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漫画の話です。

『ハコヅメ 別章アンボックス』カナが警察官に求めたものと、またその先に求めたものの話

前回から少し空きましたが、あらためて『アンボックス』についての話。ひとまずのまとめとして、主役であるカナの話を。

カナの始まり 物語の始まり

 この物語は、カナの警察学校時代の思い出から始まりました。それは9巻で描かれた挿話のリプレイ。訓練中に隊列から落伍しかけたカナを助けようと、同期の山田がカナの装備を代わりに持つ、というものでした。
 9巻のそれは、山田の(いろいろな意味での)無自覚さを演出するものでしたが、『アンボックス』で描かれたものは、よりカナの視点を強調したもの。それをされたときにカナが何を思っていたかを遠慮なくあらわにしています。

「絆」の名のもと 大きな手が目の前に差し伸べられるたび
私は一生この人たちの仲間にはなれないんだと思い知らされた
(p2,3)

 仲間になれない劣等感。疎外感。
 それがこの物語のスタートでした。

警察官になりたかった二つの理由

 第一話で続く思い出話。この中で、カナが、「岡島災害」で源の実父が殉職する原因となった老婆の曾孫であることが初めて明かされます。
 殉職した警察官に同情する世間は、老婆の身内であるカナの家族を糾弾し、村八分にあった一家は会社は倒産、家族は離散、カナは祖母の手一つによって育てられました。この経験は、カナの人生に大きな影響を与えました。

多数の人が振りかざした「正義」から追われるような環境で育った私は
多数派の「正義」側の人間になってみたくて警察官になりました
(p16)

 これが彼女が警察に奉職する理由だと言うのです。
 しかし、別のシーンでカナは、警察官になった理由について違うことを言っています。

生まれた境遇で生き方を選べない子供たちが大勢いることとか… 世界の広さを教えてもらって
私には生き方の選択肢がたくさんあるから困っている人を助ける人生を歩みたいって今の仕事を選んだの
(p32)

 先に引用した理由とは、だいぶ趣が違います。時系列としては、後に引用した理由を先に意識し、その上で具体的な職業として先の理由で警察官を選んだようです。
 趣こそ違うものの、相反する内容というわけではありません。困っている人を助けたいし、多数派の正義側の人間にもなってみたい。両立します。両立しますが、表と裏というか、本音と建前というか、どこかなじみが悪い感じも否めません。果たして、この二つをつなぐ何かはあるのでしょうか。

警察官という立場 警察官でいる意味

 まず、二つの理由にはどちらも、助ける側と助けられる側、多数派と少数派、正義を振りかざす側と振りかざされる側といった、二つの対立的な立場が前提とされていることが分かります。それを踏まえて、「困っている人を助ける」ためには助けられる立場にならなければいけない、とカナが考えていたと仮定してみたらどうでしょう。

 暴力、虐待、差別、困窮……大から小まで様々な形で困っている人はいるわけですが、そういう目に遭う人は概してマイノリティの立場です。肉体的な弱さであったり、社会的な出自であったり、家庭環境であったり、なんらかの理由で大きな声をあげられない人たちを助けるためには、助けられるだけの力がある立場にならなければなりません。その選択肢の一つが、法律によって他人の権利を制限できる権限を付与されている警察官です。若かりしカナが、警察官は「多数派」であり「正義」の側であると考え(必ずしもそうではないことは、以前の記事で書いたとおりですが)そちら側に立ちたいと思い、同時にそれになることで困っている人を助けられると思う。その一挙両得を、自覚的であれ無自覚であれ、狙った可能性はありそうです。

 しかし、本作のスタートのとおり、彼女は警察官になろうとする中でも、今まで散々味わってきた劣等感と疎外感に苛まれ続けます。多数派に、正義の側になろうとしても、自分は一緒にいる人間から手を差し伸べられる側なのだと。
 それでも奉職後は要領よくやってきたカナも、自分が直接担当していた人間が殺されてしまった、助けることができなかった本作の事件で無力感に囚われ、守るべき市民からも心無い言葉をぶつけられ、心がどんどん摩耗していきます。その結果が、「国民と組織に対する最悪の裏切り」である拳銃自殺の半歩手前でした。
 加害者の自白も引き出し、事件がひとまずの終結を迎えたところで、カナは辞職を選びました。

