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漫画の話です。

『ぼくらのよあけ』セミの声と、夏と、絵と言葉の時間の話

今井哲也先生の連載二作目である『ぼくらのよあけ』。

ぼくらのよあけ(1) (アフタヌーンKC)

ぼくらのよあけ(1) (アフタヌーンKC)

今井先生の表現上の特徴については、今まで何度か書いていますが(参考;「ハックス!」から感じる「柔らか」な印象の話「ハックス!」に見る、漫画空間の立体感ある奥行きの話『ぼくらのよあけ』奥行きのある空間と、子ども達の知った広い世界の話)、今作ではこれらとは違う、少々実験性が強いとも言えそうな特徴があります。特徴というよりは、表現上の意図といった方が適切かもしれませんが、まあそれが何かと言えば大量に描かれる擬音で、特にセミの声が、よく見れば作中でそこかしこに描かれています。

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(p28)
とりえず三例挙げましたが、1巻を読めば屋外でも屋内でも、セミの声が聞こえそうなシーンならたいていのコマに書かれていることがわかります。というか、屋内でも書かれているというのが、セミの声に対する意識の高さを表しているでしょう。一枚目と他の二枚を比較すればわかるように、屋内でのセミの声は縁取りをした太い文字ではなく、黒い単線によるものですが、これは生音と壁を通した声の音量差を表すものです。
ここまで気を遣って表されているセミの声。それが表現上どのような効果をもたらしているか、考えてみましょう。
まず一つに、セミの声が象徴的に夏らしさを表していると言えるでしょう。今年の関東地方はどうにもセミが少なく、蝉時雨なんかにも出くわすことがありませんが、木漏れ日を浴びながら聞くセミの声に清々しさを感じたり、陽炎揺らめくアスファルトの上で耳に響くセミの声に暑苦しさを覚えたりと、暑い夏とセミの声の印象は強く結びついています。夏休み直前の小学生が主役となるこの作品では、さらにそこに、読む者に郷愁を思い出させる効果もあるでしょう。湧き上がる入道雲とクソ暑い日差しの下で外を駆けずり回った小学生時代が、描かれた風景だけでなく、擬音によるセミの声もよすがにして、脳内にありありと立ち上がってきます。視覚だけでなく、聴覚の記憶も喚起されるのです。
で、二つ目。擬音はセリフと違い普通フキダシには入らず、手書きで書かれることが多いですが*1、それゆえ、一般的なセリフとはその認識・解釈の水準が違うと考えられます、具体的に言えば、セリフは文字・言葉として、擬音は絵と同じ水準で認識していると思われるのです(その理由についての推論は、注1で引用した木村先生についての記事でどうぞ)。
絵とセリフで認識の水準が違うということは、その二つの階層で時間の解釈の差が起こりうるということです。絵はある瞬間を切り取った無時間的な存在ですが、セリフ(言葉)はそれを音声として実際に発する時間を必要とする有時間的な存在。セリフは文字に起こされることで時間が凍結されていますが、読み進める段になって、無時間的存在の絵(一つのコマ)に、そのセリフ分の時間を与えます。
この意味で、絵の時間性はセリフの階層に従属しやすいと言えるのですが、そこでこの擬音を考えるとどうでしょう。擬音もまた文字に表わされた音声ですが、それは絵の階層として認識され(ると思われ)ます。つまり、無時間である絵の中に有時間の存在が同階層のものとして紛れ込むのです。だから、絵だけでもそこには時間が流れる。セリフが一緒に書かれても、そちらに引きずられるのではなく、絵の側にも軸となる時間がある。結果、一つの絵(コマ)の中で流れる時間が立体的、輻輳的になると言えるのではないでしょうか。
時間が立体的になった絵と言うと比喩的に過ぎますが、つまりそれは、アニメなどのようにもともと有時間的な映像メディアの特長を、形を変えて取り入れたと言えるのだと思います。映像が音声を伴うことで、物語を解釈する人の認識は視覚と聴覚、両方でそれを認識するようになります。映像の解釈を音声によって補足し、音声の解釈を映像で補完する。そのように相補的な形で解釈をすることで、二種類の時間軸を認識の中で統合し、受け手は物語の時間により深く巻き込まれていくことになります。それが、有時間的な映像メディアの特長です。
基本的に書籍は無時間メディアですから漫画もそれに準じますが、文字として時間性が凍結したセリフと、無時間的に切り取られた絵、その二つを同時に解釈する漫画は文字の時間性に従属しやすいと上で書きました。けれど、絵の側に同じ階層で認識される擬音をふんだんに挿入することで、絵の階層にも時間が生まれる。こうして、映像メディアのような輻輳的な時間性を漫画も獲得し、物語の時間により巻き込まれやすくなるのです。もちろん実際に空気を震わせる音声が生じる訳ではないので、現実の映像メディアのそれとは趣が異なりますが。
三つ目。あとはもうちょっと単純に、セミの声や水の音など、日常的ですぐ思い出せる音を認識することで、絵の中が賑やかになるというのがあると思います。セリフはもちろん音声ですが、人が走っている絵や、何かを叩いている絵を見ても、頭の中で音は意識せずとも鳴っているでしょう。こういう動作にはこういう音が伴うという、普段の認識によるものです。絵だけでも頭の中で鳴るその音を、擬音として書き表すことで、より明確に意識できるようにする。そうすることで、いま現に読んでいる絵はより賑やかになります。無論の事、現実に多すぎる音、大きすぎる音はうるさく感じるように、多すぎる擬音はうるささを感じますから、そこはバランスですが。
この、うるさくならないバランスとしては、姿を見せないセミによる音というのが一つのポイントでしょう。その音を発しているものが絵として描かれていれば音は絵に直接結びつきますが、発生源が見えないことで音はBGM、環境音楽として背景になり、音の存在感・意味を程よく薄くしていると思います。
個人的な感覚ですが、夏はやっぱり他の季節に比べて賑やかなイメージ。セミの声。はしゃぐ子ども。屋根を叩く夕立。空に響く雷。風に揺れる風鈴。祭りの雑踏。大輪の花火。絵の中で喧しく鳴くセミは、私にとって夏の賑やかさを容易に思い出させるのです。


今作『ぼくらのよあけ』でこの手法が取り入れられているのは、特に一つ目と三つ目の理由から、「小学生のひと夏の冒険」という季節感を強く出すためかなあと思います。二つ目の理由は、前作『ハックス!』にはあまり見られなかったものであることから、実験的な側面もあるのかな、と。
2巻が出てまた別の視点が生まれたら、改めて書くかもしれません。
絵と文字の時間性とか媒体の特徴とかそういう話については、過去のここら辺の記事も参考に。
なぜ漫画は内容と無関係のことが同じ頁に描かれていても平気なのか 〜凍結された漫画の時間の話 - ポンコツ山田.com
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