だからおはようなの!」。わかる!
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(1巻 p220)
 布団を干しながらお気に入りのワルツを聴いているうち、思わず踊りだしてしまうすみ。
「いちばん好きな場所で いちばん好きな時間に いちばん好きな曲 何でも出来そうな気分になってくる」
 夕焼けの屋上で聴く"Freuet Euch des Lebens"とは限りませんが、誰にもあるであろう、好きな場所、好きな時間、好きな曲。それら3つが重なり合った、思わず踊りだしてしまう一瞬。
 3つのシーンはどれも趣が違いますが、軽やかな物語の中で躍り出てくる彼女らの軽やかな言葉は、軽やかな足取りですっと心に飛び込んでくるのです。

 とにかく全編通してユーモラスで軽やかな物語。「仲のいい兄弟姉妹の物語が好き」や「楽しくお酒を飲む人たちが好き」という私的な好みもありますが、読んでて心が軽くなること請け合いです。
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『ハコヅメ 別章アンボックス』カナが警察官に求めたものと、またその先に求めたものの話

前回から少し空きましたが、あらためて『アンボックス』についての話。ひとまずのまとめとして、主役であるカナの話を。

カナの始まり 物語の始まり

 この物語は、カナの警察学校時代の思い出から始まりました。それは9巻で描かれた挿話のリプレイ。訓練中に隊列から落伍しかけたカナを助けようと、同期の山田がカナの装備を代わりに持つ、というものでした。
 9巻のそれは、山田の(いろいろな意味での)無自覚さを演出するものでしたが、『アンボックス』で描かれたものは、よりカナの視点を強調したもの。それをされたときにカナが何を思っていたかを遠慮なくあらわにしています。

「絆」の名のもと 大きな手が目の前に差し伸べられるたび
私は一生この人たちの仲間にはなれないんだと思い知らされた
(p2,3)

 仲間になれない劣等感。疎外感。
 それがこの物語のスタートでした。

警察官になりたかった二つの理由

 第一話で続く思い出話。この中で、カナが、「岡島災害」で源の実父が殉職する原因となった老婆の曾孫であることが初めて明かされます。
 殉職した警察官に同情する世間は、老婆の身内であるカナの家族を糾弾し、村八分にあった一家は会社は倒産、家族は離散、カナは祖母の手一つによって育てられました。この経験は、カナの人生に大きな影響を与えました。

多数の人が振りかざした「正義」から追われるような環境で育った私は
多数派の「正義」側の人間になってみたくて警察官になりました
(p16)

 これが彼女が警察に奉職する理由だと言うのです。
 しかし、別のシーンでカナは、警察官になった理由について違うことを言っています。

生まれた境遇で生き方を選べない子供たちが大勢いることとか… 世界の広さを教えてもらって
私には生き方の選択肢がたくさんあるから困っている人を助ける人生を歩みたいって今の仕事を選んだの
(p32)

 先に引用した理由とは、だいぶ趣が違います。時系列としては、後に引用した理由を先に意識し、その上で具体的な職業として先の理由で警察官を選んだようです。
 趣こそ違うものの、相反する内容というわけではありません。困っている人を助けたいし、多数派の正義側の人間にもなってみたい。両立します。両立しますが、表と裏というか、本音と建前というか、どこかなじみが悪い感じも否めません。果たして、この二つをつなぐ何かはあるのでしょうか。

警察官という立場 警察官でいる意味

 まず、二つの理由にはどちらも、助ける側と助けられる側、多数派と少数派、正義を振りかざす側と振りかざされる側といった、二つの対立的な立場が前提とされていることが分かります。それを踏まえて、「困っている人を助ける」ためには助けられる立場にならなければいけない、とカナが考えていたと仮定してみたらどうでしょう。

 暴力、虐待、差別、困窮……大から小まで様々な形で困っている人はいるわけですが、そういう目に遭う人は概してマイノリティの立場です。肉体的な弱さであったり、社会的な出自であったり、家庭環境であったり、なんらかの理由で大きな声をあげられない人たちを助けるためには、助けられるだけの力がある立場にならなければなりません。その選択肢の一つが、法律によって他人の権利を制限できる権限を付与されている警察官です。若かりしカナが、警察官は「多数派」であり「正義」の側であると考え(必ずしもそうではないことは、以前の記事で書いたとおりですが)そちら側に立ちたいと思い、同時にそれになることで困っている人を助けられると思う。その一挙両得を、自覚的であれ無自覚であれ、狙った可能性はありそうです。