私は警察官を辞めます
警察官でいることに耐えられません
(p171)

 さて、ここでカナが言った「警察官でいること」とはどういう意味だったのでしょう。
 市民を助けられなかった無念を抱き続けることでしょうか。
 守るべき市民から暴言を投げつけられることでしょうか。
 拳銃自殺をしようとしてなお任官を続けることでしょうか。
 カナはなにに耐えられなかったというのでしょう。
 もちろんこれらはすべて理由になるでしょう。けれどその奥底には、彼女がこれまで抱えてきたもの前提としてきたものをひっくり返すような、考え方の変化があったのではないでしょうか。
 で、それが何かというと、一言で言えば、「対等」です。カナはこれを望んだために、警察を辞することを決意したのではないかと思うのです。

対等な関係と相手への敬意

 対等。この言葉は最終話、カナが警察を辞めカンボジア社会起業家として働いているシーンで登場します。
 彼女を訪ねて来た大学生を生き生きとした表情で迎えながら、カナは言います。

「ここでは現地の人にハーブを栽培してもらって それをアロマオイルにして日本とかに売ってるんだ これはレモングラス
「でも安価な値で買い叩かれると現地の人の暮らしが良くならない フェアトレードじゃなきゃですね!」
「そうだね ただ… 「支援になるから買ってね」というより 「ここでしか作れない高品質な商品ですよ」って対等な立場で値段の交渉はしなきゃね」
(p186 強調は引用者)

 対等な立場。支援するために/されるために関係を続けるのではなく、お互いにメリットがあるから、尊重すべき点があるから、納得尽くで関係を持てるようにする。これこそが、警察を辞め社会起業家として働くカナが目指すものです。
 多数派。正義を振りかざす側。助ける側。そういう格差のある関係性に身を置こうとしてきたカナにとっては、大転換だと言えるでしょう。しかし、そのような非対称の関係性ではなく、対等な関係を築くことこそ、真に「困っている人を助ける」ことにつながると考え、カナは新しい世界に飛び出したのです。 

 対等であるというのは、難しいことです。なぜなら、そこではお互いがお互いに、自分と相手の長所短所、相手に差し出せるもの差し出してもらうものを冷徹に見極め、納得しなければいけないからです。それにはクールな目が必要で、広い視野が必要で、実利的な打算が必要で、なにより相手に対する敬意が必要です
 敬意。すなわち、相対するものを自分と異なる意思を持った別個の存在と認識し、自分が最低限有する権利を相手にも認める、というところでしょうか。それがあるからこそ、相手が自分と違うことを考えていることを前提とできるし、自分がそこまでされたら我慢できないと思うことを相手にも要求できません。

 ただ、警察官という仕事は、その敬意こそ要求される仕事だったはずです。事案についてよく知らない世間が事案に関わった人間を「加害者」や「被害者」という類型化した目で見るところを、そういう先入観に惑わされず相手が(被害者であれ加害者であれ参考人であれ)今何を考えているかを具体的に聴取しなければならない。警察官はそんな仕事です。
 その意味で、このマインドさえ忘れていなければ、警察官からカナの立場への転身というのは、それほど遠いものではないのかもしれません。

差し伸べられた手 一度目は悲劇として、二度目は…

 さて、「対等」を補助線としてと、あるシーンを見比べてみましょう。それは、カナに手が差し伸べられた二つのシーン。
 一つは、既にふれた、物語冒頭の警察学校時代のシーン。
 山田が「「絆」の名のもとに」助けてくれていた(と少なくともカナには思えた)からこそ、カナはそこに劣等感と疎外感を覚え、対等ではないと感じていました。
 別章だけでなく本編でも言われていますが、「絆」の裏の面は「鎖」です。

