『葬送のフリーレン』「理想の大人」と大人の在り方の話

マンガ大賞2021の大賞に見事輝いた『葬送のフリーレン』。やんややんや。

さて、最新刊の4巻では僧侶のザインをパーティーに加え、一行は4人となりました。超絶長寿のエルフなのに(というか、だからこそ)社交性に乏しいフリーレンに、まだ子供とも言えるような年齢であるフェルンとシュタルクという、対人能力ガッタガタなパーティーに、齢と社交の経験をある程度重ねたザインが加入したことで、パーティーがうまく回るようになりました。

「大人になって人との距離感がわかるようになると、衝突することすら避けるようになる。ああいうのは若者の特権だな。
今まで苦労しただろフリーレン。ガキの世話は大変そうだ。」
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(4巻 p34,35)

途中加入した彼の苦労がしのばれますね。
そんなザインは、彼は幼少のころに出会ったハイターを、「偉大な僧侶」で「優しくて頼りがいのある爺さん」で「理想的な大人」だと表現していますが、その印象は、魔王を倒す旅を共にしたフリーレンにとってはまるで違うもの。彼女にとってハイターは、「酒飲みでよく二日酔いになっていたし、好き嫌い多いし、よく嘘もついた」「ただの生臭坊主」っだたのでした。気安い仲ゆえの軽口ではありますが、たいがいですね。
それでもフリーレンは、ザインの言った「理想的な大人」という言葉に、かつてハイターと交わした会話を思い出しました。

「ハイターって変わったよね、大人っぽくなった。」
「老人相手に何を言っているんですか。
年をとると自然とこうなるんですよ。」
「ふーん。」
「…と言いたいところですが、本当は私の心は子供の頃からほとんど変わっていません。
理想の大人を目指して大人の振りをしてそれを積み重ねてきただけです。きっと私は死ぬまで大人の振りを続けるでしょう。
子供には心の支えになる大人の存在が必要ですから。特にフェルンは努力家です。たくさん褒めて導いてあげないと。」
(4巻 p36,37)

つまり、大人と思われている人間が理想としている大人は、本当に大人なのではなく、大人の振りをしているだけだった、というのです。

ですが、大人とはそういうものなのだと思います。ある人間が、自分の知っている他人の中から、「こうありたい」というロールモデルを見つけて、自分もそうあろうとする。その過程にある人間が、きっと大人なのです。
その意味で、「大人」に画一的な定義はなく、「理想の大人」像をもつ個々人によって異なります。また、自分を大人と思ってはいなかったハイターが理想の大人と思われたように、その人間の内面(内心)も関係ありません。主観的にはともかく、客観的には、大人がするようなことをしているようなことをしている人が大人である、というトートロジーの裡に、大人は存在します。
裏を返せば子供とは、子供のままでいることに安住している者だと言えるでしょう。すなわち、ある他者を理想とすることはしないし、理想がないから当然、今の自分がそれから離れているもの認識していないし、それに近づこうともしない者。あるいは、自分の成長の基準を外に持たない者ともいえるでしょうか。理想とする大人はいなくても、自分を成長させたい、能力を伸ばしたいと思いはするでしょうが、そこに外的な基準(「理想の大人」像)を設定せず、自分にとってどうであるかという内的な基準しかなければ、それは「大人」への変化とは言えません。(身体的なものではなく)精神的な「大人」や「子供」とは、社会の中での関係性において存在するので、外的な(社会の中にある)基準を持ちえないものは、社会の中で大人とはみなされないのです。

さて、本作ではまず、前述のザイン→ハイターの例を挙げましたが、「理想の大人」像を、誰かの手本となるもの、と広く解釈すれば、他にも例が出てきます。
たとえば、ハイターに「勇気や意志や友情」を示したヒンメル。
たとえば、シュタルクに戦い方と生き延び方を示したアイゼン。
たとえば、フリーレンに他人とのかかわり方を示したヒンメル。
こうしてみると、勇者であるヒンメルが周囲の人間に強く影響を与えていたのが分かります。彼自身は別に、誰かの模範になるよう意識して振舞っていたわけではないでしょう。おそらくは、彼の中にあった理想像、別の言い方をすれば、このように生きたいという姿に基づいて振舞っていたことが、周囲の人間には手本となるように映っていたのです。こうしてヒンメルはハイターやフリーレンにとって「大人」となり、彼を見習って二人は自分を律したのです。


このような「大人」の在り方、つまり、ある大人を手本にすることで他の人間も大人になっていく、という物語は他にも見られ、たとえば『惑星のさみだれ』はそれを強く意識的に描いていました。

頼れる兄貴分であった東雲半月や、師匠として多くの人間を育ててきた秋谷稲近は、その生きざまで、主人公の雨宮夕日や、彼のライバルで半月の弟である東雲三日月に大きな影響を与え、明確に彼らを手本とするシーンがありました(今、手元に同作がないため、正確な引用ができないのが残念ですが……)。
同作はそれだけでなく、登場人物が属する世代(さみだれの親の世代、半月や朝比奈氷雨白道や風巻の世代、夕日と三日月の世代、昴や雪待、太陽の世代など)で、その上下関係において、上の者が下の者に、大人とはこういうものだ、何度となくメッセージを発していました。
同じ作者の『戦国妖狐』でも、第一部ではまだ未熟な人間として描かれていた真介が、第二部では、千夜から憧れられる大人に成長しているなど、水上先生には、大人の在り方について一言ありそうな感じです。

他にも『それでも町は廻っている』でも、主人公の歩鳥に、静香が大人の何たるかを示すシーンがあったはずです(今、手元に同作がないので以下同文)。

最後にまた『葬送のフリーレン』に話を戻しましょう。長命のエルフであり、実際にほとんどの登場人物よりも年上なのが、主人公のフリーレンですが、それでもその種族的な性質により、他者とのコミュニケーションを最低限にしかしてこなかった彼女には、理想の大人と呼べるような人はいませんでした。ですが、たったの10年(フリーレン基準)の旅を共にしたヒンメルが、彼女にとっての大人となり、しかもそれに気づいたのは、彼が死んでからでした。ザインにとってのハイターがそうであるように、あるいは多くの人にとってそうであるように、フリーレンにとっての理想の大人はもう彼女の記憶の中にしかいません。ヒンメルの死後に出立した彼女の旅は、「人間を知ろうと」する旅なのですが、それは同時に、大人になる旅でもあるのでしょう。


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