 しかし、本作のスタートのとおり、彼女は警察官になろうとする中でも、今まで散々味わってきた劣等感と疎外感に苛まれ続けます。多数派に、正義の側になろうとしても、自分は一緒にいる人間から手を差し伸べられる側なのだと。
 それでも奉職後は要領よくやってきたカナも、自分が直接担当していた人間が殺されてしまった、助けることができなかった本作の事件で無力感に囚われ、守るべき市民からも心無い言葉をぶつけられ、心がどんどん摩耗していきます。その結果が、「国民と組織に対する最悪の裏切り」である拳銃自殺の半歩手前でした。
 加害者の自白も引き出し、事件がひとまずの終結を迎えたところで、カナは辞職を選びました。

私は警察官を辞めます
警察官でいることに耐えられません
(p171)

 さて、ここでカナが言った「警察官でいること」とはどういう意味だったのでしょう。
 市民を助けられなかった無念を抱き続けることでしょうか。
 守るべき市民から暴言を投げつけられることでしょうか。
 拳銃自殺をしようとしてなお任官を続けることでしょうか。
 カナはなにに耐えられなかったというのでしょう。
 もちろんこれらはすべて理由になるでしょう。けれどその奥底には、彼女がこれまで抱えてきたもの前提としてきたものをひっくり返すような、考え方の変化があったのではないでしょうか。
 で、それが何かというと、一言で言えば、「対等」です。カナはこれを望んだために、警察を辞することを決意したのではないかと思うのです。

対等な関係と相手への敬意

 対等。この言葉は最終話、カナが警察を辞めカンボジア社会起業家として働いているシーンで登場します。
 彼女を訪ねて来た大学生を生き生きとした表情で迎えながら、カナは言います。

「ここでは現地の人にハーブを栽培してもらって それをアロマオイルにして日本とかに売ってるんだ これはレモングラス
「でも安価な値で買い叩かれると現地の人の暮らしが良くならない フェアトレードじゃなきゃですね!」
「そうだね ただ… 「支援になるから買ってね」というより 「ここでしか作れない高品質な商品ですよ」って対等な立場で値段の交渉はしなきゃね」
(p186 強調は引用者)

 対等な立場。支援するために/されるために関係を続けるのではなく、お互いにメリットがあるから、尊重すべき点があるから、納得尽くで関係を持てるようにする。これこそが、警察を辞め社会起業家として働くカナが目指すものです。
 多数派。正義を振りかざす側。助ける側。そういう格差のある関係性に身を置こうとしてきたカナにとっては、大転換だと言えるでしょう。しかし、そのような非対称の関係性ではなく、対等な関係を築くことこそ、真に「困っている人を助ける」ことにつながると考え、カナは新しい世界に飛び出したのです。 

 対等であるというのは、難しいことです。なぜなら、そこではお互いがお互いに、自分と相手の長所短所、相手に差し出せるもの差し出してもらうものを冷徹に見極め、納得しなければいけないからです。それにはクールな目が必要で、広い視野が必要で、実利的な打算が必要で、なにより相手に対する敬意が必要です
 敬意。すなわち、相対するものを自分と異なる意思を持った別個の存在と認識し、自分が最低限有する権利を相手にも認める、というところでしょうか。それがあるからこそ、相手が自分と違うことを考えていることを前提とできるし、自分がそこまでされたら我慢できないと思うことを相手にも要求できません。

 ただ、警察官という仕事は、その敬意こそ要求される仕事だったはずです。事案についてよく知らない世間が事案に関わった人間を「加害者」や「被害者」という類型化した目で見るところを、そういう先入観に惑わされず相手が(被害者であれ加害者であれ参考人であれ)今何を考えているかを具体的に聴取しなければならない。警察官はそんな仕事です。
 その意味で、このマインドさえ忘れていなければ、警察官からカナの立場への転身というのは、それほど遠いものではないのかもしれません。

差し伸べられた手 一度目は悲劇として、二度目は…

 さて、「対等」を補助線としてと、あるシーンを見比べてみましょう。それは、カナに手が差し伸べられた二つのシーン。
 一つは、既にふれた、物語冒頭の警察学校時代のシーン。
 山田が「「絆」の名のもとに」助けてくれていた(と少なくともカナには思えた)からこそ、カナはそこに劣等感と疎外感を覚え、対等ではないと感じていました。
 別章だけでなく本編でも言われていますが、「絆」の裏の面は「鎖」です。

「先ほどおっしゃっていた辛い事案に向き合うための「仲間との絆」のためですか?」
「表向きはね 本当は辛い事案から職員を逃がさないための…ただの「仲間という鎖」なんだけどね」
(10巻 p102)

 仲間という「鎖」で縛られている運命共同体だから助ける。そこには、対等という考えはありません。仲間だから・・・、劣っている奴でも・・助ける。支援する側される側。そんな構図があります。