「先ほどおっしゃっていた辛い事案に向き合うための「仲間との絆」のためですか?」
「表向きはね 本当は辛い事案から職員を逃がさないための…ただの「仲間という鎖」なんだけどね」
(10巻 p102)

 仲間という「鎖」で縛られている運命共同体だから助ける。そこには、対等という考えはありません。仲間だから・・・、劣っている奴でも・・助ける。支援する側される側。そんな構図があります。

 そして二つ目。すなわち、最後の出勤日に、今日が警察を辞める日だということを横井にばらされ、多くの同僚から引き留められるシーンです。

「誰にも知られず職場を去りたい」そうだね 何甘えたこと言ってるの
引き留める手を全て振りほどいて出て行きなさい
(p175)

 カナをなんとか思いとどまらせようと、多くの同僚が彼女に手を伸ばしました。
 警察学校時代に差し伸べられた手と、辞めようとするときに差し伸べられた手。「今あんたを引き留めようとしてる手は あの頃よりちょっとは違うように見えてるか?」と横井は独白します。その言葉の意味は、あの頃と違って仲間と思えるようになったか? ということなのでしょう。劣等感や疎外感はもう感じられなくなっていたか? と。
 きっとカナはそれにうなずけるでしょう。でも、それをもう一歩踏み込んだところには、また別の意味も見えてきます。

 警察学校時代は、カナは山田から差し伸べられた手を、受け取らざるを得ませんでした。「絆」という鎖で縛られた世界で、助けられる側の自分が助ける側の人間(山田)から手を伸ばされたときに、それを拒否する術はないからです(拒否をすれば、カナの力ではその世界から追い出されることにつながりますから)。何度も述べているように、そこは対等ではありません。
 しかし、辞めるときのカナは、明確に山田の手を振り払いました。仲間と思えていた(に違いない)山田からの手を、きっぱりと。ここには、自分の決めたことを貫く強い意思、誰かからの手を跳ね除けられる自分自身の意思があります。
 自分の意思による拒絶。これは対等だからできることです。自分とあなたは違うと、相手に敬意を持てているから。
 手を振り払ったカナの姿は、誰かと(誰とでも)対等にあり、誰かと誰かが対等であれるように生きる第一歩を示しているものだと思うのです。

「対等」の芽吹き 広がった世界の見方

 実は、初登場時のカナが補導した少年に説諭していた際の言葉にも、上記についての萌芽は見られるように思います。

でも世間ってか大人との関わりがなくなってくると やっぱ自分の世界も狭まるよね
だから君にはこれからお巡りさんとかご両親とか いろんな大人と関わってほしいの
大人と関わって「こいつ小せぇあ」「つまんないな」とか そんな感想でもいいからそういう体験で世間が広がっていくし
心の持ち方で君の世界は 表情を変えるはずだよ
(4巻 p47,48)

 世間を広げ、世界の表情を変えていけ。これは、様々な立場の人に触れることで、多面的なものの見方を得られるということです。つまり、ある人(集団・立場)は、今自分が見ている姿だけをしているのではなく、他の人などと接しているときには別の面が見えるかもしれないと考えられるようになるということです。それは、一つの見方に拘泥してはいけないということで、自分と違う相手へ敬意を持つことへも繋がります。すなわち、対等な関係を結ぶための第一歩です。
 カンボジアのカナも、「仕事をして相応の収入を得るってことは それだけ世界と選択肢が広がるってことだと思う」と言っています。人々の世界と選択肢を広げること。対等な立場で人々が関係できること。それがカナの目指す世界なのでしょう。

結び

 以上、『アンボックス』を通じて、カナが何を求めていて、それがどう変化したかを見てきました。
 助ける側、多数派、正義の側から、対等へ。
 困っている人が、世界を広げられるように。
 最後のエピソードは本編から五年後、ほんの少し未来のお話ですが、カナが警察官時代に出会った人間を「仲間」と思っているように、思われた人間たちもカナを仲間と思っていることでしょう。それはきっと、組織を離れて、離れたからこそ対等に。
 いつか、カナと本編が交わるエピソードなんか描かれた日には、泣いちゃうな。



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