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『葬送のフリーレン』「ヒンメルはもういないじゃない」人類と魔族を分かつ死者への思いの話

 正月の暇に飽かして『葬送のフリーレン』第1期を一気視しました。

 特に日常パートは、原作のシンとした雰囲気を活かしている、いいアニメ化ですね。

 ところで、放送以来マッハでオタクどものオモチャと化した断頭台のアウラ様ですが、フリーレンの怒りを買った彼女の言葉といえば、「ヒンメルはもういないじゃない。」。その言葉を聞いたフリーレンは、「やっぱりお前たち魔族は化物だ。容赦なく殺せる。」と殺意をあらわにしました。
 「ヒンメルはもういないじゃない」を聞いたフリーレンの反応から見れば、アウラが当たり前のように言ったこのセリフは、人類と魔族を決定的に分かつ思想の違いなのでしょう。

 「ヒンメルはもういないじゃない。」
 この言葉は、死者を省みないという宣言です。
 存在したことを否定するわけではない。ただ、死んだものはもう存在していないのだから、考慮する必要はない。それが、「化物」である魔族の考え方。
 ヒンメルの死を契機に人間を知ろうと旅に出て、何度となく「ヒンメルならそうしただろうから」と口にするフリーレンにしてみれば、死んだ、もう存在しないものによって自分の生き方を変えたわけですので、それを否定する魔族とは相容れるわけがないのです。

 死者をどう捉えるかということを軸に人間と魔族について改めて読み返してみると、その違いはいたるところにあります。
 人類で言えば上記のようにフリーレンはもとより、その弟子のフェルンも、育ての親であるハイターに救われた恩を返すため、彼が安心して死ねるように「一人で生きていく術を身に付け」、死して後も折に触れ彼を思い出しています。
 アウラ戦の舞台となった地方領主のグラナト伯は、息子をアウラの軍勢に殺されたことを怒りの糧にしながらも、人類の安寧のために魔族からの和平の申し入れを受け容れようとしていました(結局は偽りだったわけですが)。
 そもそも、勇者ヒンメルが勇者として死して後も語り継がれていること自体が、死んだものを忘れないようにする、存在が消えても存在していた意味を残そうとする人間の心性の表れなのです。

 それに対して魔族は、全知のシュラハト曰く「個人主義」。
 リュグナーとリーニエが、先走ってフリーレンを殺そうとした配下のドラートが返り討ちにされたことを悟っても、そこに微塵も憐憫を見せなかったように、仲間の死について、死んだこと以上の意味を見出さない。それによって計画の歯車が狂い、それに苛立ちを覚えたとしても、死んだ者は死んだだけ。いなくなっただけ。いないのだから、それ以上考える必要はない。それが魔族のスタンスです。
 
 また、死という概念から広げて、技術の集積という点でも違いがあります。
 魔族は、基本的なものを除けば各々が一つの魔法をひたすら研鑽し続ける性質を持ちます。そしておそらくそこには、自分の得た知識を同族に教え、魔族全体の能力を高めるという発想がない(マハトが、人類の魔法を研究しているソリテールからそれを教わったり、クヴァールの使うゾルトラークを自らも使うというケースはありますが、魔族の振る舞いを見る限り、それは例外的であるようです)。
 それに対して、人類を殺しに殺した人を殺す魔法ゾルトラークを解析し、自らがそれを使って魔族を殺しているように、過去すなわちもう存在していないものから学んで今に活かしているのが人類です。圧倒的な魔力や体力の差があっても、積みかねた技術や知識で魔族に対抗しているのです。

 人類と魔族を分かつのは、死についての観念ではなく、死んだもの、存在しなくなったものについての観念だというのは示唆的です。
 動物でも、たとえばゾウなどは死んだ仲間を悼み、ゴリラはパートナーの死でうつ病になると言われています。その意味で、たとえ言葉は交わせずとも、魔族より動物の方が人類に近いのかもしれません。
 
 さっそく2期の始まったフリーレンアニメ。最終的にどこまでやってくれるのか、楽しみです。

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