 そして二つ目。すなわち、最後の出勤日に、今日が警察を辞める日だということを横井にばらされ、多くの同僚から引き留められるシーンです。

「誰にも知られず職場を去りたい」そうだね 何甘えたこと言ってるの
引き留める手を全て振りほどいて出て行きなさい
(p175)

 カナをなんとか思いとどまらせようと、多くの同僚が彼女に手を伸ばしました。
 警察学校時代に差し伸べられた手と、辞めようとするときに差し伸べられた手。「今あんたを引き留めようとしてる手は あの頃よりちょっとは違うように見えてるか?」と横井は独白します。その言葉の意味は、あの頃と違って仲間と思えるようになったか? ということなのでしょう。劣等感や疎外感はもう感じられなくなっていたか? と。
 きっとカナはそれにうなずけるでしょう。でも、それをもう一歩踏み込んだところには、また別の意味も見えてきます。

 警察学校時代は、カナは山田から差し伸べられた手を、受け取らざるを得ませんでした。「絆」という鎖で縛られた世界で、助けられる側の自分が助ける側の人間(山田)から手を伸ばされたときに、それを拒否する術はないからです(拒否をすれば、カナの力ではその世界から追い出されることにつながりますから)。何度も述べているように、そこは対等ではありません。
 しかし、辞めるときのカナは、明確に山田の手を振り払いました。仲間と思えていた(に違いない)山田からの手を、きっぱりと。ここには、自分の決めたことを貫く強い意思、誰かからの手を跳ね除けられる自分自身の意思があります。
 自分の意思による拒絶。これは対等だからできることです。自分とあなたは違うと、相手に敬意を持てているから。
 手を振り払ったカナの姿は、誰かと(誰とでも)対等にあり、誰かと誰かが対等であれるように生きる第一歩を示しているものだと思うのです。

「対等」の芽吹き 広がった世界の見方

 実は、初登場時のカナが補導した少年に説諭していた際の言葉にも、上記についての萌芽は見られるように思います。

でも世間ってか大人との関わりがなくなってくると やっぱ自分の世界も狭まるよね
だから君にはこれからお巡りさんとかご両親とか いろんな大人と関わってほしいの
大人と関わって「こいつ小せぇあ」「つまんないな」とか そんな感想でもいいからそういう体験で世間が広がっていくし
心の持ち方で君の世界は 表情を変えるはずだよ
(4巻 p47,48)

 世間を広げ、世界の表情を変えていけ。これは、様々な立場の人に触れることで、多面的なものの見方を得られるということです。つまり、ある人(集団・立場)は、今自分が見ている姿だけをしているのではなく、他の人などと接しているときには別の面が見えるかもしれないと考えられるようになるということです。それは、一つの見方に拘泥してはいけないということで、自分と違う相手へ敬意を持つことへも繋がります。すなわち、対等な関係を結ぶための第一歩です。
 カンボジアのカナも、「仕事をして相応の収入を得るってことは それだけ世界と選択肢が広がるってことだと思う」と言っています。人々の世界と選択肢を広げること。対等な立場で人々が関係できること。それがカナの目指す世界なのでしょう。

結び

 以上、『アンボックス』を通じて、カナが何を求めていて、それがどう変化したかを見てきました。
 助ける側、多数派、正義の側から、対等へ。
 困っている人が、世界を広げられるように。
 最後のエピソードは本編から五年後、ほんの少し未来のお話ですが、カナが警察官時代に出会った人間を「仲間」と思っているように、思われた人間たちもカナを仲間と思っていることでしょう。それはきっと、組織を離れて、離れたからこそ対等に。
 いつか、カナと本編が交わるエピソードなんか描かれた日には、泣いちゃうな。



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美少女(30代男性)が行く世界危険なグルメ旅『鍋に弾丸を受けながら』の話

 危険な場所にほど美味いものがある。世の中にはそんな信念を持ったイカレた人間がいます。
 長年に亘る二次元の過剰摂取ですべての人間が美少女に見える。世の中にはそんな脳みそを持ったイカレた人間もいます。
 不幸にも、あるいは幸運にもこの二つのいかれた狂気が同居している男・青木潤太朗(30代 男性)が、世界の危ない場所で100点満点中5万点のものを食べてきたルポ漫画。それが本作『鍋に弾丸を受けながら』です。

 美味しいものって何でしょう。
 カレー。おいしいよね。
 寿司。おいしい。
 ラーメン。おいしいです。
 ハンバーグ。もちろんおいしい。
 フランス料理のフルコース。おいしいにちがいない。

 私の「おいしい」のレパートリーが昭和の小学生レベルなのはともかく、日本にいれば美味しいと思えるものにはいくらでも会えます。でもそれは、平均以上をコンスタントに超えてくる美味しさ。いわざ優等生的な美味しさ。
 それが悪いわけではございません。むしろそれはとっても幸福なこと。
 しかし、漫画の原作や小説を生業としている男・青木潤太朗氏が、趣味の釣りと旅行で世界を股にかける中で出会った食事。それは、日本で安穏と暮らしている私たちでは出会えないくらいハチャメチャに美味いものだったりします。
 氏の友人Kのセリフを引用すれば
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(1巻 p10)
 です。
 20点か5万点。ネコもまたいで通るようなものを口にする可能性もあるけれど、人生観が根底から揺さぶられるような超絶美味いもんを食べられるかもしれない。「グルメなどでは絶対に赴かないはずのエリア」にはその可能性があるのです。

 グルメでなどでは絶対に赴かないはずのエリア。
 たとえば、不正選挙真っただ中のザンビア。賄賂が原因で銃撃戦をやってる。
 たとえば、イタリアンマフィアが根を張るシカゴのストリート。車のカギを忘れても銃を忘れてはいけない。
 たとえば、自然あふれるブラジルはアマゾナス。自然があふれすぎてすぐそこに人間を丸呑みできるようなクロコダイルがいる。
 こんな例が枚挙にいとまがないほど世界を旅している青木氏。そんなところにいる人々は、まあ基本的にはおっかない人達ですから、氏の体験をそのまま漫画にしてしまうと、紙面から汗と血の臭いが漂いかねません。飯漫画なのに。
 でもご安心。「長年に亘る二次元の過剰摂取ですべての人間が美少女に見える」重い病気にかかってしまった氏のフィルターを通せば、どんな強烈な絵面も
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(1巻 p15)
 これこのとおり。これで安心だね。

 で、そんな危険と隣り合わせの場所で出会った食べ物は本当に美味しかったと氏(美少女)は言うのです。
 たとえば、「マフィアの拷問焼き」と物騒なあだ名で通称される、ロモアールトラボ。塩水を含ませたオーガニックコットンでくるんだ牛肉を焚火で外の布が黒焦げになるまで焼いた、要は牛肉の塩釜焼きなのですが、「ステーキの赤いとこ」が9割を占めるようなその完成品は、閉じ込められた肉汁で味が濃く、焼けた香ばしさが鼻を抜け、それでいて焼きたてステーキのように熱々。
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(1巻 p18)
 たとえば、緑色して全然熟していないように見えるオレンジをしこたま絞ってできたオレンジジュース。「一瞬自分がビタミン欠乏症でも起こしているんじゃないか疑った」レベルに味が濃く、鮮烈。「私がこれまで飲んでいたオレンジジュースとは一体……」と美●しんぼみたいなことを思ってしまうレベルにカルチャーショックを味わう代物です。
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(1巻 p67)
 たとえば、一本17000キロカロリーを誇る、パウンド・フォー・パウンド(同サイズで比較したカロリー量)で米国最強のエルビス・サンドイッチ。二つに割ったフランスパンにバターとベーコンとジャムとバナナを挟んで油で揚げて粉砂糖を振ったそいつは、ロックの王様エルビス・プレスリーの好物で、それを食べすぎたがために早死にしたとさえ言われるカロリーモンスターだけど、いざ実食してみると、信じられないくらいスイスイパクパクいけてしまうといいます(甘じょっぱくて油たっぷりの炭水化物、すなわちカツ丼をがつがついけるのと同じ理屈だとかなんとか)。
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(1巻 p108) 
 この異文化の料理たちを食べる美少女(30代男性)が、ただ美味しいと言うのではなく、カルチャーショックを受けるレベルで美味しがっているものだから、どいつもこいつも非常に美味しそうに見えるのです。オレンジジュース、すげえ飲んでみたい。

 意外なのは、この作品に登場する食べ物はどれもこれも、決して想像もできないような奇抜な食材を使っていたり、突飛な調理法をしているわけでありません。食材や調理法は知っているものっだり思いつくものだったりするんです。でも、その食材自体のレベルが日本では手に入らないものだったり、日本人ではまず思いつかないくらい過剰に手を加えているものだったりすることで、驚天動地の5万点が炸裂するのです。
 想像はできるのに、その想像の上限を遥かに飛び越えていくような食べ物たち。読めばなるほど、これは現地に行かなきゃ食べられないなと思ってしまいます。いや、エルビス・サンドイッチは作ろうと思えば全然作れるレベルですけど、それを作る胆力ですよね。17000キロカロリーをこの世に現出させる胆力。

 自然の驚異的な意味で危険なところもあれば、治安的な意味で危険なところもありますが、どんなところであれ、そこにはそこで暮らす人の文化が、もっとミクロに言えば、生き方があります。そしてその生き方は、世界でも屈指の安全さを誇る日本で暮らす大部分の人たちには、すんなりと飲み込みにくいものばかり。でも、美味しいものは国境を超える。美味いから食ってみろと言われて食べたものが美味しければ、食べ物と一緒にそのカルチャーも腑に落ちます。というか、落とすしかないです。
 受容しろというのではない、従えと言うのでもない、ただ、その世界でそう生きている人を知れ、ということです。同じものを美味しいと思える相手が住んでいるその世界を。
 本作は飯漫画であり、同時に異文化を異邦人の目で見つめる漫画だともいえるでしょう。
comic.webnewtype.com
 これを読んで「よし、マフィアの拷問焼きを食べにメキシコ行くぞ!」とはなかなか思い難いですが、それでも世界にはこんなべっくらこくほど美味いものがあるかと思うと、それだけで少し世界を見る目が広がりますね。



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『ハクメイとミコチ』10巻 世界が息をひそめる旅立ちの朝の話

 昨日に引き続き、『ハクメイとミコチ』最新刊の感想。今日はハクメイの思い出回。

 ハクメイの思い出回は、今まで謎に包まれていたハクメイの昔の話を、帽子の修理をきっかけにミコチが聞くところから始まりますが、「私は明け方に拾われたらしくてな」という衝撃のスタート。
 旅人だった「父様」に拾われ、「先生」と二人に育てられたというハクメイ。「父様」に憧れてか、小さいうちから一人で旅(と称したお出かけ)に出ては、周りの者を心配させつつ、元気に戻ってきていました。
 「父様」と「先生」、そして集落の皆にかわいがられながらすくすくと成長していたハクメイですが、旅への思いは募るばかり。片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、というやつでしょうか。芭蕉が旅に生き旅に死んだ古人に思いをはせていたように、旅に生きていた育ての親の背中は、彼女に外の世界を想像させずにはいられなかったのでしょう。

 そんな日常が続いていたある日。ある明け方。ハクメイはいつものように目を覚ましました。でも、それはいつもの目覚めとは違いました。何かに急かされている感じ。何かが急かしてくる感じ。山が。空が。風が。今日が「特に特別な日」なのだと教えてくれる感じ。誰が言ったわけでもないのに、ハクメイはわかりました。今日が旅立ちの日なのだと。
 まだ日が昇ったばかりの明け方に、ハクメイがベッドの上で目覚め、なにかを感じて飛び起き、外に駆け出し、空気のにおいに、風の音に、空の色に、「特に特別な日」を感じ取った様子が、3ページにわたって描かれていますが、この絵があまりも素晴らしくて息を飲みました。


 私がこのシーンに感じたのは、無音です。音がないと思ったのです。
 ハクメイが目覚め、薄明かりが室内に注ぎ込み、外に駆け出し、まだ冷たい朝の風がそよぐ。声こそないものの、動きはあるのに、そこに音が感じられませんでした。漫画ですからページをめくっても音なんか鳴らないのは当たり前ですが、まるで、映画で今まで鳴っていたBGMがやみ無音のシーンが始まったかのような印象を受けたのです(画像を引用するとかえって損なってしまう気がするので、あえてしません。それに、引用するのに3ページは長いですしね)。
 「特に特別な日」が始まるのを前に、世界が息をひそめてハクメイがそれに気づくのを待っていたような、そんな無音。
 まだ暗い明け方の空を見上げて、ハクメイがそれに気づいたとき、音は戻ってきました。ハクメイの旅が、始まったのです。

 なぜそう感じたのでしょう。音が無くて当たり前の漫画に、わざわざ音がないなどと思うなんて。
 単純に、物の動きはあってもセリフや擬音がないからかもしれません。効果線が最小限だからというのもあるでしょう。技法によって、そのような効果はある程度狙って生み出せるはずです。
 ですが、作者が何を意図して、あるいはどこまで意図してこの3ページを描いたのかはわかりませんが、私にはこの音のない3ページは、短くない『ハクメイとミコチ』の中でも白眉のシーンだと思います。見る者の心をとらえて離さない、非常な引力のあるシーンです。
 
 勢いのままに家を飛び出したハクメイ。しかし、そこには「父様」がいました。まるで、ハクメイが今日旅立つことをあらかじめ知っていたかのように。

「思ってたより早いけど 今日で合ってた
まあ 今日だよな」
「起きて 空の色見たらっ 
今日だ って 分かった」
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(p162,163)

 「父様」に憧れていたから、話をよく聞いていたから、ハクメイが旅立ちの日をわかったのは、必然なのかもしれません。「さすが俺の娘!」という「父様」のセリフがたまりませんね。
 「急かされてる感じ 山とか空とか風とかから」という「特に特別な日」の感じ。心が浮き立って、そうせずにはいられなくて、世界もそう囃し立ててくるようで。私には味わったことのないものですが、きっとそれはそういうものだと思わせる強さ。それが物語の強さだと思います。

 自らと世界の声に従って今日が「特に特別な日」だと確信したハクメイですが、旅立ちたい気持ちと「父様」と一緒に行きたい気持ち、「父様」に連れられてる間にその二つは心の中で争います。別れとなる橋のたもとに辿りつく直前で、その争いは涙となって外にあふれ出ました。
 歳のせいか、「父様」と一緒に行きたいハクメイの気持ちだけでなく、彼女のためにとどまり続けることを選択した「父様」の気持ちもわかるようになってしまいました。誰かのための我慢が決して悪いものでなく、誰かのことを思えばその辛さも喜びになるんだと。種帽子をかぶったハクメイとの、笑顔で涙の別れに、こちらも笑顔と涙を禁じえません。そりゃあミコチの感想も「愛おしい」になりますよ。


 ということで、2回にわたって書いた『ハクメイとミコチ』最新刊の感想でした。次がまた来年というのは、まったく罪深い……



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『ハクメイとミコチ』10巻 愉悦と虚脱のはざまで更ける夜と、触れられそうな比喩の話

 年に一度のこの時期の楽しみ、『ハクメイとミコチ』の新刊。

 ハクメイが歌の練習をしたり、大工の引き抜きを受けたり、みんなで温泉に行ったり、ジャダが初めて港町にくりだしたり、帽子の秘密が明かされたり、ハクメイの子供の頃が語られたり。
 どのエピソードも素敵なんですが、特に好きなのは温泉回とハクメイの思い出回でした。
今日は温泉回の話。


 温泉回は、以前(4巻 24話)ハクメイとミコチが入ろうとして入れなかった温泉「コヌタの湯」に、最近頑張ってるハクメイをねぎらおうとミコチが、コンジュにセン、ジャダ、コハル、吞戸屋のミマリとシナトらにも声をかけ、総勢8名で押しかける話。みんなでゆったり温泉につかったり、湯上りに縁側でお茶を飲んで昼寝したり、佳肴に舌鼓を打ったり、酔っぱらって雀卓を囲ったりと、ここが極楽かと羨んでしまいます。

 いいですよね、気のおけない友人たちと小旅行。8名もいれば性格の違うものもいるし、なんならこの旅行が初対面の間柄さえいましたが、おいしいごはんとお酒、そして気持ちのいいお風呂があれば、すぐに身も心もほぐれるというものです。

 温泉の入り方やご飯の味わい方、空いた時間の楽しみ方など、各々の性格が表れていて面白いですね。一緒に散歩するくらいには仲良くなっていたセンとコンジュとか、料理人のサガで出汁の組み合わせを探りたがるミコチとミマリとか、人見知りするけどマイペースは崩さないジャダとか、そのキャラらしさが要所要所で光ります。センとコンジュがいいペアでかわいい。
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(p72)
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(p77)

 で、食べて飲んで遊んですっかり夜も更けて、酔いつぶれた者はもう夢の中、起きている者も心地よい疲れで身体の境界が淡くなるような感覚に身をゆだねています。
 その日初めて訪れた静けさに、ハクメイはこうこぼしました。

……なんだか朝から 切れ目なく楽しいんだよな
普段はどれだけ楽しくても 大抵 夜にはお開きにするもんだけど
今日は帰らなくてもいいし お開きにしなくてもいいから
ただいい具合に だらだらと寝入っていく
徐々に ゆっくりと 夜が更けていくんだよ
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(p88,89)

 なんでしょうね、子供の頃には理解できないけれど、大人になったら時間的な問題などでなかなか味わうことのできない、この愉悦と虚脱、充実と疲労のあわい。燃え上った火が熾きになってしずしずと燃え、そして消えていくような空気。たまらない。

 そして、それをたとえてセンが言った「ランプのネジをひねるようだね」という言葉。これがまたたまらない。ランプ好きのセンだからこそ出た言葉だけれど、更ける夜に合わせてランプのガスネジをひねり、明かりを少しずつ落とすその様子、でも火は消してしまわないよう注意深くネジをひねる手つきが、沸き立っていた心が落ち着いていく夜更けの空気と、あまりにも相同的なのです。
 これまでのキャラクターの描写と、言葉のチョイスがあいまって、こんなに心にすとんと落ちる比喩は久しぶり。きれいにはまった比喩は、ある種の彫像のように、実体を持っているかのような存在感を放ちます。まるでその言葉に触れられるかのように。そんなセンの比喩でした。


 思い出回の感想はまた次回に。『アンボックス』のカナの話はまたその次に。


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『ハコヅメ 別章 アンボックス』個人を守り縛る立場の話

 また『アンボックス』の話。

上司の存在のありがたさ

 自分がDV事案としてかかわっていた人間が被害者となった事件。カナと同僚の益田は、世間からも同僚からも、「なぜ事件を防げなかったのだ」という非難の視線にさらされました。
 現に特別捜査本部内でも、「担当係はどんな対応をしていたんですか?」という質問が出されました。

息もできない ここにいるみんなが私を責めている
私がもっと…どうにかしてたら こんなことにはならなかった
でもこんな空気の中で どう言葉を出せば…
(p61)

 刑事部長が発した質問は、特別に語気が強かったり、責めるような口調だったりするわけではなく、あくまで事務的な確認の様相ですが、当事者の警察官としてかかわっていたカナには、「どんな対応をしていたんですか?(まともな対応ができていなかったからこんな事態になったんだろうか!!)」と聞こえていたことでしょう。
 ですが、何を言えばいいかわからないカナに代わり、生活安全課の直属の上司である西川係長が、これまでの経緯を簡潔にまとめた、いい意味で事務的な報告を行い、それを受けて捜査本部は、冷静に方針を決めました。西川係長の堂々とした姿に、カナは心の底から感謝します。

こんなにも上司の存在がありがたいと思ったのは初めてかもしれない
「なぜ女性をまもれなかった」という正義の目が
世間からも警察内部からも私たちに向かってくる
(p64)

 西川という上司のおかげで、カナは「正義の目」の矢面に立つことを避けられたのです。

立場の作用・陽 立場は個人をどう守るか

 ここではカナと西川には、生活安全課内の部下と上司、ヒラと係長という関係、立場があります。組織において、案件について方向性を示す管理職、現場で動く末端、末端と管理職の間で各種調整をする中間管理職と、ざっくりと三種類の立場を考えられますが、この立場の違いは、属する人間の関係性の枷でもあり、同時に盾でもあります。
 たとえば、本編での事例ですが、息子が暴れているという母親からの通報に、川合・藤・源・山田の四人で臨場すると、バットを持った男が暴れていました。男を保護すべく源が署にお伺いを立てているその間に、興奮した男が藤に暴言を発し、それに激した山田が公務執行妨害の現行犯で男を逮捕してしまいました。署に戻ると、指示に従わずに先走って逮捕した山田(と源)が係長から叱られ、それを見た刑事課長が係長も含めて諫めてその場をまとめました。
 一連の対応について、川合が刑事課長に話を聞くと

理想で言えば警察官は滅私奉公 仕事をするときゃ私情を捨てて 「立場」で動けばいいんだ
だから下っ端は頭を下げ 中間は上司に見えるように叱ることで部下を守り
上は適当なことを言ってその場をおさめるんだ
こんなもん全部約束動作だ
(4巻 p122,123)

 と、源らが頭を下げたのも、係長が派手に叱責したのも、課長が全員を諫めたのも、すべてある種のお約束、予定調和だというのです。
 下っ端は頭を下げ反省をアピールすることで自分を守り、中間は自分が叱ることでもっと責任のあるものから怒られぬよう部下を守り(同時に失敗した部下を叱ることができる自分を見せ管理責任を示して自分を守り)、上はその茶番を知ったうえで全員を諫めることでそれ以上のお咎めはなしとその場を切り上げ全員の体裁を守る。
 こうして、各々が各々の立場をわきまえた振る舞いをすることで、各々の立場が守られたのです。立場は、その立場ゆえに叱ったり叱られたりしなければいけないものですが、その叱責は個人というよりも立場に向けてされるものであって、それはいわば自分の一側面、全人格的な否定ではないのです。
 他にも、朝礼で川合が副署長から、警察官にとって一番大事なものを新任に教えるとしたらなんだ、と問われると

「はい! 警察官としての誇りと使命感です」
「ん? 何言ってんだおまえ ホウ・レン・ソウだよ 報告・連絡・相談
下っ端の一番重要な自己防衛策だ 上司に責任を転嫁していけ」
(3巻 p142,143)

 と切って捨てられました。末端での下っ端の行動は、上司の命令に基づくもの。なにをしたか都度都度ホウ・レン・ソウをしておけば、その行動はすべて上司の責任とできる。自分を守るために、ちゃんとホウ・レン・ソウをしておけと。
 これもまた、立場に応じてやるべきこと、とるべき責任があることを端的に、ユーモラスに示しています。

立場の作用・陰 立場は個人をどう縛るか

 立場に応じて、人はとるべき行動が違います。下っ端は下っ端なりに、中間は中間なりに、上は上なりに。組織としての効率を考えてそうするのがよいというのが、立場に関するポジティブな効能と言っていいでしょう。
 ですが、立場は盾であると同時に枷なのです。ある立場でいることは、その人に「かくあれ」という縛りを与え、それは時として、個人としての考えと組織としての意向にギャップを生みます。
 「アンボックス」事件で、刑事部長からの指名やかつての部下からの嘆願を冷淡に跳ね除け、刑事課長が源を取調官に指名したとき、ペアである山田は疲労にすり減った心で無感情に独白しました。

今すぐポケットの中の警察手帳を床に叩きつけて 何もかも放り出して逃げてしまいたい
けど…
やるのが毛玉野郎なら 俺が行く以外ねぇじゃんかよ
(p106)

 刑事課長や源とは違い、その他大勢の警察官と同じく「強くて正しい」わけではない山田は、彼個人の心情としては中富係長に取り調べをしてもらいたかったものの、刑事課長の鶴の一声で源が指名されたからには、それがどんなに非道な指令であろうと、ペアっ子の自分が一緒に行かねばならない。ペアっ子という山田の立場は、強く彼の行動を縛りました。

 また、上でも少しふれたように、立場とはあくまでそこにいる個人の一側面に過ぎず、立場における責任を全人格的に引き受けるべきものではありません。
 カナは事件の捜査が続く中、近辺の小学校の警備をしていた際に、近所の住民が、事件の被害者のDV事案を担当していた警察官、すなわちカナについて言うのを耳にします。

「殺人事件の被害者を担当していた警察官は 氏名の公表も処分もされてないんだろ」
「被害者のコもご遺族も報われないよ 担当警察官にはきっちり刑事罰を与えるべきだよね」
「いや警察は市民は守らなくても身内だけは守るだろ」
「こんな酷い事件を起こしてお咎めなしで 自分はのうのうと税金貰って普通に生きていくなんて・・・本当許せない話だよ」
(p110)

 本人がその場にいると知らないからというのもあるでしょうが、言いたい放題です。守られるべき市民だからといって、度を超えた悪口雑言を口にしていいわけではありませんが、人は時として、立場が負うべき責と、個人が負うべき責を混同してしまうのです。立場にしか向かないはずの批判が、立場を越えて(そして批判という枠を超えただの悪口として)個人にまで届き、その立場に縛られ逃げられないカナは、個人としてその無自覚な悪意にさらされました。

マジョリティと立場 匿名の世間

 ついでに、前回でも触れたマジョリティ、というか世間も絡めて考えますが、世間には肩書がありません。立場がありません。警察やマスコミのような明確な組織の中でどういう立場にいるのか、というのが存在しません。
 それゆえに、立場と個人のギャップも存在しません。確たる見識もないから、他の人も言いそうな聞こえの良いことを、世論に乗ってふらふらと右に流れ左に流れ、好きに言えるのです。マジョリティという匿名のマスに紛れると、その中で何でも言えてしまいます。上の市民の悪口も、自分が何者でもない、何の立場もない一般市民という意識だからこそ出てきます。
 たとえば『こち亀』で、やらかした両津を野次馬たちがはやし立てますが、ぶちぎれた両津が「誰だ今ポリ公と言ったやつは! 一歩前に出ろ!!」と拳銃を抜けば、それ以上言えずにしっぽをまいて逃げ出すのです(まあこれは拳銃パワーが大きいですが)。
 一歩前に出るというのは、マスに紛れた匿名性をはぎ取られるということであり、マジョリティでなくなるということです。それゆえ世間は特定されることを恐れるし、逆に特定されたうえでお願いされれば、マスの中でとったデカい態度もなくなるのです。中富鎌田ペアと川合が日参した(ウンコを漏らしかけた)情報提供者のように。

 「多数派の「正義」側の人間」になりたくて警察官になったカナは、警察官という肩書を得て、その立場に守られながら職務を行えるはずでしたが、しかし立場は彼女を十分に守ってくれはせず、それどころか、「警察官」という立場がかえって重圧となり、彼女に自殺すら選ばせかけました。ギリギリでそれは踏みとどまったものの、結局警察を辞したカナ。次回は、『アンボックス』のまとめとして、カナという女について考えてみたいと思います。たぶん。



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